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【伊勢志摩・合歓の郷へ】(はやし浩司 2012−03−28)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

伊勢志摩へ向かう。
明日、私塾会名古屋支部の会合がある。
伊勢志摩へ一泊したあと、帰りに、会合に出る。
たいへんな寄り道だが、その寄り道が楽しい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司



●浜松から名古屋へ

 JR浜松駅の近くで、1人の高校生が声をかけてくれた。
K君だった。
幼稚園のときから、小6まで、私の教室に通ってくれた。
この4月から、高校2年生になる。
うれしかった。

が、こういうときというのは、会話がつづかない。
突然でもあり、何をどう話したらよいのか、わからない。
「お母さんは、お元気ですか」「すっかり高校生らしくなったね」とか。
最後に「声をかけてくれて、ありがとう」とだけ言い、別れた。

 ほんのりと心が温まった。

●9時48分

 JR浜松駅発、9時48分の大垣行の快速に乗る。
浜松から名古屋まで直行する列車は、ほとんど、ない。
豊橋で乗り換える。
この快速は、そのまま名古屋まで行く。

 いつもは豊橋から、名鉄電車に乗る。
座席もよく、乗り心地がよい。
急ぎの用でなければ、新幹線にはめったに乗らない。
名古屋というのは、そういう距離。
近くもないが、遠くもない。

●ウォークマン

 久しぶりにウォークマン(SONY)をもってきた。
音楽を聴いている。
グレゴリアンの曲が、ほとんど収録してある。
あとは定番の映画音楽とか、モーツアルトなど。
少し前まで、そのモーツアルトを聴いていた。

●合歓の郷(ねむのさと)

 今日の予定は、この列車で、名古屋まで。
名古屋で近鉄に乗り換える。
それに乗って、伊勢志摩まで。

合歓の郷に一泊。
「合歓の郷」という名前の旅館。
温泉がすてきらしい。
楽しみ。

 夕食は、伊勢海老づくしとか。
伊勢志摩といえば、伊勢海老。
楽しみ。

●咳をする女性

 通路をはさんだ隣の女性が、はげしい咳を繰り返している。
一応、マスクはしているが……。

 私もワイフに促され、マスクを着けた。
それにしてもはげしい咳。
私たちはよいとしても、会い向かいあった人たちが、かわいそう。
1人の女性はマスクをしているが、もう1人はしていない。
軽く口を押え、窓のほうに顔をそむけている。

 ときどきその女性の横顔を見る。
が、それを気にするふうでもなく、咳を繰り返している。
少し前から、化粧を始めた。
マスクをはずした。
年齢は、35歳前後?
マスクをはずしても、当たりかまわず、咳をしている。

●豊橋へ

 白くかすんだ田園地帯がつづく。
木々は枯れ、薄黄土色。
それをやさしい朝の陽ざしが、ぼんやりと照らしている。

 何やら車内アナウンスがあったが、よく聞き取れなかった。
私はグレゴリアンの歌を聴いている。
ワイフもグレゴリアンの歌を聴いている。
左右のイヤホンを、2人で分けあって、聴いている。

 ……これも、旅。
旅のしかた。

●声がかれる

 このところ声が、かれる。
少し前、浪曲の練習をした。
私はそれが原因かと思っていた。
が、浪曲ではなかった。

 花粉の季節になり、毎朝、決まってはげしいクシャミが出る。
そのとき、のどを痛めるらしい。
今朝、それがわかった。
はげしいクシャミをしたあと、のどが痛くなった。

 で、そのあと合唱団員のときよくしていた発声練習をしてみた。
高音部になると、自分でもそれがよくわかるほど、キンキン声になる。
ふだんは、そういうことはないのだが……。

●『♪Who wants to live forever?』

 『♪だれが、永遠に生きたいだろうか?』

 グレゴリアンは、こう歌う。
『♪Who wants to live forever?』と。

 よい曲だ。
ある映画の主題曲になっていた。
が、肝心の映画のほうは、駄作。
世代を超え、たがいに戦いあうという、内容の薄いものだった。
が、曲だけが、多くの歌手に歌い継がれている。

 そう、私も永遠に生きたいとは思わない。
「……だから、それがどうしたの?」と聞かれたとき、その答がつづかない。

 が、かといって、早く死にたいというのではない。
できるだけ長生きをしたい。
が、条件がある。
健康。
健康であること。
この歌をもじると、こうなる。

『♪だれが寝たきりで、長生きしたいだろうか』と。

●横尾試算

 昨日のニュースで気になったのが、これ。
あの福島第一原発2号機で、70数シーベルトの放射線が計測されたという。
7〜10シーベルトで、人間は即死すると言われている。
しかも恐ろしいことに、毎日10トン近い水を注入しているというのだが、原子炉内の水の深さ
は、60センチしかないという。
ほとんどの水は、高濃度に汚染されたまま、地下や海へと流れ出ているらしい。

 想像するだけでも、気が遠くなる……というより、絶望感に襲われる。
この先、こんなことが、何十年もつづく。
忘れてならないのは、2号機(出力100万W)だけでも、広島原発の数万発分の放射性物質
が格納されているということ。
(100万Wの原子炉を1年間稼働させると、広島原発の2700〜800発分の放射性物質が生
成されるという。横尾試算※)

 先日、大江健三郎氏は、パリで、こう言った。
「40年後に(被害は)顕在化する」と。

(注※)「電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射
性物質が生まれる。
その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」と。
この世界では「京(けい)」という単位が使われる。
10の16乗をいう」(以上、横尾試算「原発事故」宝島社)と。

●自己中心性
 
 こういう話をすると、つまり「40年後」というと、こんなことを言う人がいる。

「どうせ、私はそれまで生きていませんから」と。
あるいは、老人組の人は、こう言う
「どうせ、私たちはまもなく死にますから」と。

 が、これほど冷酷かつ残酷な言葉はない。

 ……40年後でも、今日のように、青空はある。
その下では、人々が住み、生活をしている。
人間の住む世界に、「時間」も「空間」もない。
「40年後は関係ない」と言う人は、「アフリカは遠いから、いくら人が餓死しても構わない」と言う
のと同じ。
つまり自分勝手。

「今さえよければ、それでいい」と言うのは、「自分だけよければ、それでいい」と言うのと同じ。
自己中心性の現れそのもの。
一見、道理をふまえているように見えるが、そんなのは、道理でも何でもない。
人格の完成度、ゼロ。
少しは自分に恥じたらよい。
あるいはその恥じる力もないほど、人間性を失っているのか?

●近鉄・名古屋駅

 近鉄・名古屋駅で、少し待ち時間がある。
12時10分発の特急「賢島」行き。
「賢島」は、「かしこじま」と読む。
旅館に電話すると、14時45分に迎えに来てくれるという。
ありがたい!

 構内で弁当とお茶を買う。
ワイフは、プラス、ビールを買う。
ワイフの家系は、酒豪が多い。
ワイフもその1人。
が、飲むのはこうして旅行のときか、寝る前だけ。

 ところで私たちはここしばらく、寝る前に養命酒をお湯に溶かして飲んでいる。
が、これが歯にはあまりよくない。
朝まで、ときに、甘い味が残る。
「このままでは、そのうち歯がボロボロになるかも?」ということで、ここ数日は、やめている。

 ……私は酒を飲めない。
そういう体質。
が、ときどき油断する。
数日前も、ワイフにつられて、チューハイ(アルコール度4%)を、コップ、半分も飲んでしまっ
た。
おかげで、その翌日、二日酔い。
夕方まで、頭痛が消えなかった。

●近鉄電車

 「近鉄電車に乗るのは、はじめて」とワイフが、言った。
「フ〜〜ン」と私。
10年ほど前までは、よく講演で、近鉄電車に乗った。
あのころは、私はいつも単独行動だった。
「悪いことをしたな」と思ったが、それはワイフには、言わなかった。

 黄土色に青い帯。
近鉄電車カラー。
何か意味があるのだろう。

 そう言えば、前回、近鉄電車に乗ったときに書いたエッセーがあるはず。
あとで探してみる。

 今、構内アナウンスで、「まもなく……」と。
時計を見ると、11時57分。
そのすぐあと、電車が構内へ入ってきた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

原稿は、すぐ見つかった。
2003年に、紀伊長島まで来ている。
駅の近くの体育館で、講演をした。

以下は、そのときの原稿。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●三重県紀伊長島町で……(2003年記)

 今日(一八日)は、紀伊長島町の教育委員会に招かれて、ここへやってきた。

 名古屋から、南紀線に乗る。
午後一時すぎの、特急。
その特急で、ちょうど二時間。
四日市、津、松阪……。
その間特急は、ずっと山間の谷を抜けるが、最初に「海が見えた!」と叫ぶところが、その紀
伊長島町である。

 私は、その特急の窓から、近くの山々をながめながら、三男のことを考えていた。
いつか、三男と二人で、この紀伊半島を旅したことがある。
そのときも、「冒険旅行」だった。
私たちは、よくその冒険旅行をした。

 冒険旅行というのは、行き先を決めず、その場、その場で、行き先や、泊まるところ決める旅
行のし方をいう。
お金だけを握って、旅に出る。
その旅行でのこと。

 松阪(まつさか)へ着いたときには、真夜中だった。
泊まる旅館やホテルが見つけられず、一時間近くも、あちこちをさまよい歩いた。
そんな思い出が、つぎつぎと、脳裏に浮かんでくる。

 小学四年生の三男は、心細そうに、何度も「だいじょうぶ?」と聞いた。
そのたびに私は、「いざとなったら、駅の前で寝ればいいから」と答えた。

 その三男が、今、自分の進路を大きく変えようとしている。

 三男は、地元のK高校を卒業したあと、横浜にある、横浜K大の工学部に入学した。
センター試験では、工学部2位の成績だった。

 いつか宇宙船の設計をすると意気込んで入学したものの、そのうち、自分に合わないと言い
出した。
そして今度は、パイロットになると言い出した。
私は、「金メダルを捨てて、銅メダルをもらうようなものだ」と、批判した。

 しかし私も、昔、M物産という商社をやめ、幼稚園の講師になった経緯がある。
そんな親だから、三男を責めるわけにはいかない。
何かと言いたいことはあったが、しかし三男は、こう言った。

 「パパ、ぼくの夢は、パパに、本物の操縦桿を握らせてやることだよ」と。

 私は子どものころ、空にあこがれた。
パイロットになりたかった。
今でも、パソコンの画面の上で、空を飛ぶのが、私の趣味の一つになっている。
三男は、そういう私をどこかで見ていた。
私は、この言葉に、殺された。

 その言葉を聞いて、私はもう、反対することはできなかった。
いや、多少の迷いはあったが、三男は、その試験に向けて、体を鍛えた。
毎日、自転車で横浜から、羽田へ行き、羽田空港を一周したという。
春ごろには、どこかブヨブヨだった三男だが、試験が近づくころには、すっかり身がひきしまっ
ていた。
それを知ったとき、私の迷いは、完全に消えた。

 「どうせ受けるなら、合格しろよ」と私。
 「だいじょうぶ」と三男。

 一次試験には、八〇〇人近い応募があったという。
テレビのトレンディドラマの影響が大きかったという。
三男は、二次試験にも合格した。
「定員、七〇人だけど、残ったのは、ぼくを入れて、六九人だけだった」と言った。
残りの三次試験は、面接。場所は、宮崎県。本人は、「一〇中、八、九、だいじょうぶだ」と、の
んきなことを言っている。

 特急の窓から、空を見る。
白い雲が、薄水色の空をのぞかせながら、幾重にも重なっている。
あのときは、初夏のころだったが、今は、秋だ。

 私たちは松阪市を出ると、今度は、新宮(しんぐう)をめざした。
そのときのこと。
南紀線は、海沿いを走るものとばかり思っていた。
しかし窓の景色は、山また山。
内心では「どうなっているのだろう?」と思っていた。
が、突然、目の前に、パッと海が広がった。

 エメラルド色の海だった。
それに絵に描いたような海岸線が見えた。
夢の中で見るような景色だった。
私は心底、「美しい」と思った。
実は、その町が、紀伊長島町だった。
偶然か。

 で、そのあと、この紀伊長島町へ来たくて、JR名古屋の駅へ問い合わせたが、どの人も、ト
ンチンカンなことばかり、言っていた。

私「ほら、南紀線に乗っていて、最初に海が見える町です」
J「どこでしょうね。あのあたりは、ずっと、海ですから」
私「山を抜けて、最初に、海が見える町です」
J「○○海岸でしょうかねえ。それとも、○○岬でしょうかねえ」と。

 しかしこの話は、教育委員会の担当者の方には、言わなかった。
あまりにも、できすぎた話である。
もしこの話をすれば、「林は、口のうまい男だ」と思われるかもしれない。
しかし事実は、事実。

 委員会のほうで、私のために民宿を用意してくれた。
「はま風」(長島町古里)という民宿だった。
海岸まで歩いて、数分のところ。
その民宿の中でも、一番、奥の梅乃間に通された。

 講演は七時からだった。

 私は散歩から部屋にもどって、この原稿を書き始めた。
もうすぐ、迎えの車がくる。
時刻は、六時一五分。
このつづきは、またあとで書こう。
写真もたくさんとったから、今度のマガジンは、「紀伊長島町特集」となるかもしれない。

++++++++++++++++++

【つづき……】

 たった今、遅い夕食を食べてきた。
時刻は、午後一〇時。
東長島公民館ホールでの講演は、(多分)、無事、終わった。
800人ほど、集まってくれた。

風呂に入るべきか、どうか迷っている。
このまま寝ようか……。

 近くに、古里温泉(町営)がある。
歩いて五分くらいのところ。
講演へ行く前に、散歩しながら見てきたが、朝は、午前一〇時からだという。
明日(一九日)は、七時半の特急で帰るつもりなので、その温泉には入ることはできない。

 そうそう夕食だが、おいしかった。
仲居の女の人(本当は女将さん)が、みな、親切だった。食べ終わってから、「それ、マンボウ
の軟骨だったのですよ」と。
私はタコの刺身かと思って、パクパクと食べてしまった。
「しまった」と思ったときには、胃の中で、松阪牛のシャブシャブと混ざってしまっていた。

 三男の話にもどるが、三男は、私がパイロットになるのを反対していると思っているらしい。
それは、そのとおり。
これから飛行機事故のニュースを聞くたびに、私は、ハラハラしなければならない。
「どうぞ、どうぞ」と、賛成するような仕事ではない。

 しかし私は、親として、友として、三男を応援するしかない。
支えるしかない。
私が幼稚園の講師になったと母に話したとき、母は、泣き崩れてしまった。
私は母だけは、私を支えてくれると思っていた。

 私には、そういう悲しい思い出がある。
だから、私の息子たちにだけは、そういう思いをさせたくない。
どんなことがあっても、私は、最後の最後まで、息子たちを支える。
ただただ、ひたすら、息子たちを信じ、支える。

 今、ふと、眠気が襲ってきた。
もう今夜は、寝たほうがよさそうだ。
ワイフに電話すると、K市K小学校のN先生から、講演の依頼が入ったとのこと。
ほかの先生からの依頼とは違う。
どんなことをしてでも、受けなければならない。
N先生は、私の恩人だ。
明日、浜松へ帰ってから、時間を調整しよう。

 静かな町だ。
静かな民宿だ。
一応、目ざまし時計はつけたが、明日は、その時刻に起きられるだろうか。
少し、心配になってきた。

 では、みなさん、おやすみなさい。

 三重県紀伊長島町、民宿「はま風」より。

 こういう季節も、すばらしいが、夏場は、近くの砂浜で泳ぐこともできる。
もう少し若ければ、「来年の夏に……」と考えるが、もうその元気はない。
こういう静かな季節のほうが、私には、合っているかも。

 教育委員会のOさん、車で送迎してくれた、Tさん、ありがとうございました。
(031118)

【補記】

 くだらないことだが、私のパソコン(NECのLaVie)は、三〇分ほどで、バッテリーがあがって
しまう。
しかし、今日、名古屋からいっしょに乗った男性のパソコンは、ほぼ二時間、ずっと稼動してい
た。

見ると、シャープの「MURAMASA」だった。
「さすが!」と、少し、驚いた。
ねたましく思った。

 外国の電車などは、車内にコンセントがついている。
駅にも、空港のロビーにも。
日本も、そうすべきではないか。
こういう時代なのだから……。
ついでにインターネットも使えるようにしてほしい。
こういう時代なのだから……。
(一部の駅には、無線LANの設備がついたという。)

(写真を見てくださる方は、HTML版マガジンのほうを、ご覧ください。
紀伊長島町の風景の写真を載せておきました。
すばらしいところですよ。)

 もうひとつくだらないこと。

 朝起きて、身じたくを整えていると、靴下が見つからない。
そこで部屋中をさがした。
が、それでも、見つからない。
昨夜は、講演から帰ってきたあと、食事をして、そのままこの部屋で、浴衣(ゆかた)にかえた。
そのときまで、靴下は、はいていたはず。

 それにしても気味の悪い話だ。
ここは幽霊民宿?

 さらにさがした。
しかし見つからない。

 ただひとつ、心当たりがあるのは、風呂だ。
私は今朝、起きるとすぐ、風呂(温泉)に入った。
そこで、「まさか……」と思いつつ、浴室へ行ってみると……。

 「あったア!」

 しかし、どうして? 
どうして私の靴下が、脱衣場に落ちていたのか。
私は昨夜、靴下をはいたまま寝たのか? 
しかしそんなはずはない。
私は寝るときは、必ず、靴下を脱ぐ。
ただひとつの可能性は、浴衣のどこかに脱いだ靴下が、入りこんでいたこと。
だから浴衣を脱いだとき、靴下が、脱衣場に、落ちた? 
しかし、そんなことがありえるのだろうか?

 ?????と、「?」を五個並べて、この話は、おしまい。

(以上、2003年11月、紀伊長島にて)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●紀伊半島

 紀伊長島へ来たとき、委員会の先生が、こんな話をしてくれた。

「このあたりでは、山側の人間と、海側の人間は、はっきりと分かれているのですよ」と。

 生活習慣のみならず、男女の(差)も、分かれている、と。

 山側の世界(=農業)では、女性の地位が低く、海側の世界(=漁業)では、女性の地位が
高い。
(漁師という職業は、いつなんどき死ぬかわからない。だから女性の地位が高くなったとか。)
また、山側の人たちは、朝飯をしっかりと食べ、昼飯は簡単にすます。
これに対して、一方、海側の人たちは、昼飯をしっかりと食べる、とか。
これは漁師は、朝早く海に出て、昼前に海から帰ってくるためだ、そうだ。

 以上、記憶によるものなので、内容は不正確。

 で、そのとき私がこう言ったのを覚えている。

「もし、海側で育った女性が、山側で育った男性と結婚したら、たいへんなことになりますね」
と。
私は冗談で言ったつもりだったが、その先生は、あっさり、「その通りです」と言って笑った。
(反対なら、うまくいくかも?)
2003年というから、もう10年近くも前の話である。
今は、事情も、大きく変わったかもしれない。

 電車は今、桑名を出たところ。
海が見え始めるのは、もっと先。
ワイフは、「まだ……?」と、言っている。

●ダイナブックR631

 前回は、シャープ製のパソコンだった。
メビウスだった。
が、今回は、TOSHIBAのダイナブック。
バッテリー切れの心配は、ない。
今も、こうして安心して、キーボードを叩いている。

 ところで今度、シャープが、台湾の会社の傘下に入ることになった。
経営不振がささやかれていたので、「とうとう……」という感じ。
こうしてまた、日本の一流メーカーが、外国へと売られていく。

(注※……MSNニュースより)
『シャープは、液晶の主力生産拠点である堺工場を守るため、外資を筆頭株主とするかつてな
い決断を下した。
世界的な価格下落や歴史的な円高水準、テレビ市場の先行き不透明など好材料が少ない
中、"液晶のシャープ"の行方が注目される』(以上、MSN)と。

 ついでながら、こんなニュースでも、韓国では、反日感情をあおりたてるために、利用されて
いる。
が、どうして反日?
つぎの朝鮮日報の記事を読めば、それがわかる。

『シャープ、「サムスン打倒」の鴻海と資本提携!

サムスン電子など韓国企業に押され、創業以来最悪の赤字を出していたシャープは27日、
「サムスン打倒」と公言する台湾の電子機器受託製造サービス(EMS)大手、鴻海精密工業と
資本提携すると発表した』(朝鮮日報)と。

 あたかもシャープが、「サムスン打倒!」のために、台湾の企業と資本提携したかのように書
いてある。
韓国では、マスコミが先頭に立ち、反日感情をあおいりたてている。
こんな記事を読めば、だれだって、「日本めッ!」となる。 

●車窓の外

 車窓の外につづく、街並み。
街並みというより、都会。
「こんなところにも、多くの人が住んでいる……」と。

 ……たった今、窓の下に広い駐車場が見えた。
たくさんの車が並んでいた。
もちろんそれぞれの車には、所有者がいる。
1台1台に……。

 家にしてもそうだ。
それぞれの家に、それぞれのドラマがある。

 最近、旅行に出るたびに、そんなことをよく考える。
同時に、不思議な気持ちに襲われる。
みんな、懸命に生きている。
それが私を不思議な気持ちにさせる。

●珍説・日本人論

 窓ガラスに反射して、前の席に座っている女性の顔がよく見える。
電車が日陰に入ると、窓ガラスが鏡のようになる。
年齢は、40歳前後か。

 その女性の動きが、気になる。
相対して座っている仲間と、何やら話している。
その様子が、どこか「?」。
どこだろう?

 しばらく観察する。
が、やがてこんなことに気がついた。

 その女性は、左右、上下を見るとき、かならず顔を動かす。
眼球は、ほとんど動かさない?
顔を動かすと同時に、上半身も動かす。
それを小刻みに繰り返すから、キョロキョロというよりは、セカセカといった感じになる。
ガラス窓越しに見ているのだが、せわしなく顔や体を動かす。
落ちつかない。
が、AD・HD児の動きとも、ちがう。
どうしてだろう……?
どこがちがうのだろう……?

 が、やがてわかった。

 その女性の目は、ふつうの人以上に、細い。
一本の糸のよう。
おまけに太り気味で、下まぶたが、目を下から、押し上げている。
つまりその女性は、眼球を動かして、左右、上下を見ることができない。
(眼球の動きは、よくわからないが……。)
だから左右、上下を見るときは、その方向に向け、顔全体を動かさなければならない。
顔全体を動かすから、上半身も、それにつれて、動く。

 ナルホド!

 昔、オーストラリアの友人が、こう言った。
「日本人は、猿みたいだ」と。
欧米では、日本人は、よく猿にたとえられる。
映画『猿の惑星』も、もともとは、日本人がモデルだったそうだ。
あまりうれしくない話だが、その理由のひとつが、これ。
つまり顔全体、体全体をセカセカと動かし、あちこちを見る。
(私もそうだが……。)

 では、欧米人は、どうなのか?
それも欧米人のものの見方を思い浮かべてみると、すぐわかる。
彼らは、左右、上下を見るとき、眼球だけを動かす。
もともと目が大きいから、それができる。
だから顔全体を動かさなくてもよい。
そのため日本人のような、セカセカ感がない。

 つまり日本人が猿のようにセカセカして見えるのは、民族性というより、目の大きさが原因だ
った。
目が細く小さいから、ものを見るとき、顔全体を動かす。
立っているときは、体全体を動かす。
だから、セカセカして見える。
中に目が大きい人もいる。
そういう人でも、周囲の日本人の影響を受け、セカセカ動くようになる。

 これは、はやし浩司の珍説、日本人論ということになる。
しかしこんなことを調べた学者はいない(はず)。
珍説というよりは、「新説」か。

●TK先生より
 
 たった今、TK先生から、メールが届いた。
今朝送った原稿についての、批評である。

『林様: 最近書かれた原稿を拝読しました。
これはどんな人を対象にしているのかな、と思いながら読みました。
一言で言えば「おれは学があるんだよ」、「いろいろの 偉い人の意見も皆読んで知っている
よ」、という感じでした。
広い知識を持っている、偉い人の書く文章です。
偉くはないけれど、もっと「我が意」を伝える「感激的な原稿」が欲しいです。
「一笑い」するなり、「涙ぐむ」なり。
いけませんか。御元気で。
TK』

 TK先生の口の悪さは、学会でも定評。
TK先生が座長になると、たいていの学者は、ビビって何も話せなくなるという。

またある時期は、日本の理科予算を決定、配分する立場にいた。
併せて論文審査もしていた。

たとえば野辺山に巨大な電波望遠鏡がある。
それが完成したとき、その祝賀会で、TK先生は、最前列に座っていた。
そのとき先生は、こう言っていた。

「いやな仕事ですよ。
研究費を削ったりすると、憎まれます。
江戸の仇(かたき)を、長崎でとられるというようなことも、よくありますから」と。

 というか、先生の肩書はともかくも、つぎの一言のほうが、TK先生の偉大さを、よく説明して
いる。

 天皇陛下のテニス友だち。

 よく陛下は、鎌倉の先生のクラブへテニスをしに来ていた。
どこかの境内の横にある、2面しかないクラブである。
「椅子といっても、ブロックに板を渡しただけのものです」と。

 で、TK先生は、こう言った。
「陛下がクラブへ来ているときは、ヘリコプターが上空をくるくる回っていますから、すぐわかり
ますよ」と。

ともかくも、先生の毒舌には慣れた。
(そう言えば、私をほめてくれたことがない!)
だからこそ、私には、ありがたい。

 すかさず、私は、こんな返事を書いた。

『TK先生へ

こんにちは!

いえね、あの雑誌は、今回は、『子育て』が特集なのだそうです。
で、その巻頭で、子どもの発達について、その総論を書いてくれということで、ああいう原稿に
なりました。
けっして偉ぶっているわけではありません。
どうか、誤解のないように!

そのあと各論を書く学者は、東大の先生こそいませんが、みな、そういう人たちです。
その巻頭言用原稿です。

それに私は、「偉い人」ですから……。
ハハハ。

(本当は、みすぼらしい、敗者です。
負け犬です。
自分でもそれがよくわかっています。)

先生だけです。
そういうふうに、率直に言ってくれるのは……。
ぜんぜん、イヤミもないし……。
なお、あの雑誌は、全文、英訳され、世界中の販売会社に配布されるそうです。
(日本の自動車が販売されている国、すべてで、です。)

なおワイフは、こう言っています。
「文章は、あなたのほうがうまいから、先生は、ひがんでいるのよ」と、です。
ぼくもそう思います。

 また伊勢志摩に着いたら、メールを書きます』と。

●宇治山田

 電車は、今、宇治山田に着いた。
この先から、向かって左側に、海が見えるようになる。
先ほどまで、ワイフは、ウトウトと横で眠っていた。
何度か、ウ〜ムという声を出したあと、車掌のアナウンスで目を覚ました。

 「これからきれいな海が見えるよ」と私。

 紀伊半島と言えば、何といっても、海。
美しい海。
ここを通るたびに、私は、こう思う。
「ここは天国」と。
心底、そう思う。

 駅の向こう、つまり海側に、小高い山が連なっているのがわかる。
あの山を越えれば、海。
海が見え始めたら、ビデオカメラの出番!

●旅

 昨日、市内の書店を訪れたら、こんなタイトルの本があった。
「ぼくが旅に出る、そのわけ」(記憶)と。

 私よりずっと若いライターの書いた本だった。
写真が、表紙を飾っていた。

 その本を見たとき、「ぼくなら……」と思った。
「ぼくなら、どんなことを書くだろうか?」と。

 表紙を見ただけで、本は開かなかった。
平積みになっていたから、よく知られた人の本なのだろう。
それにタイトルからして、旅が好きな人にちがいない。

 私も旅は、嫌いではない。
が、いつもワイフに連れられて、旅に出る。
私自身は、家で本でも読んでいた方が、楽しい。
が、それでも、同じタイトルの本を書けと言われたら、どんな本を書くだろうか?

 ……旅先で感動した話を、全体の7〜8割、書く。
押しつけがましい意見ではなく、読んだ人が、「私も旅をしたい」と思うような内容にする。
残りの2〜3割で、旅に人生論を結びつける。

 そう、旅のおもしろさは、名所旧跡にあるのではない。
道端の、何気なく立っている地蔵や、川面(かわも)に遊ぶ野鳥の群れの中にある。
倒れかかり、道をふさいでいる竹やぶでもよい。
曲がりくねった農家の道を、ヨタヨタと歩く老人。
そういう老人と、世間話をする。
そういうのがおもしろい。

 で、人生のおもしろさも、またしかり……と。
この話は、ちょっとできすぎかな?

●合歓の郷(ねむのさと)

 合歓の郷には、午後3時少し過ぎに着いた。
途中、雨が降った。
通り雨で、ホテル(今まで旅館と書いてきたが、ここは立派なホテル)に着くころ、ちょうどやん
だ。
(和室で予約したので、私は、旅館風のホテルを想像していた。)

 部屋は、2間つづきの、豪華な間取り。
419号室。
部屋も、前もって、暖めてあった。
備品も完ぺき。
やる気度、100%。
カーテンを開けると、伊勢志摩半島が、一望できた。

これから温泉につかり、そのあとサンセット・クルージングなるものに、乗る。
夕刻を、海の上で、過ごす。

(地震が来なければいいが……。
私は心配性。)

●サンセット・クルージング

 風呂から出た。
5時10分に、迎えのバスが来るという。
それを待っている。

 幸い、青い空が見えてきた。
サンセット・クルージング。
「今日は、波が少し荒いようです」と、フロントの女性は、そう言っていた。
ワイフは、先ほどから、それを心配している。

「いいか、そういうときは、遠くの水平線を見ていればいい」と私。

 時刻は、ちょうど、5時。
「そろそろ行こうか……」ということで、このつづきは、またあとで。

●貸し切り

 33人乗りの大型クルーザーに、客は、私たち2人だけ。
つまり貸し切り!
その大型クルーザーで、英虞湾(あごわん)内を、40〜50分かけて、周遊。
まるで夢の中のようだった。
つまり夢の中で、船に乗っているような気分だった。

 時は、その名のとおり、夕暮れ時(サンセット)。
ワイフも私も、言葉を失った。
ただひたすら、ぼんやりと、島々をながめた。

 その様子は、ビデオカメラに収めた。
明日、家に帰ったら、まっさきに編集し、YOUTUBEにUPする。
読者のみなさんにも、楽しんでもらおう。

●YAMAHAのつま恋

 施設全体は、掛川市にある、「つま恋」(YAMAHAリゾート・センター)に似ている。
各種のスポーツ施設や、宿泊施設が並んでいる。
作り方も、よく似ている。

 が、つま恋のほうは、東海道の要所にある。
そのため、いつ行っても、かなり混雑している。
が、ここ合歓の郷は、伊勢志摩という、本線から離れた位置にある。
が、施設そのものは、つま恋に勝るとも、劣らない。
プラス、海遊びもできる。

 さらに比較すれば、温泉は、合歓の郷のほうが、はるかによい。
つま恋は、小さくて、狭い。
加えて地元の人たちも利用しているため、私たちが行ったときには、浜松駅の構内のように混
雑していた。
あとは料理だが、つま恋のバイキング料理は、地元でもイチバンと評価が高い。
さて、この合歓の郷は、どうか?

 夕食は、7時40分〜から。
まだ少し時間がある。
それまで、こうして今日の日記を書く。

●ロメオ&ジュリエット

 たった今、立ったついでに、♪ロメオとジュリエットを独唱してみた。
本気で歌ってみた。
その少し前から、そのメロディーを、鼻歌で歌っていた。

 声は張りを失い、高い音は出なくなった。
が、これでも、元合唱団員。
その気になれば、まだ歌える?

 が、この歌を歌うと、どうしてこうまで切なくなるのか。
幸福と切なさは、同時にやってくる。
幸福であることが、切ない。
どうしてだろう。

 原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マダム・バタフライ

 久しぶりに、「マダム・バタフライ」を聞いた。
ジャコモ・プッチーニのオペラである。
私はあの曲が好きで、聞き出すと何度も、繰り返し聞く。

「♪ある晴れた日に、
  遠い海の向こうに一筋の煙が見え、
  やがて白い船が港に着く……
  あの人は私をさがすわ、
  でも、私は迎えに行かない
  こんなに私を待たせたから……」

 この曲を聞くと、何とも切ない気持ちになるのは、なぜか。
遠い昔、長崎からきた女性に恋をしたことがあるからか。
色の白い、美しい人だった。
本当に美しい人だった。
その人が笑うと、一斉に太陽が輝き、一面に花が咲くようだった。
その人はいつも、春の陽光をあびて、まばゆいばかりに輝いていた。

 マダム・バタフライ、つまり蝶々夫人は、もともとは武士の娘だったが、幕末から明治にかけ
ての混乱期に、芸者として長崎へやってくる。
そこで海軍士官のピンカートンと知り合い、結婚。
そして男児を出産。
が、ピンカートンは、アメリカへ帰る。
先の歌は、そのピンカートンを待つマダム・バタフライが歌うもの。
今さら説明など必要ないかもしれない。

 同じような悲恋物語だが、ウィリアム・シェークスピアの「ロメオとジュリエット」もすばらしい。
少しだが若いころ、セリフを一生懸命暗記したこともある。
ロメオとジュリエットがはじめてベッドで朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言
う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。
「喜びの日が、モヤのかかった山の頂上で、つま先で立っている」と。

本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の頂上にモヤにかかっている。
モヤがそのあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はやはりそのシーンになると、たま
らないほどの切なさを覚える。

そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」はすばらし
い。
私はあの映画を何度も見た。
ビデオももっている。
サウンドトラック版のCDももっている。
その映画の中で、若い男が、こう歌う。
ロメオとジュリエットがはじめて顔をあわせたパーティで歌われる歌だ。

 「♪若さって何?
   衝動的な炎。
乙女とは何? 
氷と欲望。
世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前、「息子が恋をするとき」というエッセーを書いた
ので、このあとに添付しておく。

 最後にもう一つ映画の話になるが、「マジソン郡の橋」もすばらしい。
短い曲だが、映画の最後のシーンに流れる、「Do Live」(生きて)は、何度聞いてもあきない。
いつか電撃に打たれるような恋をして、身を焼き尽くすような恋をしてみたいと思う。
かなわぬ夢だが、しかしそういうロマンスだけは忘れたくない。
いつか……。
(02−10−5)※

*Romeo and Juliet

++++++++++++++++++



(Love Theme from Romeo and Juliet)

What is a youth?  Impetuous fire.  若さって、何? 燃えさかる炎。
What is a maid?  Ice and desire.  乙女って、何? 氷と欲望。
The world wags on,  世界は、その上で踊る。
A rose will bloom.... ばらは咲き、 
It then will fade:  そして色あせる。
So does a youth,  若さも、また同じ。
So does the fairest maid. もっとも美しい乙女も、また同じ。
Comes a time when one sweet smile その人の甘い微笑みが
has a season for a while....  しばしの間、その季節を迎えるときがやってきた。
Then love's in love with me.  そして私と恋を恋するときがやってきた。
Some they think only to marry,  結婚だけを考える人もいる。
Others will tease and tarry.  からかうだけの人や、じらすだけの人もいる。
Mine is the very best parry.  でも私のは、あるがまま。
Cupid he rules us all.  キューピッドだけが、私たちを支配する。
Caper the cape, but sing me the song,  ケープをひらめかせ、私に歌を歌え。
Death will come soon to hush us along. やがて死が訪れ、私たちを痛めつける。
Sweeter than honey... and bitter as gall,  蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦く、
Love is a task and it never will pall.  愛は、すべきこと、隠すことはできない。
Sweeter than honey and bitter as gall. 蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦い。
Cupid he rules us all." キューピッドが私たちを支配する。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


【息子が恋をするとき】

●息子が恋をするとき(人がもっとも人間らしくなれるとき)

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。
メールで、「今までの人生の中で、一番楽しい」と書いてきた。
それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と笑った。
その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。
しかし長くは続かなかった。
しばらく交際していると、相手の女性の母親から私の母に電話があった。
そしてこう言った。
「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。
娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員30名ほどの製紙工場を経営していた。
一方私の家は、自転車屋。
「格が違う」というのだ。
この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。
が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。
ちょっとしたつまづきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。

オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男が
そう歌う。
たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つかと言え
ば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。
年俸が1億円も2億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔を
しかめてみせる。
一着数百万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難民の募金を涙ながら
に訴える。
暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やF国政府から、日本を代表す
る文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心
も焼き尽くすような恋をするときでしかない。
それは人が人生の中で唯一つかむことができる、「真実」なのかもしれない。
そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。
もしそれがまちがっているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。
しかしそんなことはありえない。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。
そしてそれを見る観客は、その二人に心を合わせ、身を焦がす。
涙をこぼす。
しかしそれは決して、他人の恋をいとおしむ涙ではない。
過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。
あの無限に広く見えた青春時代も、過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。
歌はこう続く。

「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。
私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝ていた。
6月のむし暑い日だった。
ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなになってしまいそうだった。
ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度も何度も私は歯をくいしば
った。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。
そしてそれが今、たまらなくなつかしい。
私は女房にこう言った。
「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。
それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。
私も、また笑った。
 
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●切なさ

 生きていること自体、切ない。
つかみどころがあるようで、ない。
「時よ止まれ」と叫んでも、時は容赦なく、去って行く。
手でつかんでも、指の間から漏れていく。
その歯がゆさ。
そのもどかしさ。
それが切なさとなって、胸をしめつける。

 失った時を嘆くのではない。
去った人を嘆くのではない。
消えて久しい、純粋さを嘆く。
情熱を嘆く。
夢や希望を嘆く。

●センチ

 話題を変える。
幸福感を味わったあとというのは、どうも心がセンチになる。
これも年の功。
幸福というのは、(幸福感でもよいが)、薄いガラス箱のように壊れやすい。
それを知っているから、切なくなる?

ところで、今の若い人たちは、「センチ」などという言葉を使うだろうか?
センチというのは、センチメンタルという意味。
英語では「sentimental」。
日本語では、「感傷的」と訳す。
「感じやすく、涙もろいさま」(Yahoo辞書)とある。

 今が、そのとき?
「話題を変える」と宣言してみたが、話が、またもとに戻ってしまった。

 ……とにかく、もうすぐ夕食。
夕食のあとは、もっと楽しい話を書いてみたい。

●TK先生からの返信

 夕食後、パソコンを立ち上げると、TK先生から、メールが届いていた。
うれしかった。
TK先生という先生は、そういう先生。
そばに感じるだけで、心が安らぐ。
あるいは先生は、相手を、先生自身がもつおおらかさで、包んでしまう。
講演にしても、そうだ。
相手が1000人でも、9000人でも、そのまま包んでしまう。
その偉大さというか、パワーは、言葉では、表現できない。

 私的なメールだから、そのまま紹介してよいものかどうか迷った。
(許可を求めたら、断られるに決まっている!)
が、若いころからTK先生は、何かよいことや、うれしいことがあると、真っ先に私に知らせてく
れた。
私は私で、それを聞くのが、何よりも楽しみだった。
この42年間、ずっと、そうだった。
それがいまでも、つづいている。

……というか、田丸謙二先生が、日本という国のためになした偉業の数々。
それを知る人は少ない。

たとえばあるプロジェクトで、日本政府は、アメリカの言いなりになって、2000億円という研究
費を、無駄にしそうになったことがある。
田丸謙二先生は、自費で世界各国を飛び回り、その計画を日本政府に断念させたこともあ
る。
もちろんその逆のこともある。

TK先生の偉大さを、みなさんもぜひ知ってほしい。

『林様:
今度の日本化学会の春の年会は九千人近くの参加者があり、慶応の日吉キャンパスで行わ
れました。
その後懇親会で乾杯の音頭を取らせられましたが、懇親会も四百人以上の盛会でした。
今度の年会の中で公開講演会があり、幾人もの講演者に混じって私も講演をさせられました
が、その公開講演会の責任者から下記のようなお褒めの言葉が来ました。

「群を抜いていい講演」、「聴き応えのある講演」、「何人もの方から非常に良かった」とか「皆さ
ん大変に感激した」とか、私の所にも沢山のお褒めのメールや電話が来ましたが、個人的なの
は「お世辞」もあると思いますが、上記のような公開講演会の責任者からのは、大体本当の言
葉だと思いますので、お知らせします。

余計なことをお書きして恐縮ですが、取り敢えずご連絡致します。
くれぐれもお元気で。
TK』

●夕食

 夕食は、伊勢海老を使った、海老づくしだった。
すべてが、伊勢海老料理。
レストランの入り口には、生けすがつくってあり、20〜30匹の伊勢海老が飼ってあった。
レストランを出るとき、「ああ、今夜は、これを食べたんだ」と。

●就眠

 ワイフは、もう床の中に入り、寝息をたてている。
時刻は、午後10時19分。
夕食の料理は、すばらしかった。
一級の料理と評しても、よい。
おいしかった。
とくに伊勢海老の鉄板焼きは、おいしかった。
伊勢海老というのは、もともと味が淡白で、料理の仕方をまちがえると、何を食べているのか
わからなくなる。
海老のおいしさを引き出しながら、味にアクセントをつける。
並みの料理人では、まねのできない芸当である。

 さて、明日は忙しい。
一度、名古屋まで出たあと、会合に出席。
そのあと浜松に、帰る。

 では、みなさん、Have a good night!

●3月29日

 朝は、午前4時半に目が覚めた。
こうしたホテルでは、いつも、そうだ。

 で、メガネを探したが、どこにもない。
「?」と思いながら、また探した。

 が、メガネは、かけたままだった。
その少し前、トイレに起きたとき、メガネをかけたらしい。
またそのまま眠ってしまったらしい。

私も、かなりボケてきた。
こんなアホな経験は、生まれてはじめて。
メガネをかけたまま、メガネを探した。
それにしても、ドジな話!

●合歓の郷

 合歓の郷は、広大な敷地の中にある。
その一角だけで、ふつうのホテルなら、何10棟も建ってしまうだろう。
中に、貸別荘というのも、ある。
サンセット・クルージングに向こう途中、バスの運転手が、案内してくれた。
(バスの中にも、客は、私たち2人だけだった!)

そこには10〜20棟、並んで建っていた。
そのあたりは、ゆるやかな丘陵になっていた。
芝生でおおわれていた。
道路も、カーブを描いていた。
それを見て、ワイフが、「オーストラリアの家みたい」と言った。

 オーストラリアでは、どこでも見られる風景である。
が、この日本では、珍しい。
平坦地を、碁盤の目のように仕切る。
家は、それぞれ、バラバラ。
洋風もあれば、和風もある。

 つまり欧米人は、全体のバランスを考え、自分の家を建てる。
日本人には、もとから、そういう発想そのものが、ない。
ある学者は、「押す文化、引く文化」という言葉を使い、日本人の特性を説明した。
あとで、その原稿を探してみる。

 ともかくも、合歓の郷は広い。
その広さを感じただけで、ほっとした安堵感を覚える。

 そうそうワイフはこうも言った。
「日本にも、こういういいところがあるのね」と。

 ここ数年、ワイフは、ことあるごとに、こう言っている。
「オーストラリアへ移住しよう」と。
そのつど、私はこう言って、ワイフをなだめる。
「もう少し日本でがんばるから、待ってよ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【押す文化vs引く文化】(2000年ごろ書いた原稿より)

●引く文化・押す文化

 日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。
欧米の子どもは、向こう側に払って、机の上に残す。

考えてみれば、不思議なことだ。
教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそうするようになる。
考えてみれば、日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。
欧米の刀は、相手のほうに突き刺しながら切る。
ノコギリも、包丁もそうだ。
日本では引きながら切る。
欧米では押しながら切る。

 これを称して、日本の文化は「引く文化」、欧米の文化は「押す文化」と言った学者がいた。
そんな話を、ある友人から聞いたことがある。

たとえば「庭」。
日本では、庭をつくるとき、視点を家の中に置く。
つまり家の中に美しさを、引きこむようにして庭をつくる。
欧米は反対に、外に向かって庭をつくる。

 わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。
何でもないようなことだが、こうした文化は、教育にも大きな影響を与えている。

 日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。
内面世界の充実を大切にする。
一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。

 日本人はディベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、しかたな
い。
いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。
自己主張をして波風を立てるよりも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は
考える。

 つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。
特に教育の世界がそうだ。
徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。
文部省が「体験学習だ」と言えば、体験学習。
「ボランティア活動だ」と言えば、ボランティア活動。
いつもすべてが全国一律に動く。
親の側から、教育に注文をつけるということは、まず、ない。

 そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。
体質も、それから生まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。
言いかえると、日本の封建時代が残したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。

 ……と悩んでもしかたない。
問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放させるか、だ。
一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け継いだ明治、大正、
昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。
歴史は歴史だからそれなりに正当に評価しなければならない。
しかし決して美化したり、茶化したり、歪曲してはならない。

 たとえば2000年のはじめ、NHKの大河ドラマにかこつけて、この静岡県で、『葵三代、徳川
博』なるものが催された。
たいへんなにぎわいだったと聞いているが、しかしそういう形で、あの封建時代を美化するの
はたいへん危険なことでもある。

 あの類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げられ、苦しん
だか、それを忘れてはならない。
一方、徳川家康についても、その後、300年という年月をかけて、つごうの悪い事実は繰り返
し抹消された。

私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果でしかない。つまりこうした
ことを繰り返している間は、私たちはあのマイナスの遺産から抜け出ることはない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●旅

 旅といっても、ボケ防止のための旅というのも、ある。
旅に出るだけで、四方八方から、いろいろな刺激を受ける。
その刺激が、脳みそを、「引っかき回す」。
つまりそれまで眠っていたような部分まで、刺激する。

 脳の神経細胞の数は同じでも、使っていなかった部分を使うようになれば、その分だけ、神
経細胞はふえたことになる。
広い屋敷にある古い倉庫を、居間に改造するようなもの。
たとえとしては、あまりよくないかもしれない。
しかし私には、そんな感じがする。

●英虞湾

 英虞湾は、地形が複雑。
その間に、大小、形、さまざまの島が64もあるという。
島だけではない。
無数の山々が、高くはないが、ホテルを取り囲んでいる。

 で、たった今、窓のほうを見ると、カーテンの下が白く輝いているのがわかった。
見ると、ちょうど太陽が地平線から昇るところだった。
私はバッグからカメラを取り出すと、その写真を撮った。
「ああ、あちらが東なんだ」と、そのときはじめてわかった。

 この窓から見ているかぎりでは、自分がどの位置にいるのか、わからない。
というか、私の方向感は、人並み以上にすぐれている。
見知らぬ街でも、迷子になることはめったにない。
しかしこの伊勢志摩は、ちがった。
このホテルにしても、どのあたりにあるのか、それさえわからなかった。
とくに昨日は、一度、小雨が降るほど、空が曇っていた。
方向感は狂ったままだった。

 ……これから風呂に入る。

 そうそう、このホテルの難点は、温泉までの距離が遠いということ。
一度、ホテルの外に出て、300〜400メートルほど、歩かねばならない。
冬場は、つらい?
だから部屋の中にある、風呂へ。

●TK先生より

たった今、TK先生から、メールが入った

『林様:

今度こちらにお出で下さる際のことを考えたのですが、現在一時的にお世話になっている「シ
ニア・ホーム・T」は滞在者拾四、五人の小さいところですが、私の数年後のあり方を現実的に
suggest してくれています。

半分以上が車椅子です。
「認知症」などボケている人もいます。
助けて貰わないと食事が出来ない人もいます。
歳をとることは誰でも避けられない運命ですが、どうでしょう、こちらで皆の様子を見ながらこち
らで皆と一緒に私の来客として夕食を取るのは。
軽い夕食ですが、老人用の食事で、魚もよく出ますが骨は全然ない形です。
野菜も柔らかく調理されています。

貴君にはまだ二、三十年先のことでしょうが、避けられない「歳をとる」ことの参考にもなりま
す。
夕食に行く前に、私の部屋でビールとおつまみもの位を食べてから行けば、少しは形がとれま
す。
街で混んでいる中で食べるより良い勉強になります。
如何でしょうか。

ついでにこちらに来る方法ですが、浜松から小田原まで新幹線で来て、小田原から東海道線
で藤沢に来て進行方向左側に、「江ノ電」(江ノ島電鉄)がありますか、それに乗って20分近
く、「XX」駅から三つ目に「YY」駅があり、その次が「ZZ」の駅で駅のホームの北側に駅に接す
るように煉瓦作りの「シニア・ホーム・T」という駅からx分のところです。

楽しみにお待ちしています。

御元気で。
TK』

●はやし浩司より、TK先生へ

TK先生へ

こんにちは!

 先生のお気遣い、ありがとうございます。
先生のご指導の通りにいたします。
ありがたいことです。
よい勉強になると思います。

 実のところ、自分の老後をよく考えます。
ホームへの入居も、現実問題になってきています。

 で、私も、数年前まで、実母と実兄の介護をしていました。
実母は、2年間、私の家にいました。
(便などの世話は、すべて私がしました。)
実兄は、3か月、私の家にいて、そのあと地元のグループホームに入りました。
実母は、そのあとは、他界するまで、ここ浜松の特養に入りました。
何かとたいへんでした。

 で、あいついで、3年前に他界。
実母、実兄が他界したとき、正直言って、ほっとしました。
(最近になって、さみしく思うことがありますが……。)

 このあたりでは、親の介護を2年すると、兄弟姉妹はバラバラになるといいます。
遺産問題も絡んできます。
わずか数百万円の遺産のことで、言い争っている兄弟姉妹は、ゴマンといます。

それでそうなります。
介護、遺産問題は、本人もたいへんですが、そのまわりの家族にとっても、深刻な問題です
ね。

 で、私も、実母、実兄の介護を経験し、かなり人生観、イコール、教育観が変わりました。
それまでは、子どもは子どもで自分の人生を歩めばよいと考えていました。
が、これからはそんなわけにはいかない。
それで人生観、イコール、教育観が変わりました。

 今では、私たち老人組は、老害、さらには「ゴミ」と呼ばれています。
ネットの世界を見ると、それがよくわかります。
たとえば団塊の世代(=私たちの世代)は、若い人たちの間では、「バブル世代」と呼ばれてい
ます。
日本の経済を破壊した、「悪玉」のような存在に考えられています。
(一方、私たちは、「日本の繁栄を築いたのは、私たち」という意識が強いのですが……。) 

 意識というのはそういうものかもしれません。
錯視画のようなものです。
同じ「絵」でも、見る人によって、まったく別の絵に見える。

 私が後期高齢者になるころには、孤独死、無縁死が当たり前になります。
すでに少し田舎のほうへ行くと、無住の寺がふえ、また住職がいても、慰霊碑なるものがふえ
ています。
無縁仏を、まとめて供養するためのものです。

 で、x日は、予定どおり、3時ごろおうかがいすればよろしいでしょうか。
それとも、もっと遅い方がよろしいでしょうか。
時刻を、先生のご都合に合わせて、ご指定くだされば、そのようにいたします。

どうか、お知らせください。
ご返事、ありがとうございました。

はやし浩司

●終わりに……

 ……で、こうして自分の原稿を読み返してみる。
結構、「旅行記」、もしくは、「私にとっては、旅とは何か」になっているから、興味深い。
そのときどきに考えたことを、書きつづる。
こんな旅行記もあっても、よいのでは……。

……ということで、今回の、伊勢志摩旅行記(?)は、これでおしまい。

 今日もがんばろう!

(はやし浩司 2012−03−28 はやし浩司 英虞湾 伊勢志摩 はやし浩司 合歓の郷 
ねむのさと はやし浩司 サンセット・クルージング 伊勢海老 教育 林 浩司 林浩司 
Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 浜松 幼児教室 はやし
浩司 ロメオ ジュリエット 息子が恋をするとき はやし浩司 珍説 日本人論 日本人は、な
ぜセカセカして見えるか はやし浩司 TK先生 あご湾 あごわん)
はやし浩司 2012−03−29記


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【美容整形という、背徳】(はやし浩司 2012−03−29夜記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

伊勢志摩→名古屋から帰ったのが、夕刻。
しばらくしてから夕食。
そのままコタツの中で、居眠り。
居眠りといっても、3時間。
寝過ぎた。

先ほどワイフは、先に床に入った。
現在時刻は午後11時。
「ぼくは、あとから寝るから……」と言い、そのまま書斎へ。
5月の講演のレジュメを、主催者の方から書き直すように言われている。
ついでに、中日ショッパー用の原稿も。
「専門的すぎてわかりにくい」とのこと。

書き直すのは、めんどうではない。
その気になれば、10分程度ですむ。
(ショッパーの記事の方は、全面的に書き改める。)
が、私のばあい、(その気)になるまでが、たいへん。
どうしても、後回しになってしまう。
若いころからの、私の悪いクセ。

「原稿は、いつも1回勝負!」と。
いつもそう決めている。
2回目を書くエネルギーがあったら、別のことを書きたい。
不完全でもよいではないか。
それがそのときの「私」なら、それも「私」。
私は「私」のままを書く。

消しゴムで消して直すなどという人生観は、私には、もとからない。
だから子どもたち(=生徒たち)にも、よくこう言う。
「まちがえたら、そのままにしておきなさい。
一本、線を引けばいい。
新しい答は、その下に書けばいい」と。

が、たまに、それまで書いた原稿を、何かの手違いで削除してしまうことがある。
コンピューターというのは、それがこわい。
一度、削除すると、跡形もなく、「虚」になってしまう。

そういうときは、つぎの2つの中から、1つを選ぶ。

(1)さらによい原稿を書く。
(2)あきらめて、別のことを書く。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●整形手術

 今日、こんなことがあった。
名古屋から、豊橋までは、名鉄。
豊橋から浜松までは、JRの在来線。
座席は通勤列車用に、両側、一列に並んでいる。
その電車の中でのこと。

 隣に、見た感じ、新婚旅行帰りの若い男女が座った。
おそろいの大きなバッグが、通路側に並べてあった。

 しばらくすると、私の左横にいた女性が、居眠りを始めた。
その向こうの男性は、そのときには、すでに熟睡モード。
左側の女性は、顔を男性のほうに傾けるようにしていた。
私の位置からは、女性の顔を下から見あげたような状態になる。
が、その顔を見て、ドキッとした。

 ほんの3〜4ミリだが、その女性は、目を開けたまま眠っていた。
そんなことができるのかと思い、数度、私は見直した。
最後は、まじまじと見た。

 見ると二重まぶたの溝が、先の方で一度途切れている。
かすかだが、端のところに手術痕も残っている。
その目の中で、眼球が、ゆっくりと左右に揺れていた。
私は、それを見て、ドキッとした。

 二重まぶたの手術で、目を大きくした。
それはわかる。
が、そのため眠ったとき、目が閉じなくなってしまった?
もしこんな状態が長くつづけば、角膜が乾燥し、角膜が傷つく。
そんなことは、素人の私にも、よくわかる。
だからふつう目は、常に涙を出し、角膜を潤す。
目がまばたくのも、そのため。
が、その目が、たとえ3〜4ミリとはいえ、開いたまま……。
だいじょうぶなのだろうか。
私は右隣に座っているワイフに小声で、こう言った。

私「ぼくのねえ……隣の女性ね、目を開けたまま眠っているよ」
ワ「……みたいね……整形手術で、上まぶたを引き上げたせいじゃないかしら」
私「目にはよくないよ……」
ワ「でも今じゃ、みんなしてるわよ」と。

●二重まぶた

 ネットで、二重まぶた手術の後遺症について、調べてみた。

Seesaaの「広告BLOG」には、つぎのような後遺症が列挙してあった。

『(1) 術後のハレがひどかった。 
 
(2) 目がチクチクして、違和感がする。 
 
(3) すぐに二重が取れてしまった。 
 
(4) 点止めなので、二重のラインの仕上がりが、カーテンのようにハシのほうが下がってしま
った。 

(5) 普段は気にならないが、まぶたをおさえると目がゴロゴる。 

(6) 術後、目が少し引きつったままになってしまった。 

(7) 二重のラインが不自然で、あまりきれいではない。 

(8) 再手術をしても、またすぐに二重が取れてしまった。 

(9) 目を閉じると、点状のくぼみが残っているので、手術を受けたのが他人にすぐわかる。 

(10) 二重のラインが途中でとぎれている。 

(11) 術後は、しばらくコンタクトレンズがはめられなかった。 

(12) 術後、まぶたにシコリができてしまった。 

(13) 手術後、気がかわってもとにもどそうとしたが、糸をそのままぬくことができず、もとにも
どせなかった。 

(14) 手術をする際、まぶたをひっくり返して麻酔の注射をされるので、とても痛く怖かった。 

(15) 眼科で診察をうけると、まぶたの裏側に糸が見えているので、眼科の先生に二重まぶた
の手術を受けたのが、バレてしまった』(以上、Seesaa Blogより)と。

 が、この中には、「目が閉じなくなってしまった」というのはない。

 そこでさらに検索を繰り返してみると、それはあった。

●目が閉じられない

 ある女性が、ある眼科医の相談コーナーのページに、それについて相談している。
それに対し、N医師(HPの管理者)は、つぎのように答えている。

『多分脂肪も取っているでしょうし、皮膚も余裕が無いということですと、修正は難しいでしょう
し、元の一重に戻す事はさらに無理だと思います。 
目を閉じれない位ですし、どうしてもということであれば植皮をして、皮膚を植え二重を狭くして
いくしか方法は無いでしょう』と。

 失敗と断言してよいかどうかは、わからない。
しかし二重まぶたの手術をして、目が閉じられなくなってしまった女性(男性も?)、結構、多い
ようだ。

 が、私が書きたいのは、このことではない。

●内面世界の積み重ね

 ありのままをさらけ出して生きるのは、むずかしい。
ありのままをさらけ出して生きるためには、その前に「私」がなければならない。
「私」がないまま、さらけ出したら、それは裸で街を歩くようなもの。
「衣服で飾れ」ということではない。
ここでいう「私」というのは、内面世界の積み重ねをいう。
その積み重ねが、心の衣服となり、その人を美しくする。
その積み重ねが、むずかしい。

 たとえば女性の美しさ。

 以前、アメリカのある空港で、1人の若い女性を見かけた。
白人だった。
年齢は25歳前後だったと思う。
その女性は、大きなノートパソコンに向かい、一心不乱にキーボードを叩いていた。
直接顔を見たわけではない。
が、体全体が、知的な緊張感に包まれていた。
それがその女性を、美しく輝かせていた。

 が、この日本では、「女性の美」が、ますます軽薄になっていくように感ずる。
最近では、つけまつげが流行している(?)。
中には1センチほどもある、長いつけまつげをしている女性もいる。
私には、それが、お化けというより、タヌキのようにしか見えない。
いや、タヌキだって、あんなアホなことはしない。

 が、女性がそうした化粧をするのは、それを「かわいい」と思う男性がいるからである。
つまりそういう女性が多いということは、男性もまた、それにふさわしい男性になりつつあること
を示す。

 美容整形であろうが、プチ整形であろうが、それをするのは本人の自由。
(以下、「整形」とする。)
しかしその一方で、内面世界の積み重ねを忘れたら、それこそ顔は、絵を描くための、ただの
キャンバスになってしまう。
が、私は、もう一歩踏み込んで、こんなことを考える。

 もしあなたの恋人なり、妻が、整形を繰り返していたとしたら……。
あなたは、それに耐えられるだろうか?
それでもあなたは、そういう相手を、自分の友人、もしくは妻として迎え入れることができるだろ
うか?

 顔だけではない。
胸も体も……。

 私の価値観を押しつけるつもりはない。
が、私だったら、とても耐えられない。

●ハイデッガー

 女性にかぎらず、その人の本当の美しさは、懸命に生きるその生き様の中から、生まれる。
見てくれの顔や姿ではない。
生き様。

 もっともそれを理解するためには、男性の側にも、それなりの内面世界の積み重ねがなけれ
ばならない。
知性、理性、道徳、哲学……、何でもよい。
そういったものを、一方で、磨いていく。
昔から、こう言う。
そう言っているのはこの私だが、「賢い人からは、愚かな人がよくわかる。が、愚かな人から
は、賢い人がわからない」と。
もう少しはっきり言えばこうだ。
「利口な人からは、バカな人がよくわかる。が、バカな人からは、利口な人がわからない」と。

 解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
つまり、整形だらけの女性を美しいと思う男性は、やはりそのレベルの男性ということ。

 さらに短絡的につぎのように言い切るのは、たいへん危険なことかもしれない。
しかしこういうことは言える。

 見てくれの顔や姿ばかりを気にし、内面世界の積み重ねを怠る人は、女性にかぎらず、男性
も、その程度の人間、ということ。
ハイデッカーが説いた『ただの人(Das Mann)』というのは、そういう人間をさす。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 2010年に、『ただの人』について
書いた原稿が見つかった。
話が脱線するが、許してほしい。

 なお、結論的に、冒頭にあげた女性について、こんな事実を付記しておく。

 ……やがて電車は浜松駅についた。
2人の男女は、たがいに起しあいながら、席を立とうとした。
と、そのとき、若い女性のほうの目を見ると、明らかに病的にまで目が充血していた。
とくに目の下あたりが、真っ赤だった。
仮に30分でも、目を開けたままにしていれば、そうなる。
あるいは私が見たときのように、常に眼球を動かしていないと、角膜が傷つく。

 その女性は、目を大きくしたいがため、整形手術を受けた。
しかし整形手術には、それがどんなものであれ、何らかの危険を伴う。
後遺症を伴うこともある。
目を開いたまま眠るというのは、どう考えても、ふつうではない。
5年や10年は、それでよいとしても、20年後、30年後に、何か大きな病気につながるかもし
れない。

 なお私が見た充血と、整形手術との因果関係についてはわからない。
が、もし関係があるとするなら、そういうことを医師はしっかりと説明をしてから、手術を施すべ
きではないのか。

 かなり強い疑問を覚えたので、ここに記録しておく。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●『ただの人』(ハイデッガー(2009年の終わりに書いた原稿)

++++++++++++++++++

つい先日、12月になったと思っていたら、
もう今月もおしまい。
つい先日、2009年になったと思っていたら、
もう今年もおしまい。
つい先日、21世紀(2001年)になったと思っていたら、
もう2010年。

こうして日々は、容赦なく過ぎていく・・・。
過去へ過去へと、失われていく・・・。
・・・と、だれしも考える。
・・・と、だれしも考えやすい。

が、そういう考え方は、あまりにも通俗的。
長い歴史の中で、人は、そのように考えるように、
なってしまった。
つまり「数字」と「人生」を重ね合わせるようになってしまった。
が、そう考えてはいけない。
つまり「過ぎていく」と考えてはいけない。
「失っていく」と考えてはいけない。
何も過ぎていかない。
何も失っていかない。

そこにあるのは、今という「現実」。
現実があるだけ。
数字に惑わされてはいけない。
2009年だろうが、2010年だろうが、
そんなことは、私たちには関係ない。
私たちは、今という「現実」を懸命に生きる。
それだけを考えて生きる。

つまりこういうばあい、「数字」というのは、あくまでも
便宜上のものでしかない。

それがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
人間以外に、年や年齢を気にして生きている鳥や動物が
いるだろうか。
年齢にしても、そうだ。
気にならないと言えば、ウソになる。
しかし年や年齢という「数字」など気にしてはいけない。
気にする必要もない。
私たちは、今の今も、そこにある「現実」に向かって、
まっしぐらに進んでいく。
その上で、こう考えればよい。

「ああ、もうすぐ2010年なのか」と。

(2009年12月28日記)

++++++++++++++++++++

●年齢

 一度できあがってしまった(常識)を打ち破るのは、容易なことではない。
その個人だけの問題ではない。
その地域全体の人が、同じように考えている。
そういうところでは、なおさら容易なことではない。

たとえばG県の田舎へ行くと、今でも年長風を吹かしている人は多い。
家父長風を吹かしている人も多い
たった数歳年上というだけで、威張っている。
それがおもしろいほど、極端な形で現れる。

 こうした意識の根底にあるのが、「数字」。
年齢という数字。
言うなれば、「金持ちほど偉い」という、金権教の信者と同じ。
本来意味のないものにしがみつきながら、意味があるものと思い込んでいる。
それが意味がないものと、気がつくこともない。
またそれを認めることは、自己否定につながる。
そういう生き方そのものが、その人の哲学になっている。
だからよけいに、しがみつく。

●年齢という数字

 何歳であっても、私は私。
あなたはあなた。
今年が何年であっても、今年は今年。
今は今。
大切なのは、今、何歳かということではなく、今まで生きてきた蓄積が、私やあなたの中に、ど
れだけあるかどうかということ。
それがあればよし。
が、それがないなら、あなたが何歳であっても、あなたは、「ただの人」(ハイデッガー)。
数字という年齢をとることだけなら、だれにだってできる。
つまり、繰り返しになるが、「数字」には、意味がない。
まったく意味がない。
まず、私たちは、それを知る。
しっかりと肝に刻み込む。

●幻想

 ・・・こう書くと、「老人の強がり」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分がこの年齢になってみて気がついたことがある。
老人ほど、人生の経験者」というのは、ウソ。
「人格者」というのは、さらにウソ。
まさに幻想。

地位や肩書きなどというのは、その人を飾るカラスの羽のようなもの。
イソップ物語に出てくる、あの話である。
一羽のカラスが、自分を美しく見せようと、自分の体を、いろいろな鳥の羽で飾ろうとする。
それと同じ。
自分では美しくなったつもりでいるかもしれないが、まわりの人たちは、それを見て、「バカ」と
思う。
笑う。

 老人になればなるほど、愚劣になっていく人は、いくらでもいる。
またそういう人のほうが、多い。
だから私は、あえて言う。
「年齢」という「数字」には、意味はない、と。

●中身

 大切なのは、今という「現実」を、どう生きるているかということ。
今という「現実」の中で、自分がすべきことを、しっかりとしているかどうかということ。
そのために、今という「現実」を、しっかりと見据えているかどうかということ。
それには、若いも老いもない。
いくら若くても、死んだも同然。
そんな人は、いくらでもいる。
いくら年を取っていても、前向きに生きている人は、いくらでもいる。
大切なのは、中身。
中身で決まる。
その中身の追求こそが、「生きる」ということになる。

 ・・・とは言いつつ、「数字」はたしかに節目にはなる。
そのつど今の自分を、反省することはできる。
もし年数という「数字」、年齢という「数字」がなければ、生活に対する緊張感も半減する。
「数字」があるから、そこから緊張感が生まれてくる。
(もちろん何ら緊張感をもたないで生きている人も、多いが・・・。)
言うなれば、ウォーキング・マシンについているタイマーのようなもの。
タイマーがあるから、「がんばろう」という気持ちがわいてくる。
「2010年も、がんばるぞ!」と。

●今という「現実」

 ともあれ、節目としての2009年は、もうすぐ終わる。
で、振り返ってみれば、あっという間に終わった。
・・・というより、「数字」がどうであれ、私は今までどおり、前に向かって懸命に生きていく。
今という「現実」は、(今まで生きてきたこと)の結果であり、同時に、(これから生きる人生)の
出発点でもある。

生物学的に言うなら、私たちは常に死に、常に生き返る。
だったら今そこにある「現実」に向かって、まっすぐに生きていく。
「過去」とか「未来」とかいう言葉に、惑わされてはいけない。
過去など、どこにも、ない。
未来など、さらにどこにも、ない。

 だから・・・。
今、できることは、今、する。
今、すべきことは、今、する。
懸命にする。

【補記】

 「数字」にこだわる人は多い。

先に書いたように、たった数歳年上というだけで、年長風を吹かしたりする。
このタイプの人は、当然のことながら、年号や年数にこだわる。
たとえばある宗教団体では、入信年月日によって、信者の上下関係が決まるという。
年齢ではない。
信仰していた年数で決まる。
だから、50歳、60歳の人が、30歳、40歳の人に、頭をさげたりする。
「信心歴が長ければ長いほど、その人は、上」というわけである。

 バカげた考え方だが、信仰の世界に入ってしまうと、それがわからない。
同じように、年長風を吹かす人もそうだ。
言うなれば、『年齢教』というカルトの信者。
「年上」というだけで、威張っている。
「年下」というだけで、「下」にみる。
偉そうに説教をしたりする。
それがおもしろいほど、極端なので、思わず笑ってしまう。
 
 このタイプの人は、当然のことながら、「長生きすればするほど、人生の勝利者」というふうに
考える。
「数字」が、価値判断の基準となる。
だから幸福感も、「数字」による。
しかも相対的。
隣の人よりも、金持ちであれば、幸福。
隣の人よりも、貧乏であれば、不幸、と。
ふつうはケチで、小銭にうるさい。
そういう点では、一貫性(?)がある。

が、誤解してはいけない。 
長生きすることが無駄というのではない。
お金を稼ぐことが無駄というのではない。
しかしどちらであるにせよ、「数字」に毒されると、「人生」そのものを無駄にする。
それに気がつけば、まだよい。
ふつうはそれにすら気づかないまま、無駄にする。
そういう人は、どこまでもあわれで、かわいそうな人ということになる。
ハイデッガーの説いた、「ただの人」というのは、そういう人をいう。

+++++++++++++

「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎの原稿は2008年4月に
書いたもの。

+++++++++++++

【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a "man", so-called "das Mann". But 
nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do toward 
the of the lives. Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

 若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

 20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの人は退
職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

 もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

 さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

 が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

 よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳をとれ
ば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

 その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

 が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

 そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて行
く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなったこと
すらわからない。

 先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったときの
こと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

 このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

 この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

 老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

 この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつなぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

 つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

 統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

 程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の次
元がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

 「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれば、み
なに忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

 こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほど、感
動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

 しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

 さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

 肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命をたどるこ
とになる。

 繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」
と呼んだ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ハイデッガー はやし浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性 DAS 
MANN)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●カラス

 話を戻す。

 カラスはカラス。
カラスがいくらクジャクの羽をつけたところで、クジャクにはなれない。
だったら、カラスはカラスとして生きればよい。
カラスのもつ「黒」は、それ自体、美しい。
その美しさを否定し、クジャクの羽をつける。
それは即、自分の哲学の敗北を意味する。

 が、美しくなりたい(?)という若い女性を責めても、意味はない。
かわいそう。
酷!

 大切なことは、我々人生の経験組が、別の美的価値観を示してやること。
それもしないで、一方的に、若い人たちに向かって、「無駄なことをしている」と言ってはいけな
い。
それはたとえて言うなら、二階屋根に登った人から、ハシゴをはずすようなもの。

 が、その力は、あまりにも弱い。
たとえばテレビの影響。
連日連夜、そのタイプの女性や、それを取り巻く男性が、テレビに出てくる。
さらに今では、整形したことを隠すタレントは、まずいない。
堂々と、「こことここを整形しました」などと言ったりする。

 ものを考える力が乏しい、さらに若い人たちは、そういう人たちの影響をモロに受けてしまう。

 もちろん、みながみな、そうというわけではない。
同じ電車の中には、少数派だが、見るからに堅実そうな若い女性も、乗り合わせていた。
そういう女性を守るために、私たち老人組は、その(柱)にならなければならない。
ここに書いた原稿は、そのためのものと考えてほしい。

●終わりに……

 ただ誤解しないでほしい。
私は顔を整形することが、まちがっていると書いているのではない。
(「正しいこと」とは、絶対に思わないが……。)

しかし「整形」という行為の中に、その人の人生観が凝縮されているように思う。
見栄、体裁、メンツ、世間体を気にして生きる、そういう人生観である。
しかしこういう生き様ほど、見苦しいものは、ない。
へたをすれば、人生そのものを棒に振ることにもなりかねない。
その第一歩としての整形であるなら、これほど不幸な第一歩は、ない。

 私たちは、いつも、「私は私」と、生きる。
そういう生き様を貫く。
そこに生きる意味がある。
けっして、他人の目の中で生きてはいけない。

 ……今朝は、かなり過激な意見を書いてしまった。
このエッセーを読んで、不愉快に思う人も多いだろう。
が、それはそれとして、つまり美容整形のことは忘れ、では、人間の美しさとは何か。
この原稿をたたき台にして、それをもう一度、考えなおしてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 美容整形 プチ整形 はやし浩
司 二重まぶた 目の閉じない女性 人間の美しさ ハイデガー ハイデッガー ただの人  
das Mann Das Mann)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司




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●講演の帰りに、翠紅苑に一泊(村松秀太郎画伯に会う)
  はやし浩司 2012−03−14 寸又峡温泉にて

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日は、寸又峡(すまたきょう)温泉に一泊。
S町での講演を午前中に終えたあと、そのあと少し遠回りをすることにした。

今、その電車の中。
金谷(かなや)で下車。
金谷から。大井川鉄道に乗り換え、千頭(せんず)まで。
そこからバスで、寸又峡まで。
宿は、翠紅苑(すいこうえん)。
寸又峡温泉の中では、ダントツ、イチ押しの旅館。
寸又峡温泉では、いつもこの宿と、決めている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●金谷から、新金谷へ

 金谷から千頭行に乗ろうとしたが、先の電車がちょうど出た後。
1時間後という。
1時間!
「それじゃあ、歩こう」ということで、JR金谷駅から、新金谷駅まで歩いた。
距離にして、2キロ弱。
空は快晴。
心地よい春の風。
絶好の散歩日和(びより)。

 途中のショピングセンターで、飲み物を買う。

●新金谷駅

 「新」という名前はついているが、20年前と同じ。
3人の息子たちを連れて、ここでSLに乗った。
30年前と同じ。
そのころ、このあたりの時計は止まった。
昔のまま。

驚いたのは、新金谷駅から千頭まで、料金が1720円(1名分、片道)だったこと。
1時間ちょっとの距離で、この料金。

 日本の鉄道料金は、高い!
「往復で?」と聞いたら、ワイフがチケットを見ながら、「片道よ」と。
「フ〜〜ン」と言っただけで、つぎの言葉が出てこなかった。

 ……がらんとした駅構内。
少し離れたところで女子高校生が2人、大声で話している。
その声が、ストレートに、ガラス窓を通して聞こえてくる。
あとは、何かのモーターの音……。
ブ〜〜ン……。

 のんびりとした昼下がり。
白い陽光が、まぶしく光る。

……ワイフは先ほどから、バッグの中をゴソゴソと整理している。

●二次利用

 パソコン、デジタルカメラなど。
やがて買い換えていくと、古い機種がそのまま残る。
そういうのを見ながら、どうして私たちは二次使用を考えないのか、と。
いつも、そんなことを考える。

「二次使用」というのは、もしこういった製品に、二次使用機能があれば、再び実用品として、
生き返らせることができる。
たとえばデジタルカメラ。

 デジタルカメラに、インターバル撮影機能、動体検知機能、アラーム機能などがあれば、カメ
ラとして使用しなくなったあとも、防犯装置として利用できる。
目覚まし時計でも、よい。
ほかのカメラへの映像転送機能があれば、監視カメラとしても利用できる。
パソコンにしても、そうだ。
同じような機能があれば、古くなり、使わなくなったあとでも、何かの仕事をさせることができ
る。

 このことは、たとえば空き缶やビンについても、言える。
たとえばコップ型にすれば、飲んだあと、コップとして、使用できる。
筆立てや、もの入れなどに利用するという方法もある。
(考え方が、少しセコイかな?)

 ともあれ私の家にさえ、デジタルカメラが、ゴロゴロしている。
ノートパソコンも、同じ数ほど、ゴロゴロしている。

 新金谷の駅の構内で、ジュースを飲んだ。
その空き瓶をどうしようかと迷っていたとき、ふと、そんなことを考えた。

●寸又峡温泉

 寸又峡温泉へは、何度か来た。
が、温泉に泊まるようになったのは、50歳を過ぎてから。
それまでは日帰り。

 ……たった今、新金谷駅で、電車に乗った。
塗装は、はげ、表面はボコボコ。
かなりレトロ電車。

窓ガラスが、どれも薄茶色に汚れている。
そのまま外の景色が、セピアカラーに。
左右に揺れるたびに、ギシギシ、キュッキュツと。

 金谷の駅で買った雑誌を開く。
「週刊アスキー」誌。

●WINDOW8

 近くWINDOW8が発売になる。
今、そのプロトタイプが、無料で試用できる。
その記事が、「週刊アスキー」に載っていた。

 ……この世界だけは、どんどんと変わっていく。
で、今度は、WINDOW8。
私は新しいOSが発売になるたびに、パソコンを買い替えてきた。
が、すぐ買い替えるわけではない。
発売後、数か月は、様子を見る。
評判を聞いてから、買い替える。

●撮影

 電車が動き出してからまもなく、窓の外の景色をビデオカメラに収め始めた。
広い川は、言わずと知れた、大井川。
「♪越すに越されぬ大井川」と歌われた、大井川。

 しばしその美しさに、目を奪われる。

●眠い……

 講演のあとは、いつもそうだが、食欲ゼロ。
どっと睡魔が襲ってくる。
今が、そう。
写真だけ撮ることにし、パソコンを一度、閉じることにする。

……眠い……。

……「着きましたよ」と声をかけられ、目を覚ます。
列車は、千頭駅に着いていた。
列車の中で居眠りし、起こされたのは、この2〜30年で、はじめてのこと。
あわてて荷物をつかみ、列車をおりる。

●翠紅苑

 この旅館は、いつも私たちを裏切らない。
シーズンオフということで、客はまばらだった。
旅館には悪いが、私たちには、ありがたい。

 部屋へ入ると、すぐ浴衣に着替えた。
ワイフが用意してくれた、茶を飲んだ。

 窓の外は、見慣れた山間(やまあい)の景色。
午後4時というのに、すっかり夕暮れ。
全体に薄青ぽく見えるのは、標高が高いせいか。
少し離れたところに小型のトラックが止まり、作業服を着た男たちが何人か、仕事をしていた。
風もない。

 ……ふと、3日前に植えた野菜の苗のことが気になった。
ここ数日、浜松地方は強い風に見舞われた。
今朝見たら、苗の何割かが、土をかぶり、横に倒れていた。

●ないものねだり

ワイフとこんな話をした。
「ないものをねだっても、しかたないね」と。

そこにあるものに、自分の価値を見出す。
幸福というのは、そういうもの。

 健康、生き甲斐、仕事、能力、キャリア、過去、安定感、名誉、地位、安心感、住環境、友
人、家族、経済的豊かさ、など。
満点の人はいない。
どれかがあって、どれかが欠ける。
大切なことは、自分を他人と比較しないこと。
「私は私」と。
「人は人」と。
つまり、その割り切りの中に、幸福が潜んでいる。

●老人組

 老人組に入って、いろいろなことがわかった。
(「老人」の入り口に立っている、私のような人間を、「老人組」という。) 

先のない閉塞感の中で、生きることのすばらしさと、空しさ。
その2つが、同時に2色の煙のようになって、心をふさぐ。

 ものが見える。
音が聞こえる。
ときどきそれが不思議でならない。

 その一方で、「今までの人生は何だったのか」と。
たびたび立ち止まっては、ほこりのようにたまった過去を振り払う。

 不安と心配。
小さな希望に自分を託し、明日にじぶんをつなげる。
あとは精一杯、虚勢を張り、自分をごまかす。
楽しいふりをする。
毎日が、その繰り返し。

 それをワイフを話したら、先の(ないものねだり)の話になった。
ワイフがその言葉を使った。
「ないものを、ねだっても、しかたないのよ」と。

 人をうらやむ(=envy)というのは、それ自体が、私たちを不幸にする。

●世界一周

 このところワイフとこんな相談を、よく交わす。
「仕事をどうしようか?」と。

 私は、死ぬまで子どもたち(生徒の幼児たち)との接点を保ちたい。
またそれがないと、「私」の土台が崩れる。
ものが書けなくなる。

 が、ワイフは、こう言う。
「外国を回りたい」と。
客船で、世界を一周する旅もあるそうだ。
あるいは、世界のあちこちを、3か月単位で移動するという方法もある。
花火大会にたとえるなら、最後に打ち上げられるスターマインのようなもの。
ドドド、バババ……と咲いて、そのまま散る。

 私の心は、揺れ動く。

●風呂

 ワイフが入浴支度を始めた。
「温泉に入ってこようか?」と。

 先ほどバスの中で、運転手が、こう言った。
「このあたりは、天然の硫黄泉です」と。
肌がスベスベになって、よいそうだ。

 話はぐんと恐ろしくなるが、あのラジウム温泉というのは、本当に安全なのか。
WHOは、「危険だからやめろ」という勧告を、出している。
またアメリカでは、ラジウムが検出される地域では、住宅の建設許可はおりないそうだ。
はっきりと確かめてはいないが、どこかの記事にそう書いてあった。

 一度、しっかりと確かめてみる。
今日は、どちらであるにせよ、つまり危険であるかないかということは忘れ、のんびりと湯につ
かりたい。

●ミステイク

 今日は、2つのミステイクをした。
ひとつは、パソコンのコードを忘れたこと。
もうひとつは、老眼鏡を忘れたこと。
朝、あわてて出かけたので、それで忘れた。

 いくらTOSHIBAのR631でも、一晩はもたない。
現在、バッテーリーの残は、46%(3時間45分)と表示された。

 これから3時間、間断なくパソコンを叩いてやる。

●うらやむ(=envy)

 (ねたむ)(うらやむ)というのは、聖書でも、きびしく戒めている。
常識。
先にあげた幸福の中で、何が大切かといって、「健康」ほど、大切なものはない。
体のどこかがおかしくなると、とたんに健康な人が、ねたましくなる。
うらやましく思うこともある。
が、そのときは、そのとき。
釈迦もこう言っている(法句経)。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 私たちは日々に作り上げ、日々に失っていく。
重要なことは、失うものを嘆かない。
そこにあるものの中から、幸福を見出していく。

 では、(若さ)については、どうか。

●若い女性

 数日前、テレビを見ていたら、こんな女性がいた。
すでに2度ほど、離婚しているという。
その女性がこう言った。

「私、身長が168センチもあるでしょ。だから結婚相手の第一条件は、いっしょに歩いていて、
かっこうのいい男です」と。

 その女性は、何とかというハーフの男性と結婚し、世間を騒がせた。
が、離婚。
もう一度結婚したが、子どもが1人でき、そのあとまた離婚。

 その女性を見ながら、「ぼくなら失格だな」と思った。
身長が足りない!
と、同時に、「そういう女性も多いのかなあ」と。

 が、いくら神様が私を、青年時代に戻してくれると言っても、そういう女性と結婚するような男
性だけにはなりたくない。

若い人たちから見れば、私たち老人組は、みな馬鹿に見えるかもしれない。
しかし私たち老人組から見れば、そういう若い人たちが、みな馬鹿に見える(失礼!)。
あのバーナードショーがそう書き残している。

 (若さ)が、馬鹿の代名詞であってはいけない。
そういう(若さ)だったら、私は、ねたましいとも、うらやましいとも思わない。

●美しい人

 今朝早く、浜松の駅前で、美しい女性を見た。
「どこの国の人かしら?」とワイフ。
振り返って見ると、そこで目が合ってしまった。
とっさに、こう言った。

「My wife says, you are a beauty!」(ワイフが、あなたのことを美しい人だと言っているよ)と。
すかさずその女性は、「Thank you」と答えた。
一瞬のできごとだったが、目がすてきだった。

 国を聞くと、「I'm from Canada(カナダ)」と答えた。

 見た目の美しさでは、日本人は、欧米人にかなわない。
そんな余韻もまだ残っているとき、電車の中で、前の席に若い女性が座った。
日本人の女性だった。
が、どこもかしこも、不自然。
プチ整形というよりは、顔全体を作り直してしまったかのような女性だった。
整形が悪いというのではない。
整形が必要な人も多い。
しかしいくらがんばっても、私たちの顔を、欧米人のような顔にすることはできない。

 どうして日本人は、欧米人の顔に近づけたがるのだろうか。
欧米人が、日本人のような顔に整形したという話は、聞いたことがない。
つまり整形そのものが、日本人であることの敗北を認めるようなもの。

 若い女性よ、中身を磨け!
知性を磨け!
理性を磨け!

 私とワイフは、その女性をまじまじと見てしまった。
見とれて、そうしたのではない。
どことどこを、どう整形したか、それを知りたくて、まじまじと見てしまった。
私たちの視線を感じたのか、その女性自身は、ツンとすましていた。
どこか得意げな雰囲気だった。

●外見

 外見を飾ることの虚しさは、50歳を過ぎないとわからないのでは?
が、この意見に対して、ワイフは、こう言った。
「若い人でも、わかる人は、わかるわよ。反対に、年をとっても、わからない人は、わからない
わよ」と。

 見栄、メンツ、世間体……。
そればかり気にしている人は、多い。
「だから、それがどうしたの?」という部分がないまま、生きている。

 が、私はそういう意味で、そう言ったのではない。
見栄、メンツ、世間体ばかり気にしている人がいる。
そういう人に、その虚しさを教えてもわからない。
が、50歳を過ぎたら、教えたら、わかるようになる、と。

 先の電車の中で見た女性にしても、そうだ。
その女性は、まさに命がけで、美しくなりたいと思っている。
その気持ちは、よくわかる。
が、今、その女性に、そうすることの虚しさを話しても、理解できないだろう。
ひょっとしたら、今の人生をバラ色に感じているかもしれない。

●見栄

 が、こんな女性もいる。
80歳を過ぎても、見栄、メンツ、世間体を気にしている女性だ。
60歳近い娘と同居している。
その女性の老齢年金と、娘の年金だけで、生活している。
家計など、あってないようなもの。
しかしそんな女性でも、美容院では、1万円のチップを渡しているという。

 さらにスーパーなどで、ものを買うときも、わざわざ分厚いサイフを見せびらかしているとい
う。
両端だけを1万円札にし、間に1000円札をはさんでいる。

 見栄、メンツ、世間体を気にする人は、そこまで気をつかう。
そういう女性と、先に書いた電車の中で見た女性は、どこもちがわない。
少なくとも、私には、同じに見える。

●翠紅苑(すいこうえん)

 時刻は、午後5時48分。
日が長くなった。
山間の景色は、ここへ来たときのまま。
こういうところでは、夕方が長い。

 食事は6時でも、6時半でもよいとのこと。
温泉へは、一晩中、入れるという。
ただひとつ残念なのは、温泉までの距離が長いということ。
一度、長い通路を歩くのだが、途中、外気にさらされる。
真冬は、つらい。

●村松秀太郎画伯(むらまつ・ひでたろう・がはく)

 夕食のとき、村松秀太郎画伯と知りあった。
話しかけたら、日本画の大家、村松秀太郎画伯とわかった。
しばらく話したあと、私はこう聞いた。

「失礼ですが、あなたはたいへんな方とお見受けいたしますが、あなたはいったい、どういう方
ですか」と。

村松秀太郎画伯は、笑いながら、こう言った。
「日本画を描いている、村松です」と。
それでその人物が、村松秀太郎画伯とわかった。

 その後、席を画伯の横に移し、いっしょに食事をさせてもらった。
ふつうなら、近くにも寄れない画伯である。

 その村松秀太郎画伯、翠紅苑に連泊し、近くの山の中で絵を描いているということだった。
その翠紅苑のロビーにも、村松秀太郎画伯の日本画が飾ってある。
龍の絵である。

 その前に、温泉でもいっしょだった。
その瞬間、「この人は、ただ者ではない」と直感した。
その直感は、ズバリ、的中した。

 村松秀太郎画伯が話している様子は、動画に収めさせてもらった。
YOUTUBEにUPしておく。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 村松秀太郎 画伯 はやし浩司 翠紅苑 寸又峡温泉)

●ただ者ではない

 ここで私は、こう書いた。
「ただ者ではない」と。
雰囲気そのものが、ちがう。
一見、穏やかそうな人だが、その奥にある重みまでは、隠せない。

最初は、千葉県の話から始まった。
そのあと静岡県の話になった。
村松秀太郎画伯は、静岡県の清水市生まれ、現在は、千葉県の市川市に住んでいるという。
放射能汚染から避難し、静岡県にやってきているということだった。

その千葉県は、今、たいへんな状況という。
若い母親など、みな、ノイローゼになってしまっている、とも。

 ただ者ではない人には、重厚な気配を感ずる。
これも年の功か。
反対に、いくら身を飾っても、ただ者はただ者。
それもよくわかるようになった。

●頭痛

 部屋に戻ったら、午後8時を過ぎていた。
軽い頭痛は、列車の中で、起こされてから、ずっとつづいている。
温泉に入って、少しひどくなった。
睡眠不足と疲れ。

 こういうときは水分を多量に補給するのがよい。
食事中も、水をたくさん飲んだ。
今も立てつづけに飲んでいる。
私流の、治療法。
一時的に頭痛はひどくなるが、そのあと、まさに(水が引くように)頭痛が消える。
(頭痛といっても、いろいろな種類のものがあるが……。
詳しくは、はやし浩司著「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)をどうぞ!)

●サッカー

 ワイフがサッカーの試合を見たいと言った。
日本対バーレーン。
日本が引き分けか、勝てば、のロンドン五輪、出場権を手にいれる。
大事な試合。

 テレビにスイッチを入れる。
前半38分。
0−0。

 「ぼくの命は、あと2時間しかない」と私。
パソコンのバッテリーは、あと2時間分程度しかない。
いや、今調べたら、1時間15分。
こうなったら、時間との勝負。
1時間で、どこまで書けるか。

●「私」論

 書き忘れたが、翠紅苑の料理は、いつ来ても、すばらしい。
満足度、120点。
が、今夜は、ほどほどのところで箸を置いた。
先ほど脱衣所で体重を測ったら、65キロだった。
できれば、この状態を保ちたい。

 要するに、ダイエットというのは、脳の奥深くに潜む本能との闘い。
食欲本能という本能との闘い。
私であって、私でない「私」との闘い。
ほとんどの人は、(私もそうだが)、その本能に振り回されてしまう。
自分を見失ってしまう。

 逆に言うと、本当の私を取り戻すためには、一度私を、その「私」から切り離す必要がある。
食事をしながらも、自分にこう問いかける。
「食べなければ損(そん)なのか。それとも食べれば損(そこ)ねるのか」と。
その問いかけを繰り返す。
その先に、本当の私がある。

 ダイエットを、ただのダイエットと考えてはいけない。

●3月15日

 昨夜は、そのまま就寝。
2回目の温泉に入り、そこでダウン。

(この間、約9時間。)

 今、千頭の駅の構内で、列車を待っている。
9時26分発の、各駅停車。
今、時刻は、9時57分。
それまでパソコンのバッテリーがもつかどうか?

 何度も、警告表示が現れる。

 やや冷えた空気が、椅子の下から体に伝わる。
しかし寒いというほどではない。
もう春は、そこまで来ている。

 私たち夫婦だけの構内。
電車に乗るのも、2人だけ?

 ……ということで、今回の寸又峡温泉の旅は、おしまい。
あとは、バッテリーが消えるまで、こうして文を打ちつづける。

 ……ワイフが、今、暖かい紅茶を横に置いてくれた。
3月15日、木曜日。
昼までに帰り、あれこれ仕事の用意をしたあと、街へ出る。
そう言えば、近く『スターウォーズ』が、公開される。
楽しみ。
今度の『スターウォーズ』は、題1作の、リメイク版。
3D。

 それから今週は……。
こういうBLOGでは、予定は書かないほうがよいそうだ。

 そう言えば、昨夜、関東地方で地震があったとか。
気がつかなかった。
またロンドン五輪のサッカー予選では、日本が2−0で、バーレーンを下している。

 ……翠紅苑では、村松秀太郎画伯に直接会うことができた。
人格者だった。
印象に強く残った。
これから画伯の日本画を見るたびに、昨夜のことを思い出すだろう。
すばらしい思い出になった。
横山大観……、平山画伯……、それにつづく、現代日本画の巨匠。

 本物の人は、どこかちがう。
雰囲気がちがう。
会った瞬間に、それがわかる。
そういう自分が、つまり多少なりとも、人を見る目ができた自分が、少しだけだが、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 翠紅苑 寸又峡温泉 村松秀太
郎画伯 講演の帰りに はやし浩司 すいこうえん 翆紅苑 翆紅園)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【本物の人vsニセモノの人】byはやし浩司 2012−03−16

●本物の人

 一言、二言、言葉を交わしただけで、それがわかる。
本物の人というのは、そういう人。
知性や理性が、バチバチと光る。
先日会った、村松秀太郎画伯も、そうだった。
思わず私は、こう聞いてしまった。
「あなたは、いったい、何者ですか」と。

 ずいぶんと乱暴な聞き方をしてしまった。
が、村松秀太郎画伯は、やさしそうに笑いながら、こう言った。
「日本画を書いていますよ」と。

●本物と偽物

 一方、ニセモノの人は、ニセモノと、これまたよくわかる(失礼!)。
同じく、その温泉で、別の男性に出会った。
名古屋市から来ているという人だった。
が、その男性のばあい、同じく一言、二言、言葉を交わしただけで、その男性の「底」が見えて
しまった。

 こうした(ちがい)は、どうして生まれるのか。
見た目には同じでも、中身がちがう。
その(中身)が、そのまま外に出てくる。
 
 が、誤解してはいけない。
中身のある人ほど、一見、ヘラヘラとした印象を受ける。
けっして、いかめしい顔つきをしているのではない。
やさしそうな、それこそ、どこにでもいるような人に見える。
が、一言、二言、言葉を交わしただけで、火花を飛び散る。
バチバチというか、ビリビリというか……。

 村松秀太郎画伯にしても、最初から、そういう人と知っていたわけではない。
が、言葉を交わした瞬間、「この人は、ただ者ではない」とわかった。

●精神の完成度

 絶え間ない心の鍛錬こそが、その人を光らせる。
あのパスカルも、そう書き残している。
釈迦も、「精進」という言葉を使った。
私は今まで、こう書いてきた。

 「精神の鍛錬法は、肉体の鍛錬法と似ている。
究極の鍛錬法というのはない。
1日でもサボったら、その日から健康は下り坂に向かう。
同じように精神も、1日でもサボったら、その日から精神は下り坂に向かう」と。

 が、肉体の鍛錬については、外から見ても、わかりやすい。
それなりに健康的で、たくましい体つきをしている。
が、精神の鍛錬については、外から見ただけでは、わからない。
ワイフは、「オーラ」という言葉を使う。
「それなりの人には、オーラが出ている」と。
しかし私は、オーラなるものを、信じない。

(1973、4年ごろ、ロシアのある科学者が、京都大学へやってきた。
そこでオーラの実験をしてみせた。
薄暗い部屋で、10人ほどの研究者が集まっていた。
当時は、「キルリアン」と呼んでいた。
オーラとキルリアンとは、同じものなのか。
あとで詳しく調べてみるが、かなりインチキ臭いものだった。
以来、私は、オーラなるものを信じない。
またそんなものがあるはずもない。)

 やはり、言葉である。
言葉のやり取りを通して、その人の精神の完成度を知ることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

真・善・美の追求。
学者は真を追求する。
宗教家は善を追求する。
芸術家は美を追求する。

私はものを書くことによって、何を追求しているのか。
ただの道楽なのか。
私はものを書きながら、いつも「私」を追求する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。
スパルタの七賢人の一人のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。
自分を知ることが、哲学の究極の目的というわけだ。
ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623〜62)も、『パンセ』の中
で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。
別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。
この言葉は、釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。
精進というのは、「一心に仏道に修行すること。
ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。
釈迦は「死ぬまで精進しろ。それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残してい
る。

となると、答は出たようなものか。
つまり「私」というのは、その「考える部分」といことになる。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。
そんなある日、一人の事業家がやってきて、あなたの目の前に大金を積んで、こう言ったとす
る。
「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をはかってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。
「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。
そこであなたという政治家が、人間であるためには、考えなければならない。
考えて、脳のOSの外に出なくてはいけない。
そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」と言って、そのお金をつ
き返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こる。
そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことになる。
しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」があることにな
る。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。
考えるといっても、あまりにも漠然(ばくぜん)としている。
つかみどころがない。
考えというのは、方法をまちがえると、ループ状態に入ってしまう。
同じことを繰り返し考えたりする。
いくら考えても、同じことを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じ
である。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。
そのヒントとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』である。
彼は、こう書いている。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたことがない」
と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。
そのために「書く」ということか。
私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。
もちろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかし
くない。
しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができ
る。
書くことイコール、考えることと言ってもよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ついでに、「キルリアン」について書いた原稿をさがしてみる。
なおキルリアンについて、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『キルリアン写真(キルリアンしゃしん、Kirlian photography)とは、対象物に高周波・高電圧を
掛けて発生させたコロナ放電による発光現象を撮影した写真のこと。 
撮影時には、周波数 3 kHz 前後・電圧 30 kV 以上が用いられる。 
対象物から発散する水蒸気の電離・発光現象を撮影するため、撮影対象物は水分を帯びた
物体であれば生体・非生体を問わない(握り締めることにより、僅かな汗を帯びたコインでも像
を得られる)。 
また、真空中では水蒸気が速やかに拡散するため、像を得ることが出来ない』と。

 私が何人かの科学者たちと、京都大学で見た実験は、ここに書いたようなものだった。
半信半疑で、「ヘエ〜〜?」というような雰囲気で見ていたので、記憶の内容は、きわめてあい
まいである。
現在「オーラの写真」として公表されているものは、この「キルリアン現象」によるものと考えて
よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「スピリチュアル」というインチキ(Spiritual Boom in Japan)

More and more people believe in Spirits, a kind of uncertain superstition in Japan. They 
believe the former existence or life after death. But where are they? Does it really exist? 
Books written by E-bara, a founder of this spiritual boom in Japan has succeeded in having 
sold more than 7 million copies of his books. I would rather say here that it is very 
dangerous to believe in such and such the existence of Spirits, since it is closely connected 
with Cult or Sect, a very radical religions. We have to be more careful about them.

かつての「霊」ブームが、「スピリチュアル」ブームに変わった。
インチキもインチキ、どうしてそういったインチキが、こうまで堂々と、この世の中で、大手を振
って歩くのか。歩くことができるのか。

「前世」だの、「オーラ」※だの、はては、「守護霊」だのと、科学性はゼロ。
ただの迷信。「守護霊」という言葉にしても、ほんの30〜40年前に、この日本に現れた。
何かのオカルト・ブームがきっかけだった。

雑誌などを読むと、「スピリチュアルと、宗教とは、ちがう」と説く人は多い。
「スピリチュアルは、宗教ではない」「だから危険性はない」と。

当然ではないか。

宗教には、まだ哲学がある。スピリチュアルには、それがない。
ないから、迷信。ただ、それだけに、ヘタなカルトより、タチが悪い。

思考性を他人に預けてしまうことの恐ろしさを、なたは、知っているか?
他人ならまだしも、わけのわからないものに預けてしまう恐ろしさを、あなたは、知っている
か?

「あなたはキツネの生まれ変わり」だの、「ヘビの生まれ変わり」だの、はては、「あなたの先祖
は、人を殺している。そのタタリ」だのと、とんでもないことを言われ、それを真に受けてしまう。

そのおかしさ、バカらしさ、まず、それに私たちは、気づくべきではないか。

……と書いても、私がひとりで叫んでも、意味はない。大河の中にクイを一本打つ程度の効果
しかない。

スピリチュアル・ブームの火付け役となった、E原氏の本は、総発行部数で、700万部を超え
ているという(「日本の論点」2008)。
Aテレビ系列の彼の番組では、毎回、2けた台の視聴率を稼いでいるという。

700万部だぞ! 私のBLOGやHPへのアクセス件数は、累計で、先月、月間ベースで、やっ
と10万件を超えた。
が、それでも、70分の1! テレビの視聴率と比べたら、かないっこない。

単純に計算しても、10%の視聴率としても、それだけで、1200万人。
そういう人たちが、インチキをインチキとも気がつかず、テレビという巨大マスメディアに、言い
ように操られている。
いったい、日本の良識は、どこへ消えた!

だから私は、あえて叫んでやる! 

こんなインチキを野放しにしておいたら、やがて日本は再び、たいへんなことになるぞ!

スピリチュアル・ブームくらいなら、まだよい。
思考力を失った人間がどうなるか? 
あのO真理教によるサリン事件を思い出してみればよい。
あるいは、現在のK国でもよい。さらには戦前の日本でもよい。

共通してそこにいるのは、思考力を失った人間たちだ。
さらに言えば、思考力を失った、若者たちだ。子どもたちだ。

……実は、今、私も、こうした迷信との戦いに直面している。

実家の仏壇を、私の家に移そうと考えているのだが、それについて、親類縁者の人たちから、
「ショウ抜きをしなさい」「ショウ入れをしなさい」と言われている。

「ショウ」って、何? どんな漢字をあてるの?

つまり仏壇といっても、ただの箱。
そこで所属宗派の僧侶に来てもらい、「魂」を抜いたり、入れたりしてもらえということらしい。

バカげた迷信だが、それを口にしている人たちは、本気らしい。
「ショウを抜かないで仏壇を移動すると、バチが当たる」とか、「ショウ入れをしないと、位牌をま
つっても意味がない」とか、さらには「故人が成仏できない」とか言う。

結構なご意見だが、そういう人たちは、一度、YOU TUBEで、世界の音楽なり、民族舞踊なり
を見てみたらよい。
つまり一度、世界から日本を見てみることだ。そして日本人のほかに、どこのバカがそんなこと
を口にしているか、一度、調べてみたらよい。

釈迦だって、そんなことは、一度も言っていないぞ! 
バカヤロー!

さらにあえて言うなら、日本の仏教も、そんなことばかりしているから、若い人たちに、ソッポを
向かれる。
「葬式仏教」と揶揄(やゆ)される理由も、そこにある。
結局は、スピリチュアルと中身は、同じ。

話をもどす。

「考えること」には、ある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。

そのとき横にいた人が、そっと、解答の出ている用紙を見せてくれたら、あなたはどう感ずるだ
ろうか。あなたは、ある種の陶酔感すら覚えるかもしれない。

だからほとんどの人は、できるだけ考えることから、遠ざかろうとする。
避けようとする。考えたところで、答が出てこないかもしれないという不安があるなら、なおさら
だ。

スピリチュアル・ブームは、そういう人たちの上に乗っている。
だから私は、「危険である」という。

前世も来世もない。この100年は、何とかもちこたえるとしても、200年、300年後には、人類
はもちろん、あらゆる生物が、この地球上から消える。
このままでは、そうなる。

そういう(現実)を前にして、「前世」だの、「来世」だのと、それを口にする、おかしさ。
そのおかしさに、まず気づいたらよい。

大切なことは、自分の脳みそで考えて、自分で行動することだ。
不完全で未熟かもしれないが、そこに人間が生きる意味そのものが、隠されている。

だから1人でも多くの人が、私と声を合わせて、こう言ってほしい。
「あんなのは、インチキだよ」と。その一声が、私たちの良識となって若者たちや、子どもたちの
未来を明るくする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist スピリチュアル スピリチュアル・
ブーム 精霊 聖霊 霊 カルト 迷信 オーラ論 オーラ)

(注※)
私が「オーラ」(?)なるものに出会ったのは、1970年のはじめごろのことだった。

(今、計算してみたら、1974、5年ごろのことだった。その記録は京都大学理学部のほうに
は、残っているはず。)

京都大学に、ソ連のある科学者(?)がやってきて、それを実演してみせてくれた。
その科学者は、科学的にオーラを光の映像にすることに成功したということだった。
私は、何人かの医師と連れだって、それを見るために、わざわざ京都大学まで出かけていっ
た。

(たしか当時、鍼灸の世界ではよく知られていた、良導絡研究所の研究所の人が、声をかけて
くれたように記憶している。
経絡とは何か。
その研究の過程で、だれかに呼ばれて、そこへ行った。)

そのときの実験は、こういうものだった。

(細部は記憶によるものなので、正確ではない。)

たとえば内臓のどこかに病変があると、その人が発するオーラの色が変わるというものだっ
た。
たとえば健康な人のオーラは、美しいxx色をしている。
しかし肝臓が悪くなったりすると、その色がxx色に変化する、と。

(色が変化するだけではなく、オーラの形や現れ方まで変化するという。)

体のあちこちに電極をつけていた。今から思うと、静電界か、電磁場を人工的につくり、それを
暗室で、発光させることによって、オーラ(?)を観察するというものではなかったか。

もちろん、そのあと、それは手品に近い、インチキと証明された。
人間にオーラなど、ない。
あっても、見ることも感ずることもできないはず。
ものごとは、常識で考えたらよい。

(注:ここで、キルリアンとオーラを同一視しているが、ひょっとしたら別物かもしれない。念のた
め。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 キルリアン オーラ 京都大学で
の実験 パスカル 思考 はやし浩司 パスカル)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言葉

 話を戻す。

 私はやはり「言葉」と思う。
あるいは、研究者であれば、論文、芸術家であれば、作品、さらに宗教家であれば、「言葉」と
いうことになる。
生き様でもよい。
とにかく、「見た目」では、わからない。
(わかることもあるが……。)

 私は、その人を判断するときは、その人の書いた文章を読む。
また文章を読まないと、落ち着かない。
たとえば簡単な例では、講演の依頼がある。

そういった依頼を電話で受け取っても、不安でならない。
日時、場所、など。
私自身の脳みその老化の問題もある。
電話で日時、場所を聞いても、すぐ忘れてしまう。
メモも、そのため、アテにならない。
が、こういう仕事のばあい、記憶違いは、許されない。
そこであえて先方には、こうお願いする。

「一度、FAXででもいいですから、依頼書を書いていただけると、ありがたいのですが」と。

 が、やはり直接的には、「言葉」ということになる。
言葉が、その人の内面世界を、直接表わす。
「先に書いた、一言、二言……」というのは、そういう意味である。

しかし私はそれでよいとしても、言葉には、2極性がある。
私が相手を判断するということは、相手もまた、私を判断していることになる。
私のほうは、相手を、「ただ者ではない」と判断する。
しかし相手は、どうなのか。
そういう私の「底」を見てしまうのか。
言い換えると、私は、そういった人たちには、どういう人物に映るのか。
残念ながら、私自身は、私をそういう「眼」で見たことがないので、わからない。

 さらに言えば、本物であっても、またそうでなくても、それはその人、個人の問題。
つまり「結果」。
ただこういうことは、言える。

 本物の人に出会うというのは、本当に楽しい。
同時に、うれしい。
自分がそうであるというわけではないが、仲間に出会ったような喜びさえ覚える。
まじめに、ただまじめに、ひたすら懸命に何かを追い求めてきた。
そういう人には、そういう人独特の(はね返ってくる言葉)がある。
雰囲気がある。
それを知るのは、本当に楽しい。
孤独感そのものが、癒される。

 ……ということで、今朝は、ここまで。

 先ほど、ある雑誌社から、原稿依頼をもらった。
その見本原稿を書いた。
おまけとして、それをここに添付する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【愛と甘やかし】


●「許して忘れる」


 (愛)ほど、ばく然とした概念はないですね。が、尺度がないわけではないわけではありませ
ん。
「許して、忘れる」。英語では、「For/give & For/get」といいます。
この英文を注意深く読むと、「子どもに愛を与えるために許し、子どもに愛を与えるために忘れ
る」とも読めますね。
その度量の深さで、親の愛は決まる……と考えてください。


が、「許して忘れる」と言っても、もちろん子どもに、好き勝手なことをさせろという意味ではあり
ません。
親は子どものできの悪さを見せつけられるたびに、悩み、苦しみ、ときには、袋小路へと叩き
落とされます。
子どもにかぎらず、人を愛するということは、それほどまでに、つらいこと。
ときに身を引き裂かれるような思いをすることもあります。
ホレホレと子どもを抱いたり、頬ずりするのは、愛でも何でもありません。
そんなことなら、そこらのイヌやネコでもしていますよ。


●誤解


 が、この日本には、大きな誤解があります。
子どもに楽しい思いをさせること、楽をさせること、それが「親の愛」と。
また「それによって、親子の絆は太くなる」と。
が、実際には、逆効果。
一度、保護、依存の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではありません。
「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生がいました。
結婚式の費用について、親が、「半分くらいなら……」と言ったら、それに対して激怒。
「親なら、親らしく責任を取れ。結婚式の費用ぐらい出せ」と迫った、息子もいました。

規範のない、盲目的なでき愛を、(愛)と誤解している人は多いですね。
俗にいう、子どもを甘やかしながら、甘やかしていること自体に気がついていない。
結果、子どもは、ドラ息子、ドラ娘になります。
今や1億、総ドラ息子、ドラ娘と言ってよいほど、このタイプの子どもは多いですよ。

 自分勝手で、わがまま。
自己中心的で、利己的。
生活への耐性も失われます。
ある女の子(小4)は、突然、タクシーで家まで帰ってきました。
「どうして?」と話しを聞くと、こう答えたそうです。
「おばちゃんの家のトイレは汚れていて、気持ち悪かったから」と。
ドラ息子、ドラ娘になればなったで、苦労するのは、結局は子ども自身ということになります。


●筋(すじ)


 それがどういうものであれ、子育てには、一本の(筋)が必要。
わかりやすく言えば、(一貫性)。
具体的には、YES/NOをはっきり伝え、筋を通す。その筋がなくなったとき、親の心にスキが生
まれ、子どもはそのスキをついて、ドラ息子、ドラ娘になります。
その筋のないことを、「甘やかし」といいます。
親の愛とは、基本的には、まったく異質のものと考えてください。


 あのバートランド・ラッセル※は、こう書き残しています。


『親として、必要なことはする。しかし決してその限度を超えてはいけません。そんな親のみが、
真の家族の喜びを与えられます』と。


 (限度)をわきまえている親を、賢い親といいます。
親になるのは、簡単なこと。
しかし賢い親になるのは、本当にむずかしい。
一生のテーマと考えてよいほど、むずかしい。
安易に、節度のない愛に溺れてはいけません。

※…イギリス・ノーベル文学賞受賞者、哲学者)

では、今日も、がんばります。
2012/03/16





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【広島県・呉市まで】(はやし浩司 2012−02−22)

●大和ミュージアムを見学(呉市、大和ミュージアム・旅行記)
   by はやし浩司・晃子・周市




●サイト

http://youtu.be/kRfFIEcy9w


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

一度は……と思っていた。
大和ミュージアム。
長さ26メートルの戦艦大和の模型が、飾ってあるという。
一度は、見てみたかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●新幹線の中で

 午前7時10分発の、新大阪行きに乗る。
途中、名古屋で乗り換え、広島まで。
目的地は、沖縄……ではなく、広島県、呉市(くれし)。
呉市にある、大和ミュージアム。
「大和」とは、「戦艦大和」のこと。
今日は、そこで10分の1大の、戦艦大和の模型を見る。
全長、26メートル。

 特攻作戦……戦艦大和は、沖縄への特攻作戦の途中で海に沈んだ。
無謀な作戦だった。
が、命令により死んでいった若い人たちに、責任があるわけではない。
当時は、そういう時代だった。
が、その数、3000人あまり(記憶)。
どんな気持ちだったのだろう。
子どものころから、私は、ずっとそんなことを考えていた。

●プラモデル

 動機は2つある。
ひとつは、友人のBT氏が、「一度は行く価値がある」と言ったこと。
「林さん(=私)、一度は、行ってみなさいよ」と。

もうひとつは、息子が、TAMIYAの戦艦大和を完成させたこと。
350分の1サイズ。
巨大なプラモデル。
超精密なプラモデルで、見応(ごた)えがある。
ながめているだけで、ググーッと熱いものがこみあげてくる。

 私は子どものころ、プラモデルをよく作って遊んだ。
飛行機のプラモデルだった。
マルサンという会社から、マッチ箱大のプラモデルが、売りに出されていた。
価格は30円前後だったように記憶している。
今から思うと簡単なものだった。
それを作り、手で持ちながら走り回るのが、たいへん楽しかった。
自分がパイロットになったかのように感じた。

 以来、おとなになるまで、プラモデルとは縁が切れなかった。

●夢

 今朝は、午前6時に起きた。
目覚まし時計が鳴ったとき、私は、ぐっすりと眠っていた。
夢を見ていた。
長い坂があった。
山の頂上から、ふもとまで一直線につづく坂だった。
その坂を、車でおりていく。
そんな夢だった。
ちょうど秋のころで、坂に沿って並んだ街路樹が、美しかった。

 そこで、目覚まし時計が鳴った。
瞬間、「どうして?」と思った。
旅行のことは、忘れていた。

●10分遅れ

 朝、起きるとすぐ、書斎に入った。
昨夜やり残した作業を、簡単にすませた。
が、パソコンが相手だと、簡単な作業でも、いったん始めると20〜30分はかかる。
その20〜30分が過ぎたところで、ワイフが呼びにきた。

 そそくさとパソコンを閉じ、居間に行く。
ワイフと息子がそこに、待っていた。
予定より10分遅れで、家を出た。
6時40分。

 車で大通りに出た。
深いオレンジ色の朝日が、ちぎれた雲の間から顔を出していた。

●ニュース

 ニュースサイトに目を通す。
このところ真っ先に見るのが、ロイター。
つぎにBloomberg。
この2つは、速報性にすぐれている。

 新聞社が提供しているニュースサイトは、どれも不親切。
新聞記事より新しい記事は、めったに載せない。
気持ちはよくわかるが、ときに、それを意地悪に感ずることがある。

ほかにもいろいろなところから、ニュースを配信している。
TBSや、楽天、それにYahooなど。
が、イマイチ、本気度が足りない。
……ということで、今は、ロイター。

 そのロイターは、ギリシャ問題について、懐疑的な記事を書いている。
数日前の記事では、「時間延ばしにすぎない」と。

 そうでなくてもギリシャ経済は、壊滅的状況。
そこへもってきて、緊縮予算を組めば、どうなるか。
私のような素人にも、容易に想像がつく。

 日本の神奈川県、もしくは埼玉県程度の経済規模しかないギリシャ。
そのギリシャの救済だけで、これほどまでの時間がかかる。
仲間同士で救うことができない。

EUは、たしかに弱体化している。
ギリシャが崩壊すれば、ポルトガル→スペイン→イタリアがおかしくなる。
とりあえずギリシャを防波堤にし、何とか時間稼ぎをしている。

●ポルトガル

 そのポルトガル。
こんなことを言い出した。
「うちにも、同じようにしてくれ」と。

 現在ポルトガルの国債(2年もの)利回りは、13・5%に上昇※。
ギリシャの救済策を横目で見ながら、そう言い出した。
それもそのはず。
借金を、75%近くも棒引きにしてもらえるなら、こんなおいしい話はない。

ポル「いいなあ、ギリシャは……。うちも苦しいよ」
EU「お前のところは、自力でがんばれよ」
ポル「そんなこと言わないで、うちも借金を棒引きにしてよ」
EU「あのなア……」と。

 ギリシャ問題は、ギリシャだけで、終わらない。
今度は、ポルトガルに飛び火しそうな雰囲気になってきた。

 ……悲観的な見方で、申し訳ない。

(注※……ポルトガル、ロイター)

『ラボバンクのストラテジストは「ポルトガルでは、欧州連合(EU)の支援パッケージ条件の再交
渉を政府に要請する向きが多い。
これは、ギリシャ債務再編が1度限りのことではないという可能性を示している」と述べた。

 ポルトガルの10年物国債利回りPT10YT=TWEBは18ベーシスポイント(bp)上昇し12.6
6%。
2年債利回りPT2YT=TWEBは24bp上昇し13.47%となっている』(以上、ロイター)と。

●名古屋

 名古屋で、のぞみ号(700系)に乗り換える。
自由席は、3号車まで。
ほぼ満席。

 その中にあって、計8席も、先取りしている女性がいた。
「ここは?」と聞くと、「来ます」と。
「ここは?」「来ます」、
「ここは?」「来ます」と。
そんな会話を、2、3回繰り返した。

 で、最後に、「いったい、何人、来るのですか?」と私が聞くと、一瞬迷った様子。
明らかにその女性は、ウソを言っていた。
案の定、そのあとやってきたのは、4人だけ(うち2人は子ども)。

 「空きましたから座ってください」と。
その女性はそう言った。
どこかバツの悪そうな言い方だった。

●米原

 米原あたりは、一面の雪景色だった。
ワイフにうながされて窓の外を見た。
美しいというより、寒々とした景色だった。

●悪性リンパ腫

 実は、昨日、行きつけの医院へ行ってきた。
運動のたびに、左わき下が痛む。
数年前からときどきそういう痛みはあったが、おとといは、それがひどかった。
ネットで調べると、「悪性リンパ腫」?

 同じがんの中でも、死亡率はきわめて高い。
で、行きつけの医院へ行った。
長いつきあいになる。
もう40年になる。
会うと、TH医師は、私にこう言った。
「お元気ですか?」と。

 「元気なわけがないだろ」と思ったが、それは言わなかった。
症状を告げると、あれこれと触診をしてくれた。
「リンパ腺は何ともないですなあ」と。

 で、悪性リンパ腫の名前を口にすると、こう言った。
「悪性リンパ腫なら、のどに症状が出ます。すぐわかります。それではありません」と。

 結局、薬ももらえず、そのまま帰宅。

軽くマッサージをすると、痛みはそのまま消える。
動脈瘤のようなものか?
それが腫れて、周囲の血管を刺激する。
……というのが、私の素人診断。

 「今日は、全快祝い」と言って、そのままワイフとレストランへ。

●68歳

 今朝も、近所の人の訃報が、回覧されてきた。
ワイフが「68歳の人よ……」と言って、それを私に渡した。
男性。
喪主が妻になっていた。

 「68歳かア……」と。

 それ以上、言葉がつづかなかった。

●旧約聖書の予言

 旧約聖書には、予言めいたことが、あちこちに書いてある。
それが今、その世界では、話題になっている。
アルマゲドンがどうのこうの、降臨がどうのこうの、と。
数日前も、それを読んでいた。

 が、私は、ふとこんなことに気づいた。
「旧約聖書に書いてあるのは、予言書ではなく、歴史書ではないか」と。
それならば、納得がいく。
つまりこういうこと。

 ……遠い昔、どこかの惑星が、滅びた。
火星なら火星でもよい。
温暖化と、それに伴う水や食料の奪いあい。
戦争につづく、戦争。
大気は汚れ、その結果、火星は、現在の火星になった。

その「記録」が、「予言」と名を変え、地球人に伝えられた。
「お前たちも、教えを守らないと、こうなるぞ」と。
そういうことなら、納得がいく。
つまり「予言」ではなく、「警告」。

 そこで問題なのは、降臨があるのは、前か後かということ。
つまりアルマゲドンの、前か後かということ。
神がやってきて、敬虔(けいけん)な信仰者を救うのは、いつか。
聖職者たちは、聖書の一言一句をこまかく分析し、それを論じあっている。

 が、前でも後でも、どちらでもよい。
降臨したときが、降臨したとき。
アルマゲドンによって、どのみち、ほとんどの人は、それで死ぬ。
私も死ぬ。
あなたも死ぬ。

残念ながら、私はキリスト教徒ではない。
ユダヤ教徒でもない。
神がいても、私など、相手にしないだろう。

●アルマゲドン

 アルマゲドン……もっとも可能性が高いのが、隕石の落下。
惑星との衝突も考えられる。
何でも「(そのとき)、天から、炎が雨のように降ってくる」(旧約聖書)そうだ。
となると、やはり隕石?

 直径10キロの隕石でも、人間も含め、地上のほとんどの生き物は死滅するという。
100キロを超えると、地球は、粉々?
地表という地表がめくりあがり、地上は、蒸発した岩石で覆われるという。
「蒸気岩」というらしい。
(あの岩石が、熱で、蒸気化するのだぞ!)

ハルマゲドン……可能性としては、ありえない話ではない。
が、今すぐという話でもなさそう。

●タイム・ジャンプ

 今、時刻は、午後7時14分。
広島で新幹線を降りたのが、午前10時ごろ。
9時間近くも、時間が、ジャンプしたことになる。
そこで今日の記録。

 呉阪急ホテル。
JR呉駅から、歩いて1分……というより、呉駅の真正面。
ホテルに着いたのが、11時半ごろ。
荷物を預けて、そのまま駅裏のレストランへ。

 広島と言えば、広島焼きそば……ということで、昼食は焼きそば。
「さすが本場」と思いながら、食べた。
おいしかった。
で、それが終わると、そのまま「大和ミュージアム」へ。

 本気度120%!
「すごい」の一言。
BT氏の言葉に、偽りはなかった。

●撮影

 デジタルカメラで、写真を撮りまくった。
それには、理由がある。

 こうした写真は、YOUTUBEにそのままUPすることにしている。
簡単なアルバムがそれでできてしまう。
が、今まで、YOUTUBEには、限度があった。
ビデオ撮影のばあい、15分。
静止画をつづけてUPすると、約350枚前後で、15分になる。

 が、今週から、その限度が、なくなった。
理由はわからない。
「15分以上、UPLOADできるようになりました」と。

 そこで試しに、先日、1時間近い動画を、UPしてみた。
無事、できた。
そこで今度は、静止画でそれを試してみたい。
……ということで、静止画を撮った。
撮ったというより、撮りまくった。
その数、520枚!

 それを明日、YOUTUBEにUPしてみたい。
はたして、無事、UPできるかどうか? 
無事UPできれば、そのままこの原稿に貼りつけることができる。

●海上自衛隊「くじら館」

 大和ミュージアムのあと、隣接する「くじら館」に足を運んだ。
「くじら」というのは、潜水艦のこと。
「くじら館」というのは、海上自衛隊の展示館。
浜松市には、航空自衛隊の展示館がある。
その海上自衛隊版が、「くじら館」。

順路に沿って歩いていくと、最後は、その潜水艦の内部へ入ることができる。
現役を退いたとはいえ、本物の潜水艦。
迫力がちがう。

 私はこの年齢になって、はじめて、本物の潜水艦の内部に入った。
私は閉所恐怖症。
兵隊になったとしても、潜水艦だけはごめん。
いつもそう言っている。
そのくせ、潜水艦モノの映画は、大好き。
ひとつとして、欠かしたものはない。
潜水艦に関係した映画は、すべてみてきた。
この矛盾を、どう考えたらよいのか。

 その潜水艦の内部に、今日、入った。
大型の飛行機のようで、息苦しさはまったくなかった。
が、当然のことながら、窓は、まったくなかった。
ドキドキしながら、内部を見て回った。

●4時間

 ホテルへ戻ったのが、午後3時過ぎ。
4時間近く、歩きつづけたことになる。
……ということで、チェックインをすますと、そのままベッドへ。
バタンと倒れ、そのままひと眠り。
目を覚ますと、ワイフも、横で寝ていた。

 そのあと、風呂に入り、夕食。

●夕食

 夕食はバイキング。
1人、2500円。
500円の割引券つき。
1人、2000円。
呉阪急ホテル1階のレストラン。

 ……この呉へ来てみて、気がついた。
「物価が安い!」と。
言い換えると、浜松の物価は、高い!

●くどい

 今、時刻は、午後7時40分。
ワイフはベッドの上で、本を読んでいる。
私は、こうしてパソコンのキーボードを叩いている。

 疲れているせいか、文章がうまく出てこない。
「出てこない」というのは、「適切な言葉が浮かんでこない」という意味。
それに疲れていると、文章が、どうしても回りくどくなる。

 たとえばこう……。

 「呉市も御多分に漏れず、あまり元気がない」と書き始めたとする。
が、そこで文章が途切れてしまう。
調子のよいときだと、なぜそう感じたのか、その理由を並べることができる。
が、今夜は、それができない。
そこで何とか文章をつなげようと、無理をする。
その無理をした分だけ、回りくどくなる。

 私はいつもこんなことに心がけている。
短い文章で、適切な言葉で表現する。
調子が悪いと、それがうまくできない。

 ……ということで、「うまく文章が書けない」と、ここだけでも、4、5回も繰り返した。
「うまく出てこない」「浮かんでこない」「途切れてしまう」「うまくできない」と。

 それを私は「くどい」という。
学生の作文だったら、赤字で、こう書き込むだろう。
「もっと簡潔に、要領よく、文章をまとめること」と。

●文章教室

 文章には、好き嫌いがある。
当然である。
が、誤解してはいけない。
(じょうずな文章)イコール、(好きな文章)ということではない。
いくら(じょうずな文章)でも、嫌いなものは、嫌い。
そこでふと、考える。

 ときどき「文章教室」という看板をかかげている教室を見かける。
「絵画教室」があるから、「文章教室」なるものがあっても、何もおかしくない。
講師の先生は、子どもから大学生や、社会人まで、教えているという。
が、そういう看板を見ると、いつも「?」と感じてしまう。

絵画は、感性の世界。
文章は、論理の世界。
私はその論理性を感じない文章は、好きではない。

……というか、私自身がもつ論理性と、一致しない文章は、好きではない。
たとえば細木何某(なにがし)という女性は、星占いの本を書いている。
江原何某という男性は、スピリチュアル(霊)の本を書いている。
いくら名文でも、私は、そういう人たちの書いた本には、目を通さない。
本を開く前に、拒絶反応を起こしてしまう。

 つまり文章のじょうず・へたは、指導になじまない。
いくらその講師の先生に、天才的な文才があったとしても、だ。
文章のじょうず・へたは、そのワクを超えた、別の世界で決まる。
だからよくこう思う。

「何を、どのように指導しているのだろう?」と。

 さしずめ、私の文章などは、その講師の先生からみたら、超へたくそ。
何度も書きなおしさせられるだろう。

●文章論

 では、文章とは何か?

 私たちは言葉を通して、相手に何かを訴える。
大切なのは、その中身。
真剣度。
その「言葉」が、象形化したものが、「文章」。

 もちろん訴えながら、相手に自分のことをもっと理解してほしいと願う。
正確に理解してほしいと願う。
どうすれば、相手は、自分のことをわかってくれるだろうかと考える。
それを組み立てるのが、論理性ということになる。

わかりやすく言えば、「考える」。
「考えながら、書く」。
それが重要。

●Nさん

 話題を変える。

 広島へは、高校の修学旅行で来た。
岩国なども回った。
当時は、私の記憶にまちがいがなければ、夜行列車で来た。
朝早く、広島の駅に着いたのを、覚えている。
「楽しかった」という思いよりも、「そんなことがあったのかな?」という程度。
記憶そのものが、ぼんやりとしている。
が、懐かしい。

 その懐かしさの中心部にいるのが、Nさん。
畏敬の念をこめ、「女性」と呼ぶ。
私が好意を寄せていた女性である。
その女性が、観光バスの一番奥のほうで、ほかの友だちと、カラカラと笑っていた。
その姿だけが、今でも、脳裏に焼きついている。
 
 すてきな女性だった。
が、心を打ち明けることもなく、そのまま終わってしまった。
どこか切なく、どこかほろ苦い。
プラス、歯がゆい。
それが高校の、あの修学旅行だった。

 私は今、その広島に来ている。
……というか、この広島へは、そのあと数度、来ているはず。
そのつど外人を案内し、ここへ来た。
が、そうした思い出は、ほとんど消えてしまっている。
広島と言えば、やはりNさん。

 ……あのころの私は、自分の心を素直に打ち明けることができなかった。
気が小さく、臆病だった。
(今でも、そうだが……。)
それが今ごろになって、悔やまれる。

 「好きだ。つきあってくれ。いっしょにホテルへ行こう」と。
(当時はまだラブホテルのようなものは、なかったが……。)
どうして言えなかったのだろう?
ア〜ア!

●呉阪急ホテル

 呉阪急ホテルは、「阪急」という名前があることからもわかるように、一流ホテル。
昔の帝国ホテル(東京)を思わせる風格を漂わせている。
設備類はやや古いかな……と思わせるが、調度品にはどれも、重厚感がある。
どっしりとした重みを感ずる。

 温泉こそないが、バスルームも広い。
バスタブも広い。
男性用に整髪料なども、一式そろっている。
ビジネスホテルにありがちな、窮屈さはない。
料金はそれなりに高いが、割安感はある。
サービスもよい。

 が、「二度と来ることはないだろうな」と、思う。
それに今回来てみて、こんなことを考えた。
大和ミュージアムと、くじら館だけなら、浜松からでも日帰りコース。
1泊するなら、呉市内ではなく、近くの離島にある旅館のほうがよいのでは、と。
夏場だったら、船に乗って、あたりを周遊することもできる。

 大和ミュージアムとくじら館だけを見て、こうしたホテルに一泊するのもどうか。
ぜいたくというより、もったいない?
団塊の世代は、すぐそういうものの考え方をする。
旅行を楽しむ前に、その(楽しみ)すらも、金銭的な価値に置き換えてしまう。
あるいは、これは私だけのさみしい根性によるものなのか。

●BLOG

 この原稿は、2月23日のBLOG用。
が、今日は、ほとんど原稿を書くことができなかった。
BLOGには、毎回、10枚の原稿を発表するようにしている。
現在、ここで、13枚。
(1枚)=(40字x36行)。

 これだけの旅行をしたのだから、「戦艦大和論」でも、書いてみたかった。
「広島論」でもよい。
が、今の私は、ほどよい疲れと満腹感で、脳みそは半眠状態。
(それとも、ボケがいよいよ始まったのか?)

 人は、負の一次関数的にボケていく。
脳の神経細胞は、日次的に死滅していく。
脳の神経細胞だけは、再生しない。
だから負の一次関数的。

1日、約10〜20万個の神経細胞が死滅していくと言われている。
10〜20万個だぞ!

が、それほど心配しなくてもよいという説もある。
脳細胞は、全体で、1500億個もあると言われている。
仮に100年生きたとしても、失われるのは、そのうちの2〜4%。

 が、こわいのは、微細脳梗塞や脳卒中など。
気がつかないところで、何百万、何千万単位の神経細胞が死滅している可能性もある。

 どうであれ脳みそは、不可逆的に、小さくなっていく。
今がそのときか?

●脳の神経細胞

 脳の神経細胞は、再生しないと書いた。
死滅したら、死滅したまま。
反対に、再生したら、たいへんなことになる。
ばあいによっては、5〜10年単位で、人格そのものが変わってしまう。

 私たちは10年前の人でも、20年前の人でも、同じようにつきあうことができる。
50年前の人でもよい。
それができるのも、脳の神経細胞がそのまま残っているから。

(人格の維持)か、それとも(脳の神経細胞の再生)か。
どちらかを選べと言われたら、(人格の維持)のほうがよい。
……ということで、長い進化の過程を経て、そうなったらしい?

●刺激

 どこかのニュースサイト※に、こんな記事があった。

 マウスの実験によるものだが、遊具の多い環境で育てると、判断力がますという。
そうでなければ、そうでない。
たとえば遊具の多い環境で育ったマウスは、迷路などでも、よい成績を示すという。

 人間の子どもについても、同じ。
昔から、こう言う。
『転勤族の子どもは、頭がいい』と。

 これは幼児教育の常識。
40年前に、そう言っている先生がいた。
つまり「転勤」という環境の変化が、子どもの脳の発達に、よい刺激を与える。
まずいのは、変化にとぼしい、刺激のない生活。
子どもは、(その世界)でしか、生きられなくなる。

 よくても悪くても、子どもには刺激が重要。
その刺激が、子どもを伸ばす。

(注※……マウスの実験、毎日新聞より転載)

『……チームは、刺激の多い環境の典型とされるはしごなど数種類の道具のある箱に15匹の
マウスを入れて4週間飼育した。
同時に、刺激の乏しい環境として、遊び道具のない箱で3匹のマウスを同期間、飼育した。
その後、学習や記憶力の推移、両機能をつかさどる海馬の神経細胞の状態やたんぱく質の
働きを調べた。

 刺激の多かったマウスは、刺激の乏しいマウスに比べ、迷路でゴールにたどりつくまでの時
間が回を重ねるごとに短縮されることが確認された。
さらにグルタミン酸などの神経伝達物質を運ぶ「KIF1A」、神経細胞の成長を促す「BDNF」の
2種類のたんぱく質の働きがいずれも刺激の乏しいマウスの約1.7倍に活発化していた』(以
上、毎日新聞)と。

●過保護

 このマウスの実験と直接つながるのが、「過保護」。

 過保護児の最大の特徴は、社会性の欠落。
たとえばブランコを横取りされても、それに抗議することができない。
「悪」に対する抵抗力にも乏しいから、心はもろく、いじけやすい。
怒りを内へためるから、心もゆがみやすい。

 子どもは傷まるけになりながら、成長し、たくましくなる。
そういう意味で、刺激が重要。

 では、私たち老人組は、どうか?
「今さら……」と思う部分もないわけではないが、刺激はたしかにボケ防止になる。
そのことは、こうしてものを書いていると、よくわかる。
たとえば10日間の休みがあったとする。
とたん、育児論が書けなくなる。

 こと育児論に関していえば、毎日子どもの顔を見ていなければ、書けない。
「刺激」というのは、それをいう。

●積極的不登校児

 最近、ときどき耳にするのが、積極的不登校児。
それなりの理由があるのだろう。
それは別として、親が、積極的に、自分の子どもを不登校児にする。
「学校へは行かせない」と。
 
 多くはいじめが、原因。
が、中には、「いじめられるから」という理由で、前もって不登校児にしてしまう。
親は、子どもを守っているつもりかもしれない。
しかし子どもというのは、先にも書いたように、傷まるけになりながら、成長する。
完璧な環境などといったものは、存在しない。
親がいくらがんばっても、そこには限界がある。

経済的に余裕があれば、「家庭教師をつけて……」ということもできる。
あるいはアメリカのように、ホームスクール制度が整っていればよい。
が、この日本では、そういうわけにはいかない。
親がいくらがんばっても、「学校」に代わることは、むずかしい。
仮に子ども時代はそれでよいとしても、おとなになったらどうする?

つまりそれが、ここでいう「限界」。

 さらに一歩進んで、親、とくに母親側に、心の問題があることもある。
近くの保育園にも、こんな母親がいる。

 毎日、子ども(年長女児)といっしょに、保育園へやってくる。
一日中、見え隠れしながら、塀の外から、子どもの様子をうかがっている。
で、園の先生が、「だいじょうぶですよ」と声をかける。
いったんは、家に帰る様子をしてみせるが、今度は木の陰に隠れて、子どもを見ている。

 園の園長に、「どうしたらいいですか」という相談を受けた。
で、私はこう答えた。
「思い切って、園の補助員をしてもらってはどうですか」と。
が、園長はそれを冗談ととらえた。
ハハハとたがいに笑って、(失礼!)、それですんでしまった。
 
●就寝

 こうして2012年02月22日は、終わりに近づいた。
忙しい1日だった。
プラス、疲れた。

 これはいつも思うこと。
旅先で、見知らぬ人と話すたびに、こう思う。
「こんなところにも、人がいて、みな、懸命に生きている」と。
ときとして、それが不思議でならない。
この呉市でも、そうだった。

発音が、浜松のそれと、かなりちがう。
たとえば、「呉(クレ)」も、ここ呉市では、「ク・レ」と、「レ」にアクセントをつける。
(浜松では、「ク」のほうに、アクセントを置き、「レ」を尻下がりに言う。)

 それぞれの人が、それぞれの生活をもち、それぞれに生きている。
私やあなたのように。
どこもちがわない。

私も彼らと同じと思うと同時に、彼らも、私と同じと思う。
ときとして、それが不思議でならない。

 こうして私は、戦艦大和を見ることができた。
本物ではなかったが、これで子どものころの夢がかなった。
そのつど、私はワイフにこう言う。
「冥土のみやげができた」と。

 たしかに若いころの私は、仕事ばかりしていた。
遊ぶことを知らなかった。
命に限りがあるなどとは、考えたこともなかった。
いつでもその気になれば、遊べると信じていた。

が、今はちがう。
そこに見えるものに、焦点をあて、じっとその奥まで見入る。
脳裏に叩き込む。
「二度と、見ることはないだろうな」と。

どこか暗いが、私自身は、「暗い」などとは思っていない。
若いときには見えなかったものが、今は、しっかりと見ることができる。
家々の窓にしても、それは景色ではない。
その窓の中にある生活まで、見える。……見えてくる。

 ワイフは、すでに就寝モード。
先ほどまで読んでいた本も、閉じられている。
あくびが何度か、つづけて出た。
私も、そろそろ就寝モード。

 では、みなさん、おやすみなさい。

 2012年02月23日、午後10時30分。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 大和ミュージアム 広島県 呉市 くじら館 呉阪急ホテル 戦艦大和 はや
し浩司 大和)





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【サンヒルズ三河湾にて1泊(2月1日)】

●2月1日(2012年)、愛知県三谷町のサンヒルズ三河湾に一泊しました。
 最高のホテルでした。
 招待してくださった、KUさん、ほかのみなさん、ありがとうございました。
 生涯で、最高のホテルでした。




http://youtu.be/ogBqrcLcVt8

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 サンヒルズ三河湾 ホテル 蒲郡
 三谷町 サンヒルズ はやし浩司 2012−02−01)
iroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【サンヒルズ三河湾に一泊】(はやし浩司 2012−02−01)
http://youtu.be/ogBqrcLcVt8

+++++++++++++++++++++++++

今日は、サンヒルズ三河湾に一泊。
今まで、数々の旅館やホテルに泊まってきた。
どこかに講演に招かれるたびに、その土地の旅館やホテルに泊まってきた。
私たちの趣味にもなっている。

が、その中でも、最高。
最高級ホテル(旅館)。
特別室。
202号室。
室内に露天風呂があり、三河湾を眼下に、右手には三谷町が一望できる。

沖縄では、ロワジールホテルに泊まった。
そのホテルが、今までに泊まった中では、最高と思っていた。
が、そのホテルを超えた。
(ロワジールホテルは、超近代的なホテル。
ここ、サンヒルズ三河湾は、設備などは、ロワジールホテルよりは、やや古いという感じ。)

ワイフは、何度も、「すごいわね」と、ため息を漏らした。
本当にすごい。
ロビーにしても、全面、大理石で、ピカピカに磨かれていた。
私の言葉を疑う人は、一度、宿泊してみたらよい。

場所は、三谷温泉・サンヒルズ三河湾。
とにかく、本気度、120%。
「ここまでやるか!」と思わせるようなホテル。
トイレのトイレットペーパーを覆う金属板まで、ピカピカに磨かれていた。

今度、オーストラリアの友人の娘さんが、結婚する。
ハネムーンに、日本へ来るという。
宿泊先として、私は、このホテルを推薦する。
とにかく、すばらしい!
お世辞抜きに、すばらしい!

+++++++++++++++++++++++

●本気度

 部屋は入る前から、暖房されていた。
風呂(露天風呂)も、適温に調整されていた。
一事が万事。

 先ほど、地下一階の大浴場をのぞいてみた。
場違いなほど、大きく、すばらしかった。
満足を通り越して、大感激。
こうした接客業は、本気度で決まる。
その本気度を肌で感じたとき、客は満足する。

●雪景色

 先ほどからワイフが、窓ガラスの前に立ち、眼下の三河湾を見下ろしている。
外はすっかり冬景色。
近くの大木が、風で大きく揺れている。
それを見ながら、「あら、雪が降ってきたわ」と。

 声につられ、私も、外を見た。
細かい雪が、風にのって、フワフワと横に流れていた。

●三谷町

 三谷町に入る手前で、ワイフとこんな会話をした。
「いろいろあったね」と、私。
「そうね」と、ワイフ。

私「ぼくはね、とにかくピンコロで逝(い)きたい」
ワ「私も、病気になってから、長生きしたくないわ」
私「そうだな。ぼくは限界の、そのまた限界まで働き、その翌朝、コロリと死にたい。仕事中でも
いい」
ワ「私も、そうだわ」と。

 そんな会話をしていると、ふと、目頭が熱くなった。

●模擬死体験

 「臨死体験」という言葉がある。
その臨死体験とは、ちがう。
「死」そのものを、模擬的に体験する。
「ああ、このまま死ぬのか」と。

 私もここ数年で、2回、それを経験した。
そのときのこと。
どのばあいも、私は、いつも穏やかで、安らいだ気分になった。
あれほど死を恐れていたはずなのに、その場になると、そうでない。
恐怖心はまったく、ない。
静かだった。
本当に静かだった。
一度は、こう思った。
「やっと死ねる」と。

 だから今はもう、死ぬことは怖くない。
今すぐ……とは考えていないが、そのときになったら、素直にそれを受け入れる。
その自信は、できた。

私は、ラッキーだった。
この年齢になるまで、無事、仕事ができた。
大きな病気も経験しなかった。
病院のベッドで寝たことは、一度もない。
お金に困ったこともない。
それだけでも、感謝。
感謝、感謝、感謝。

 たいしたことはできなかったが、今は、毎日が楽しい。
朝起きたときから、やりたいことが、どっと襲ってくる。
それができる。
思う存分、できる。
それを「幸福」と言わず、何と言う。
これ以上のぜいたくが、あるだろうか。

●バカ話

 こういうことを書いていると、誤解する人もいるかもしれない。

 基本的には、ワイフは、人前では別人のように静か。
しかし私とは、その別人とは別人のように、よくしゃべる。
うるさいほど、よくしゃべる。
内容は、いつも、バカ話。
いつも深刻な話をしているわけではない。
卑猥(ひわい)な話も多い。

話は前後するが、車の中で、こんな会話もした。

ワ「男は、『沈没』※というでしょ。じゃあ、女性は、何と言えばいいの?」
私「『閉幕』というのは、どうか?」
ワ「そんなもの、とっくの昔にないわよ」
私「……そうだなあ……。『落盤』というのは、どうかな? 
トンネルが、落石か何かで、詰まったとか……」
ワ「詰まることはないわよ」
私「そうだなあ……。じゃあ、やっぱり枯れススキ。枯れススキがいい」
ワ「……枯れススキ……ねえ……」と。

 ワイフの会話の特徴は、突然、いつも横ヤリが入ること。
真剣に(?)その話をしていると、突然、話題を変える。
「あら、あんなところに、ポリタンクがある!」と。

 昔、2人で、山荘を造成しているとき、そのポリタンクを探した。
が、探しているときというのは、どこにあるかわからない。
手に入れるのに、苦労した。
あちこちを探しまくった。
ワイフはそれを思い出したらしい。

私「探しているときは、なかなか見つからないのにね」
ワ「あんなところで売っているなんて……」と。

 豊橋へ入る国道1号線沿いの店で、そのポリタンクが、山のようにして売られていた。

(注※……男として、役に立たなくなることを、「チン没」という。

●三河湾

 鉛色の三河湾。
両側から半島が、左寄りに突き出ている。
薄い紺色。
それが幾重にも重なり、無数の横筋を作っている。
美しい。
気が遠くなるほど、美しい。
詩人なら、もう少しまともな表現ができるだろう。
が、私はただ一言。

 美しい!

●眼下の建物

 ワイフが眼下の建物を見ながら、こう言った。
「魚市場かなア?」と。
私は、ボートレース場ではないかと思っている。
駐車場のような幅の広い建物が見える。
その向こうは、観客席のようにも見える。
この蒲郡(がまごおり)市には、ボートレース場がある※。

 何だろう?
その右手には、先にも書いた三谷町の街並みが見える。
ひとつ、ひとつ、またひとつ。
小さな明かりが灯り始めた。

 ホテルの案内には、こうあった。
「露天風呂からは、三谷町の夜景が一望できます」(記憶)と。
夜を待たなくても、その夜景が目に浮かぶ。

(注※……眼下の明かりは、スーパーとパチンコ店、その向こうは、漁港だそうだ。
フロントの女性が、そう教えてくれた。)

●支えあう

 人はそれぞれ、たがいに支えあって生きている。
それを強く感じたのは、中日ショッパーという、宣伝紙で、だった。
今から、5、6年前のこと。
一度、広告を出したのがきっかけだった。
以後、ときどき無料で、私の教室を紹介してくれるようになった。

 お金の計算にはうるさい私だが、こと原稿に関しては、無私無欲。
損得を考えず、自分の原稿をすべて無料で、公開している。
それを編集部のT氏が応援してくれた。
うれしかった。

 個人の幼児教室は、すべて姿を消した。
(もう1か所、北部のK区にあると、聞いている。)
25年前には、10教室程度あった学習塾も、すべて閉鎖に追い込まれた。
そんな中で、おかげで……というか、中で、私の教室だけが、今も生き残っている。
ワイフは、「ふんばったおかげよ」と言うが、それだけにきびしい仕事だった。
中に、無神経な人がいて、こう言う。
「はやしさん(=私)は、自由でいいですね」と。

 そういうとき、私はいつもフンと鼻で笑って、こう思う。
「そう思うなら、自分でやってみれば」と。

 が、この4月からのことはわからない。
わからないが、少しずつ、動き出した。
基本的には、口コミ。
OBや現役の親たちが、案内書を配ってくれる。
生徒を呼んできてくれる。

 事実、今、来ている生徒の、6〜7割が、OBの子どもたち。
9割以上の生徒は、口コミで入ってくる。

●2度目の入浴

 たった今、2度目の入浴をすまし、部屋に戻った。
大浴場。
そこも貸し切り状態だった。
入ったとき、男性が1人いたが、すぐ出て行った。

 部屋に戻ると、そこはすっかり夜景色。
無数のライトが、キラキラと宝石のように輝いていた。

●不吉な想像

 このところ悪い癖ができてしまった。
こうした海岸沿いの町を見るたびに、こう思う。
「だいじょうぶだろうか?」と。

 3・11大震災のときは、沿岸の町々が、大きな被害を受けた。
が、今度は、東南海大地震が予想される。
3・11大震災並みの津波が、襲ってくる可能性もあるという。
もしそうなら、この三谷町の町も、ひとたまりもないはず。
と、同時に、こうも考える。

 こんな町々が、東北地方にもあったのだなあ、と。
そういう町々が、津波に飲み込まれ、あとかたもなく、消えてしまった。
この非現実感。
どう心の中で、処理したらよいのか。

●シャッター通り

 私の実家は、シャッター通りにあった。
近所の商店は、つぎつぎと店をたたんだ。
私の実家にしても、1日に、1〜2人、客があるかないかという状態になった。
そういう状態が、10年とか、20年もつづいた。

 晩年の実兄は、それを不安に思ったらしい。
数日ごとに電話をかけてきて、こう言った。

「お客さんが、ござらん(来ない)……」と。

 その言い方、声が、今でも、私の耳に焼きついている。
だから……。
つまりその民宿に泊まったとき、私はそのままそこに実兄と母を思い浮かべた。
実兄も、母も、同じような状況で、もがいた。

●実兄

 実兄は、私より9歳、年上だった。
が、私が30歳のころには、上下が逆転していた。
実兄が、私の弟のような存在になった。

 一方、実兄は、何かにつけ、私に甘えてきた。
「冷蔵庫が、故障して困っている(だから、新しいのを買ってほしい)」
「ステレオが壊れた(だから、新しいのを買ってほしい)」と。
私は、そのつど、実兄に、いろいろなものを買い与えた。

 実兄は、子どものころから、体が弱かった。
ちょうど戦時中に生まれた。
そのころの人は、みな、栄養失調だったという。
実兄も、その1人だった。

●口癖

 今日、食事のとき、ワイフとその話になった。
「もっとJちゃん(兄)に、いろいろしてやればよかった」と。

 兄が入院したときは、私は100万円を、届けた。
すべて1000円札にして、届けた。
「お金を見れば、元気になるだろう」と。

 ほかにも、いろいろある。
しかし私は、そうしたくて、したわけではない。
いつも追い込まれて、そうした。
それが私には、苦痛だった。
が、兄は兄。
いつも母は、口癖のように、私にこう言った。

「お前が大学へ行けたのは、Jちゃんのおかげだ」と。

 私はその言葉が、嫌いだった。
恩着せがましかった。
その言い方が、嫌いだった。
そのたびに、母と大喧嘩になったのを、覚えている。

●「何とかしてほしい」

 が、今、……つまり実兄が他界して4年になるが、その実兄が懐かしくてならない。
会いたい。
会って、思いっきり、抱きしめてやりたい。
手元にある小遣いを、すべて渡してやりたい。

 実兄は、死ぬ1、2年前まで、私に会うと、顔を見ただけで涙をポロポロとこぼした。
つらそうな涙だった。
「何とか、してほしい」と。

●兄のちょっかい

 歯がゆかった。
が、私は、卑怯にも、実兄から逃げた。
理由がなかったわけではない。
実兄は、私のワイフに、何かとちょっかいを出してきた。
私の目を盗んで、ワイフに抱きついたこともある。

 私は実兄を強く叱った。
が、晩年の実兄は、そういう道理すら理解できるような状態ではなかった。
私はともかくも、ワイフのことを考えると、いっしょに住むわけにはいかなかった。

 が、方法がなかったわけではない。
別棟の家は、すでに当時、あった。
そこへ住まわせることも、不可能ではなかった。
が、私はワイフへのちょっかいを、誇大に問題にし、それから逃げた。
今、それが私の心を重く、塞ぐ。

●慰め

 ワイフは、こう言って、私を慰めてくれた。
「あなたはじゅうぶん、したわよ」と。

 じゅうぶん?

 私にはその実感は、ない。
結婚前から、収入の半分は、実家へ送った。
が、送ったのは、お金だけ。
心は、送らなかった。
「お金さえ送っておけば、実兄や母や、それで喜ぶはず」と。

こんなたとえは、よくないかもしれない。
しかしこんなたとえのほうが、当時の私の気持ちを正確に表している。

当時の私は、冷酷な飼い主のようなもの。
餌だけを与え、それで満足していた。
まるで、厄介な犬や猫に、餌を与えるように……。

●実家を売る

 母のちょうど一周忌に、実家を売った。
捨て値のような値段で、売った。
私は、早く、実家から解放されたかった。
それでそうした。

 が、その当日の夜だったか、翌日の朝だったか?
私は実兄の夢を見た。
 
 私と実兄は、実家の前の坂を、下からあがってくるところだった。
実兄は、私の腕に手を回していた。
そして実家の前まで来た。
そのときのこと。
私が「やっとこの家から解放されたね※」と言うと、実兄は子どものように顔をすくめた。
すくめて笑った。

(注※……この部分は、言葉ではなかったように記憶している。
私がそう思っただけかもしれない。)
 
●午後10時30分

 一度、ベッドに入ったが、寝損ねてしまった。
エアコンの風が、気になった。
で、起きた。
時刻は、午後10時33分。

 少し前まで、今日書いた原稿を読みなおしていた。
読みなおしながら、「ここまで書いていいのかなあ」と思った。
私小説もよいところ。
が、同時に、こうも思う。
「はやし浩司」、ここにあり、と。

 やがて私も、灰となり、宙に舞う。
そのとき残るのは、こうして書いている文章だけ。
読者を意識することは、もうない。
ワイフですら、このところ、私の原稿を読まなくなった。
「飽きたのか?」と聞くと、「いつもまとめて読んでいるから」と。

ネットの世界は、そういう点では、不思議な世界だ。
相手の顔が、まったく見えない。
こうして書いていても、あたかも無の世界に向かって書いているような錯覚にとらわれる。
「書いている」というよりは、「叫んでいる」。
が、その声は、そのままどこかへ消えてしまう。

 だから、こうした文章を読み、こう思う人もいるかもしれない。
「はやし(=私)って、バカだなあ」、
「ここまで私生活を暴露することはないのに」と。

が、そう思いたければ思えばよい。
私自身も、すでに「私」を超えている。
1人の人間として、書いている。
「これも1人の人間」と。

●同窓会

 今夜は、名古屋で同窓会があった。
が、ドタキャンさせてもらった。
そしてこのホテルへ、やってきた。
講演会で知りあった、KUさんが、招待状をくれた。
「いつでもいいですから、使ってください」と。
で、急きょ、それを使わせてもらうことにした。
幸い、すぐ部屋が取れた。

 私はもともと、混雑したところが苦手。
回避性障害?
対人恐怖症?
……というより、私は若いころから、集団行動よりは、単独行動を好んだ。
人に、あれこれ指図されるのが、嫌いだった。

 が、それ以上に、今、名古屋は、インフルエンザの猛威にさらされている。
今週から、重要な講演がつづく。
健康には注意しなければならない。

●ワイフ

 静かな夜だ。
ワイフは、先ほどすでに寝息をたてていた。
すっかりバーさん顔になった。
そういう顔を見ると、申し訳なく思う。
私がワイフを、バーさんにしてしまった。
罪の意識を覚えることもある。

 がんこ。
超がんこ。
一度、自分の意見を述べたら、とことんそれにしがみつく。
若いときから、そうだった。
あだ名は、「石部金子」。
石部金吉をもじった。
私が、名づけた。
まじめ。
クソまじめ。
融通がきかない。
冗談が通じない。

だからよく喧嘩した。
衝突した。
が、今は、そんなワイフも、いとおしい。

●惜しい

 明日は午後イチバンから仕事。
「早く寝なければ……」と思う。
同時に、今の、この時間が、惜しい。
いつまでも、こうしてパソコンのキーボードを叩いていたい。

今夜あたり、何か新しいことを発見できるかもしれない。
宝探しのような感じ。
「徳川の埋蔵金探し」?
そこに何かあるかもしれないという期待感が、私をぐんぐんと引っ張っていく。

だから、自分にこう言って聞かせる。
「人間、1日や2日、寝なくても、どうということはないのです」と。

 ホテルのフロントの横で買った、せんべいをパクパクと食べる。
このあたりは、せんべいの産地。
「産地」というのもおかしいが、名物になっている。
ここへ来るとき、パーキングエリアで、休息した。
このあたりでは、どのパーキングエリアでも、そのせんべいを売っている。

 ああ、この満足感。
充実感。
これがあるから、書くのをやめられない。

●死骸

 今、海老せんべいを食べたところ。
ひからびた海老が、化石のように張りついていた。
人間も、残酷な生き物。
生き物の死骸を、平気で食べている。
骨と皮だけになった死骸を、平気で食べている。

●就寝

 あくびが連続して、出てきた。
就寝タイム。
……しかしどうして私は、こうまで貧乏性なのか。
精神医学的には、強迫観念症という(?)。
いつも何かに追い立てられている。
何かをしていないと、気がすまない。

 が、それが苦痛というのではない。
むしろ何もしないでいると、頭の中が爆発しそうになる。
だから吐き出す。
パソコンに向かって、文章を叩きだす。
今も、そうだ。
頭の中がモヤモヤしている。

●宇宙船

 やはり眠ることにする。
で、私の就眠儀式。
床に入ると、いつも巨大な宇宙船を、想像する。
直径が20〜30キロは、ある。
円形の宇宙船。
毎晩、少しずつ、その宇宙船の各部を設計する。
それを考えていると、いつの間にか眠ってしまう。

今夜は、研究室を設計してみよう。
世界からやってきた科学者たちが、さまざまな研究をする。
そんな研究室。
つまり頭の中で、眠る前に、場所を決め、それを設計する。
それが私の就眠儀式。

 この1〜2年、眠るときは、いつもそうしている。
「羊が1匹、羊が2匹……」と数える人もいるそうだ。
が、私には効果がない。
かえって頭が冴(さ)えてしまう。

 では、おやすみなさい。
はやし浩司 2012−02−01夜記

 ほんとうにここは、すばらしいホテルです。
招待してくれた、KUさん、ありがとうございます。

●2月2日(はやし浩司 2012−02−02)

 朝、起きる。
外を見ると、一面、うっすらと雪景色。
三谷町の家々の屋根が、白いペンキを塗ったようになっている。
すぐ下の森も、ところどころ白髪のように白くなっている。
昨夜、テレビのニュースでは、大雪の報道を繰り返していた。
多いところでは、5メートルを超える積雪になったとか。
橋が落ちたところもあるという。

 今度の大雪は、ふつうではない。

 が、その一方で、アメリカでは、暖冬とか。
アメリカに住む息子が、こう書いてきた。
「こちらは、4月上旬の気候です」と。

 窓を少し開け、外の様子をビデオに収める。

●帰り支度

 これから帰り支度。
では、今回の旅日記は、ここまで。
サンヒルズ三河湾、本当にすばらしいホテルでした。

 三河湾国定公園内
三谷町温泉
サンヒルズ三河湾

Sunhills Mikawawan
http://www.sunhills-m.com
Tel: 0533-68-4696
E-mail: miya@sunhills-m.com

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 サンヒルズ三河湾 サンヒルズにて はやし浩司 2012−02−01)




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【西浦温泉・たつき別館、葵(旅館)へ】
(はやし浩司 2012−01−03)



●01月03日、火曜日

 ただ今、車の中。

JR浜松駅から、愛知県蒲郡(がまごおり)まで。

そこから名鉄電車に乗り換え、西浦まで。

JR浜松駅から、1時間ほど。

 今日はその中にある、『葵』という旅館に一泊。

案内書では、『たつき別館・葵』となっている。

1日1組限定という、ペントハウス(特別室)に泊まる。

西浦温泉は、ほぼすべての旅館を回った。

今回は、その中の、『葵』。

とくに理由はないが、「露天風呂付きに部屋」という文句に、

引かれた。

●義兄の訪問

 先ほど、義兄が年始のあいさつに来てくれた。

ちょうど出かけるところで、簡単な会話しかできなかった。

……ゆっくりと話をしたかった。

今度の日曜日に、山荘で食事をいっしょに楽しむことにした。

「一席、もうけますから」と言うと、喜んで、それに応じてくれた。

今朝は、それで失礼した。

 玄関先へ出たときには、朝の運動がちょうど終わったとき。

汗をぬぐいながら、「これから西浦温泉へ行ってきます」と言うと、「いいねエ〜」と。

●家を出る

 「家を出る」ということは、とても大切なこと。

「出る」だけでも、刺激になる。

けっして家の中に引っ込んでいてはいけない。

ボケる。

うつ病になる。

「50代では、年50泊、60代では、年60泊……」を目標にする。

あくまでも「目標」だが、60泊というと、週1泊以上ということになる。

が、幸運なことに、私にとっては、それほど無理な回数ではない。

どこかへ講演に行くときは、講演先のどこかに、かならず一泊するようにしている。

それがだいたい、週1回ほどになる。

ともあれ、これはあくまでも努力目標。

しかしそれくらいの目標を立てないと、どうしてもダラけてしまう。

ジジ臭くなってしまう。

●G神社

 JR浜松駅へ向かう途中、G神社の前を通る。

境内に、車が一列になって並んでいるのが見えた。

「車の初詣」!

私たちはそう呼んでいる。

(正確には、「車のお祓い」というのだそうだ。)

一列に並んだ車の前を、神主らしき男性が、何やらお祓いをしながら歩いていた。

 が、こんな調査結果を何かの本で、読んだことがある。

 そうした「車の初詣」をしたからといって、事故率が下がるわけではない。

お祓いをしてもらった車も、そうでない車も、事故になる確率は同じ。

理由がある。

●迷信

 その前に……。

私たちは、こうした迷信とは、まったく無縁の世界に生きている。

若いころから、そうだった。

私は、こうした宗教的行為を、「迷信」と断言する。

が、そう断言するには、勇気が必要。

「迷信」と断言するということは、そういった「力」との決別を意味する。

私たちだけで、生きていかねばならない。

だれも助けてくれない。

万が一のときも、だれにもすがれない。

 が、今はちがう。

64歳にもなって、何かに遠慮してものを書くのも、いやになった。

だから「迷信」と断言する。

はっきり、断言する。

 冷静に考えてみれば、わかるはず。

運転する「人間」に、お祓いをするなら、まだ理解できる。

金属でできた車に、お祓いをして、どうなる?

神社にしても、最初から断ったらよい。

いくら信者が「やってくれ」と願ったとしても、断ったらよい。

「車には、できません」と。

 また「お祓いをしてもらったから、安全」と思ってはいけない。

そう思うことによって、かえって油断が生まれる。

反対に「私たちを守ってくれるものは、何もない」と思うのも、悪くない。

そう思うことによって、運転が慎重になる。

どちらであるにせよ、事故になる確率は同じ。

詳しい調査をしたら、ひょっとしたら、「車の初詣」をした車のほうが、事故率が高いという結果
が出るかもしれない。

●生き様

 ならば人生の途中で、そうした迷信を捨てることができるかというと、それはできない。

迷信が、生き様の基盤になってしまう。

そういう人たちは、捨てたとたん、不安になる。

車について言えば、不安で、運転もできなくなる。

だから一度依存したら最後、死ぬまで依存するしかない。

宗教いうのは、そういうもの。

 もしどうしても……、ということであれば、生き様そのものを変えなければならない。

「依存」から「自由」へ。

「自由」というのは、「自らに由(よ)る」という意味である。

それまで「依存」で生きてきた人が、ある日を境に「自由」に生きるなどということはできない。

●功徳(くどく)

 こんな調査結果もある。

 「金持ちになれる」をキャッチフレーズに、戦後、勢力を拡大した宗教団体があった。

「この信仰をすれば、庭の枯れ木に、札束の花が咲く」と。

 が、実際に調査してみると、その宗教団体の信者のほうが、貧しい人が多かったという。

それについては、2つの考え方ができる。

ひとつは、もともと貧しい人たちが多かったということ。

もうひとつは、彼らが言うところの「功徳(くどく)」などというものは、もとからなかったということ。

今では、日本人全体が金権教の信者のようなもの。

欲得のかたまりのようなものだから、功徳(=信仰によって得られる利益)を、金権に換算する
人は少なくない。

もとから宗教に対する、心構えがズレている。

金権を求めるために、信仰をしてはいけない。

またそんなことに「力」を貸す神や仏がいるとするなら、それこそ、その神や仏は、エセ。

ニセモノ。

そんな神や仏は、相手にしてはいけない。

 私が釈迦なら、こう言うだろう。

『バラモンよ、拝んで金が儲かると思ってはいけない。

拝んで権力が手に入ると思ってはいけない。

拝むなら自分の心に拝め。

蔵の財より、心の財。

それを求めよ』と。

●JR浜松駅

 正月の3日。

JR浜松駅は、混んでいた。

電車の中も混んでいた。

途中から席に座れたが、豊橋の、2、3駅手前でのこと。

「やはり車で来るべきだった……」と、ふと、心の中でそう思った。

●JR蒲郡(がまごおり)

 蒲郡(がまごおり)に、着いた。

が、ここで問題、発生。

時計を見ると、午後1時30分。

このまま行けば、旅館へは、午後3時前に着いてしまう。

案内書には、「チェックイン可能時間、15:00〜」とある。

 「どうしようか?」と聞くと、ワイフは「水族館でも見てこようか」と。

が、外は寒々とした冬の景色。

蒲郡には、その水族館がある。

「西浦の駅で、時間をつぶそう」と私。

「そうね」とワイフ。

●西浦

 西浦へは、午後2時、少し前に着いた。

宿へ電話をすれば、迎えに来てもらえるはず。

「どうしようか?」と、またワイフ。

「早く行って、ロビーで待とう」と、私。

●歩く

 私たちはしばらく歩くことにした。

駅前で子ども連れの男性に道を聞くと、「この先、『力寿司』という寿司屋があるから、そこを右
へまっすぐ行けばいいよ」と。

 私たちは教えられたとおりに、歩き始めた。

 ……西浦の町は、いつ来ても、元気がない。

多くの店は、正月なのか、それともふだんからそうなのかは知らないが、みな、シャッターを下
ろしていた。

私たちは、寿司屋の前を右に折れると、そのまま西浦温泉のほうに向かって歩き出した。

●八王子神社

 途中、左手に立派な社(やしろ)が見えてきた。

場違いなほど立派な、社だった。

私たちはその神社にひきつけられるように、境内へと入っていった。

「八王子神社」と、大きく石碑に彫り込んであった。

私とワイフは、石段を上り始めた。

何度も「立派な神社だね」と。

●境内

 境内で写真を撮っていると、白い着物を着た男性が、親しげに近づいてきた。

「どちらから?」と。

「浜松です」と答えると、うれしそうに、あれこれと説明してくれた。

 由緒ある神社だった。

境内には、ほかに3、4人の人たちがいた。

掃除をしたり、あと片づけをしたりしていた。

 帰るとき、ワイフがまた同じことを言った。

「こんなところに、こんな立派な神社があるなんて……」と。

●親切な男性

 街道を歩いていると、(幡豆(はず)街道という)、うしろから軽のバンが追いかけてきた。

私たちの横に止まると、中から70歳くらいの男性がこう言った。

「乗せていってあげるよ」と。

 先ほどまで神社にいた男性だった。

「はあ……」と私。

「西浦温泉まで、乗せていってあげるよ」と。

 私とワイフは、そのままバンに乗った。

男「まだ、だいぶあるよ」

私「すみません……。いえね、私、こうして見知らぬ人に車に乗せてもらうのは、この40年で、
はじめてではないかと思います」

男「ははは……」と。

 そう、この40年間で、はじめての経験だった。

他人を乗せたことはあるが、見知らぬ人に乗せてもらったことはない。

が、居心地は悪くなかった。

先ほどの神社で、賽銭として、もっていた小銭をすべてはたいた。

そのご利益?

●旅館「葵」

 一文字で、「葵」。

立派な旅館だった。

玄関を入ると、フロントまで一直線の赤いジュータンが敷いてあった。

 ここで訂正……「ペントハウス(最上階)」を思ったが、フロントからつづきになっている、一番
奥の部屋だった。

露天風呂付きの部屋。

ドアを開けると、下足置場だけで一部屋分あるほど、中は広かった。

「すごい部屋だな」と。

 仲居さんが、露天風呂の使い方を、あれこれ説明してくれた。

●温泉

 私たちはいつものように一服すると、そのまま大浴場へ。

大浴場には、私、1人だけだった。

ラッキー!

こういうのを私は子どものころ、「一番風呂」と呼んでいた。

町の銭湯で、そういう言葉を使った。

●銀波荘

部屋からは、渥美湾が一望できた。

少し前に泊まった、銀波荘がすぐ前の眼下に見えた。

その銀波荘の料理は、超一級。

料金も高かったが、それだけの価値はあった。

そんな話をしながら、ワイフと遠くの景色を眺めた。

 別の旅館に泊まりながら、隣の旅館をほめるというのも、どうかと思う。

が、銀波荘の料理には、驚いた。

一品、一品に、奥深い趣向がこらされていた。

●人間関係

 ここへ来る電車の中で、ワイフとこんな話をした。

人間関係について。

 都会に住んでいる人は、あまりそういう話はしない。

理解できないだろう。

しかし人間関係が濃密な田舎に住んでいると、それがよくわかる。

こういう話。

 たとえばA、B、C、D、Eさんの5人がいたとする。

五角形を頭の中で描いてみればよい。

そのとき、対角線を描くと、計10本の線が引ける。

具体的には、A−B、A−C、A−D、A−E、B−C、B−D、B−E、C−D、C−E、D−Eと。

それぞれが、別の人間関係を形成する。

実際には、双方向性ができるから、20本の線ということになる。

A−Bの関係と、B−Aの関係が、異なるときがある。

Aさんは、Bさんが好き。

が、Bさんは、Aさんが嫌い、と。

だから20本。

こうして地方の田舎では、複雑な人間関係が形成される。

●評価

 たとえば同じBさんを、Aさんは、ほめちぎる。

が、同じBさんを、今度はCさんが、ボロクソに叩く。

同じ人物なのに、人によって評価が、まったくちがう。

ときに、その評価が180度、異なるときがある。

 もちろんこの私についても、だ。

Aさんは、私のことを、よい人だと言う。

そういう話が、どこからともなく伝わってくる。

 が、私は同じ「私」なのに、Bさんは、私のことを、ボロクソに叩く。

そういう話が、どこからともなく伝わってくる。

 そのときたいへん興味深いのは、そういう評価は、若いころはまだ流動的ということ。

が、50歳を過ぎると、それが固定化してくる。

ボロクソに叩く人は、それこそ20年前、30年前の話を持ち出して、叩く。

 が、それだけではない。

心のどこかにもっていた(わだかまり)が、50歳や60歳を過ぎたころ、一気に噴き出す。

そのため評価の仕方も、極端になりやすい。

●人間のクズ

 たとえば、こんな例。

 A氏とB氏は、ほぼ同じ年齢。

が、A氏は、よい家柄の御曹司。

B氏には、その家柄がない。

 それもあって、A氏は、子どものころからB氏を、「下」に置いていた。

B氏は、「下」という立場に甘んじていた。

こうして20年、30年と過ぎる。

 が、そのころから、B氏はA氏をボロクソに叩くようになった。

「あいつは、人間のクズ」と。

が、肝心のA氏は、いまだにそれに気づいていない。

「私は尊敬されるに値する人間だ」と。

 が、ここで先にも書いたように、おもしろい人間関係が形成される。

ふつうは、「好意の返報性」といって、相互に似たような人間関係になる。

A氏がB氏をよい人と思っていると、B氏もまたA氏のことを、よい人と思うようになる。

日本でも昔から、『魚心あれば、水心』という。

英語の格言にも、「相手は、あなたが思うように、あなたのことを思う」というのがある。

ふつうなら、そうなるのだが、先にも書いたように、人間関係はそれほど単純ではない。

とくに濃密な近隣関係にある世界においては、そうだ。

●おもしろい人間関係

 

 で、そのA氏を、C氏は、高く評価している。

「Aさんは、すばらしい人だ」と。

 理由を聞くと、「先祖を大切にしているから」と。

A氏は、毎年、盆暮れになると、名古屋からやってきて、墓参りをきちんとする。

が、A氏は、C氏をボロクソに叩く。

「あいつは、墓参りすら、きちんとやっていない」と。

 A−Cの関係と、C−Aの関係が、中身において、ちがう。

それがここに書いた「おもしろい人間関係」ということになる。

●表面(おもてづら)

 が、さらに興味深い現象が、起きる。

そういう関係にもかかわらず、(たいへん複雑に入り組んだ関係にもかかわらず)、それぞれの
人たちは、みな、見た目には、よい人間関係をつづけている。

表面(おもてづら)と、裏面(うらづら)を、巧みに使い分けている。

まさに面従腹背。

ボロクソに叩きながらも、だからといって、喧嘩しているわけではない。

いっしょに飲み食いをしたり、ときには、いっしょに旅行もしたりする。

 都会に住んでいる人には信じられないような話かもしれない。

しかしこの浜松という、人口80万人の都市においてすらも、そういう現象が起きる。

それをワイフは、「おもしろい」と言う。

私も「おもしろい」と言う。

私「だけどね、ぼくは、そういうことができない」

ワ「そうね、あなたには、できないわね」

私「そうなんだよ。裏で悪口を言いながら、表では仲よくつきあう……。とてもぼくにはできない」

ワ「私もできないわ」

私「だからね、ぼくのばあいは、その人の悪口を書いたばあい、その人とは、つきあわないこと
にしている」と。

 そう、それは事実。

私は一度でも、その人のことを悪く書いたばあいには、(たとえその人とわからないように書い
たばあいでも)、その人とは縁を切ることにしている。

それをしないと、脳みそがバラバラになってしまう。

 だから……当然のことだが、その人の悪口を書くときは、最後の最後……。

……というより、めったに書かない。

そんなことをすれば、筆が汚れる。

自分の住む世界を狭くする。

●『道徳的未熟児』?

 たった今、あちこちのニュース・サイトに目を通した。

その中に、こんなのがあった。

朝鮮中央通信(北朝鮮)が、こんな論評を出している。

いわく、

『朝鮮中央通信は3日、「大国葬を迎えた朝鮮民族の胸を刃物で刺す日本の道徳的未熟児」と
いう論評で、隣国の大国葬をともに悲しみ慰めることができないとしても、朝鮮民族声援の弔
問までも遮断する日本当局の行為は卑劣だと主張した』(ヤフーNEWS)と。

 ごちゃごちゃと書いている部分は、無視してよい。

あの国の言っていることは、いつも常識をはずれている。

が、この中にある、『道徳的未熟児』という言葉だけに注目してほしい。

(『道徳的未熟児』だぞ!

この私たち日本人が!)

 こうして世界中にニュースが配信されたから、私もあえて書く。

「道徳的未熟児」とは、いったい、どういう子どもや人をさして言うのか。

 ためしに「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみてほしい。

一例も、ヒットしないはずである。

「未熟」という言葉はよく使う。

しかし子どもや人をさして、「未熟児」とは言わない。

また言ってはならない。

(この原稿は別として。)

 私は幼児教育歴43年になるが、「未熟児」などという言葉は使ったことも、口に出して言った
こともない。

講演などでも、一度もない。

(当然のことだが……。)

タブーというより、禁句。

禁句と意識する以前の、禁句。

 こういう言葉を、堂々と使う北朝鮮が、恐ろしい。

1. どういう子どもをさして、未熟児というのか

怒れるよりも先に、あきれる。

それとも北朝鮮には、未熟児はいないというのか。

子どもの3分の1以上が、栄養失調と言われている。

そういう子どもたちが、未熟児になる心配はないのか。

 ともかく、この言葉には、驚いた。

私たちがけっして口にしてはいけない言葉。

それが「未熟児」。

もともと私の思考回路の中にさえ、ない。

そういう言葉が、こうして堂々と、活字になっている!

 私はそれに驚いた。

●露天風呂

 夕食前に、2度目の露天風呂に入った。

雲ひとつない、紺碧の夜空だった。

月が美しく、星もまばたきもせず、その横に散らばっていた。

それを見ながら、決心した。

「露天風呂を作ろう!」と。

 以前から計画していたが、二の足を踏んでいた。

とくに理由はないが、その時間がなかった。

しかし作ろうと思えば、1日で、できる。

板を敷き、その上に、風呂釜を置く。

風呂釜は何でもよい。

友人のTH氏は、ドラム缶を置いて、風呂にしている。

(本物のドラム缶だぞ!)

 この温泉の露天風呂は、陶器でできた瓶(かめ)。

どこかにそれを売っている店もあるはず。

……しかし、お湯を抜くときはどうすればよいのか。

陶器に穴をあけるのも、たいへん。

ウ〜ン?

●「はやし浩司 未熟児」

 たった今、「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみた。

これは念のため。

万が一にもその言葉を使っていたら、私は自分の評論生命を絶たねばならない。

そう思いながら、検索をかけてみた。

 ヤフーの検索で、557件、ヒットした。

「未熟」という言葉で、ヒットした。

「未熟児」という言葉は、やはり一度も使ったことがない。

それがわかった。

で、その2件目に、つまり557件中、上から2件目で、「脳の未熟化」について書いた原稿が見
つかった。

こんな旅行記に、その原稿を載せるのもどうかと思うが、ここに転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「脳の未熟化」(澤口俊之著「したたかな脳」)

澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の

あるなしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。

ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。

いろいろな原因が考えられているが、要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」
(養老孟子)になってきたということ。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分

の子どもに向かって、こう叫んだという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。

服装や、かっこうはともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中

でも前頭連合野である。

最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあることがわかって
きました」(同書、P34)と。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。

しかもその発達時期には、「適齢期」というものがある。

言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくると、発達を停止してしまう。

「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適切にその能力を伸ばさな
いと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験によればの話だが、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満
4・5歳から5・5歳。

この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることができる子どもになる。そう
でなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、

もう遅い。

遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。

一度、定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。

わからないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完
成されると考えてよい。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお

く必要がある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、

このことは、決して笑いごとではすまされない。

(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳 はやし浩司 教育 林 
浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言語能力

 その言語能力で気になるのが、最近の若い人たちの話し方。

鼻から息を抜きながら、フガフガした言い方をする。

たとえば、「いらっしゃいませ」を、「ヒラッアシャハイ、ムァーセ」と。

 幼児教育の世界には、「発語障害」という言葉がある。

が、そのどれにも属さない。

ということは、後天的に、こうした言い方は、クセとしてその人に定着する。

若い女性に多い。

「このままでいいのか?」と、考えたところで、思考停止。

 言葉というのは、そういうもの。

いつも大衆が、その流れを決めていく。

が、好きか嫌いかと聞かれれば、私は嫌い。

聞きづらいという点で、私はそういう言い方が、嫌い。

日本語が基本的な部分で、壊れつつある。

そんな危機感さえもっている。

 フロントでチェックインしていたとき、同時に並んだ若い女性たちが、みな、そんな話し方をし
ていた。

●夕食

 夕食は、海賊焼き。

伊勢エビ、アワビなどの豪華品に、あとは定番。

量は多すぎるほど。

満足したというより、楽しかった。

凝(こ)った懐石料理もよいが、私はこのタイプの夕食のほうが楽しい。

肩も凝らない。

●露天風呂

 夕食後、私は再び、露天風呂へ。

ワイフはDVD鑑賞。

これもいつもの定番。

 月に白いモヤのような雲が、かかり始めた。

そんなことを考えながら、ぼんやりと空をながめる。

無我の時。

 よく誤解されるが、私はいつも、ものを考えているわけではない。

ものを書いていないときの私の頭の中は、カラッポ。

いつも馬鹿話ばかりしている。

ふだんの私を見たら、あなたはこう思うだろう。

「この男は、馬鹿?」と。

(実際、馬鹿なのだが……。)

 それが私の特技かもしれない。

ものを書いているときの私の脳みその中は、モヤモヤでいっぱいになる。

が、そうでないときの私の脳みそは、カラッポ。

モヤモヤとカラッポ、それをいつも繰り返している。

そのときが、そうだった。

露天風呂に入っているとき、私の脳みその中は、カラッポだった。

完全にカラッポだった。

●近視主義者

 ワイフは、「今を楽しもう」と言う。

私は、悲観論者。

自分の末路を考えると、どうしても悲観的になる。

このちがいは、どこから生まれるのか。

 が、私はワイフが楽観論者とは思っていない。

現実主義者でもない。

私は「近視主義者」と呼んでいる。

いつも目先のことしか、考えない。

目先のことしか、見えない。

つまり未来を予測しながら生きるということを、しない。

「何とかなるわ」が、ワイフの口癖。

 そういうワイフを、うらやましいと思うときもある。

そういうときは、こう思う。

「ぼくのような変人には、ワイフのような妻がいちばん似あっている」と。

 

 が、そうでないときもある。

私の未来的な絶望感を理解できないときがある。

老後のことを心配したりすると、すかさず、こう言い返す。

「忘れなさいよ」と。

そういうときは、たいへん苛(いら)立つ。

「忘れることができないから、悩んでいるのだ!」と。

 が、結局のところ、……いつも、最終的にはいつもそうなるが、ワイフが正しい。

私が負けを認め、それでおしまい。

 ……この文章をワイフが読むかどうかは、わからない。

わからないが、正直に告白する。

負けを認める。

私が恐れていることは、自分の老後のことではない。

孤独死とか、無縁死でも、何でもよい。

そんなことは、どうでもよい。

私が恐れているのは、いつか、ワイフがいなくなったときの世界、である。

はたして私は、そんな世界に耐えられるだろうか。

●10年、早ければ……

時刻は、午後9時を、少し回った。

ワイフは相変わらず、DVDを見ている。

聞き慣れない言葉である。

ドイツ語のようでもあるが、ドイツ語でもない。

「No」という意味で、「ネイ」と言っている。

雰囲気からして、オランダの映画?

北欧の映画?

よくわからない。

……というか、この世界には、私の知らないことのほうが、多すぎる。

だからときどき、こう思う。

気がつくのが、もう10年、早ければよかった、と。

10年早ければ、もっと新しいことを知ることができた、と。

 が、今は、ちがう。

脳みその働きそのものが、鈍くなってきた。

片端(かたっぱし)から新しいことを知り、同時に、片端から忘れていく。

これではいつになっても、前に進むことができない。

このはがゆさ。

このもどかしさ。

 DVDの主人公たちは、私たち日本人がもっている価値観と、まったく異質な価値観をもって
いる。

それを知るためには、彼らとともに生活しなければならない。

苦楽を共にしなければならない。

 反対の立場で考えてみると、それがよくわかる。

たとえば「家・意識」。

アメリカ人やオーストラリア人に、日本人がもつ「家・意識」を説明しても、理解できない。

彼らがそれを知るためには、また理解するためには、日本に住み、日本人といっしょに生活し
なければならない。

●知的優越感

 知的優越感というのは、確かにある。

私も、ある時期、それを強く感じた。

「私は、君たちの知らない世界を知っている」と。

が、今はそれも色あせ、老後の中で、ごちゃ混ぜになってしまった。

ただその一方で、私から見ると、化石のような人に出会うことは、多くなった。

その人が「化石」というのではない。

私の中に残っている「化石」そのままだから、「化石のような人」という。

 少し入り組んだ話になるが、許してほしい。

 若いときに(外の世界)へ出た人と、反対に、生まれも育ちも、そしてそれ以後も、ずっと(内
の世界)に住んでいる人がいる。

(外の世界)へ出た人には、(内の世界)がよく見える。

が、ずっと(内の世界)に住んでいた人には、当然のことながら、(外の世界)がわからない。

わからないまま、(内の世界)を基準にして、ものを考える。

(外の世界)を想像したりする。

 こう書くと、(内の世界)に住んでいる人は、こう反論するかもしれない。

「外国のことはよく知っている」「ときどき外国へ旅行する」「テレビでもよく紹介されるから、それ
を見ている」と。

 しかし(外の世界)を知るということと、観光客として、外国を訪れるということの間には、天と
地ほどの開きがある。

(外の世界)の人だって、観光客には、自分たちの世界を見せない。

さらに中には、私にこう言う人もいる。

「君は、外国かぶれしている」と。

●化石

 そこで私自身を振り返ってみる。

もし私があのまま日本の会社に入り、そのまま60歳を迎えていたら、私はどうなったか、と。

「あのまま」というのは、99・9%の日本人がそうであったように、(外の世界)を知らないまま、
日本だけに住み、日本の中で生活をしていたら、という意味である。

が、これについては、何も、想像力を働かせなくてもよい。

そういう人を、あなたの周辺から探してみれば、それでよい。

探して、そういう人が、どういうものの考え方をしているかを、知ればよい。

つまり、それが(あのままの私)ということになる。

 が、最近は、そういう人たちが、私には、「自分自身の化石」に見えるようになった。

先に「化石のような人」と書いたのは、そういう意味。

「過去の自分のまま」という意味で、そう言う。

で、私と彼らはちがう……というのは、あくまでも結果論にすぎない。

ここでいう「化石」というのは、私自身の内部で、核になっている「私」を意味する。

固くて、心の中で石のようになっている。

だから「化石」。

●因習

 もう少し具体的に話そう。

 私は子どものころ、学校が休みになると、決まって母の実家のある田舎で過ごした。

そこには、古い因習が、ぎっしりと詰まっていた。

そこはまさに、(情の世界)。

すべてが「情」を中心に動いている。

(だからといって、因習や情を否定しているわけではない。誤解のないように!)

 しかしそれが因習とわかったのは、ずっと後になってからのこと。

30代、40代になってからのこと。

が、もし私があのまま(外の世界)を知らないでいたら、私自身が因習を因習とも気づかないま
ま、私はそれをそのまま踏襲していただろう。

事実、そのあたりにそれ以後も住み、そこで暮らした人たちは、そっくりそのまま因習を踏襲し
ている。

●智に働けば……

 が、ここでいつも、厚い壁にぶち当たる。

そういう化石のような人たちに出会うと、(けっしてそういう人たちが、「下」とか、そういうことを
書いているのではない。誤解のないように)、言いようのない無力感を覚える。

あまりにも遠くに住んでいて、どこからどう説明したらよいのか、わからなくなる。

実際には、不可能。

つまり私を理解するのは、不可能。

だから私のほうが、先に引いてしまう。

引いて、私のほうが、彼らに合わせる。

 「そうですね」「そのとおりです」と。

 が、それはむずかしいことではない。

私の中にある「化石」を、そのまま引き出せばよい。

ちょうど机の引き出しから、古い本を取り出すように、だ。

あとはその化石を見ながら、相手に合わせていけばよい。

 ところで夏目漱石は、『草枕』の冒頭で、こう述べている。

『智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される』と。

 理性だけを主張していると、他人との衝突がふえる。

しかし相手の情に同調していると、自分を見失ってしまう、と。

 たしかにそうだ。

相手に合わせるのは、むずかしいことではないが、いつも後味が悪い。

いや〜な気分になる。

●01月04日

 今日は1月4日。

時刻は午前8時30分。

西浦駅に向かうバスが、9時に出るという。

今、そのバスを待っている。

 まぶしいばかりの白光。

昨夜は遅くまで波の音が聞こえたが、今は、それもない。

窓の外の波を見ると、岸のほうから太平洋側に向かって、動いている。

今日も、北風。

寒い1日に、なりそう。

 そうそう、昨日、オーストラリアのB君からメールが届いた。

南オーストラリア州では、ここ2日ほど、気温が41度を超えているという。

41度!

 もっともオーストラリアでは、空気がカラカラに乾燥しているから、41度といっても、日陰に入
れば、涼しさを感ずる。

夜も寝苦しいということはない。

が、心配なのは、ブッシュ・ファイア(山火事)。

大平原が、それこそ関東平野分ほど、燃えたりする。

それが気圧の移動とともに、あちこちを燃やし尽くす。

それがこわい。

●旅の終わり

 あわただしいが、これで旅行記はおしまい。

西浦温泉、たつき別館、『葵』にて。

2012年の英気を、ここで養う。

 はやし浩司・晃子

はやし浩司 2012−01−04

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 西浦 葵 たつき別館 西浦温泉 葵)




Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司




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●沖縄旅行記




【息子の初飛行】はやし浩司 2010−10−29

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息子の初飛行について書く前に、息子が
航空大学校の学生のとき、単独飛行したときに
書いた原稿を添付します。

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【息子の初フライト】

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今日(29日)は、息子が、はじめて
名古屋空港(小牧)にやってくる日。
ワイフが、朝早く、小牧まで、でかけて
いった。

私は、ひとりで、留守番。

見たかった。私も、飛行機、大好き。
飛ぶのが、大好き。「飛ぶ」というより、
飛ぶものが、大好き。

小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、
それを両腕に結んで、1階の屋根から
飛び降りたこともある。

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 今日(1月29日)は、息子が、はじめて名古屋空港(小牧)にやってくる日。ワイフ
がそれを迎えるため、朝早く、小牧まででかけていった。

 が、私は、ひとりで留守番。見たかった。私も飛行機、大好き。飛ぶのが大好き。「飛ぶ」
というより、飛ぶものが大好き。ラジコンはもちろん、ロケット、紙飛行機にいたるまで、
ありとあらゆるものが、大好き。ついでに鳥も、大好き。

 こんな思い出がある。

 小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、それを両腕に結んで、1階の屋根から飛び
降りたことがある。板には、大きな紙を張りつけた。私はそれで空を滑空するつもりだっ
た。

 結果は、みなさん、予想のとおり。ドスンと地面にたたきつけられて、それでおしまい。
体が軽かったこともあり、たいしたけがもしないですんだ。私が、小学3年生くらいのこ
とではなかったか。年齢はよく覚えていない。

 以来、私は、飛行機人間になった。パイロットになるのが、夢になった。が、中学生に
なると近眼が進んだ。当時は、近眼の人は、パイロットにはなれなかった。みなが、そう
言った。だからあきらめた。

 そこで今回は、息子のBLOG特集。今までに息子が書いた記事を集めてみる。

 言い忘れたが、今日は、仙台→名古屋→宮崎、明日(30日)は、宮崎→高知→仙台と
いうルートで飛ぶという。明日(30日)は、正午ごろ、浜松の自衛隊基地上空を通過す
るとのこと。
高度は、1500フィート、約4500メートル。

 双発のジェット小型機。もしその時刻に空を見あげることができる人がいたら、ぜひ、
見てほしい。「私」が飛んでいる!

++++++++++2007年1月30日+++++++++++

【黄色い旗】

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2007年1月30日。
息子のEが、自分で飛行機を操縦して、
はじめて、浜松市の上空を飛ぶ。

そこで、私は、2メートル四方の大きな
旗をつくった。テカテカと光る黄色い旗である。

それを地上から振り、息子に合図を送る。

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●電話

 高知県の高知空港から、連絡が入った。「これから高知空港を飛び立って、浜松に向う」
と。
私は、すかさず、「何時ごろ?」と聞く。

E「1時から、1時半ごろの間だよ」
私「わかった。ぼくとママは、自衛隊基地の南西の角地で、旗を振る。黄色い、大きな旗
だ」
E「見えるかなあ?」
私「南西の角地だ。わかったか。そこを見ろ」と。

 一度、電話を切ったものの、すぐまた電話。今度は、こちらからかけた。

私「そうそう、飛行機はどちらの方向から飛んでくるんだ」
E「真西から、真東に向う」
私「地図で見ると、南西の方角ではないのか?」
E「一度、名古屋の先まで向かい、そこから、東に向う」
私「わかった」と。

 私の声は、子どものようにはしゃいでいた。それが自分でもよくわかった。

 現在、息子は、航空航空大学にいる。2年間の全寮制の大学である。それがいよいよ終
了に近づいてきた。現在は、宮城県の仙台市にいて、最終的な訓練を受けている。練習機
も、単発機のボナンザから、双発ジェットのキングエアに変わった。正確には、ターボプ
ロップエンジンといって、ジェットエンジンでプロペラを回して飛ぶ飛行機である。

 巡航速度は、550〜600キロ(毎時)だそうだ。

●旗

 旗は、長い棒に、セロテープでとめた。テカテカと光る黄色い旗である。それに合わせ
て、ワイフも、私も、黄色いジャケットに着替えた。「これなら空から見えるかもしれない
ね」と。

 空を見あげると、ほんのりと白いモヤがかかっているものの、ほぼ快晴。ところどころ
に、白い雲がポツポツと見える。青い空が、目にしみる。

 「これなら、飛行機が見えるかもしれない」と、また私。

 私とワイフは、旗を車に載せると、航空自衛隊の基地のほうに向った。途中、コンビニ
よって、おにぎりを買うつもりだった。

ワ「私ね、あなたと結婚して、よかったと思うことが、ひとつ、あるわ」
私「なんだ?」
ワ「あなたといると、感動の連続で、退屈しない……」
私「なんだ、そんなことか」と。

●1万5000フィート

 自衛隊の基地へは、10分ほどで着いた。手前のコンビニで、おにぎりとお茶を買った。
1時までは、まだ時間がある。時計を見ると、12時45分。

 基地の南西の角にある空き地に車を止めた。止めるとすぐ、ワイフが、車の屋根に、黄
色いシートをかぶせた。私は、旗を出すと、それを振る練習をしてみた。通り過ぎる車の
中から、みな、人がこちらを見ていた。が、私は気にしなかった。

私「これなら、見えるよ、きっと」
ワ「でも、高いところを飛ぶのでしょ」
私「1万5000フィートだそうだ。約4500メートル」
ワ「富士山より高いのよ」
私「見える、見える、あいつは、視力がいい」と。

 私は何度も時刻を聞く。ワイフは、空をまげたまま、動かない。ときどき、大きなライ
ン機が、
空を飛びかう。白い雲が、今日は、いじらしい。

ワ「あの飛行機は、どれくらいの高さを飛んでいるのかしら?」
私「あれも、4500メートルくらいではないかな?」
ワ「あれくらいの高さだったら、見えるかもしれないね」と。

●1時15分

 そのとき、真西のほうから、飛行機が近づいてきた。ライトをつけている。それを見て、
ワイフが、「あれ、E君じゃ、ない?」と。

 私は「そうかもしれない」とは言ったものの、それにしては高度が低すぎる。「あんな低
くはないよ」とは言ったものの、期待はふくらんだ。「ひょっとしたら、Eかもしれない。
あいつ、基地に近づいたら、前輪灯をつけると言っていた」と。

 目をこらしていると、その飛行機は、基地をめざしてまっすぐに飛んできた。が、やが
てそれに爆音がまじるようになった。

ワ「ジェット機よ……。自衛隊の……」
私「そうだよな、あんな低いはずはないよな」と。

 ジリジリと時間が過ぎていく。1時は過ぎた。しかし、薄いモヤを通して飛行機をさが
すのは、容易なことではない。飛行機そのものが、空に溶け込んでしまっている。そんな
感じがした。

私「何時だ?」
ワ「1時10分よ」
……
私「何時だ?」
ワ「1時12分よ」と。

 そのとき、一機の飛行機が、2本の飛行機雲を残しながら、上空を横切っていった。

私「あれは、ちがうよね」
ワ「あれは、旅客機みたい。大きいわ。Eのは、小型機よ」
私「そうだね……」と。

 するとそのあとすぐ、それを追いかけるかのように、一機の飛行機が空を横切っていっ
た。後退翼の飛行機である。翼端の青い線が、何となく見えた気がした。その飛行機が、
丸い雲の間から出て、まっすぐと東に飛んでいった。

ワ「あれよ、きっと、あれよ」
私「あれかなあ? キングエアの翼は、まっすぐだよ。後退翼ではないはず……」と。

 しかし旗を振るヒマはなかった。目にもわかる速い速度で、その飛行機は、スーッと視
界から遠ざかり、再び、丸い雲の中に消えていった。

私「時刻は、何時?」
ワ「ちょうど、1時15分よ」
私「そうか。やっぱりあれが、Eの飛行機だ。あいつは、昔から時間に正確な子どもだっ
たから。1時から1時半の間と言えば、1時15分だ」
ワ「そうよ、きっと、あれよ。よかったわ。見ることができて」
私「うん」と。

●キングエア

 私たちは、すぐには帰らなかった。「ひょっとしたら、まちがっているかもしれない」と
いう思いで、そのまま、そこに立った。手には黄色い大きな旗をもったままだった。

 が、通るのは、明らかにライン機と思われる大型のものばかり。それから1時半まで、
小型の飛行機は通らなかった。

私「やっぱり、あれだった」
ワ「私も、そう思うわ。あれよ」
私「あとで、Eに聞いてみればわかる。あいつも浜松を通過した時刻を覚えているはずだ
から」
ワ「そうね」と。

 何となく、後ろ髪をひかれる思いで、私とワイフは、その場を離れた。時刻は、1時3
5分ごろだった。

 旗をしまい、つづいて、車の上のシートをしまった。ワイフは、何度も、「やっぱり、あ
の飛行機よ」と言った。

 Eが操縦していたキングエアは、翼に上反角がついている。だからうしろ下方から見る
と、後退翼の飛行機のように見える。はじめは、後退翼の飛行機だったから、キングエア
ではないと思った。しかしそのうち、それを頭の中で、打ち消した。「やっぱり、あの飛行
機だった」と。

●息子のE

 ふたたび、私たちは現実の世界にもどった。いつものように車を走らせ、信号で、止め
る。

 そのとき、ふと、私は、こう言った。「あいつは、本当にあっという間に、飛び去ってい
ったね」と。

 Eをひざの上に抱いたのが、つい、先日のように思い出された。生まれたときは、30
00グラムもない、小さな子どもだった。何もかも、小さな子どもだった。

 そのEが、今は、もうおとな。身長も180センチを超えた。本当に、あっという間に、
そうなってしまった。そして私たちのところから、飛び去ってしまった。

私「あの飛行機の中に、あいつがいたんだね」
ワ「そうね」
私「もう東京あたりまで、行っているかもしれないよ」
ワ「そんなに早く?」
私「そうだよ。時速600キロだもん。30分で東京へ着いてしまうよ」
ワ「飛行機って、速いのね」
私「うん……」と。

 うれしくも、さみしさの入り混じった感情。それが胸の中を熱くした。多分、ワイフも、
同じ気持ちだったのだろう。家に着くまで、ほとんど、何もしゃべらなかった。

 車をおりるとき、再び、ワイフが、こう言った。「本当に、あなたといると、退屈しない
わ」と。
 私は、それに答えて、「ウン」とだけ言った。
(2007年1月30日記)

【追記】

 やっぱり、あの飛行機が、キングエアでした。以下、EのBLOGから、日記をそのま
ま紹介します。

++++++++++++++++++++

 一泊航法、2日目。この上なくスッキリとした寝起き。僕たちの班は、高知経由で仙台
へ帰還する。高知〜仙台間が、僕の担当するレグだ。僕は浜松出身なので、どうしても浜
松上空を通って帰りたかった。名古屋のあたりから新潟へ抜け、そこから真東へ帰るルー
トが主流なのだが、僕は名古屋から浜松、大島を経由し館山、御宿、銚子と房総半島を沿
うように北上、仙台に至るルートを選択。教官すら飛んだことのないルートで、フライト
プランが受理されるかどうか心配だった。というのも、羽田や成田の周辺は、国内一、航
空交通量の多いところなので、C90のような遅いプロペラ機が訓練でフラフラ来られると
迷惑がかかるのでは、と思ったのだ。
実際、高度帯によっては迂回させられる場合もあるんだとか。今回は17,000ft、約5000
mを選択。空港に離着陸するライン機は、空港周辺ではこの高度よりも低いところを飛ん
でいるだろうと予想した結果だ。難なく許可されたので一安心。

 14,000ft以上の高度を航空業界では、『フライトレベル』と呼ぶ。フライトレベル1・7・
0(ワン・セブン・ゼロ)。そこから見た日本の姿は、本当に綺麗だった。
 

航空自衛隊・浜松基地。両親がこの南西端にいて旗を振っていたらしいが、インサイトで
きず。

アクト・シティ。デジカメの望遠でここまで見えた。

一生忘れられない景色を、今日はたくさん見た。

 この他、羽田空港や成田空港なども見ることができた。成田空港では、アプローチする
海外のエアラインが僕らのはるか下方を、列を作って飛んでいるのが見えた。見えたは2
〜3機だけだったが、等間隔のセパレーションを保って、はるかかなたの海から繋がる飛
行機の列は、まるでベルトコンベアーのようであった。高知離陸から仙台着陸まで2時間
45分。今日は仙台に来て初めて、ランウェイ09に着陸した。

 今回の旅で感じたことはたくさんあったが、まとめると、本当に楽しかった、という言
葉になるだろう。操縦技術やオペレーションの訓練はもちろん、日本の空、日本の地形と
いうものの全体的なイメージが掴めた気がする。そして、日本国内だけでなく、海外にだ
って行けそうな、そんな自信も手に入れた。本当に、すばらしい2日間であった。一泊航
法で得た経験を、見た景色を、初めて飛んだ地元の空を、誇りに思ってくれた両親を、宮
崎で再確認した初心を、僕は一生、忘れない。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【息子の初フライト】JAL搭乗機

●羽田へ向かう

 これから羽田に向かう。
新幹線に乗って、品川まで。
品川で一泊。
朝イチで、羽田へ。
903便。
午前8時10分離陸
息子の初飛行。
副機長になっての初飛行。
機種はB777−300。
500人乗り。

が、あいにくの悪天候。
目下、台風14号が、沖縄を直撃中。
言い忘れたが、初飛行は、羽田から那覇(沖縄)まで。
明日は「欠航」になるはず。
それでも私たちは、羽田に向かう。
ワイフが、こう言った。
「沖縄へ行けなくてもいいから……」と。
ワイフにはワイフの思いがある。
息子のにおいをかぎたいらしい。
「E(息子)に会えなくてもいいから……」とも。
私はすなおに、同意した。

・・・いつだったか、私は息子に約束した。
「初飛行のときは、飛行機に乗るよ」と。
その約束を、明日実行する。

●搭乗券

 息子が、JALの無料搭乗券を送ってきた。
が、その券では飛行機の予約はできない。
私とワイフは、割高の席を予約した。
往復で、14万円。
(このLCCの時代に、14万円!)
LCC、つまりロー・コスト・キャリアー。
欧米では、ばあいによっては、300〜500円で飛行機に乗れるという。
そういう時代に、14万円!

 「高い」と思う前に、私のばあい、
「無事に帰ってこられたら、安い」と考える。
何を隠そう、私は飛行機恐怖症。
一度、飛行機事故に遭ってから、そうなってしまった。
今の今も、欠航になればよいと思う。
同時に、約束は守らねばならないという義務感。
その両者が、心の中で相互に現れては消える。

 本音を言えば、どちらでもよい。
飛行機は好きだが、今年(2010)になってからというもの、一度も空を
見あげていない。
いろいろあった。
加えて飛行機事故のニュースが報道されるたびに、ヒャッとする。
そうした状態がこの先、一生、つづく。

もし欠航になったら、羽田見物をする。
羽田でも、国際線が発着するようになったという。
それを見て、明日は、そのまま帰ってくる。

●息子の初飛行

 2010年、10月xx日。
JALに入社した息子が、副機長として
初飛行をする。
羽田から那覇まで。
飛行機の世界では、「初〜〜」というのは、
そのつど特別な意味をもつ。

 先週、その知らせを受け取るとすぐ、飛行機の予約を入れた。
長い手紙と、10枚近い写真が、それに添えてあった。
訓練につづく訓練で、忙しかったらしい。

●初飛行

 先にも書いたが、2010年の正月以来、ほぼ11か月。
私とワイフは、一度も空を見上げたことがない。
飛行機の話もやめた。
それまでは毎日のように空を見上げていたが・・・。

 正月に事件があった。
どんな事件かは、ここには書きたくない。
一度ハガキを書いたが、返事はなかった。
無視された。
手紙ではなく、ハガキにしたのは、家族の間で、秘密を作りたくなかったから。
ともかくも、その事件以来、私は苦しんだ。
ワイフも苦しんだ。

『許して忘れる』という言葉がある。
この言葉は自分以外の人には有効でも、自分に対しては、そうでない。
自分を許して、忘れることはできない。
自己嫌悪と絶望感。
……いろいろあった。

●ケリ

 そんな私がなぜ初飛行に?、と思う人がいるかもしれない。
それにはいろいろ理由がある。
ひとつには、自分の気持ちにケリをつけたかった。

息子が横浜国大を中退して、パイロットになりたいと言ったときのこと。
私は息子に夢を託した。
私も学生時代、パイロットにあこがれた。
仲がよかった先輩が、航空大学へ入学したこともある。

 が、息子が、航空大学に入学し、その夢がかなった。
息子が単独飛行で、浜松上空を横切ったときは、ワイフと二人で、
毛布を2枚つないだほどの大きな旗を作った。
黄色い旗だった。
それをワイフと2人で、空に向かって、振った。
JALに入社して、さらにその夢がかなった。
が、私の夢は、そこまで。

●私の夢

 私たちがその飛行機に乗ることは、昨日になってはじめて連絡した。
同じようにハガキで書いた。
たがいの連絡が途絶えて、10か月以上になる。
が、内緒で乗るというような、卑屈な気持ちはみじんもない。
私には私の夢があった。

息子の操縦する飛行機で、旅をする。
私の代理として、息子が操縦桿を握る。
その夢に終止符を打つために、飛行機に乗る。

私は私で夢をかなえ、あとは静かに、引き下がる。

●子離れ

 が、どうか誤解しないでほしい。
だからといって、息子との関係が壊れているとか、断絶しているとか、
そういうことではない。
(連絡は途絶えているが……。)
ワイフはいつも、こう言っている。
「自然体で考えましょう」と。

 その自然体で考えると、「どうでもよくなってしまった」。
「めんどう」という言い方のほうが、正しい。
親子の関係にも、燃え尽き症候群というのがあるのかもしれない。
その事件をきっかけに、私は燃え尽きてしまった。

 もちろん苦しんだ。
心臓に異変を感ずるほど、心を痛めた。
家にいる長男は、E(息子)を怒鳴りつけてやると暴れた。
私は私で、体中が熱くなり、眠られぬ夜もつづいた。
しかしそれも一巡すると、ここに書いたように、どうでもよくなってしまった。
もし修復するという気持ちが息子にあったとしたら、11か月というのは、
あまりにも長すぎた。
遅すぎた。

 これも子離れ。

●呪縛

 「今ね、息子や嫁さんに会っても、以前のようにすなおな気持ちで、
いらっしゃいとは言えないよ」と。
ワイフも同じような気持ちらしい。
仮に言えたとしても、そのときはそのときで、終わってしまうだろう。
長つづきしない。
やがて今のような状態に、もどる。

 悲しいというよりは、ワイフの言葉を借りるなら、「そのほうがいい」と。
「息子たちは息子たちで、私たちに構わず、幸福になればいいのよ」と。

 私は逆に、若いころから、濃密すぎるほどの親子関係、親戚関係で苦しんだ。
2年前、実兄と実母をつづいてなくし、やっとその呪縛から解放された。
そんな重圧感は、私たちの世代だけで、終わりにしたい。
もうたくさん。
こりごり。

●だれかがしなければならない仕事?

 息子から長い手紙がきたとき、チケットの予約はした。
メールはたびたび出したが、返事はなかった。
それで今回は、メールを出さなかった。
たぶん、アドレスを変えたせいではないか。
いろいろな文章が頭の中を横切ったが、手紙にはならなかった。
今さら、何をどう書けばよいのか。

 繰り返しになるが、今までもそうだったが、これからも飛行機事故の
ニュースを聞くたびに、心臓が縮むような思いをしなければならない。
危険な職業であることには、ちがいない。
が、私にこう言った人がいた。

「だれかがしなければならい仕事でしょ」と。

 そんな酷な言葉があるだろうか。
もし自分の息子だったら、そんな言葉は出てこないだろう。
たとえば自分の息子が戦場へ行ったとする。
そしてだれかに、「心配だ」と告げたとする。
で、そのだれかが、「だれかがしなければならない仕事でしょ」と。

●夢?

 夢をかなえた?

・・・今にして思えば、やはりあのとき、私は反対すべきだった。
学費の援助を止めるべきだった。
空を飛びたいという気持ちは、よくわかる。
しかし多かれ少なかれ、だれしも一度は、パイロットにあこがれる。
が、空の飛び方は、必ずしもひとつではない。
客となって、空を飛びまわるという方法もある。
またその夢がかなわなかったからといって、負け犬ということでもない。

 たとえばあの毛利氏(宇宙飛行士)は、浜松市で講演をしたとき、こう言った。
「みなさん、夢をもってください」「実現してください」と。
子ども相手の講演会だった。
「みなさん」というのは、子どもたちをさす。

 しかし自分の子どもを宇宙飛行士にしたいと願う親はいない。
もし、あなたの息子が「パイロットになりたい」と言ったら、あなたはどう思うだろうか。
「なりなさい」と言うだろうか。
「危険な仕事」というのは、それをいう。

 今回も、何人かの知人に、「息子が初飛行します」と告げた。
みな「おめでとう」とは言ってくれたが、そこまで。
それ以上のことは言わなかった。
みな、口を閉じてしまった。

●運命

 ともかくも今夜は、品川で一泊する。
早朝便で、羽田から那覇へ飛ぶ。
しかし台風。
台風14号。
このままでは明日、台風は沖縄を直撃する。
私の予想では、当時のフライトは、欠航するはず。
大型台風のまっ只中へ、着陸を強行する飛行機は、ない。

 そう、何ごとも中途半端はいけない。
直撃なら、直撃でよい。
そのほうが、あきらめがつく。

 しかしこれも運命。
私たちはいつも無数の糸にからまれている。
今は「天候」という糸にからまれている。

●S氏

 ときどきふと、こう考える。
長生きするのも、考えもの、と。
数年前までよく仕事を手伝ってくれた、S氏という男性が亡くなった。
病院で腎透析を受けている最中に、眠るように亡くなったという。
私より、5歳も若かった。

 もし私も5年前に死んでいたら、私の周辺はもっと平和だったかもしれない。
息子たちにも、「いい親父だった」と言われているかもしれない。
それにこの先のことを考えると、私はみなに迷惑をかけることはあっても、
喜ばれることはない。
さみしい人生だが、これも運命。
無数の糸にからまれて作られた、運命。

●ケリ

 先ほど「ケリ」という言葉を使った。
この数年、私はこの言葉をよく使う。
ケリ。
いろいろなケリがある。
とくに人間関係。

 それまでモヤモヤしていたものを清算する。
きれいさっぱりにする。
それがケリ。

 最初にケリをつけたのは、山林。
30年ほど前、1人のオジが、私に山林を売りつけた。
「山師」というのは、イカサマ師の代名詞にもなっている。
オジはその山師だった。
当時としても、相場の6倍以上もの値段で売りつけた。
私はだまされているとはみじんも疑わず、その山林を買った。
間で母が仲介したこともある。

 その山林を昨年、買ったときの値段の10分の1程度で売却した。
株取引の世界でいう、「損切り」。
損をして、フンギリをつける。
いつまでも悶々としているのは、精神にも悪い。
そうでなくても、私の人生は1年ごとに短くなっていく。
 
●人間関係

 つぎに人間関係。
私はいくつかの人間関係にも、ケリをつけた。
まず「一生、つきあうことはない」という思いを、心の中で確認する。
そういう人たちを順に、ケリをつけていく。

 妥協しながら、適当につきあうという方法もないわけではない。
しかしそんな人間関係に、どれほどの意味があるというのか。
というか、私は自分の人生の中で、妥協ばかりして生きてきた。
言いたいことも言わず、したいこともしなかった。
みなによい顔だけを見せて生きてきた。
子どものころから、ずっとそうしてきた。
若いときは、働いてばかりいた。
そんな自分にケリをつける。
そのために人間関係にも、ケリをつける。

 この先、刻一刻と自分の人生は短くなっていく。
無駄にできる時間はない。
それでも私のことを悪く思うようなら、「林浩司(=私)は死んだ」と、
そう思いなおして、あきらめてほしい。

●選択
 
 もうひとつ、ここに書いておきたい。
それが「選択」。
何かの映画に出てきたセリフである。
「私の人生はいつも、選択だった」と。

 いくら私は私と叫んでも、毎日が、その選択。
「私」など、どこにもない。
Aの道へ行くにも、Bの道へ行くにも、選択。
選択を強いられる。
そこでその映画の主人公は、こう叫ぶ。
「もう選択するのは、いやだア!」と。

 この言葉を反対側から解釈すると、「私は私でいたい」という意味になる。
つまり先に書いた、「ケリ」と同じ。
私が言う「運命論」は、その「選択論」に通ずる。
私たちは大きな運命の中で、こまかい選択をしながら生きている。
その選択をするのも、疲れた。

●孤独

 たまたま今朝も書いたが、この先、独居老人ならぬ「無縁老人」が、どんどんと
ふえるという。
私もその1人。

 しかし誤解しないでほしい。
無縁は、たしかに孤独。
しかし有縁だからといって、孤独が癒されるということではない。
世界の賢者は、口をそろえてこう言う。
老齢期に入ったら、相手を選び、深く、濃密につきあえ、と。
あるいはこう教えてくれた友人(私と同年齢)もいた。

 「林さん(=私)、酒を飲むと孤独が癒されるといいますがね、あれはウソですよ。
そのときは孤独であることを忘れますがね、そのあと、ドカッとその数倍もの
孤独感が襲ってきますよ」と。

 人間関係も同じ。
心の通じない人と、無駄な交際をいくら重ねても、効果は一時的。
そのときは孤独であることを、忘れることはできる。
しかしそのあと、その数倍もの孤独感がまとめて襲ってくる。
私も、そういう経験を、すでに何度かしている。

●親子関係

 そこで問題。
よき親子関係には、孤独を癒す力があるか否か。
答は当然、「YES」ということになる。
人は、その親子関係を作るために、子育てをする。
が、このことには2面性がある。

 私は私の親に対して、よい息子(娘)であったかどうかという1面。
もうひとつは、私という親は、息子(娘)に対して、よい親であったかという1面。
私を中心に、前に親がいて、うしろに子どもがいる。
実際には、よき親子関係を築いている親子など、さがさなければならないほど、少ない。
が、今、子育てに夢中になっている親には、それがわからない。

 「私だけはだいじょうぶ」
「うちの子にかぎって……」と。
幻想に幻想を塗り重ねて、その幻想にしがみついて生きている。
が、子どもが思春期を迎えるあたりから、親子の間に亀裂が入るようになる。
それがそのまま、たいていのばあい、断絶へとつながっていく。

 それともあなたは自分の親とよい人間関係を築いているだろうか。
「私はそうだ」と思う人もいるかもしれない。
が、ひょっとしたら、そう思っているのは、あなただけかもしれない。

●品川のホテルで

 ホテルへ着くと、私はすぐ睡眠導入剤を口に入れた。
睡眠薬ともちがう。
ドクターは、「熟睡剤」と言う。
朝方に効く薬らしい。
早朝覚醒を防ぐ薬という。
それをのむと、明け方までぐっすりと眠られる。
が、午前5時前に目が覚めてしまった。

 ……このつづきは、またあとで。

●宿命的な欠陥

 話はそれる。

 これは現代社会が宿命的にもつ欠陥なのかもしれない。
私たちは古い着物を脱ぎ捨て、ジーンズをはくようになった。
便利で合理的な社会にはなったが、そのかわり、日本人が昔からもっていた温もりを
失ってしまった。

 こんな例が適切かどうかはわからない。
が、こんな例で考えてみる。

 私が子どものころは、町の祭りにしても、旅行会にしても、個々の商店主がそれを
主導した。
どこの町にも、そうした商店街が並んでいた。
近所どうしが、濃密なコミュニティーをつくり、助けあっていた。

 が、今は、大型ショッピングセンターができ、街の商店街を、駆逐してしまった。
こうこうと光り輝く、ショッピングセンター。
山のように積まれたモノ、モノ、モノ。
そこを歩く華やかな人々。
ファッショナブルな商品。 

 しかしそういう世界からは、温もりは生まれない。
わたしはそれを、現代社会が宿命的にもつ「欠陥」と考える。
当然のことながら、親子関係も、大きく変わった。

●私の時代

 何度も書くが、私は結婚する前から、収入の約半分を実家へ、送っていた。
ワイフと結婚するときも、それを条件とした。
当時の若者としては、けっして珍しいことではなかった。
集団就職という言葉も、まだ残っていた。

が、今の若い人たちに、こんな話をしても、だれも信じない。
私の息子たちですら、信じない。
そんなことを口にしようものなら、反対に、「パパは、ぼくたちにも同じことを
しろと言っているのか」と、やり返される。

 実際に、そんなことを言ったことはないが、返事は容易に想像できる。
だから言わない。
言っても、無駄。

 が、今はそれが逆転している。
親が子どものめんどうをみる時代になった。
なったというよりは、私たちが、そういう時代にしてしまった。
飽食と少子化。
ぜいたくと繁栄。
それが拍車をかけた。

●翌、10月29日

 チケットを購入し、今、11番ゲートの出発ロビーにいる。
昨夜のんだ、頭痛薬のせいと思う。
今朝から軽い吐き気。
私はミネラルウォーターを飲む。
ワイフは横でサンドイッチを食べている。

 どうやら飛行機は、定刻どおり、離陸するらしい。
うしろ側にモニターがあって、飛行機の発着状況を知らせている。
今のところ「欠航」という文字は見えない。
だいじょうぶかな?
台風14号は、どうなっているのかな?

 B777は、大型飛行機。
その中でもB777−300。
日本では、最大級の飛行機。
ジャンボと呼ばれた747よりも、実際には大きいという。
風にも強いとか。

 しかしこわいものは、こわい。
この体のこわばりが、それを示している。
恐怖症による、こわばり。
体が固まっている!

●ラウンジで

 ワイフが席にもどってきた。
あれこれしゃべったあと、また席を立った。
もどると、私のシャツのシミを拭き始めた。
「白いシャツだと、目立つから……」と。

 「搭乗手続き中」の表示が出た。
那覇行き、903便。
だいじょうぶかなあ……?

●離陸

 飛行機がスポット(駐機場)を離れたとき、熱い涙が何度も、頬を流れた。
同時に息子の子ども時代の姿が、あれこれ脳裏をかすめた。
「走馬灯のように」という言い方もあるが、走馬灯とはちがう。
断片的な様子が、つぎつぎと現れては消えた。

 最初は、息子が私のひざに抱かれて笑っている姿。
生まれたときは、標準体重よりかなり小さな赤ん坊だった。
だから私は息子を、「チビ」とか、「チビ助」とか呼んでいた。
それがそのあと、「ミニ公」となり、「メミ公」というニックネームになった。

 つぎに大きなおむつをつけて、かがんでいる姿。
どこかの田舎のあぜ道で、道端を流れる水をながめている。
オタマジャクシか何かを見つけたのだろう。
息子はその中を、じっと見つめていた。

 そのメミ公が、私の身長を超えたのは、中学生になるころ。
今では180センチを超える大男になった。

 ……先ほど通路を通るとき、私たちを見つけたらしい。
左の席にいた機長が何度も、頭をさげてくれた。
私は思わず、親指を立て、OKサインを出した。

 私は、飛行機が空にあがると、息子が航空大学時代に送ってくれた学生帽を
かぶりなおした。
金糸で、それには「Hiroshi Hayashi.」と縫いこんであった。

●白い雲海

 シートベルト着用のサインが消えた。
電子機器の使用が許可された。
私はパソコンを取り出した。
息子は今日から飛行時間を重ね、つぎは機長職をめざす。
いや、息子のことだから、それまでおとなしくしているとは思わない。
何かをするだろう。

 どうであれ、おそらく私はそれまでは生きていないかもしれない。
窓の外には白い雲海が広がっていた。
まぶしいほどの雲海。
台風14号の影響か、見渡す限り、雲海また雲海。
息子は毎日、こんな世界を見ながら仕事をするのだろうか。

●B777−300

 だれだったか、こう言った。
「これからは飛行機のパイロットも、バスの運転手も同じだよ」と。
しかしB777−300に乗ったら、そういう考えは吹き飛ぶ。
風格そのものがちがう。
飛行機は飛行機だが、B777−300は、さすがに大きい。
新幹線の1車両(普通車)は、90人(5人がけx18列)。
その約5〜6倍の大きさということになる。
それだけの大きさの飛行機が、機長と副機長という2人の技術力だけで飛ぶ。

 国際線は何10回も利用させてもらったが、そんな目で見たことは、今回が
はじめて。
それに、ここまでくるのに、つまり航空大学校に入学してから、5年半。
ANAに入社した大学の同期は、すでに1〜2年前から、副機長として
飛んでいるという。

 パイロットという仕事は、そこまでの段階がたいへん。
またそのつど、感動がある。

 はじめてフライトしたとき。
はじめて単独飛行をしたとき。
はじめて双発機を飛ばしたとき。
はじめて計器飛行をしたとき。
はじめて夜間飛行をしたとき。
いつも「はじめて……」がつく。
今回は、副機長。
はじめての副機長。

●JAL

 飛行機に乗るなら、JALがよい。
けっしてひいきで書いているのではない。
訓練のきびしさそのものが、ちがう。
先ほど航空大学校の話を書いたが、卒業生でもJALに入社できたのは、3名だけ。
ANAも3名だけ。
そのあと、カルフォルニアのNAPA、下地島(しもじしま)での訓練とつづいた。

 外国のパイロットは、そこまでの訓練はしない。
退役した空軍パイロットが、そのまま民間航空機のパイロットになったりする。
会社自体は現在、ガタガタの状態。
しかしパイロットだけは、ちがう。
息子の訓練ぶりの話を聞きながら、私は幾度となく、そう確信した。

 みなさん、飛行機はJALにしなさい!
多少、料金が割高でも、JALにしなさい!
命は、料金で計算してはいけない。
たとえば中国の航空会社は、少しの悪天候でも、つぎつぎと欠航する。
夜間飛行(=計器飛行)もロクのできないようなパイロットが、国際線を
操縦している。
だからそうなる。

●アナウンス

 先ほど、息子がフライトの案内をした。
早口で、ややオーストラリア英語なまり(単語の末尾をカットするような英語)でも
話した。

 この原稿は息子にあとで送るため、気がついた点を書いてみたい。

(1)もう少し、低い声で、ゆっくりと話したらよい。
(2)「タービュランス(乱気流)」という単語が、聞きづらかった。
(3)こうした案内は、「Ladies & Gentlemen」ではじめ、必ず終わりに、「Thank you」
でしめくくる。

 早口だと、乗客が不安になる?
静かで落ち着いた口調だと、もっと安心する。
とくに今日は、台風14号の上空を飛ぶ。

●沖縄

 いつもそうだが、飛行機恐怖症といっても、飛行機に乗っている間は、だいじょうぶ。
離陸前、着陸時に緊張する。
それに先方の出先で不眠症になってしまう。
今回も、おとといの夜くらいから不眠症に悩まされた。

 今夜は沖縄でも、ハイクラスのホテルに泊まる。
ワイフが料金を心配していたが、私はこう言った。
「14万円もかけていくんだぞ。ビジネスホテルには泊まれないよ」と。

 1泊2日の旅行(?)だが、行きたいところは決まっている。
数か月前、沖縄に行ってきた義兄が、「こことここは行ってこい」と、あれこれ
教えてくれた。
そのひとつが、水族館。
ほかにショーを見せながら夕食を食べさせてくれるところがあるそうだ。
ワイフは、そこへ行きたいと言っている。

●オーストラリア

 飛行機に乗る前は、「家族もろとも、あの世行き」と考えていた。
しかしまだまだ死ねない。
やりたいことが山のようにある。
それにまだ若い。 
ハハハ。
まだ若い。

 ……今、ふと、オーストラリアに向かって旅だったときのことを思い出した。
離陸するとすぐ、BGMが流れ始めた。
その曲が、「♪アラウンド・ザ・ワールド」だった。
私はその曲を耳にしたとき、誇らしくて、胸が張り裂けそうになった。
1970年の3月。
大阪万博の始まる直前。
その日、私はオーストラリアのメルボルンへと向かった。

 ……しかしどうしてそんなことを思い出したのだろう。
あのときもJALだった。
機種はDC−8。
香港、マニラと、2度も給油を重ねた。
つばさの赤い日の丸を見ながら、私は心底、日本人であることを誇らしく思った。

●台風

 再び息子が案内した。
「台風の上を通過するから、シートベルトを10分ほど着用するように」と。
とたん、飛行機が揺れ始めた。

 息子は英語で、「about ten minutes」と言ったが、こういうときオーストラリア
人なら、「approximately ten minutes言うのになあ」と思った。
どうでもよいことだが……。

息子はアデレードのフリンダース大学で、8か月を過ごしている。
オーストラリアなまりでは、「about」も、「アビャウツ」というような発音をする。
どうでもよいことだが、息子の英語は、どこか日本語英語臭い。
いつだったか、そんな英語で管制官に通ずるのかと聞いたことがある。
それに答えて、息子はこう言った。
「へたに外国なまりの英語を話すと、かえって通じないよ」と。

 そう言えば、こんな笑い話がある。

 たまたま息子が単独飛行を成功させたときのこと。
録音テープが送られてきた。
息子と管制官とのやり取りが録音されていた。
そのときたまたま二男の嫁(アメリカ人)と妹(アメリカ人)が私の家にいた。
そのテープを2人が何度も聴いてくれた。
が、そのあとこう言った。
「何を言っているか、まったくわからない」と。

 私には、よくわかる英語だったが……。

 息子も、こうした機内では、思い切って、オーストラリアなまりでもよいから、
外国調の英語を話したほうがよい。
そのほうが外人の乗客たちは安心する。

 ……こういう飛行機の中では、いろいろな思いがつぎからつぎへと出てきては消える。
やっと少し、気持ちが落ち着いてきた。
イヤフォンを取り出して、音楽を聴く。

●思い出

 あれから40年。
またそんなことを考え始めた。
羽田からシドニーまで。
往復の料金が、42、3万円の時代だった。
大卒の初任給がやっと5万円を超えた時代である。

 このところいつもそうだが、こうして過去のある時点を思い浮かべると、
その間の記憶がカットされてしまう。
あのときが「入り口」なら、今は「出口」。
部屋に入ったと思ったとたん、出口へ。
過去のできごとを思い出すたびに、そうなる。

 「これが私の人生だった」と、またまたジジ臭いことを考えてしまう。
白い雲海をながめていると、人生の終着点が近いことを知る。
ワイフには話さなかったが、今朝も、起きたとき足がもつれた。
自分の足なのに、自分の足に自信がもてなくなった。
40年前には、考えもしなかったことだ。

●機内で

 右横にワイフ。
いろいろあったが、機内で「死ぬときもいっしょだね」と言うと、うれしそうに、
「そうね」と言ってくれた。
がんこで、カタブツで、男勝りのワイフだが、はじめてそう言った。

 が、総合点をつけるなら、ほどほどの合格点。
何よりも健康で、ここまでやってこられた。
たいしたぜいたくはできなかったが、いくつかの夢は実現できた。
山荘をもったのも、そのひとつ。
やり残したことがあるとすれば、……というか、後悔しているのは、何人かの友と、
生き別れたこと。
とくにオーストラリア人のP君。
一度、謝罪の長い手紙を書いたが、返事はなかった。
そのままになってしまった。

 P君は生きているだろうか。
元気だろうか。

 ……どうして今、そんなことを考えるのだろう?
白い雲海が、どこまでもつづく白い雲海が、私をして天国にいるような気分にさせる。

●息子へ 
 
 私は約束を果たした。
同時に私のかわりに、私の夢をかなえてくれた、お前に感謝する。
長い年月だった。
あの山本さんと夢を語りあってから、43年。
山本さんは、JALの副機長として、ニューデリー沖の墜落事故で帰らぬ人となった。
いつか、お前も、インドへ飛ぶことがあるだろう。
そのときは、そこで最高の着陸をしてみてほしい。
最高の着陸だ。

 いつかお前が言ったように、そよ風に乗るように、着地音もなく静かに着陸。
逆噴射が止まったとき、飛行機は滑るようにランウェイを走り始める。
そんな着陸だ。
楽しみにしている。

●気流

 やはり気流がかなり悪いようだ。
下を向いてパソコンにキーボードを叩いていると、目が回るような感じになる。
飛行機はガタガタと小刻みに揺れている。
先ほどのアナウンスによれば、ちょうど今ごろ、台風の真上を通過中とのこと。
体では感じないが、かなり上下にも揺れているらしい。

 もうすぐ飛行機は那覇空港に到着。
電子機器の使用は禁止になった。
では、またあとで……。

●10月30日、那覇空港出発ロビー

 昨日は、那覇空港を出ると、そのまま沖縄観光に回った。
タクシーの運転手と、交渉。
貸し切りにして、1時間3000円見当という。
私は首里城。
ワイフはひめゆりの塔を希望した。

 ひめゆりの塔を先に回った。
それに気をよくしたのか、タクシーの運転手は、あちこちの戦争記念館を回り始めた。
旧海軍司令部壕、沖縄平和祈念資料館などなど。
かなりの反戦運動家とみた。
アメリカ軍の残虐行為、横暴さを、あれこれ話した。
「自粛なんてとんでもない。大規模なデモをしたりすると、その直後から、アメリカは
わざと大型の戦闘機を地上スレスレに飛ばすんだよ」と。

 沖縄の現状は、沖縄へ来てみないとわからない。
いかに沖縄が、日本人(ヤマトンチュー)の犠牲になっているか、それがよくわかる。
……というか、4時間近く運転手の話を聞いているうちに、私はすっかり洗脳されて
しまったようだ。

 「沖縄戦は悲惨なものだったかもしれませんが、問題は、ではなぜそこまで悲惨なもの
になったか、です。ぼくは、そこまでアメリカ軍を追い込んだ日本軍にも責任があると
思います」と。
運転手はさらに気をよくして、「そうだ、そうだ」と言った。
沖縄では、「反日」という言葉を使えない。
「反米」という。
しかしその実態は、「反日」と考えてよい。

 中国人や韓国人が内にかかえる、反日感情とどこか似ている。
「私たちは日本人」という意識が、本土の日本人より、はるかに希薄。
1人のタクシーの運転手だけの話で、そう決めてしまうのは危険なことかもしれない。
が、私は、そう感じた。

●夕食

 夕食は、息子を交えて、3人でとった。
国際通りの一角にある平和通り。
さらにそこから入ったところに、公設市場がある。
魚介類が生きたまま並べてある。
そこから自分の食べたい魚や貝、カニやエビを選ぶ。
それをその上の階の食堂で、料理してもらい、食べる。

 台湾や香港で、そういう店によく入ったことがある。
というか、売り場の女性をのぞいて、従業員は日本語が通じない人たちばかりだった。
私は店の女性と交渉して、3人前で6000円になるようにしてもらった。

 で、話を聞くと息子はこう言った。
「何も届いていない」と。

 私が書いたはがきも、メールも、何も届いていない、と。
???
息子は「住所がちがっていたのでは?」と数回、言った。

息子が、私のはがきやメールを無視したのではなかった。
音信が途絶えたのではなかった。
何かの理由で、行き違いになったらしい。
それを聞いて、半分、ほっとした。

●ロアジール・スパ・ホテル

 泊まったのは、ロアジール・スパ・ホテル。
沖縄でも最高級ホテルという。
知らなかった!
新館は2009年にオープン。
その新館。
あちこちのホテルや旅館に泊まり歩いてきたが、まあ、これほどまでに豪華な
ホテルを私は知らない。

 昔はヒルトンホテルとか、帝国ホテルとか言った。
東京では、いつも、ホテル・ニュー・オータニに泊まった。
あのときはあのときで、すごいホテルと思った。
しかし今ではその程度のホテルなら、どこにでもある。
が、ロア・ジール・スパ・ホテルは、さらに格がちがった。
驚いた!

 チェックインも、ふつうのホテルとは、ちがった。
ロビーのソファに座りながらすます。
飲み物を口にしていると、若い女性が横にひざまづいて、横に座った。
そこで宿泊カードに記入。
それがチェックイン。

部屋に入ったとたん、ワイフはこう言った。
「こんなホテルなら、一週間でもいたい」と。

 人件費が安いのか、いたるところに職員を配置している。
そのこともあって、サービスは至れり尽くせり。
なお「ロア・ジール」というのは、フランス語で、「レジャー」という意味だそうだ。
温泉の入り口にいた、受付の女性が、そう教えてくれた。

●沖縄

 沖縄を直接目で見て、「ここが昔から日本」と思う人は、ぜったいに、いない。
首里城を見るまでもなく、沖縄はどこからどう見ても沖縄。
沖縄というより、台湾。
台湾の文化圏に入る。
もう少しワクを広げれば、中国の文化圏。
どうしてその沖縄が、日本なのか?
ふと油断すると、「ここは台湾か?」と思ってしまう。

 平たい屋根の家々。
平均月収は東京都の2分の1という。
町並みも、どこか貧しそう。

 現代の今ですら、そうなのだから、江戸時代にはもっと異国であったはず。
沖縄弁にしても、言葉はたしかに日本語だが、発音は中国語か韓国語に近い。
それについての研究は、すでにし尽くされているはず。
素人の私が言うのもおこがましいが、もちろん九州弁ともちがう。

●沖縄戦

 沖縄戦の悲惨さは、改めて書くまでもない。
つまり先の戦争では、沖縄が日本本土の防波堤として、日本の犠牲になった。
その思いが、先に書いた「反日」の底流になっている。
「ひめゆりの塔」が、その象徴ということになる。

 が、実際には、沖縄がアメリカ軍によって南北に二分されたとき、北側方面に
逃げた人たちは、ほとんどが助かったという。
南側方面に逃げた人たちは、ほとんどが犠牲になったという。
その原因の第一が、あの戦陣訓。
「生きて虜囚の……」という、アレである。
「恥の文化」を美化する人も多いが、何をもって恥というか。
まっとうな生き方をしている人に、「恥」はない。

で、有名な「バンザーイクリフ(バンザーイ崖)」というところも通った。
アメリカ軍に追いつめられた住民が、つぎつぎとその崖から海に身を投げた。
が、今は、木々が生い茂り、記録映画などの出てくる風景とはかなりちがう。
それをタクシーの運転手に言うと、運転手はこう教えてくれた。

「それ以前は緑豊かな土地でした。雨あられのような砲弾攻撃を受けて、このあたりは、
まったくの焼け野原になってしまったのです」と。

 戦争記念館には、不発弾の様子がそのまま展示してあった。
畳10畳ほどの範囲だけにも、不発弾が4〜5発もあった。
うち一発は、250キログラム爆弾。

 不発弾というのは、そうもあるものではない。
つまりそれだけ爆撃が激しかったことを意味する。
あるところには、こう書いてあった。

 爆破された塹壕をのぞいてみると、兵隊や女子学生のちぎれた肉体が、
岩の壁に紙のようになって張りついていた、と。




【沖縄旅行】B777−300にて(後編、前回のつづき)

●夕食

 夕食は、息子を交えて、3人でとった。
国際通りの一角にある平和通り。
さらにそこから入ったところに、公設市場がある。
魚介類が生きたまま並べてある。
そこから自分の食べたい魚や貝、カニやエビを選ぶ。
それをその上の階の食堂で、料理してもらい、食べる。

 台湾や香港で、そういう店によく入ったことがある。
というか、売り場の女性をのぞいて、従業員は日本語が通じない人たちばかりだった。
私は店の女性と交渉して、3人前で6000円になるようにしてもらった。

 で、話を聞くと息子はこう言った。
「何も届いていない」と。

 私が書いたはがきも、メールも、何も届いていない、と。
???
息子は「住所がちがっていたのでは?」と数回、言った。

息子が、私のはがきやメールを無視したのではなかった。
音信が途絶えたのではなかった。
何かの理由で、行き違いになったらしい。
それを聞いて、半分、ほっとした。
心の中の塊が、スーッと消えていった。

●ロアジール・スパ・ホテル

 泊まったのは、ロアジール・スパ・ホテル。
沖縄でも最高級のホテルという。
知らなかった!
新館は2009年にオープン。
その新館。
あちこちのホテルや旅館に泊まり歩いてきたが、まあ、これほどまでに豪華な
ホテルを、私は知らない。

 昔はヒルトンホテルとか、帝国ホテルとか言った。
東京では、いつも、ホテル・ニュー・オータニに泊まった。
あのときはあのときで、すごいホテルと思った。
しかし今ではその程度のホテルなら、どこにでもある。
が、ロア・ジール・スパ・ホテルは、さらに格がちがった。
驚いた!

 チェックインも、ふつうのホテルとは、ちがった。
ロビーのソファに座りながらすます。
飲み物を口にしていると、若い女性が横にひざまづいて、横に座った。
そこで宿泊カードに記入。
それがチェックイン。

部屋に入ったとたん、ワイフはこう言った。
「こんなホテルなら、一週間でもいたい」と。

 人件費が安いのか、いたるところに職員を配置している。
そのこともあって、サービスは至れり尽くせり。
なお「ロア・ジール」というのは、フランス語で、「レジャー」という意味だそうだ。
温泉の入り口にいた、受付の女性が、そう教えてくれた。

●沖縄

 沖縄を直接目で見て、「ここが昔から日本」と思う人は、ぜったいに、いない。
首里城を見るまでもなく、沖縄はどこからどう見ても沖縄。
沖縄というより、台湾。
台湾の文化圏に入る。
もう少しワクを広げれば、中国の文化圏。
どうしてその沖縄が、日本なのか?
ふと油断すると、「ここは台湾か?」と思ってしまう。

 平たい屋根の家々。
平均月収は東京都の2分の1という。
町並みも、どこか貧しそう。

 現代の今ですら、そうなのだから、江戸時代にはもっと異国であったはず。
沖縄弁にしても、言葉はたしかに日本語だが、発音は中国語か韓国語に近い。
それについての研究は、すでにし尽くされているはず。
素人の私が言うのもおこがましいが、もちろん九州弁ともちがう。

●沖縄戦

 沖縄戦の悲惨さは、改めて書くまでもない。
つまり先の戦争では、沖縄が日本本土の防波堤として、日本の犠牲になった。
その思いが、先に書いた「反日」の底流になっている。
「ひめゆりの塔」が、その象徴ということになる。

 が、実際には、沖縄がアメリカ軍によって南北に二分されたとき、北側方面に
逃げた人たちは、ほとんどが助かったという。
南側方面に逃げた人たちは、ほとんどが犠牲になったという。
その原因の第一が、あの戦陣訓。
「生きて虜囚の……」という、アレである。
「恥の文化」を美化する人も多いが、何をもって恥というか。
まっとうな生き方をしている人に、「恥」はない。

で、有名な「バンザーイ・クリフ(バンザーイ崖)」というところも通った。
アメリカ軍に追いつめられた住民が、つぎつぎとその崖から海に身を投げた。
が、今は、木々が生い茂り、記録映画などの出てくる風景とはかなりちがう。
それをタクシーの運転手に言うと、運転手はこう教えてくれた。

「それ以前は緑豊かな土地でした。雨あられのような砲弾攻撃を受けて、このあたりは、
まったくの焼け野原になってしまったのです」と。

 戦争記念館には、不発弾の様子がそのまま展示してあった。
畳10畳ほどの範囲だけにも、不発弾が4〜5発もあった。
うち一発は、250キログラム爆弾。

 不発弾というのは、そうそうあるものではない。
つまりそれだけ爆撃が激しかったことを意味する。
あるところには、こう書いてあった。

 爆破された塹壕をのぞいてみると、兵隊や女子学生のちぎれた肉体が、
岩の壁に紙のようになって張りついていた、と。

●国際通り

 国際通りを歩いて、驚いた。
店員という店員が、みな、若い。
20代前後。
活気があるといえば、それまでだが、同時にそれは若者たちの職場がないことを
意味する。
職場があれば、こんな街頭には立たない。
日本よ、日本企業よ、外国投資もよいが、少しでも愛国心が残っているなら、
沖縄に投資しろ!

 その国際通り。
そこには、本土では見たこともないような商品が、ズラズラと並んでいた。
ワイフは「外国みたい」と、子どものようにはしゃいでいた。
 
●ホテルへ

 息子とは国際通りで別れた。
私とワイフはそこからタクシーに乗り、ホテルに戻った。

 温泉に入り、息抜き。
そのころから私に異変が置き始めた。
飛行機恐怖症という異変である。
体が固まり始めた。
ザワザワとした緊張感。
同時に孤独感と、虚無感。

 外国ではよく経験する。
しかしここは「日本」。
「心配ない」と、何度も自分に言い聞かせる。

●孤独

 不安と孤独は、いつもペアでやってくる。
こういう離れた土地へやってくると、私はいつも、そうなる。
不安感が孤独を呼ぶのか。
孤独が不安を呼ぶのか。
横にワイフがいるはずなのに、心の中をスースーと隙間風が吹く。
なぜだろう?
どうしてだろう?
老齢のせいだけではない。
私は若いころから、そうだった。

 横を見ると、ワイフは寝息を立てて、もう眠っていた。

●10月30日

 午前中、再び国際通りを歩いてみた。
昨夜、カメラをもってくるのを忘れた。
それで再び、国際通りへ。

 「やはり夜景のほうがよかった」と私。
昼間の国際通りも悪くはないが、異国風という点では、夜景のほうがよい。
私は国際通りを歩きながら、片っ端からデジタルカメラで写真を撮った。

●虹の川

 沖縄へ向かうときも恐ろしかった。
しかし帰るときは、もっと恐ろしかった。
ちょうどその時刻。
台風14号は、羽田にもっと接近していた。

 飛行機は大きく揺れた。
が、息子のアナウンスが、私たちを安心させた。

「落ち着いた声で、ゆっくりと話せ」と、昨夜、父親らしく(?)、指導した。
「あのな、ぼくのように飛行機恐怖症の人も多いはず。そういう人たちに安心感を
与えるような言い方をしなければいけない。若造の声で、ぺらぺらとしゃべられると、
かえって不安になる」と。

その効はあったよう。
息子は、昨日より、ずっとじょうずにアナウンスした。
静かで、落ち着いた声だった。

 ……帰る途中、私たちはこんな景色を見た。
雲海が鏡のように平らになったところへやってきた。
静かな海のようにも見えた。
そのときのこと。
その中央に、縦に虹の川が現われた。
虹の川だ。
7色の帯になった川だ。
それはこの世のものとは思われぬ光彩を放っていた。
「ほら!」と声をかけると、ワイフがワーッと歓声をあげた。
あげたまま黙ってしまった。
時間にすれば10分ほどだっただろうか。
私たちはそれが消えるまで、窓に顔をつけてそれを見守った。

 「きっと天国というのは、あんなところにちがいない」と、何度もそう思った。
「あるいは墜落する前に、神様が天国を見せてくれたのかもしれない」とも。
私は夢中で、デジタルカメラのシャッターを切った……。
(写真は、この原稿をマガジンで発表するとき、添付します。)
 
 飛行機は何度か大きく揺れたが、無事、羽田空港に着陸した。
さすがB777−300。
安定感がちがう。
それ以上に、操縦がうまかった。

●品川から浜松へ
 
 品川から京急線で、18分。
羽田がぐんと便利になった。
しかしこんなことは、40年前にしておくべきだった。
おかしなところに国際空港を作ったから、日本の航空会社は、世界の航空会社に
遅れをとってしまった。
アジアで今、ハブ空港といえば、韓国の仁川か、シンガポールのチャンギ。

 成田空港がいかに不便なところにあるかは、外国から成田空港に降り立ってみると
よくわかる。
がんばれ、羽田!
往年の栄華は無理としても、少しは取り返せるはず。

●帰宅

 無事、帰宅。
あまり楽しい旅行ではなかった。
息子に会ったときも、さみしかった。
別れたときは、もっとさみしかった。

 ワイフに、「これからは2人ぼっちだね」と言うと、「うん」と言って笑った。

「健康だ、仕事がある、家族がいるといくら自分に言って聞かせても、健康も
このところあやしくなってきた。仕事も年々、低下傾向。今では家族もバラバラ」と。
電車の中でそんな話をすると、ワイフは、こう言った。

 「だからね、あなた、私たちはね、これからは自分のしたいことをするのよ」と。

 ワイフのよい点。
いつも楽天的。
ノー天気。
ものごとを深く考えない。
「この人はいいなあ」と、すっかりバーさん顔になったワイフを横から見ながら、
そう思った。

 以上、沖縄旅行記。
おしまい。

はやし浩司 2010−10ー31記

(補記)

【息子のBLOGより】2006−10ー27

●三男のBLOGより

++++++++++++++++++

三男が、仙台の分校に移った。
パイロットとしての、最終訓練に移った。

操縦しているのは、あのキングエアー。

MSのフライト・シミュレーターにも、
その飛行機が収録されている。

文の末尾に、キングエアーの機長席に座る
友人を紹介しながら、
「このコクピットに、ようやくたどり着きました」と
ある。

++++++++++++++++++

【仙台フライト課程】

 1年と半年前、パイロットのパの字も知らなかった僕が、宮崎に来
て、最初に出会った先輩が、まさにその時、宮崎フライト課程を修了
し、仙台へ旅立とうとしていたところだった。その口から発せられる
意味不明な単語の羅列。本気で同じ国の人とは思えなかった。中には
僕よりも年下の先輩もいたが、その背中はとてつもなく大きく、遠い
ものに感じられた。そこまでたどり着く道のりが、果てしなく長く、
険しいものに感じられた。

 あれから、色んなことがあった。毎日が、これでもかと言わんばか
りに充実していた。すごい勢いで押し寄せては過ぎ去っていく知識と
経験の波にもまれ、その一つ一つを逃さぬように両手を一杯に広げ、
倒されぬよう走り続けて来た。

初めて飛んだ帯広の空。細かい修正に苦労した宮崎の空。教官に叱咤
激励され、同期と切磋琢磨し、涙を流したことも数知れず。楽しかっ
たが、決して楽な道のりではなかった。その間に垣間見た、キングエ
アと仙台の空の夢。フライトを知れば知るほど、遠くなって行くよう
な気がしていた。途方に暮れてうつむくと、そこには誰かの足跡が。
そう、あの時見た先輩たちの足跡だ。大きく見えた先輩たちも、この
細く曲がりくねった道を一歩ずつ這い上がって来たのだ。

 そして今日、僕は、空の王様、キングエアと共に再び空へ飛び上が
った。ずっと想像していただけの景色が、現実にそこに広がっていた
。コクピットに座り、シートベルトを締め操縦桿を握ると、ハンガー
の向こう側から1年前の僕が見ている気がした。あの頃の僕の憧れに
、ようやくたどり着いたのだ。先輩たちが踏み固めてくれたあの道は
、確かに、この空に続いていたのだ。

人は成長する。それを強く実感した一日だった。毎日、少しずつでも
いい。前進し続けること。小さな成長を実感し続けること。時々、何
も変わっていないじゃないかと失望することがあるかもしれない。そ
れでも、諦めないこと。そうすることで人は、自分よりも何百倍も大
きかった夢を、いつの間にか叶えることが出来る。そういう風に、出
来ているのだ。努力は必ず報われる。

 最高の教育と、経験と、思い出を、僕は今ここで得ている。一つも
取りこぼしたくない、宝石のような毎日だ。

このコクピットに、ようやくたどり着きました。

(以上、原文のまま。興味のある方は、ぜひ、息子のBLOGを訪れ
てやってみてください。私のHPのトップ画面より、E・Hayas
hiのWebsiteへ。)

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

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【ようこそハナブサ航大日記へ】

 航空大学校は、国が設置した唯一の民間パイロットの養成学校で、宮崎に本校が置かれ
ています。入学するとまずこの宮崎本校で半年間座学を行い、その後帯広分校に移って初
めて自分の手で飛行機を操縦します。

半年後、自家用レベルまで成長した訓練生たちは再び宮崎に戻り、宮崎フライト過程へと
進みます。ここでは事業用レベル、つまりプロになるための訓練を行います。半年後、宮
崎を卒業し、最終過程が行われる仙台分校へ移動、より大きな飛行機への移行訓練、及び
計器飛行証明という資格を取るための訓練に入ります。

同時にエアラインへの就職活動も始まり、卒業後はJAL,ANA,ANK,JTAなどの会社へパイ
ロットとして就職します。仙台過程も半年間行われます。

 在学期間は計2ヵ年。その間、航大生(航空大学校生)は校舎に併設された寮で、同期
や先輩・後輩たちと過ごします。部屋はすべて2人部屋。宮崎過程では先輩、後輩の組み
合わせで、それ以外は同期同士の組み合わせで寝食を共にします。校舎は空港に隣接され
ており、宮崎、帯広、仙台とも、滑走路から「航空大学校」と書かれた倉庫が見えるはず
です。同期は18人。毎年72人の募集があり、4期に分かれて4月、7月、10月、1
月にそれぞれ入学します。

 ハナブサ航大日記では、ここ航大での生活を写真を通して紹介しています。僕にとって
は初めての寮生活、同期や先輩・後輩や教官のこと、訓練の様子、空からの眺め、フライ
ト中に思ったこと、などなど。訓練は厳しく、付いていくのがやっとですが、同期と助け
合い、試験に見事合格したときの喜びは何にも替えがたいものがあります。

またどんなに訓練が大変でも、それを忘れさせてくれる美しさが空の上にはあります。そ
れを伝えたい。また、何でもない一人の人間がどのようにして一人前のパイロットになっ
ていくのか、何を考え、どう変わっていくのか。その過程を楽しんでいただければ幸いで
す。ときどき関係のないことも書きますが、ご容赦ください。どうぞ、楽しんでいってく
ださい。

 ちなみに自分は1981年生まれの今年25歳。航大へは去年の4月に入学し、現在仙
台フライト過程です。卒業まで、あと少し!


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●2005年3月・入学

 航大に入学して今日で3日目。同期は口をそろえ、まだ3日しかいないのに、もう何週
間もここにいる気がすると言う。自分もそう感じる。ここ航空大学校は、本当に厳しく、
本当にすごいところだ。

 入寮した日、先輩方から手厚い歓迎を受けた。その歓迎方法は、残念ながらある理由に
よりここで書くことはできないが、「けじめ」と「親しみ」を同時にしっかり学ぶことがで
きる、伝統的な
すばらしい儀式だった。同期たちとは時間が進むにつれ、どんどん深くなって行っている。
こんなに人と深くなれるのは、後にも先にもこれだけだと思う。みんなほんとにいい人た
ちばかりで、今までの自分、人間関係っていったい何だったんだと疑問に思うくらいだ。

 はっきり言って感動しているのだろうか。今のこの心境を語るには、もう少し時間が必
要だ。明日から授業が始まるので、今夜はもう寝よう。

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●2005年4月

 制服も来たので、同期全員でハンガーに行って写真を撮ろうということになった。ホー
ムページ用のプロフィール写真もそろそろ撮り始めたかったので、個人撮影も兼ねて一同
ばっちり決めていった。初めてのハンガー&エプロンは、まじやばくて、みんな大興奮。
やっぱみんな飛行機好きなんだね。滑走路がもう目と鼻の先で、MDやB3の離陸、着陸
にみんな釘付けになっていた。近くで見るボナンザは思った以上に大きくて、そして美し
くかっこいい。乗れるのはまだまだ先だけど、今は座学を一生懸命頑張って、「生きた知識」
をたくさん帯広に持っていこう。

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●2005年6月

航空機システムの時間に、聞きなれない飛行機の音。休み時間に外に出てみると、宮崎空
港に航空局のYS−11が来ていた。かっこいい。既に先輩が退寮されていたので、教官
にお願いして滑走路が見える側の教室に移動して授業をやってもらった。99.999%
授業に集中して、残りの0.001%でYS−11を横目でちらちら。プロペラが回り始
め、地上滑走、そして離陸・・・。ロールスロイスの音は気品があって、何かいい。

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●2005年7月

 本日昼頃、宮崎空港に政府専用機が来た。政府専用機といえば、アメリカで言ったらエ
アフォース・ワン。政府要人を乗せるための専用機なのだが、今回は首相などは乗ってい
ない。訓練のため、宮崎空港でタッチアンドゴーをし、フルストップし、そして帰ってい
った。B4のタッチアンドゴーなんて、なかなか見られるものではない。

訓練とはいえ、あの飛行機のコクピットには、日本一のパイロットが乗っていたに違いな
い。自分たちはあの飛行機を運転する機会はないだろうが(絶対とは言い切れないが)、民
間機パイロットとして、政府専用機のパイロットと同じくらい「すごい」パイロットには
なれるはず。頑張ろう!

 ちなみにコールサインは、シグナス(?)・ワンだった。中はいったいどうなっているの
だろうか。

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●2005年7月

最近、毎週のようにテストがあって、なかなかやりたいことができない。今やりたいこと
(1)ラジコンを飛ばしたい、(2)カラオケに行きたい、(3)映画を見たい(見たい映
画が5個くらいある)、(4)山に登りたい、(5)一日中同期とHALOやりたい、(6)
本を読みたい、など。HALOというのは、ネット対戦型ゲームで、広めてから3ヶ月く
らい経つが、未だに健在。熱しやすく冷めやすい1-4にしては珍しいことだ。

 いよいよ一週間を切った事業用の試験の勉強もままならず、ATCの試験やら、実験の
レポートやらが山積み。ワッペンやTシャツのデザインも考えなくちゃ。お盆休みに帰る
用の航空券も、帰りの便がまだ取れていないし、事業用が終わってもレポート、試験が3
つくらい、そして何より、プロシージャーという恐ろしい課題が首を長くして待っている。
いったい、我々に休みというものは存在するのだろうか。

・・・いや、何を甘ったれたことを言っている。同年代の人たちはもう社会に出て働いて
いるというのに、まだ社会の「しゃ」の字も知らないものが「辛い」などという言葉を口
にするなんて、おこがましい。

 クーラーのあたりすぎか、今日は一日風邪っぽかった。鼻水が止まらない。休憩時間に
寮にもどって仮眠してたら、授業に遅刻してしまった。そういえば関東には台風が来てい
るらしい。こないだ大きな地震もあったし、心配だ。

 夏休みに入って、宮崎空港には777が来るようになった。11時15分くらいに来て、
12時過ぎに飛び立っていく。こないだは777に代わって-400が来ていた。空港に不
釣合いなほどでかかった。エンジンが滑走路からはみ出ていて、普段はジェットの後流を
受けないところの地面の噴煙を巻き上げながら離陸していく姿は圧巻だった。改めて、「ジ
ャンボ」というものはすごいと感じた。

 こないだの週末にはCップの彼女さんが宮崎に遊びに来ていた。日曜の夜にみんなで飲
んで、花火をやった。

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●2005年7月

 2003年7月11日、航空大学校のビーチクラフトA36(JA4133)が、エン
ジントラブルで宮崎市内の水田に墜落した。

 搭乗していた4名は3名死亡、1名重症の事故となった。

 今日は、校内の慰霊碑「飛翔魂」に前で、慰霊祭が執り行われた。学生は全員参列し、
事故が発生した午後4時2分、1分間の黙祷を捧げたのち、献花した。

 エンジンが停止してから、墜落までの5分間、機内は壮絶としていたそうだ。眼下に猛
烈な勢いでせまってくる地面を、どんな思いで見ていたんだろう。今日の天気は曇り、風
はやや強く、蒸し暑い日だった。いろんなことを考えたが、思いを言葉にするよりも、今
日のこの空気の感じ、風の匂いを忘れないようにしようと思った。

 亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

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●2005年12月

目安の高度よりも若干低めでファイナルターンを開始する。滑走路と計器を交互にクロス
チェックしながら、パスが高いか低いか判断する。高度が低かったせいで、旋回開始前か
らPAPIは2RED。スロットルをちょっと足して、ピッチを指一本分くらい上げる。滑走
路が目の前に来て、ロールアウト。気温が低く、エンジン出力が増加するため、目安の出
力ではスピードが出すぎてしまう。90ノットを維持できずに、速度計は95ノット近辺
をフラフラ。気をとられてるうちに、エイミングがずれる。

 「エイミング!」

 右席から激が飛ぶ。あわててピッチとパワーを修正する。

 「何か忘れてるものはないか!?」

 ラダーだ。教官がこういう言い方をするのは、ラダーのことを言うときだ。僕はいつも
ラダーを忘れてしまう。ボールを見ると、大きく右に飛んでいる。右足にほんの少し力を
入れて、機軸をまっすぐに直す・・・。

 教官と、最後の着陸。いつもとなんら変わりのない着陸。最後だから、今までで一番う
まい着陸を見せたかった。でもやっぱりいつもと同じことを言われてしまう。そんな自分
が歯がゆくて、悔しくて、情けなくて、でもそういう感情を押し殺して、冷静に、「落ち着
け」と何度も唱えながら、僕は教官を滑走路まで連れて行く。スレショールドまで、あと
900m。

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●2005年12月

 今週は午後フライト。乗るはずだったJA4215が突然スタンバイに。原因は一本のボ
ールペン。午前にこの機体で訓練していた学生が、ボールペンを機内に落として紛失した。
そのペンが見つかるまで、僕たちはこの機体を使うことはできない。JAMCO(整備)さん
がいくら探しても見つからないので、結局飛行機の床を剥がすことに。最終的に見つかっ
たのかどうかはさだかではないが、とりあえず4216が空いていたので、訓練はそっち
で行った。 

 なぜたかがボールペン一本にここまで執着するのだろうか。それにはちゃんと理由があ
る。
もしそのボールペンがラダーペダルの隙間にはまり込んでいたらどうなるか。ラダーが利
かなくなる。それ以外にも、思わぬところに入り込んで安全運航に支障をきたしかねない。
ボールペン一本くらいいいや、という甘えが、命取りになりかねないのだ。ちなみに、何
かがはまりこんでラダーが利かなくなった事件は、実際航大の訓練機で過去に起こってい
る。

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●2006年2月

 Y教官が班会を開いてくれた。Y教官は帯広分校の中で、1,2を争う厳しい教官だ。で
もその厳しさの裏側には、愛がある。当たり前のことかもしれないが、そのことを強く再
確認できた、すばらしい班会であった。

Y教官は防衛庁出身で、当時の訓練の話などをたくさん聞くことができた。教官の時代から
航空界は大きく変わってきたが、その中でも変わらないものを教官の中に見つけることが
できた。パイロットの世界を言葉で表現するにはまだ経験が浅く難しいが、独特の世界感
が確かに存在する。職人の世界であり、それでいてチームワークの世界でもあり・・・。
教官は3人の娘さんがいるが息子さんはいない。だから僕たちのことを息子のようだ、と
言ってくれた。僕もこのパイロットの世界の一員なんだなぁと実感し、嬉しくなった。

 町のK居酒屋はパイロットがよく集まるお店だ。航大の教官もよく訪れると言う。実は
この店の主人も飛行機好きで、仕事の傍ら、近くの飛行場で免許のいらないウルトラライ
トプレーンという種類の飛行機を飛ばしているんだそうだ。Y教官もよく乗りに行って、そ
の主人に「フレアが足りない」などと指導されてしまうんだそうだ(Y教官の飛行時間は1
万時間を超えている)。

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●2006年2月

 空を飛ばない人にとって、飛行機は「ただの騒音」以外何物でもない。周辺の人が一人
も不満を持っていない空港なんて、世の中にはない。飛行機が大好きな僕たちでさえ、と
きどき五月蝿く感じることがあるのだから、地上で静かな生活を送りたいと思っている人
たちにとっては、大変な被害となっているに違いない。ハエのように、手で払いのけたり、
殺虫剤を使うわけにもいかない。ストレスも溜まるだろう。

 地上の人が知っているかどうか知らないが(気づかれないようにする配慮なので、知ら
ないはずか)、僕たちはできるだけ地上の人に迷惑がかからないような飛び方に心がけてい
る。プロペラ機は回転数を落とすと音が静かになるので、対地1500ft以下ではプロ
ップをしぼる。その分、当然出力は落ちる。また、低空飛行訓練は人家のほとんどないエ
リアを選んで、そこから出ないようにしながら行っているし、もっとも、町の上は飛ばな
いようにしている。十勝管内には既に騒音注意地域が数箇所あり、その上空は通過しない
ようにしている。機長は、乗っている人のことだけを考えればいいというわけではないの
だ。

 それでも、苦情は届けられる。航法を行うためのスタート地点によく指定される町があ
って、そこの上空でぶんぶん発動(スタート)しまくっていたら、付近の牧場から牛に悪
影響が出たと苦情が入った。急遽、その町上空の低高度通過などが禁止された。

++++++++++++++++++++++

●2006年4月

 何にもない帯広にいた頃のほうが、毎週末何か見つけて出かけていたような気がする。
帯広に比べたら何でもあるこっち(宮崎)では、金曜の夜はそれなりにでかけるものの、
土日は部屋でだらだらして、夕方くらいに後悔が始まって、焦ってイオンに行ったりする。
何かないかなぁ。暇・・・。

 宮崎はほんと天気が悪くって、先週は5日間あるうちの1日しか飛べなかった。海に近
いせいか、風の強い日が多い。おとといは45kt(時速83km以上)の風が吹き荒れ
ていた。風に向かって対気速度一定で飛んでいくと、対地速度は風の分だけ遅くなる(飛
行機は対気速度が重要)。だから、風の強い日のライン機の離陸はおもしろい。でっかい鉄
の塊が、びっくりするくらいゆっくりゆっくり上昇していく。

 飛行機の操縦を何かにたとえるとすると、何になるのだろうか。車で高速道路を一定の
速さで走りながら、誰かと重要な話を電話でしつつ、クロスワードパズルを順番に解いて
いくようなものだろうか。僕たちが上空でしていることを列挙していくと、まず諸元の維
持(スピード、高度、進路、姿勢を変わらないように止めておくこと;上昇や降下、増速・
減速のときは別)、ATC(管制機関との交信)、機位(現在地)の確認、見張り・周りの状
況把握(他の飛行機はどこを
飛んでいるのかとか、空港は今どんな状況なのかとか)、運航(経済性、効率性、安全性、
快適性、定時性)、乗客への配慮、あとは教官に怒られること、など。もちろん、これらを
同時にこなすことなんて不可能だから、優先順位をつけて、一つずつ消化していく。何か、
パズルみたいでしょ。

 こんなことを考えている間に、外はもう日が傾き始めてる。やばい、イオンにでも行か
なくちゃ!写真はFTD(シミュレーター:通称ゲーセン)。前方のスクリーンに景色が映し
出され、様々な状況(エンジンが止まったとか、ギアが出ないとか)を模擬的に作り出し
て体験することができる。

++++++++++++++++++++++

●2006年7月

 6月が終わる。今月の飛行回数、わずか5回。時間にすると6時間ジャスト。梅雨だけ
のせいではない。

 6月最後の今日の天気は曇り。梅雨前線は北上し、九州の北半分は朝から絶望的。午後
には南側にも前線の影響が出始めるという予報だったが、今日は何が何でも飛ぶ!とSぺ
ーと固く誓い合い、種子島へのログ(飛行計画)を組む。午前10時。

 午前11時30分。ブリーフィングの準備開始。種子島空港に電話して、スポット(駐
機場)の予約を入れる。何でも、自衛隊が14時20分までスポットを占有しているらし
く、それ以降でないと駐機できないとのこと。しかたなく14時40分からスポットを予
約。出発を遅らせるしかない。こっちが到着するころに、自衛隊機が一斉に飛び立ってい
くのが見られるかもしれない。

 正午過ぎ、整備のJAMCOさんがシップの尾翼のあたりを脚立を使ってなにやら調べ
ているのが気になる。ブリーフィングの準備は整い、教官が来るまでのわずかな間に、も
う一度イメージトレーニング。ランウェイは09。高度は8500ft。あの雲を超えら
れるかな・・・観天望気のため外に出て、空を見上げる。行けそうだ。行こう。飛ぼう。

 午後12時半、帯広で尾翼のVORアンテナが脱落したという報告が入る。宮崎のシッ
プもチェックしてみたら、アンテナにひびが入っていたものが3機ほど見つかる。他のシ
ップにもチェックが入るため、僕らのシップは試験を目前に控えた先輩に回されてしまう。

 完璧に準備されたブリーフィング卓の前で呆然とする3人。教官が入ってきて、「何かシ
ップないみたいよ〜」と。拍子抜け。5〜6分、立ちブリーフィング。あまり飛びたくな
いときに飛ばされて、ほんとうに飛びたいときに飛べない。その気持ちの切り替えが、パ
イロットに課せられた課題の一つなのだ。こういうこともある・・・。

 先週は別の故障でシップが2〜3機足りず、キャンセルになっていたこともあった。シ
リンダーにクラックが見つかったとか、バードストライク(鳥と衝突)したとか。どうな
るんだろう、この学校・・・。でも、もうすぐ死ぬほど飛べる日々がやって来るんだろな。
地上気温、30度。8500ft上空、気温13度。とりあえずプール行こう。

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●2006年9月

前段。それは飛行機を、最初に空へ上げる人。誰よりも早く飛行機に乗り込む人。

 透き通った青い空のもとに置かれたピカピカの飛行機へ足早に向かう。目に映るのはボ
ナンザと、その向こうに広がる誘導路と滑走路、そしてそこを疾走してゆく大型旅客機だ
け。心地よい向かい風を肩で感じながら、次第に時間がゆっくりになっていくのを確かめ
る。一瞬一瞬が輝き始める。集中力が僕に呼びかける。そうだ、今日も飛ぶんだよ、と。

 どこから見ても本当に美しい機体。その表面を撫でて何かを確かめる。包み込まれるよ
うに優しく乗り込んで操縦桿を握ると、僕が飛行機の一部なのか、飛行機が僕の一部なの
かわからなくなる。そこから見える景色は、いつもと同じ景色でもあり、まったく違う景
色でもある。これは現実なのか、夢なのか。考えている間に手がひとりでに動き出す。流
れるようなプロシージャー。それはまさに音楽。飛行機が生まれ変わってゆく。

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●2006年9月

C'Kの1週間くらい前から、左目の目じりがずっと痙攣している。C'Kが終わった今でも、
それは続いていて、秋雨前線の雲に覆われたこのところの空のように、気分はどうもすっ
きりしない。

 C'K当日の朝も、空ははっきりしない雲に覆われていた。C'Kを実施するにはあまり好ま
しくない天気だが、とにかくこの日にC'Kを終わらせたかったので、最後の最後まで悩ん
だ挙句、行く決断をした。試験官との相性というものがあって、自分はI教官にぜひ見ても
らいたかった。この日以降、I教官は休みに入ってしまう予定だった。

 出題されたコースは、南回りで鹿児島。鹿児島は苦手意識が強く、できれば行きたくな
かった空港だ。C'Kの神様は本当によく見ている。大島、枕崎、鹿児島city、鹿児島空港、
坊ノ岬、都井岬、白浜。

 上がってみると、案の定コース上は雲だらけ。計画をどんどん変更し、上がっては下が
り、右に避けては左に戻り、視程の悪い中、必死に目標を探す。岬だの、駅だの、石油コ
ンビナートだの。鹿屋空港上空を通過後、エンジンフェイル(シミュレート)。『鹿屋空港
に緊急着陸します!』でケースクローズ(課題終了)。枕崎変針後、雲は一段と低く、多く
なってきて、鹿児島cityまでに2000ft、スパイラルで降下(螺旋降下)。鹿児島離陸
後は雲の袋小路に入り込み、管制圏すれすれを迷走。帰りの鹿屋上空で大雨。もうめちゃ
くちゃだった。泣きそうだった。何度ももう止めたいと思った。

 でも、頑張った。

 天気の悪い日は出来る限り飛ばないほうがいい。でも、得るものが多いのも、自信がつ
くのも、天気の悪い日だ。最後のVFRナビゲーションで今までで1、2を争う天気の悪さ
の中を飛んで、無事合格して、大きな大きな自信が身についた気がする。できればもう一
度、飛びたいと思った。

 学歴は大学中退、これといった資格のなかった僕が、事業用操縦士になった。つまり、
飛行機を操縦することによりお金を稼ぐことができるようになったということだ。総飛行
時間145時間、総着陸回数324回。短いようで、長い長い1年間だった。

 今の僕は、JISマーク付きのイスみたいなものだ。一定の安全基準を上回っただけの操縦
士。ちょっと行儀の悪い子供が座ったり、ゴツゴツしたところに設置されたりすると、ボ
キっといってしまう、まだひ弱なイスだ。『ミニマムのプロ』。I教官の講評。そう。ここが、
新しいスタートだ。

 協力してくれた同期のみんな、応援してくれたみんな、どうもありがとう。Finalも頑張
ります。

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●2006年11月

 仙台課程では、取得しなければならない資格が2つあり、それに加えエアラインへの就
職活動も並行して行われる。これが、仙台課程が大変だといわれる所以である。

 航大生だからといって、卒業後、自動的に各エアラインに就職できるわけではない。航
大のためだけの特別なスケジュールは確保されるものの、他の一般就活者と同じように、
まず4社に履歴書を送り、会社説明会に参加し、SPIや心理適性検査、そして身体検査
を受け、一般面接、役員面接を経て、ようやく内定という手はずを踏まなくてはいけない
のだ。第一志望の会社に受かる者もいれば、当然、どの会社にも縁をいただけない者もい
る。後者は、卒業後、他の航空会社に独自にアプローチをかけていかねばならない。

 つい先日、僕らの一つ上の先輩の一次内定者の発表があった。いくらパイロットの大量
退職という追い風があったとしても、やはりまだまだ思うようにいかないのが現実である
ようだ。それにしても、エアラインがいったいどういう人材を欲しているのか、いまいち
掴みにくいのが僕らの悩みどころである。

 航大の場合、最終内定前に就職がうまくいっていることを確認できる段階が、3つほど
ある。

 就職活動はまず履歴書を書くことから始まる。その後身体検査と面接が行われ、しばら
くすると何人かに再検査の通知が来る。身体検査にはお金がかかるので、再検査が来ると
いうことは、面接では合格したものと見込んでいいのだそうだ。

もちろん、身体にまったく異常がなければ、来ない場合あるが。とにかく、これが第一段
階。第二段階は、オブザーブだ。オブザーブというのは、会社が学生を何人か指名し、そ
の学生のフライトを、その会社の機長が後席から観察するというもの。当然、会社が見た
いと思う学生はほしいと思っている学生なので、オブザーブが来るということは期待して
いい証拠なのだそうだ。しかし、これはかなり緊張するらしい。

 第三段階は一次発表。これはほぼ内定と見込んでもいいらしい。その後大手2社以外の
身体検査、及び役員面接を経て、最終内定の発表となる。

 先輩を見ていて、少しずつ希望が輝いていく人と、翳っていく人がいる。その表情の違
いに、果たして3ヵ月後、自分はこのプレッシャーに耐えられるだろうかという緊張感を
覚える。夢が現実になる瞬間が近づいている。

 僕らはというと、既に履歴書は提出済み。来週はいよいよ、一週間かけての会社訪問&
身体検査に臨む。大鳥居のホテルに8連泊。航大至上初の、一人部屋である。身体検査に
向け、各自様々な取り組みをしているようだが、僕も仙台に来て約2ヶ月間、ずっと運動
を続け、結果減量に成功した。目標まで、あと少し!

++++++++++++++++++++++

●2007年1月

 再検査、と聞くと、何だかあまりいい印象を受けないと思うが、ここ航大の就職活動に
おいては、比較的縁起のいいものとして扱われている。なぜなら、見込みのない学生に、
お金のかかる再検査をわざわざやらないだろう、というのが定説だからだ。身体検査→面
接→再検査という順番を考えれば、再検査が来たということは、少なくとも面接ではOK
だったんだなと思っても、大きな間違いではないだろう。

もちろん、身体検査が一発で受かっていれば、そもそも再検査など来ないのだけれども。
幸い、と言うべきか、僕はJ社、A社の両方から再検査の通知が来た。

 J社では心エコー検査というものを受けた。心臓にエコー(音波)を照射して、反射して
きたものを映像化する装置で、いろんな角度からぐりぐり見られた。自分の心臓を見たの
は生まれて初めてだったので、興味津々で画面を見つめていた。どこかで勉強した通り、
心室や心房、またその間の弁まではっきり見えて、僕も同じ人間なんだなぁと当たり前の
ことをしみじみ感じていた。

しばらく無言で作業を続けるドクター。心配したが、最後に『うん、いい心臓だ』と言っ
てくれたので安心した。『まぁ大丈夫でしょう』と。って、そんなこと言っていいんですか
先生。身体検査は通常、結果は本人に知らされない決まりになっている。

 それ以外にも、J社では検尿、A社では腹部エコーと採血の検査があり、これらについて
は結果は知らされなかったので、どうなっているか不安だ。でも今は、そんなことを心配
するよりもフライトに集中しなくては。2日間で両社回ったのだが、滞在時間はそれぞれ
15分くらい。それ以外はほぼホテルでくねくねしていただけなので、ゆっくり休むこと
ができた。今週末も金曜・土曜と連続ALL DAY。頑張るぞ!

+++++++++++++++++++++++++

興味のある方は、どうか、息子のBLOGをつづけて読んでください。

http://xxxxx

です。

では、よろしくお願いします。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●航空大学校

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日本には、ひとつだけだが、国立の航空大学校が
ある。今は、独立行政法人になっているが……。

テレビのトレンディドラマの影響もあって、
入試倍率は、毎年、60倍前後。

これに合格すると、2年間の合宿生活を通して、
パイロットとしての訓練を受ける。衣食住を
ともにするわけである。

が、訓練のきびしさは、ふつうではない。

そのつど技能試験、ペーパーテストがあって、
それに不合格になると、そのまま退学。留年と
いうのはない。

パイロットといっても、単発機の免許、
双発機の免許、計器飛行の免許、事業用の
免許などなどほか、飛行機ごとに免許の種類が
ちがう。

ライン機ともなると、飛行機ごとに免許の
種類がちがう。もっとも、JALやANAの
ようなライン機のパイロットになれるのは、
その中でも、10〜15人に、1人とか。

健康診断でも、脳みその奥の奥まで、徹底的に
チェックされる。

で、あるとき「きびしい大学だな」と私が
言うと、息子は、こう言って笑った。

「燃料費だけでも、30分あたり、
5万円もかかるから、しかたないよ」と。
10時間も飛べば、それだけで100万円!
 
チェック試験に合格できず、退学になった
仲間もいたそうだ。ほんの少し、飛行機の
中でふざけただけで、それで退学になった仲間も
いたそうだ。

無数のドラマを残して、息子が、もうすぐ
その大学を卒業する。今は、就職試験のときだ
そうだが、どうなることやら?

結果はともあれ、息子よ、よくがんばった。
よくやった。
空が好きで好きで、たまらないらしい。


Hiroshi Hayashi++++++++以上、JAN.07++++++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 沖縄旅行記 息子の初フライト 黄色い旗 はやし浩司 黄色い旗 
浜松上空 はやし浩司 2010−10ー31 林英市 林 英市)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司



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●城の崎にて(銀花に一泊)

●城之崎にて(by はやし浩司)地元のバス会社、EバスのBツアー旅行記



城之崎にて(2011−8−19)
城之崎にて(2011−8−19)


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明日は、城之崎に向かう。

「城崎」とも書く。

「城の崎」とも書く。

長いバス旅行。

東名から名神を通り、中国(播但道)を経て、

生野、竹田城へ。

明日の夜は、丸山川温泉に一泊。



城之崎へは、明後日、到着。

楽しみ。+ワクワク。

志賀直哉の「城之崎にて」の城之崎。

高校2年生のころ、私は志賀直哉に夢中になった。

志賀直哉の本を、片っ端から、読んだ。



その城之崎。

何しろ半世紀近くも前のことで、内容は

よく覚えていない。

志賀直哉がどこかの旅館の一室で書いた

エッセーだった。



「……が静寂だった」「……が静寂だった」という、

表現が印象に残っている。

一度は、訪れてみたかった場所。

春に、そこへ行ったオーストラリアの友人がいた。

その友人も、こう言っていた。

「よかった」と。

明後日、その夢がかなう。



「お前は志賀直哉の本を読んだことがあるか」と

聞くと、「ウ〜ン、読んだことがある……」と、

どこか、いいかげんな返事。



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●城之崎(『城の崎にて』志賀直哉



ウィキペディア百科事典には、「城の崎にて」のあらすじが載っていた。

それをそのまま紹介させてもらう。



『東京山手線の電車にはねられ怪我をした「自分」は、後養生に城崎温泉を訪れる。「自分」は
一匹の蜂の死骸に、寂しいが静かな死への親しみを感じ、首に串が刺さった鼠が石を投げら
れ、必死に逃げ惑っている姿を見て死の直前の動騒が恐ろしくなる。そんなある日、何気なく
見た小川の石の上にイモリがいた。



驚かそうと投げた石がそのいもりに当って死んでしまう。哀れみを感じると同時に生き物の淋し
さを感じている「自分」。これらの動物達の死と生きている自分について考え、生きていることと
死んでしまっていること、それは両極ではなかったという感慨を持つ。そして命拾いした「自分」
を省みる』(ウィキペディア百科事典より)と。



●志賀直哉



ついでに、志賀直哉について、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある



『「城の崎にて」(きのさきにて)は、志賀直哉の短編小説。1917年(大正6年)5月に白樺派の同
人誌『白樺』に発表。

心境小説の代表的な作品とされる。志賀直哉は1910年(明治43年)に『白樺』を創刊し作品を
発表しており、実父との対立から広島県尾道に住み、夏目漱石の奨めにより後に『暗夜行路』
の原型となる「時任謙作」を執筆していた。

1913年(大正2年)4月には上京していたが、同年8月に里見クと芝浦へ涼みに行き、素人相撲
を見て帰る途中、線路の側を歩いていて山手線の電車に後からはね飛ばされ重傷を負う。



東京病院に暫く入院して助かったが、療養のため城崎温泉(「三木屋」という旅館(現存)に宿
泊)を訪れる。その後は松江や京都など各地を点々とし、1914年(大正3年)には結婚する。
1917年(大正6年)には「佐々木の場合」「好人物の夫婦」「赤西蠣太の恋」などの作品を発表
し、同年10月には実父との和解が成立している。



事故に際した自らの体験から徹底した観察力で生と死の意味を考え執筆され。簡素で無駄の
ない文体と適切な描写で無類の名文とされている』(ウィキペディア百科事典より)と。



 こうした予備知識をもって旅に出るのは、楽しい。

旅の奥行きが、倍加する。



●8月18日



 志賀直哉と言えば、『暗夜行路』。

読んだはずだが、内容が思い出せない。

もう一度、ウィキペディア百科事典の助けを借りる。

こうある。



『主人公時任謙作(ときとうけんさく)は、放蕩の毎日を送る小説家。あるとき尾道に旅に出た
彼は、祖父の妾お栄と結婚したいと望むようになる。そんな折、実は謙作が祖父と母の不義の
子であったことを知り苦しむ。ようやく回復し直子という女性と結婚するが直子が従兄と過ちを
犯したことで再び苦悩を背負い、鳥取の大山に一人こもる。大自然の中で精神が清められて
すべてを許す心境に達し、「暗夜行路」に終止符を打つ』と。



 ナルホド!

思い出した!

そういう話だった。



●8月19日



今回は、ワイフと2人の2人旅。

地元のバス会社が運営する、Bツアーを利用することにした。

ワンランク上の「ゆとりの〜〜」とかいう、コース。

もちろん料金も約2倍の、上級のコース。

座席数が、20%ほど、少ない。



 天気は曇り。

浜名湖を渡るとき、鉛色の低い雲が、重苦しそうに空を覆っていた。

空に広がった雨雲。

新聞の天気予報によれば、関西方面は、雨。

よかった!

このところの猛暑。

猛暑はこりごり。



●520ドル安



昨日(8月19日)、ニューヨークの株式市場が、520ドルも暴落した。

製造業の指標が悪かったこと。

失業保険の申請件数がふえたこと。



 こういうときは、「株」に手を出してはいけない。

プロというより、ロボットが、1000分の1単位で、コンピューター取り引きを繰り返す。

ロボット取り引きともいう。

素人の私たちが入り込むスキはない。

……というか、カモにされるのは、私たち。

統計的にも、95%の個人投資家は、損をすることがわかっている。

こういうふうに、乱高下するときは、さらに危険。



●Bツアーが変わった?



バスが走り出すと、ガイドがこう言った。

遠まわしな言い方だったが、「おしゃべりは静かに」と。

当然のことだが、Bツアーも進化した。

そういう印象をもった。



 この40年間。

当初は、喫煙は自由。

カラオケは定番。

バスに乗ると、まず自己紹介。

それが徐々に少なくなって、つぎに始まったのが、ビデオ上映。

で、最後の残ったのが、「おしゃべり」。

ガッハハハ、ゲラゲラ、ギャーギャー。

そのおしゃべりに、注意が入るようになった。

しかし長い時間だった。



●夫婦喧嘩



 豊橋を過ぎるころ、激しい雨が窓を叩き始めた。

数分間、窓の外が、真っ白になった。

雨を嫌う人も多いが、私は好き。

心が落ち着く。

脳みその働きも、よくなる。



 ……つい数日前、『福井県越前大野への旅』について書いた。

ワイフと喧嘩をし、家出をした。

家出をし、越前大野まで行ってきた。

が、今日は、ワイフといっしょ。

仲直りしたというわけではない。

平常に、戻った。

離婚話は、どこかへ吹き飛んでしまった。



 私たち夫婦は、いつもこのパターンを繰り返している。



●サイクル



 夫婦論というのがある。

はやし浩司流に解釈すると、こうなる。



(安定期)→(不安定期)→(緊張期)→(葛藤期=爆発期)→(冷却期)→(修復期)→(安定期)
→……。



 で、今は、冷却期から修復期。

嵐が去り、(少し大げさかな?)、今は、こうしていっしょに、城之崎に来ている。

毎度のことだから、だれも私たちの離婚話を本気にしない。

義兄ですら、「あらあら、ごくろうさま」などと言ったりする。

で、そういうとき、私は、こう訴える。

「今度は、本気です。あんなヤツとは、来週中に離婚します」と。



 が、結果は、このザマ。

長くつづいて、2〜3日。

3日もすると、また元に戻る。

多少のタイムラグはあるが、まずワイフのほうが平常に戻り、つづいて私のほうが謝る。

それでおしまい。



(林夫婦は、どうなるんだろう?、と期待していた人をがっかりさせて、ごめん……。)



●城之崎



城之崎には、午後3時ごろ、着いた。

一見してわかる。

活気がある。

行きかう温泉客。

老若男女、さまざま。

客層が広い。

小さな店まで、本気!

その本気が、がんがんと伝わってくる。



 で、私たちが泊まった旅館は、『銀花』。

郊外の海沿いにあるが、この城之崎でも、超一級旅館だそうだ。



 各部屋の中に温泉がある。

室内のベランダも広い。



いろいろな旅館に泊まったが、ここも文句なしの5つ★の、★★★★★。

「上には上があるものだ」と、感嘆のため息。



●9時からは、花火大会



夜、9時から花火大会があるという。

ちょうど川向こうのホテルの横から打ち上げられるという。

今、その9時を待っているとき。

時刻は、8:57。

あと3分。



 ビデオカメラは、スタンバイ。



●花火は終わった



私たちの泊まっている部屋は、101号室。

部屋の名前は、「直哉」。

志賀直哉の「直哉」。

ワイフは、それを見て、「あなたが特別に頼んだの?」と。

が、私は頼んでない。

偶然。

しかし、どういうわけか、うれしかった。



 旅には、何かの目的があるとよい。

それについては、先に書いた。

が、これは生きる「目的」にも共通する。

たいしたものでなくてもよい。

些細なものでよい。

私たちは、それにしがみついて、生きる。



●事件



ところで今日、ここへ来る途中、バスの中でこんな事件があった。

私が叩くパソコンの音がうるさい、と。

ガイドさんのほうに、苦情が寄せられた。

が、こんな経験は、はじめて。



 もってきたパソコンは、TOSHIBAのMX。

部屋の中で叩いていても、無音と言うわけではないが、静か。

ほとんど音はしない。

またそのときは、パソコンたちあげ、メールを読んでいただけ。

今どき、飛行機の中でも、電車の中でも、パソコンは必需品。

それが「うるさい!」と。

私はすなおに謝罪し、パソコンをカバンの中にしまった。



 苦情を言った人は、70歳前後の老夫婦。

通路をはさんだ反対側の席の人たちだった。

多分、パソコンと携帯端末(携帯電話)の区別もつかない人たちではなかったか。

あるいはパソコンに対して、強度の嫌悪感をもっている(?)。

そういう人は多い。



自分が扱えないから、それを扱う人を、徹底的に毛嫌いする。

パソコンで仕事をしている人を、徹底的に軽蔑してみせる。

そういう人は、あなたの周りにも、1人や2人はいるはず。

60歳以上の人に多い。



 「あんなもの使っている人間に、ロクなのはいない!」と。

簡単にそう決めつけてしまう。

今日バスの中で会った老夫婦も、そんな人たちだったかもしれない。



 サービスエリアで買ってきた、「きんつば」を2個、分け与え、「すみませんでした」

と謝ると、一瞬戸惑ったが、つぎの瞬間には、やさしい笑顔を見せた。



●8月20日



 平凡な朝。

静かな朝。

目覚ましは、朝、6時にセットした。

昨夜は10時ごろ床に入ったので、睡眠時間は8時間。



 窓の外は、内浦湾になっていて、漁船が数隻、右から左へ通り過ぎていった。

「どちらが海なのだろう?」と。

城之崎が左方面にあるから、左方面が海?

よくわからないが、波は静か。

山の間を流れる雲も低く、厚い。



●Bツアー



 Bツアーを利用するのは、1年半ぶり?

それまでは、毎月のように利用していた。

が、最後に、おしゃべりオバちゃんたちと口論をし、すっかり嫌気がさした。



 で、今回も、こう思った。

便利で料金も安いが、やはり私たちには向かない、と。

ワイフがそう判断した。



 バス会社のサービスはよい。

ガイドもよい。

コースも旅館も、よい。

しかし客層がよくない。

昨夜も、会席料理を食べながら、ガハハ・ゲラゲラと、傍若無人に騒いでいるオバちゃんたち
がいた。

その声が、部屋の端から端まで聞こえてきた。

廊下を歩いているときも、同じ。

部屋の中まで、その大声が聞こえてきた。

残りの20数人は静かでも、こういうオバちゃんが2〜3人でもいると、旅行も台無し。

 

 「もうやめようね」と私。

「そうね」とワイフ。

 

●城之崎にて



 志賀直哉の『城の崎にて』。

はやし浩司の『城之崎にて』。

今はもう文人の時代ではない。

娯楽も多様化し、無数にある。

志賀直哉の昔には、すべての娯楽が文学に集中した。

文人にとっては、古き良き時代ということになる。



 うらやましいとは思わない。

私が志賀直哉の時代に生きていたとしても、私はただのもの書き。

文に書いたところで、目に留めてくれる人もいなかったことだろう。



●帰宅



 8月20日、午後8時すぎに、浜松へ戻ってきた。

今回も、運の悪いことに、(本当に運の悪いことに)、真うしろの席に、2組の夫婦。

女どうし、2人のおばちゃんたちが陣取った。

ともに70歳くらい。

私たち夫婦は、後ろから2列目の席。



 2度、注意したが、帰ってきたのはイヤミ。

「ア〜ラ、うるさいって注意されたから、いちばんうしろの席にいきますよオ〜」と。

わざとみなに聞こえるような大声で、席を離れていった。

が、それで静かになったわけではない。

耳が不自由なのか、その中の1人が、一方的に大声でしゃべりまくる。

が、相手の声は聞こえないらしい。

相手が何かを言うたびに、「えっ、何?」を繰り返していた。



 ほかのほとんどの客は静かだった。

みな、それぞれの旅を楽しんでいた。

が、今回も、運が悪かった。



 Bツアーへ:



「ゆとりの〜〜」では、6人以上の団体客は申し込みを断っているとか。

たいへんすばらしいことだが、できれば、3人以上にしてはどうか?

そうすれば、ああいう客を排除することができる。



 もっとも、ワイフの意見通り、Bツアーは、しばらくはコリゴリ。

そういう客がいても、ガイドは何も注意しない。

知らぬ顔。

最前列に座っているから、後部座席のことはわからない。



 が、あえて言うなら、つぎの進化を期待して、私はこう要望する。



(1)ポイントガイド……必要なことだけをガイドするというのは、よかった

(2)BGM……うるさいビデオをなくなったのは、よかった

(3)団体客の制限……よかったが、おしゃべりが目的のおばちゃんには、きびしくしてほしい。

(4)時間の取り方……ゆったりとしていて、よかった。



●総括



 学生時代からの念願がかなった。

志賀直哉ゆかりの「城の崎」を自分の目で見ることができた。

ワイフも満足そうだった。



 あのオバちゃんたちが静かだったら、星は4つの、★★★★。

あのオバちゃんたちのおかげで、バスそのものが、拷問室に。

バスを降りたとき、ほっとしたのは、無事着いたからではない。

オバちゃんたちと別れることができたから。



(そうそう、オバちゃんたちのおしゃべりを不愉快に思っているのは、私たちだけではなかっ
た。

一度、私が注意したとき、前の席の人が振り向いて、こう言った。

「ありがとうございます」と。



(しかし、どうしてこの日本では、ああいうオバちゃんたちの話し声だけは、野放しになっている
のか?

携帯電話にはうるさい。

しかしオバちゃんたちは、野放し。

おかしい。

日本だけではない。

ああいう日本人が、世界中へ出かけていき、日本人の恥をさらしている!)



 なお運転手とガイドは、たいへん質が高かった。

「ゆとりの〜〜」ということで、選りすぐられた人たちなのだろう。

ともに理知的で、気持ちのよい人たちだった。

それだけに、今回の旅行は、残念!

「バスの中で読書……」と考えていたが、その余裕は、最後までできなかった。



(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 城の崎にて 城之崎 城崎 志
賀直哉 暗夜行路)











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【金沢から、羽咋(はくい)へ】



2011−8−22石川県羽咋市.jpg
2011−8−22石川県羽咋市.jpg


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休暇も残り、2日。

昨日になって、ワイフが、突然、UFOを見たいと言った。

UFO?



能登半島に羽咋市(はくいし)という町がある。

そこに「UFO会館」(正式名称は「宇宙科学博物館」)がある。

「羽咋へ行こうか?」と声をかけると、「うん」と。

そこで今日は、名古屋発、金沢行きのバスに乗り込んだ。



午前8時30分発。

昔は「名金線」と言った。

学生時代、よく利用させてもらった。

途中、いくつかの観光地を、そのまま通る。……通った。

料金も安かった。

当時は、名古屋から金沢まで、8〜9時間もかかった。

今は、4時間!

往復2人分で、料金は今も、1万1000円。

(片道、1名、2750円!)

JRの約半額。



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●UFO



 UFO会館といっても、あまり期待していない。

期待していないが、期待している?

一応、羽咋市はUFOの出没地ということになっているらしい。

昔からそういう伝説が残っている。

アダムスキー型UFOを思わせる鐘も、そのひとつ。

鐘は鐘だが、つまり音の出る鐘だが、アダムスキー型UFOにそっくり。



楽しみ……が、やはり過剰期待は禁物。

この種の博物館は、いつもたいてい期待はずれ。

わかっているが、要するに、道中を楽しめばよい。

あとは、食事。



 ホテルは確保したが、夕食はなし。

どこかで何かを食べよう。

できれば蟹料理。

少しぜいたくかな?



●一貫性



 UFOは超常現象ではない。

心霊現象とは一線を画す。

「科学」である。

またそういうレベルで論じられるべき。



 ……これについてはもう、何度も書いてきた。

その理由の第一。

論理的な一貫性がある。

デタラメなインチキ報告は別として、UFO問題を掘り下げて検討していくと、そこに一貫性が見
えてくる。

つまり論理性に矛盾がない。



 ワイフと私は、一度、巨大なUFOを目撃している。

そういう経験も下地になっている。



●ジジ臭い



 「死ぬまでに……」という言い方は、それ自体、ジジ臭い。

よくわかっている。

しかしこのところ、何かにつけ、そう考えることが、多くなった。

羽咋のUFO会館も、そのひとつ。

ならば、日本を飛び出したら……という意見もある。

たとえばアメリカのロズウェル。

1947年、アメリカのロズウェルに、UFOが墜落している。

そのロズウェル。



が、私は大の飛行機嫌い。

29歳のとき飛行機事故に遭遇してから、そうなってしまった。

それまでは、毎週のように飛行機に乗っていたが……。



 特別な理由でもないかぎり、飛行機には乗らない。

その点、UFOは、やや力不足。

ロズウェルへ行ったからといって、UFOを必ず見られるというわけではない。

アメリカ政府が、痕跡の「コ」の字も残らないほど、証拠類をすでに始末してしまったという。



 ともかくも、私たちは、あの夜見たものが何であるか、それを死ぬまでに知りたい。

そのためにも羽咋へ行くことにした。

 

●アクセス数



 昨日、夕方近く、BLOGをUPした。

で、今朝、アクセス数を見たら、いつも倍以上もあった。

夕方にUPしたことを考えるなら、いつもの4倍以上ということになる。

件数でいえば、合計で、5000〜6000件!

驚いた。

昨日、『ボロボロの日本の教育』というテーマで原稿を書いた。

まさにボロボロ。

日本の教育は、落ちるところまで落ちた。

それについて書いた。

つまりそれだけ多くの人たちが、日本の教育に、危機感をもっている人が多いことを示す。



 たしかに「?」。

それだけではない。

本末が転倒している。

平等なら、まだ納得できる。

が、今は、祖父母や親が、孫や子どもに向かって、「ごめん」「ごめん」と謝る時代。

祖父母や親が、「ごめん」「ごめん」と謝りながら、孫や子どもを育てている。



 そう、昔は親が、子どもを勘当した。

親にも、まだ力があった。

それが逆転した。

今は、息子や娘のほうが、親に向かって縁を切る。

「2、30年たったら、お前を許してやる!」と。

(この先、2、30年も生きている親はいない!)



●経済



 もう少ししたら、ネットで経済ニュースを拾うことができる。

今週(8月22日・月曜日)は、どうなるか。

世界不況は、深刻度を増している。

この日本についても、異常な円高がつづいている。



 先週末の流れを引き継ぐとすれば、今週も、大波乱。

よい材料は、何もない。

このつづきは、もう少しあとに書く。



●JR東海バス



 ワイフは目を閉じ、眠り始めた。

景色と言っても、見えるのは高速道路の壁だけ。

快適にはなったが、何か、もの足りない。



 バスのシートカバーには、「JR東海バス」と書いてある。

最後尾には、トイレもある。

座席の幅も広い。

左右に10列。

定員は、40名。

乗っている客は、私たち夫婦も含めて、19人。

「空いている席は、ご自由にお使いください」と、

発車する前、運転手がそう言った。



●夏休み



 この夏休みには、3度、旅行したことになる。



(1)越前大野、

(2)城之崎温泉、

(3)そして今回の石川県・羽咋。



 オーストラリアとか上海も考えたが、飛行機嫌いを乗り越えるだけのパワーを感じなかった。

来年3月には、友人の娘が結婚することになっているので、オーストラリアへ行くことになってい
る。

小さいときから、私を慕ってくれた。

ずば抜けて美しい女性で、それに理知的。

現在は、メルボルン市内のペンギンブックスで、編集長をしている。

世界中を飛び回っている。



 今のところ、飛行機に乗る予定は、それだけ。



●ルート



 目の前に高い山が迫ってきた。

犬山から多治見のほうへ抜けるらしい。

この時期、森の木々は濃さをぐんとます。

緑というよりは黒に近い。

濃緑色。

そこに雲間から漏れる日差しが、美しいまだら模様を作る。



 雲が、さらに一段、低くなってきた。

流れる雲だけを見ていると、まるで飛行機の窓から外を見ているよう。

それをながめながら、しばし、時のたつのを忘れる。



 ……いや、ちがう。

ルートがちがう。

私は、昔の名金線のように、本州を縦に縦断して金沢へ向かうものとばかり思っていた。

が、実際には、名古屋→米原→敦賀→福井→金沢と、列車路線と同じルートをたどっている。



 知らなかった!



●経済2



 先ほどネットで、いくつかのニュースをたどってみた。

そのひとつ、北海道でも地震があったとか。

つぎは浜松と思っていたが、北海道。



 それと金(ゴールド)とプラチナが、さらに高騰中。

プラチナがグラム5000円、金が4891円。

株価は様子見。

行き場を失った大量の資金が、右往左往している。

私には、そう見える。



●自由



 バスは福井県に入った……らしい。

快適。

地元バス会社の主宰するB・ツアーより、はるかに快適。

おしゃべりなオバちゃんたちもいない。

うるさいガイドもいない。

席は、ガラガラ。



 ワイフは先ほどまで、何かの本を読んでいた。

私は1時間ほど、眠った。

旅にも、いろいろな仕方がある。

が、こういう方法が、私たち夫婦には、いちばん合っている。



 わざとシーズンをはずし、バスか電車で移動する。

宿は、ネットで選ぶ。

目的地は、1つでじゅうぶん。

それでも料金は、B・ツアーの半額程度。

 

 が、本当のところ、料金が問題ではない。

自分で旅をしているという、その満足感が楽しい。

まさに学生気分!



●片山津



 またまた眠くなってきた。

バスのエンジン音が、静かに床の下から響いてくる。

時折座席が、小刻みにゴトゴトと揺れる。

うしろのほうで咳をする人以外、客の気配すらない。



 ……バスは、もうすぐ「尼御前」に到着するという。

たった今、そんなアナウンスが流れた。

「尼御前(あまごぜん)」。

何とも風流な地名ではないか。



 ……ということで、目下、思考力はゼロ。

そこに何か書きたいことがあるはずなのに、それが脳みその中に湧いてこない

あえて言うなら、今度買う、新型パソコン。

10月の誕生日には、手に入れたい。

CPUは、3・40GHz以上。

3・60GHzというのも、ある。



 ……ワイフが「あっ、海だ!」と言った。

見ると左手に海が広がっていた。

日本海。

その横に、「片山津」という書いた標識が見えた。



●F15



 左手から、見慣れないジェット戦闘機が舞い上がってきた。

F15、トムキャットである。

浜松上空を飛び交う、あの練習機とは迫力がちがう。

ゴーというすさまじい轟音が、バスの中まで聞こえてきた。



 ここは日本の防衛、最前線。

その少しあと、バスは、「北陸小牧」というところで、停まった。

客は、だれも乗らなかった。



●出かける勇気



 外に出る。

人に会う。

旅先で、それまで知らなかった世界を見る。



 脳みその活性化、つまりボケ防止のためには、たいへん重要である。

家でゴロゴロしていたいという気持ちもないわけではない。

が、それではいけない。

そこで「出かける勇気」。

少し前、旅先で出会った人が、そんな言葉を教えてくれた。



 それに似ているが、最近、私は、よくこんなことを考える。



 たとえば朝、ふとんの中で目を覚ます。

起き上がるには、まだ少し早い。

が、それでも起き上がる。

「そのまま横になっているのも、30分。

しかしウォーキングマシンの上で、歩くのも、30分」と。



 そのとき心のどこかで、ふと、「起き上がる勇気」という言葉を考える。

勇気を出して、起き上がる。

ほかにもいろいろある。



 書店へ行く。

そのときも、その本を買うかどうかで、迷う。

が、こう言って自分に言い聞かせる。

「買う勇気」と。



●叩きつぶす



 つまり人間は、基本的には、怠け者。

恐らく人間は猿の時代だったころから、そうではなかったか。

木の上で、餌を食べるだけの人生。

あとは終日、ひたすら昼寝。

だから人間になった今も、楽をすることしか、考えない。

「極楽」の「楽」が、それを表している。



 だから「出かける勇気」というのは、そういう怠け心と闘う勇気ということになる。

とくに私のような、どこか対人恐怖症ぽく、かつ回避性障害ぽい人間にとっては、そうだ。

思い切って旅に出る。

そういう怠け心を叩きつぶす。



むずかしい話はさておき、そのつど、怠け心と闘う。

それが勇気。



●片町(金沢)



 あっという間の4時間だった。

「次は片町」と表示された。

金沢市イチの繁華街。

学生時代は、よく遊んだ。

が、風景は一変した。

学生時代の面影は、どこにもない。

近代的なビルにしゃれた店。



 が、感動がないわけではない。

ほんの少しだが、心が躍るのを感じた。

この町には4年間の思い出がしみこんでいる。

バスは、もうすぐ、犀川を渡るはず。

それを身をやや硬くして待つ。



 ハロー、金沢。

犀川だけは、学生時代のままだった。



●金沢



 金沢は、その昔は、学生の町だった。

どこへ行っても、学生がいた。

目だった。

私もその金沢の金沢大学の学生だった。

あの金沢城址にあった学舎で、4年間を過ごした。

が、今は、金沢大学もそこを追い出され、角間というところに移転した。

どこにでもある新制大学のひとつになってしまった。

当然のことながら、レベルも落ちた(失礼!)。



 私たちは、それを天下の愚策という。



 当時、たまたまNHKの大河ドラマで、前田利家がテーマになった。

それだけではないが、金沢城址を、金沢市は観光地にしようとした。

そのために金沢大学を、金沢城址から追い出した。

が、これは世界の常識ではない。



 世界の大都市は、市の中心部に最高学府を置く。

「知」の府を置く。

私が学んだ、メルボルン大学を例にあげるまでもない。

それがその市の誇りでもあり、シンボルにもなっている。

その学府が、町全体の知的文化を引き上げる。



札束も印刷物なら、書本も印刷物。

金沢市は、札束を選び、書本を捨てた。

その結果が、今。



 金沢市は、観光都市として、「知」を捨て、俗化した。



……私が浜松市に移り住んだとき、私はその文化性のなさに驚いた。

浜松市は、工業都市。

20年ほど前から、「音楽の町」として売り出しているが、もともとは「楽器の町」。

「音楽」と「楽器」とでは、「文学」と「印刷機」ほどのちがいがある。



 その浜松に住んで、40年。

今度は金沢に来てみると、その浜松とそれほど違わないのに、驚く。

逆の立場で驚く。

あれほど強く感じた「差」は、もうない。

浜松が文化都市になったとは思えない。

つまりその分だけ、金沢は、俗化した。



 で、肝心の観光収入は、ふえたのか?

答えは、「NO!」。

同窓生の中には、金沢市役所に勤めたのもいる。

石川県庁に入ったのもいる。

みな、今になってこう言っている。



 「まったくの失敗だった」と。



●サンダーバード13号(金沢、13:03発)



 金沢からはサンダーバード13号(特急)で、羽咋まで。

「サンダーバード」という名前がよい。

なつかしい。

が、どう考えても、北陸を走る列車らしくない。

「犀星13号」とか「犀川13号」とか。

そういう名前のほうが風情があって、よい。

どうでもよいことだが……。



 羽咋までは、40分。

学生時代には、法律相談所の所員として、毎月のように通った。

「所員」というと大げさに聞こえるかもしれないが、要するにインターンのようなもの。

大学の教授といっしょに通った。

行けば何かを思い出すだろうが、写真が何枚か、残っているだけ。

会場となったのは、どこかの神社の事務所。

その2階。

残っている写真は、その神社の前で撮ったもの。



 羽咋出身の友人もいたはず。

SH君という名前ではなかったか。



●学生時代



 金沢での学生時代は、そのあとのメルボルン大学での学生時代の陰に隠れて、記憶の中で
はかすんでしまっている。

メルボルン大学での学生生活が、それほどまでに強烈だったということか。

が、こうも考える。



 もしあのまま、まじめに(?)、金沢大学を卒業し、商社マンになっていたら、私はどうなってい
ただろうか、と。

2年ほど前、同窓会に出たとき、「伊藤忠商事を定年まで勤めまして……」と言った友人がい
た。

いっしょに入社試験に行ったことのある仲間だった。

その仲間を見ながら、私はこう思った。

「私も、ああなっていただろうな」と。



一社懸命の企業戦士。

バリバリ働いて、定年退職。

が、いくら想像力を働かせても、それ以上のことが頭に浮かんでこない。



●私は、ただのバカだった



 「今」が、つねに「結果」であるとするなら、では、金沢での4年間は、何だったのかということ
になる。

それはちょうどボケた老人を見るときの自分に似ている。

そんな人にも、それぞれ、自分の過去があったはず。

が、ボケると、そういう過去が、どこかへ吹き飛んでしまう。

積み重ねてきたはずの、人生の年輪が消えてしまう。



 今の私にしても、そうだ。

学生時代の私は、たしかにバカだった。

しかも、ただのバカ。

が、今の私が、そのバカから抜け出たかというと、それはない。

むしろさらにバカになったのかもしれない。

ボケ老人、一歩手前。



 となると、「金沢での4年間は、何だったのか」ということになる。

就職のための、一里塚?

そう考えることはさみしいことだが、私にかぎらず、当時の学生はみな、そう考えていた。

私たちはいつも、何かに追い立てられて生きていた。

あの4年間にしても、そうだ。

「大学へ入るのは、その先の就職のため」と。

そういう私が、「私」をつかんだのは、ほかならない、メルボルンでのことだった。



●「もう、いやだ!」



 私はあのメルボルンという町で、生まれてはじめて「自由」というものを知った。

本物の、自由だ。

だからこそ、三井物産という会社を、迷うこともなく、やめることができた。

「もう、いやだ!」と。



 あの会社では、純利益が半年ごとに、成績表のように発表される。

それでその社員の「力」が評価される。

それを知ったとき、私は、「もう、いやだ!」と。



 が、もしあのままメルボルンを知らないで、日本の会社に入っていたとしたら……。

その仲間には悪いが、心底、ゾーッとする。

私はその意識もないまま、一度しかない人生を、棒に振っていた。



●宝達(ほうだつ) 



 列車は、すれちがい列車を待つため、宝達(ほうだつ)という駅に停まった。

5分の停車という。

さびれた田舎町(失礼!)。

少し心配になってきた。

「羽咋市はだいじょうぶだろうか?」と。

この40年間で、それなりに発展していることを願うばかり……。



 レストランもないような田舎町だったら、どうしよう?

先ほどワイフに、「和倉温泉にすればよかった」と言った。

和倉温泉へは、何度か泊まったことがある。

やはり法律相談所の所員として、その町へ行ったときのことだった。

ほかに、能登、珠洲(すず)、富来(とぎ)などなど。

能登半島で、行かなかったところはない。

夏休みになるたびに、巡回相談というので、各地に一泊ずつしながら、能登を一周した。



 ……が、言うなれば、六法全書がすべての、血も涙もない、冷酷な相談員。

事務的に相談を受け、事務的に相談に答えていた。

今から思うと、そんな感じがする。



●書生さん



 しかし能登はよい。

ほかの地方にはない、独特の風情がある。

その昔は、人も通わない、陸のへき地。

孤島。

金沢から富山方面へ行く人はいたかもしれない。

しかし能登まで回る人はいなかった。



 だから私のようなしがない学生でも、、能登を旅すると、土地の人たちは、学生のことを、畏
敬の念をこめて、「書生さん」と呼んでくれた。

そんなぬくもりが、この能登には残っている。



●コスモアイル羽咋(UFO会館)



 羽咋へ着くと、すぐ、「コスモアイル羽咋」(UFO会館)へ。

「コスモアイル?」。

「Cosmo Isle(宇宙の島)」のこと?

ネーミングが悪い。

これでは記憶に残らない。

観光客も集められない。

やはりズバリ、「UFO会館」のほうが、よいのでは?



 が、中は、かなり見ごたえがあった。

宇宙船の展示物も立派。

すばらしい。

本気度を随所に感じた。

が、肝心のUFO影が、薄い?



また3階では、プラネタリウム風の簡単な映画を見せてくれたが、こちらはガッカリ。

つまらないギリシャ神話と、ハップル望遠鏡の紹介だけ。

が、全体としては、もしあなたがUFOファンなら、一度は訪れてみる価値はある。

(日本には、ここ以外に、それらしい場所ないこともあるが……。

あの矢追純一氏が、名誉館長にもなっている。)



 で、今日の宿泊ホテルは、「渚ガーデンホテル」。

昨夜急に予約を入れた。

それもあって、食事の用意はできないとのこと。



 で、駅前のタクシー運転手に聞くと、「ぼうぼう」という店を勧めてくれた。

「ぼうぼう」というのは、「魚」のこと。

「このあたりでは、魚一般のことを、ぼうぼうと言います」と、店の女将が教えてくれた。



 その「ぼうぼう」で、夕食。

サシミの盛り合わせ、天ぷらの盛り合わせ、それと「のど黒」という魚の焼き物。

鯛の頭の入った味噌汁、ごはん、生ビール……。

しめて4300円。

安い!

プラス、おいしかった。

「さすが本場!」と、ワイフも大満足。



 ありがとう、「ぼうぼう様」。



●矢追純一氏



 矢追純一氏のような有名人にもなると、「私もつきあったことがある」と、名乗り出る人は、多
い。

私もその1人かもしれない。

もちろん矢追氏のほうは、私のことなど忘れてしまっているだろう。

しかしこう書けば、思い出してもらえるかもしれない。



 浜松で、針麻酔をしていたG先生のところで何度か会った。

東京のホテル・ニューオオタニでも、何度か会った。

UFOを目撃したと電話で伝えたとき、写真を20〜30枚送ってくれた。

オーストラリア製の紙巻タバコを送ると、お返しにと、日本テレビのロゴの入ったガスライターを
送ってくれた、などなど。



 ほかに覚えているのは、ある事件に巻き込まれ、矢追氏がニューヨークへ逃げていったとき
のこと。

電話で、「ものすごい人を見つけた」と、ニューヨークから連絡をくれた。

その「ものすごい人」というのが、あのユリ・ゲラーだった。

当時はUFOディレクターというよりは、超能力ディレクターだった(「11PM」)。



 一度会いたいと思っているが、私のことなど、忘れてしまっているだろう。

当時は、私も矢追氏も、若かった!

あの長いトレンチコートが、どういうわけか強く印象に残っている。

あの矢追氏が、この世界で、これほどまでの人になるとは、私は夢にも思っていなかった。



●三日月型



 ところで「UFO」と言われる乗り物(?)のもつ多様性には驚く。

まさに、何でもござれ。

形も、さまざま。

人間の乗り物と言えば、自動車。

飛行機。

最大公約数的に、その「形」をまとめることができる。

が、UFOについていえば、それができない。



 館内でもらったパンフによれば、「UFOの基本的な形は、大きく分けると12種類に分けられ
るそうです」とある。

ワイフと私が目撃したのは、その中でも、「三日月型」ということになる。

つまりブーメラン型。

飛行パターンも紹介されているが、同じパンフによれば、18種類もあるとか。

要するに飛び方もメチャメチャということ。



 では、その正体は、何か?

やはり同じパンフによれば、



(1)軍事兵器説

(2)自然現象説(プラズマ説)

(3)エイリアン・クラフト説(宇宙人の乗り物説)

(4)未知の生物説の、4つがあるという。



 興味は尽きない。



●渚ガーデンホテル(羽咋市)



 千里浜(ちりはま)をドライブしたあと、ホテルに入った。

朝食のみで、9600円(2人分)。

どこかレトロ調の、静かで落ち着いたホテル。



 ワイフは、しばらく何やらしていたが、今は、ベッドの上で眠っている。

まだ外は薄明るい。

たそがれ時。



 あとで近くの温泉に行くことになっているが、多分、行かないだろう。

私は本を読んだり、パソコンを叩いたりしているほうが楽しい。

こうして自分の「時」を過ごす。



●事故



 話がバラバラになり、まとまらない。

テーマというか、焦点が定まらない。

ときどきメールをのぞいたり、ネットであちこちのサイトを読んだりしている。

が、どれもどれ。

それについて書きたいときには、ビリビリと電気ショックのようなものを感ずる。

が、今は、それがない。



穏やか。

平和。

満腹状態。



軽い睡魔を感ずるが、同時に軽い頭痛もある。

今日は、昼寝をしていない。

そのせい?

で、ここ千里浜(ちりはま)には、こんな思い出がある。



 下宿の先輩とドライブをしていて、事故に遭った。

車ごと横転した。

記憶の中では、3転ほどしたと思う。

空中で自分の体がクルクルと回っているのを覚えている。



 そのことを先ほどタクシーの運転手に話すと、こう説明してくれた。

「波が、ときどき段差を作ってね。その段差にタイヤが取られると、横転することもあるよ」と。

私が大学2年生のときのこと。

先輩は、3年生だった。

先輩は、それで背骨を折った。

私は不思議なことに、まったくの無傷だった。



●旅行



 今回の夏休みでは、1日おきに、3つの旅行をした。

3泊4日の旅行を、3つに分けたということになる。

それぞれの旅行には、それぞれの性格がある。



 福井県の越前大野へ行ったときには、「私は一人ぼっち」ということを、強く思い知らされた。

兵庫県の城之崎へ行ったときには、昔の自分に会えたような懐かしさを覚えた。

また今回、この羽咋へ来たときには、「来た」というよりは、「古巣へ戻ってきた」という感覚にと
らわれた。



タクシーに乗っているとき、たまたま「富来行き」というバスとすれちがった。

私が何気なく、「ここから富来(とぎ)へも行けるのですか?」と聞くと、タクシーの運転手は、驚
いてこう言った。

「富来(とぎ)という読み方を知っていたお客さんは、はじめてです」と。



 能登半島という半島は、私にとっては、そういう半島である。



●仕事



 明後日から、仕事が始まる。

「がんばろう」という気持ちと、「だいじょうぶかな」という気持ち。

この2つの気持ちが、複雑に交錯する。



体力的には何とかなる。

しかしこの大不況。

そのうちジワジワと、その影響も出てくるはず。

今年度(2012年の3月まで)は、何とかなるだろう。

しかしその先が読めない。



 で、ワイフは、ああいうのんきな性格だから、いつもこう言っている。

「つぶれたら、オーストラリアへでも行きましょうよ」と。



 どこか私の教室がつぶれるのを、楽しみにしている様子(?)。

こう言うときもある。

「今まで、一度もつまずくこともなく、ここまでやってきたのだから、感謝しなくちゃあ」と。

つまり「もうじゅうぶん仕事をしてきた。いつやめてもいい」と。

あるいは「あなたも定年退職したら?」と。



 が、今の私には、仕事が生きがいになっている。

その生きがいを、自ら捨てるわけにはいかない。

私としては、死ぬ直前まで、仕事をしていたい。

できればピンコロという死に方をしたい。

オーストラリアへも行きたいが、「行って何をする?」と考えたとたん、意欲が、スーッと萎えてい
く。



 ともかくも、こうして私の夏休みは、終わる。

が、まだあきらめたわけではない。

「明日の夜も、どこかの温泉へ行こうか」と声をかけると、ワイフは、「明日も〜?」と。

気の進まない返事が、返ってきた。



 ……こうして旅行ができるのも、今のうち。

よくて、ここ数年。

今は、あきるほど、あちこちを旅行しておきたい。



●8月23日



 朝、6時、起床。

昨夜はほかにすることもなく、午後10時に就寝。

8時間、眠ったことになる。

一度、トイレに起きたが、それだけ。



 ……ということで、今朝は、気分、爽快。

脳みその働きも、まあまあ。

こうしてパソコンのキーボードを叩く指も、軽やか。

よかった!

やっと調子が戻ってきた。



●小雨



 羽咋の朝は、小雨で始まった。

食事は8時から。

10時ごろの電車に乗り、金沢へ。

金沢からバスで名古屋へ。

ほぼノンストップ。

所要時間は、4時間。

新幹線と特急を乗り継ぐよりは、時間はかかる。

しかし料金は、半額。

急ぐ旅でなければ、高速バスのほうが、楽。



 「ホテルから羽咋駅までは、タクシーだな」と、今、ふと、そんなことを考えた。



●窓の外



 ホテルといっても、ビジネスホテル?

高級なビジネスホテルといった感じ。

(フロントで聞いたら、ゴルフクラブのクラブハウスだったとのこと。)

畑の中に、ポツンと建っている。

目の下には荒れた土地。

その向こうには、畑がつづいている。

一軒だけ家があるが、ごくふつうの民家。



 右の方角に千里浜があるはずだが、ここからは見えない。

昨日は遠くに低い山々が見えたが、今朝は、白い雲に覆われ、それも見えない。

窓をいっぱいに開けた。

夏というのに、涼しい風が、サーッと吹き込んできた。

午後からは、また猛暑に逆戻りするという。

書き忘れたが、昨日は、全国的に、10月下旬の季節だったという。

それを聞いて、「10月って、こうなんだ」と。



 そこで私とワイフの結論。



(1)シーズンオフを選ぶ

(2)客の少ない旅館(ホテル)を選ぶ

(3)ほどほどの距離のところにある名所を選ぶ



 秋になれば、旅行シーズン。

楽しみが待っている。



●羽咋から金沢へ



 ホテルから駅までは歩いた。

途中、郵便局で金沢の友人にハガキを出す。

涼しい小雨。

ワイフが傘をさした。

私も傘をさした。

ちょうど40分ほどで、JR羽咋駅に。



 9時26分発の金沢行き。

鈍行列車。

席はすいていた。



 パソコンを開くと、まずメールを読む。

つづいてニュース。

このところまず気になるのが、浜松。

「浜松はだいじょうぶか?」と。

地震が近い。

それが気になる。



●失われた20年



 こういう地方へ来てみると、「失われた20年」の意味が、よくわかる。

この40年を2つに分ける。

最初の20年、この日本は、怒涛のごとく変化した。

しかしつぎの20年、この日本は、そこで時間を止めたまま。



 この鈍行列車にしても、あちこちがサビだらけ。

窓ガラスは汚れたまま、白く曇っている。

が、何よりも動きを止めたのが、「人」。



 今も、通路をはさんだ反対側の席に、2人の女性が何やら大声で話しこんでいる。

片足は座席にあげたまま。

一方はスカートを、大きくめくりあげている。



1人は、50歳前。

もう1人は、60歳前後。

まさに「女」を忘れたオバちゃんたち。

品格も風格もない。

日本人というよりは、土着原住民。

能登の土着原住民。



 どうして女性は、ああなるのか?

ああいう人たちにも、若くて美しいときがあったはず。

しかし長い年月をかけて、ああなる。

どうして?



 ……日本がかつて懸命に追い求めた「繁栄」とは何だったのか。

あるいは物欲の追求にすぎなかったのか。

その結果、つまりそれが終わったとき、残ったのは、物欲だけ。

この20年で、その物欲だけが、皮をはがれて表に出てきた。

こういうオバちゃんたちの横姿を見ていると、そんな感じがする。



●石川県



 電車はのどかな田園地帯を走る。

ひとつちがうのは、墓が目立つこと。

一駅ごとに、墓地があり、線路沿いに墓が見え隠れする。

あとは雑然とした街並みと、雑草。

道路沿いも、線路沿いも、雑草だらけ。

ちょっとした空き地でも、夏草が生い茂り、荒れ放題になっている。

数年前、石川県庁に勤める友人が、こう言った。

「石川県は、貧しいがや」と。



 その貧しさが、ここ10年で、いっそうひどくなった?

そんな印象をもった。

(まちがっていたら、ごめん!) 



●総括



 ……ということで、昨日は、ここ石川県羽咋市までやってきた。

ことUFOについて言えば、新しい発見は、なかった。

古代史とUFOの関係、古代文明とUFOの関係、さらには、彼らはいつから、何の目的をもっ
て、この地球へやってきたのか……。

たとえばシュメール文明、仰韶(ヤンシャオ)文明との関係など。

そういうところまで、踏み込んで展示すると、奥行きも倍加するのでは?



 宇宙船(UFOではない)の展示物が8〜9割。

UFOに関していえば、2、3の展示物と、あとはパネル写真だけ。

このあたりが、私たちがもっている常識の割合と考えてよい。

UFOオンリーとなると、カルト化(=狂信化)する危険性がある。

やはりUFOについては、ほどほどのところで、ほどほどのロマンを楽しむのがよい。

深入りは禁物。



その点、矢追純一氏は、頭がよい。

団体や組織とは、一線を引いている。



 今回の旅行を総括すると、そういうことになる。



●もうすぐ豊橋



 名古屋からは、名鉄電車に乗り換えた。

特急、豊橋行き。

疲れを感じない、楽しい旅だった。

書いた原稿は、23ページ(40字x36行)。

まあまあの成果。



 パナソニック社製のレッツ・ノートがほしい!

TOSHIBAのMXでは、やや力不足。

バッテリーチェックを見ると、「21%で、1時間39分」と表示された。

つまりバッテリーの残量は、21%。

残り、1時間39分。

実際には、あと30分もすると、警告表示が現れる。



 ……私の脳みそについて言うなら、「20%、7年」かな?

あと7、8年もしたら、使い物にならなくなる?

そんな感じがする。



(はやし浩司 羽咋 宇宙科学博物館 コスモアイル 矢追純一 UFO 能登への旅 はやし
浩司 石川県 羽咋市 渚ガーデンホテル 羽咋市 割烹 ぼうぼう はやし浩司 ぼうぼう 
羽咋 魚料理 ぼうぼう)





Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司※





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【木曽・駒ヶ岳に登る】



【木曽・駒ケ岳へ】(9月14日、水曜日、2011)



+++++++++++++++++++++



浜松発8:10分の豊橋行きに乗り込んだ。

行き先は、木曽・駒ケ岳。

豊橋で、飯田線に乗り換える。



「準備万端!」とワイフ。

「紫外線防止クリームはもったか?」

「もった!」

「長袖のシャツはもったか?」

「もった!」と。



ついでに「コンドームは?」と聞くと、「もった!」と。



!!!



私「あのなア、冗談、冗談。必要ないよ」

ワ「気圧が低いところでは、役に立つかもよ」

私「そんな理屈、聞いたことがない」

ワ「それに、浣腸も!」

私「浣腸? 冗談だろ?」

ワ「本当よ。このところあなた便Pがちでしょ」

私「気をきかせすぎだよ、それは……」と。 



こうして木曽・駒ケ岳への旅は始まった。

豊橋からは、特急・伊那路1号。

飯田まで行き、そこからローカル線に乗り換え、駒ヶ根まで。

駒ヶ根から駒ケ岳までは、バスとロープウェイで。

今夜は、ホテル千畳敷で一泊。



天気は、この両日、晴れのち曇り。

ワイフは天気を心配していた。

「だいじょうぶだよ。雲の上に出るんだから」と。



++++++++++++++++++++++++



木曽駒ヶ岳.jpg
木曽駒ヶ岳.jpg


●旅行



 「旅行」というより、「旅」。

その場任せの、気まままなブラリ旅。



旅の大切さは、それをしない人たちをみると、よくわかる。

どこか人間のスケールが小さい……。

そんな感じがする。



 が、旅に出るには、それなりの勇気が必要。

勇気だ。

たとえて言うなら、喧嘩の相手に、わざわざ会いに行くようなもの。

臆病な気持ちでは、旅はできない。

つまり人間というのは、基本的には怠け者。

新しいことを知るよりは、古い知識にしがみついたほうが楽。

新しい場所へ行くよりは、行きなれた場所へ行くのが楽。

小さく生きた方が、安全、無難。



●脳みその栄養剤



 旅に出るというのは、固まりかけた脳みそをブレンダー(ミキサー)にかけるようなも

の。

……というのは、大げさかもしれない。

しかし歳を取ると、旅に出るのがめんどうになる。

疲れるし、それにお金もかかる。

「休みは家でぼんやりと過ごしたい」と思う。



 が、それではいけない。

脳みそにカビが生える。

腐る。

だから、あえて飛び出す。

その「あえて」という部分で、勇気が必要。



 ……知人の中には、家の中に引きこもったまま、人との接触すら絶っている人がいる。

「引きこもり」というと、若い人の病気のように考えている人も多い。

しかし60代、70代になってから、引きこもる人も多い。

病名は、多くは「うつ病」ということになっている。



 引きこもるから、うつになるのか。

うつになるから、引きこもるのか。

そういう人たちこそ、外の空気を吸ったほうがよい。

言うなれば、旅は、脳みその栄養剤。

そういう意味で、冒頭で「旅の大切さは、それをしない人たちをみると、よくわかる」と

書いた。



●公的教育支出費



 列車の中で、新聞を読む。

そのひとつ。



それによれば、日本の公的教育支出費は、またまた最下位になったとか(OECD)。

「日本は05年、07年も最下位になり、低迷がつづいている」と。

日本は、3・3%!

たったの3・3%!

OECD加盟国31か国中、最下位。

つまりその分だけ、親の負担が大きいということ。



 一方、日本の教育支出に占める私費負担の割合は、33・6%。

チリ(41.4%)、韓国(40・4%)につづいて、下から3番目。

とくに幼稚園の56・5%が、ダントツに高い。

しかもその分だけ、教育の質が高いかといえば、それはない。

生徒の数でみても、小学生の学級規模は、28・0人。

中学生で、33・0人(OECD平均は、21・4人)。

韓国に次いで、下から2番目。



つまりその分だけ、日本の教育の質は、「悪い」ということになる。



●奨学金制度



 が、この数字だけを見て、「日本もそれほど欧米とは変わらない」と思ってはいけない。

たとえばアメリカでもオーストラリアでも、奨学金制度が発達している。

大学へ進学する学生たちは、どこの大学へ入るかということよりも、どこから奨学金を手

に入れるかということに、血眼(ちまなこ)になっている。



 奨学金を提供する民間会社にしても、「どうせ税金で取られるなら……」と、奨学金をど

んどんと提供している。

もちろん会社側にも、メリットがある。

優秀な学生に、ツバをつけておくことができる。



 奨学金を得られない学生は、借金で……ということになるが、親のスネをかじって大学

へ通っている学生など、さがさなければならないほど、少ない。

現実には、ほとんどいない。



●親、貧乏盛り



 そんなわけで、昔は『子ども育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。

今は、『子ども大学生、親貧乏盛り』という。

が、問題はつづく。

老後の問題である。



 今、ほとんどの母親たちは、子どもが大学へ通うころになると、パートに出る。

それこそ爪に灯をともすようにして、子どもの学費(実際には遊興費)を捻出する。

が、子どもといえば、親の苦労など、どこ吹く風。



 50代で貯金ゼロの家庭は、30%もあるという。

家計は苦しい。

が、それでも親は、学費(実際には遊興費)を送りつづける。

「やがて子どもがめんどうをみてくれる……」という淡い期待を抱きつつ……。

しかしそれは幻想。



 最近の若い人たち、さらにその上の世代の人たちに、「親のめんどうをみる」という意識

はない。

ないことは、内閣府の調査結果を見ればわかる。

つまりこの段階で、親は、貯金を使い果たす。



●変わった家族観



 私たちが子どものころは、「家族」というと、そこには必ず祖父母がいた。

「先祖」という言葉も、色濃く残っていた。

が、今は、それがない。

「家族」というときには、自分たち夫婦と、その子どもたちだけをさす。

夫婦と子どもだけ。

悪しき欧米化と断言してよい。



 つまり欧米では、「家族崩壊」が常態化している。

日本および東洋の家族観と比較してみると、それがよくわかる。

欧米人のばあい、2世代家族というのがふつう。

3世代家族というのは、まず、ない。

つまり「家族」には、祖父母は含まれない。



 日本人の意識は、戦後、急速に欧米化した。

恋愛第一主義という、欧米流の価値観も、それに含まれる。

私が若いころは、結婚するにしても、まず親に相談し、親の許可を得てから……というの

が、ふつうだった。

が、今はちがう。

いきなり婚約者を連れてきて、「結婚します」と。



 最近の若い人たちは、恋愛をすると、何かすばらしいことをしでかしたかのように思う

らしい。

思うというより、錯覚。

(特別は特別だが、親も含めて他人には関係ない!

恋愛など、そこらのイヌやネコだって、しているぞ!)

「恋愛至上主義」というのは、それをいう。



●家族崩壊



それが今に見る結果ということになる。

が、欧米はまだよい。

それが常態化した状態で、社会のシステムが完備している。

老人は、若い人たちの助けがなくても、老後を送り、自分の終末ケアを受けることができ

る。



 が、この日本では、社会のシステムが追いつかないまま、意識だけが変わってしまった。

わかりやすく言えば、老人たちだけが、野に放り出されてしまった。



●人材



 グチぽいエッセーになってしまった。

しかし本来なら、日本は公的支出をふやすか、欧米並みの奨学金制度を拡充すべきである。

「奨学金に回してくれるなら、その分、税金を控除します」と。

そうするだけでも、会社は喜んで奨学金を提供するようになるだろう。

(もちろん、その分だけ税収が減るから、政府は猛反対するだろうが……。)



 しかしこの日本がなぜ日本かといえば、「人材」があるからである。

また人材以外に、財産はない。

土地は狭く、資源もない。

軍隊も貧弱。

ならば人材ということになるが……。

こんな状態で、どうして人材が育つというのか。

これからの日本は、どうやって世界と渡りあっていくというのか?



●豊橋



 伊那路1号は、定刻どおり発車。

10:08分。

飯田行き。

1号車は指定車両になっているが、客は私たちを含めて、4人だけ。

ラッキー!



 ワイフは豊橋駅で買った弁当を食べている。

私はパソコンを叩いている。

途中、「湯谷温泉駅」に停車するという。

湯谷温泉には、今年に入ってからだけで、もう10回近く通っている。



 泉山閣、湯の風HAZUなど。

ほかにもいくつかあるが、どこもカビ臭く、泊まるには、かなりの寛容力が必要。

それに料金は、ほかの温泉地と比べ、料金も割高。

が、気位だけは高い。

1300年の歴史があるとか。

それはわかるが、昔のままでは、客はつかめない。



ある旅館でのこと。

「一泊、朝食のみ」の予約をし、夕食を外から持ち込んだ。

それが女将を怒らせた。

叱られた。



 こういうことがあると、もうこりごり。

以後1か月以上になるが、以後、湯谷温泉には、足を踏み入れていない。



●駒ケ岳



 駒ケ岳には、一度、登っている。

息子の1人と旅をしたとき、登った。

登ったといっても、ロープウェイで終点まで行っただけ。

そのときの印象が今でも、強く残っている。



 で、そのとき、そこにホテルがあることを知った。

それが「ホテル千畳敷」。

「泊まろうか」ということになったが、満室だった。

そのときの恨みを、今日、晴らす。

あのとき感じた、不完全燃焼感を、今日、晴らす。



 何でも日本で最高峰にあるホテルとか。

もちろん料金も、最高?

冥土の土産には、もってこい。



●湯谷温泉



 淡い水色の空に、ポカリポカリと白い雲。

景色は薄く、かすんでいる。

緑の稲田が美しい。



 旅行のしかたにも、いろいろある。

しかしそれにも、学習が必要。

つまりレッスン料。

宣伝や広告につられていくと、たいてい失敗する。

温泉旅館にしても、何度か足を運ぶ。

現地を見て、はじめてどの旅館がよいかがわかる。

近くのみやげ物屋で評判を聞くのが、いちばんよい。



 もうすぐ列車は、その湯谷温泉駅で停まる。

私はもともと、山育ち。

山に囲まれた渓流が好き。

だから湯谷温泉……ということになる。

……ということで、湯谷温泉には、足しげく通った。



湯谷温泉を思い出しながら、そんなことを思い出した。



●長篠(ながしの)



 このあたりは、織田信長と徳川家康の連合軍、その連合軍と武田勝頼の激戦地であった

という。

あちこちに史跡が残っている。

息子たちが小さいころには、数度、通った。

史跡めぐり。

歴史の勉強という名目だった。

が、同時にこのあたりは、柿の産地。

よく柿を、箱一杯買って帰った。



 たった今、「本長篠(ほんながしの)」に着いた。

長篠の合戦は、このあたりでは、よく知られている。

騎馬戦を仕かける武田側。

それを迎え撃つ、織田側の鉄砲隊。



……というような構図ではなかったか。

実にいいかげんな記憶で、申し訳ない。

私はもともとこの種の歴史には、あまり興味がない。



●信長の時代



 現在のGDPに換算することはできない。

しかし戦国時代の日本は、恐ろしく貧しかった。

(明治のはじめですら、当時の日本のGDPは、インドネシアと同じだったという話を、

何かの本で読んだことがある。)



今に残る城だけを見て、「江戸時代も結構、豊かだった」と思うのは、まちがい。

数字で表すことは正しくないかもしれないが、一部の武士をのぞいて、たいはんの日本人

は、極貧の生活を強いられていた。



 つまり富と権力は、ほんの一握りの人間に集中していた。

それが戦国時代であり、江戸時代ということになる。

貨幣が一般社会に流通しはじめたのも、また大八車という「車」が発明されたのも、江戸

時代中期であった。

(このあたりのことは、私自身が詳しく調べた。)



 そういうことがわかればわかるほど、「何が織田信長だ!」となる。

今でも織田信長を信奉する人は多いが、エジプトのムバラクや、リビヤのカダフィと、ど

こがどうちがうというのか。

つまり城は、まさに暴政と暗黒政治の象徴。

あの城のために、どれほど多くの人たちが犠牲になったことか!

(列車が揺れ、船酔いに似た症状が出てきたので、しばらく景色を楽しむことにする。)



●飯田

  

 少し前、飯田を出た。

飯田からはローカル線。

5分おきに停車しているといった感じ。

水曜日の午後ということで、高校生たちがたくさん乗っている。

ホームにも、高校生の姿が目立つ。



 時刻は午後1時16分。

日差しは強く、外に出ると真夏の陽気。



 飯田の駅で、15分ほど待ち時間があったので、売店で「ニューズウィーク」誌を買っ

た。

見出しを読んだだけで、「さすが!」と感心する。

言葉の使い方が、うまい。

世界でも超一級のライターたちが書いている。



●「知的ブラックホール」(ニューズウィーク誌)



 見出ししか読んでいないが、「知的ブラックホール」という言葉が目に留まった。

私流に解釈すると、こうなる。



つまり知識人が、知識を過信するあまり、とんでもないことを信ずるようになることをい

う?

その結果として、これまたとんでもない袋小路、つまりブラックホールに入ってしまう。

が、それですめばまだよいほう。

そういう知識人が、一般庶民を、まちがった方向に誘導してしまう。



 以前にも書いたが、たとえば『行列のできる法律相談所』(テレビ番組)がある。

あの番組に流れる法哲学は、本来の法哲学ではない。

あの番組では、何でも、「まず法ありき」という姿勢で、法を説く。

しかし「法」というのは、何か問題が起きたとき、その問題を解決するための手段として

使われるもの。

それまでは、裏方として、うしろにひっこんでいる。

とくに民法では、そうである。

何か問題が起きたとしても、当人どうしが、それでよいなら、それでよい。

法の出る幕はない。

それをいきなり、「無断で写真を撮った! 肖像権侵害!」と騒ぐ。

小学生でも、そう言う。

「どこでそんなことを知ったの?」と聞くと、「行列の……」と答える。

 

 だから私はあるとき子どもたちに、こう言った。

「写真を撮ったことで、何か不都合なことが起きたら、肖像権侵害で訴えればいい。

でも、先生がみんなの写真を撮ることは、ごく日常的な行為で、法律違反ではないよ」と。



 これも知的ブラックホールということになる。

一部の知識人が、まちがった法哲学を説き、人々にまちがった法意識をもたせてしまう。

司法試験の合格だけをめざして勉強したような人ほど、このブラックホールに陥りやすい。



ニューズウィーク誌はどのように書いているか知らない。

あとでゆっくりと読んでみたい。



●駒ヶ根まで



 ワイフは前の座席で、ニューズウィーク誌を読んでいる。

私は先ほどまで船酔いに似ためまいを感じていた。

飯田線の特急列車は、不必要なまでに、クッションがよい。

そのためカーブを曲がるたびに、フワーッ、フワーッと揺れる。



 半面ローカル線は、(つまりこの列車は)、ガタンゴトンと、線路と車輪の鉄の衝撃がそ

のまま座席の下から伝わってくる。

パソコンを使うには、ローカル線のほうが、よい。

時間はかかるが、パソコンが手元にあれば、時間は気にならない。



 ……それにしても、よく停車する列車だ。



●キング牧師・暗殺前・最後の24時間(ニューズウィーク誌)



 ワイフは、今、「キング牧師・暗殺前・最後の24時間」という記事を読んでいる。

今度、映画化されたという。



 私はそれを読んで、「がま先生」こと、蠣崎要(かきざきかなめ)氏を思い出した。

浜松市で開業医をしていた、産婦人科医である。

タレントドクターとして、よく知られていた。



が、この30年間で、「がま先生」のことを書くのは、これがはじめて。

「がま先生」という名前を書くのもはじめて。

そのがま先生にも、最後の24時間があった。

詳しくは書けない。



私はがま先生の秘書を、7年間勤めた。

その間に、がま先生の本を、10冊近く書いた。



2人の息子氏と、1人のお嬢さんの家庭教師もした。

よくいっしょに外国へも行った。

あちこちの学会にも顔を出した。



 私が東洋医学の勉強をするようになったのも、がま先生の秘書をしていたからである。

そのがま先生は、その年の春の彼岸(3月)に焼死した。

直後の夕刊では、風呂場の煙突の加熱が原因によるとあった。

享年49歳。



息子氏の1人が2階の窓から逃げるとき、その煙突に足をかけた。

そのとき「煙突が異常に熱かった」と。

そこから煙突の加熱説が生まれた。

火事、つまり事故、と。



 が、私はそれを信じなかった。

がま先生の家の構造は、がま先生と同じくらい、私はよく知っていた。

で、その数日後から、私は消防署に足を運び、原因を調べ

た。

担当署員は、こう言った。

「私のほうからは、何も言えません。あなたの質問に対して、YES、NOだけで答えま

す」と。



が、それについて、ここで書くことはできない。

その「事件」で、がま先生夫妻、お嬢さんのHチャン、それに助産婦長をしていた、K先

生の4人がなくなっている。

K先生は、私の長男を取り上げてくれた人である。

3人の子どもは、私の教え子である。

とくにHチャンは、毎週私が自分の教室へ連れてきて、教えた。

みんなからは、「おあちゃん」と呼ばれ、かわいがられていた。



●謎の24時間



 その朝、がま先生は、オペ(手術)を1つこなしている。

それが終わると、市内のGホテルで催されたネクタイ展示会に顔を出している。

そのあと、一度帰宅。

どこで昼食をとったかは、不明。

(がま先生は、居間から診察室へ行く途中、食堂で簡単に昼食をすますということが多か

った。)



 で、午後から、またオペを2つこなし、今度は奥さんと同伴で、映画館へ。

市内のC劇場で映画を見ている。

その映画のあと、一度、自宅へ戻り、食事をすますと、そのまままたGホテルへ。

そこでだれかと会い、夜11時過ぎまで、過ごす。

が、ここからさらに謎が深まる。



そのあと秘書のI氏(運転手)を呼びつけ、I氏に運転させ、K町にあるRSというス

ナックに寄っている。

RSというのは、同僚医師のK氏の妻が経営するスナックである。

そこでしばらくの時間を過ごし、自宅に帰ったのが午前0時半ごろ。



●謎の焼死事件



 がま先生は、遅い風呂に入る。

それが午前1時ごろ。

その時刻、奥さんは、二階の寝室にいた(?)。

風呂釜の空焚き説も、そこから生まれた。

空焚き状態になり、火事になった、と。



 その朝早く、午前3時半ごろ(この時刻は記憶による)、火事が発生。

がま先生以下、4人がなくなるという、あの惨事につながった。



 が、私は、その火事がどのようにして起きたか、知っている。

消防署員の肉声の録音テープも、どこかにあるはず。

が、それについては、ここには書けない。

すでに記憶の中に、封印していある。

死ぬまで、だれにも話さないだろう。



 が、なぜ?

なぜあれほどまでに幸福そうに見えた家族に、あのような惨事が襲ったか?

なぜ、がま先生は、夜半まで、Gホテルで過ごしたか。

その相手は、だれだったのか。

なぜ、がま先生は、タクシーを使わず、深夜遅く、わざわざ秘書のI氏を呼びつけ、車を

運転させたか。

なぜ、がま先生は、途中、RSというスナックにわざわざ寄ったか。

スナックを出たとき、時刻は午前0時を回っていた。



私はその謎を解くヒントは、がま先生と奥さんが見た、あの映画の中にあると考えている。

当日、C劇場で上映されていた映画は、F監督製作の「xxxx」。

その映画があの悲劇の引き金を引いた。



 「がま先生・最後の24時間」。

まさに謎に包まれた24時間だった。



が、まさにあの映画どおりの筋書きで、がま先生は、この世を去った。

『キング牧師・暗殺前・最後の24時間』というタイトルを読んで、そんなことを思い出

した。



●貸し切り 



駒ヶ根からロープウェイ乗り場のある、ひらび平まではバス。

が、ここでも客は、私たち2人だけ。

さらに、ひらび平から千畳敷までのロープウェイでも、客は私たち2人だけ。

いろいろなところへ行ったが、こんなことははじめて。

けっしてシーズンオフということではない。

頂上へ着くと、どこかのテレビ局が、旅の番組を収録していた。

見たことのあるテレビタレントが、3〜4人、いた。



 私たちはそれが終わるまで、近くのベンチで座って待った。

待って、今度は、私たちの記念撮影をした。

そばにいた男性に、シャッターを切ってもらった。

快く、引き受けてくれた。



 あとでワイフがこう言った。

「あの人ね、お笑いタレントのXXよ」と。

私がシャッターを切ってくれと頼んだ人は、テレビの世界ではかなり有名なタレントだっ

たという。

私は、そういう世界を、ほとんど知らない。

そういう番組は見ない。

XXさん、ありがとう。



●眠い



 今、夕食を終えて、部屋に戻ったところ。

つい先ほどまで、今夜は徹夜で……と考えていたが、今は、眠い。

無性に眠い。

時刻は午後7時10分。

徹夜で旅行記を書きたかった。

が、体のほうが言うことを聞かない。



 夕食前、1時間ほど、千畳敷を歩いてみた。

大きな岩が敷き詰められた歩道を、ゆっくりと歩く。

ときどき写真を撮る。

眼前に迫る駒ケ岳が、ちょうど日没どきで、まるでドラキュラか何かが住む悪魔城のよう

に見えた。

荒々しい岩肌。

遠近感のない空間。

ワイフは、「こんな景色を見るのは、はじめて」と、何度も言った。



●日韓経済戦争



 ホテルでネットがつながったのには、驚いた。

さっそく、あちこちのニュースサイトをのぞく。

気になったのは、韓国の株価。

暴落に、暴落を重ねている。



 ウォン高にすれば、輸出に影響が出る。

ウォン安にすれば、食料品やガソリン代が値上がりする。

すでに限界に近いほどまで、とくに食料品の価格が上昇している。

国内経済はメチャメチャ。

が、韓国政府が選んだ道は、ウォン安。

国民生活を犠牲にしても、まず金を稼ぐ。

うまくいけば、一気に韓国は経済大国として、世界に躍り出ることができる。



 ……というわけには、いかなかった。

韓国政府の思惑通りには、いかなかった。

最大のターゲットにしていたEUの経済が、こけた。

その前に、アメリカがこけた。

当初、つまり今回の大恐慌が始まったとき、韓国のイ大統領は、こう言っていた。

「わが国に与える経済的影響は、軽微」(8月はじめ)と。



 が、本当にこけたのは、韓国の国内経済だった。

それもそのはず。

韓国の銀行は、その大半が、アメリカの銀行の支配下にある。

サムスンにしても、ヒュンダイにしても、中身はアメリカの会社と考えたほうがよい。



 ニューズウィーク誌は、表紙を「韓流バブル」という文字で飾っている。

エンタメの世界で、韓流バブルがはじけ始めているという。

日本で起こりつつある、反韓流の動きをさす。

が、同時に韓国では、経済バブルもはじけつつある。

株価の暴落が、ほかの国とくらべても、大きすぎる。

が、日本よ、日本人よ、これだけはしっかりと覚えておこう。



 韓国が頭をさげて助けを求めてくるまで、日本は、ぜったいに韓国を助けてはいけない。

いけないことは、竹島問題を見ただけでもわかるはず。

さらに言えば、前回、韓国がデフォルトしたとき、日本は100億ドルを貸した。

そのうちの50億ドルが、まだ未払いのままになっている。



●希望



 数日前、地元の新聞社から、連載の依頼があった。

うれしかった。

ときどき単発モノの依頼はあるが、連載モノは、重みがちがう。

その連載にあわせ、体力を調整し、脳みそを鍛える。



 人は希望によって、生きる。

希望が、道を照らす。

言い換えると、道のない人生を歩むことぐらい、つらいことはない。



 これには、老人も若者もない。

1人の人間として、これほどつらいことはない。



 恐らく私にとっては、人生、最後を飾る連載になるはず。

命がけで書いてみたい。



●23:13



 先ほど目を覚ましてしまった。

部屋のエアコン調整に失敗した。

まずワイフが起き上がり、「暑い」と。



 私は窓を開けた。

眼前に、駒ケ岳が見えた。

暗闇を背にし、こちらに向かってのしかかるように、うっすらとその姿を現していた。

白い石灰石(多分)が、雪のように白く光っている。

その雄大な景色に、しばし見とれる。

それを見て、ワイフが、「美しいわね」と言ったまま、口を閉じた。



 こういう旅行では、よくこういうことがある。

睡眠調整がむずかしい。

というより、枕やふとんが変わっただけで、眠れない。

目が覚める。

今回は、暑苦しくて、目が覚めた。



 部屋は8畳。

エアコンはあるが、空調設備はないようだ。

時刻は、今、午後11時13分。



●猛暑 



 寝る前に見たニュースによれば、昨日は全国的に猛暑だったとか。

ところによっては、35度を超えたとか。

熱中症で倒れた人も多い。



 しかし9月半ばで、35度?

おととしも、たしか9月の終わりまで、30度を超える日々がつづいた。

地球の火星化(温暖化ではなく、火星化)は、確実に進んでいる。

この駒ケ岳でも、以前の今ごろは、気温も0度近くになり、氷も張ったという。

が、昨日も、そして今日も、朝夕の気温は11度前後。



 「地球が火星化したら、高い山地に引っ越そう」と考えていたが、その夢も、もろく崩

れた。

むしろ、寒冷地のほうが、地球火星化の影響を大きく受ける。



●頭痛



 ワイフが起き上がった。

「頭が痛い」と言った。

「枕を高くして」と言った。



 湿布薬を、首と額に塗ってやった。

ついでに精神安定剤を1錠。

睡眠薬がわりに、私たちはのんでいる。



「どういうふうに痛い?」と聞くと、「二日酔いみたい」と。



 ワイフも酒に弱くなった。

食前に生ビールを一杯飲んだ。

私も一口のんだが、それで顔が真っ赤になってしまった。



 一見、健康で私より元気に振舞っているが、ワイフも確実に老いつつある。

寝顔はすっかり、バーさん顔。

そんなワイフがいとおしい。

「いつまでこんなことができるのだろう」と考えていたら、目頭がスーッと熱くなってき

た。



 やはり今日の旅行は、ワイフには、無理だったかもしれない。

片道、6時間半。

次回は、もっと近いところにしよう。



●長篠の戦い



 この原稿のはじめに、「長篠の戦い」について、書いた。

当時の私は教育パパで、あちこちの史跡へ息子たちをよく連れていった。

40坪の畑も作り、自然への親しみを教えようと、植物や作物の作り方も教えた。

もちろん美術館へも連れていった。

文学も、読んで聞かせた。

テープに吹き込んで、毎晩聞かせた。



 が、今にして思うと、それが何だったのか、よくわからない。

過去どころか、年長者に対する畏敬の念など、ゼロ。

歴史の「れ」の字も理解していない。

国際経済の話をしても、「何、それ?」となる。

美術への造詣もなければ、政治の話もしない。

することと言えば、ギターを片手に、ミュージシャンのまねごとばかり。



 ああ、またグチになってしまった。

ワイフは寝息をたてて眠り始めた。

よかった。



「晃子へ、お前のめんどうは、最期の最期まで、ぼくがみるよ」と。



●欧州・9月危機



 ニューズウィーク誌を読みたいが、この暗闇では、どうしようもない。

明かりは、となりの玄関から漏れてくる光だけ。

それに紙質がちがうのか、ページをめくるたびに、ガサガサと大きな音をたてる。



 かろうじて見出しが読める程度。

が、かえってこのほうが、想像力をかきたてておもしろい。

その記事のひとつに、「欧州・9月危機」というのがある。



 が、だれが考えても、ギリシアのデフォルト(国家破綻)は、すでに既成の事実。

救いようがない。

へたに助ければ、かえってモラル・ハザードが起きてしまう。



それにギリシアだけではない。

スペインやイタリアが、そのうしろで構えている。

ドイツ一国だけで、欧州危機が回避できるとは、だれも考えていない。

今、EUは、EUそのものの崩壊の瀬戸際に立たされている。



●公務員的発想



 そのギリシア。

国民のほとんどが公務員と言ってよいほど、公務員の数が多い。

正確な数字は公表されていないが、60%近くがそうであるという。

何も公務員が悪いというわけではない。

また1人ひとりの公務員に責任があるというわけでもない。



 しかし公務員と呼ばれる人たちは、与えられた範囲での仕事はする。

権限にしがみつく。

そのくせ、少しでも管轄が侵害されると、猛烈にそれに反発する。

失敗しても責任を取らない。

常に責任逃れの口実を考えている。

加えて管轄以外の仕事はしない。

「余計なことをすれば、責任を取らされる」と。



 だから臨機応変に、ものごとに対処できない。

あの3・11大震災のときも、こんなことがあった。

ある小学校でのこと。



●震災悲劇



 地震のあと、児童たちをどこへ避難させるかで、教師たちの判断が二転三転した。

「三角地」と呼ばれる、低地にある平地か、それとも校舎の裏にある山地か、と。

そして子どもを迎えにきた父母には、いちいち名前まで書かせていた。



 結局、三角地と呼ばれる平地に避難することになり、そのとたん、津波に巻き込まれた。

74人の児童のうち、70人が死亡したという。



そのとき、こんな意見も出たという。

「山地に逃げれば、余震で木が倒れ、かえって危険」と。

一瞬の判断ミスが、多くの子どもたちの命を奪ったことになる。

が、地震から津波まで、1時間近い時間があった。

1時間の間、運動場で点呼を取りながら、親たちが迎えに来るのを待った。



 ほかにもいろいろ事情があったのかもしれない。

しかし地震があれば、津波。

津波の心配があるなら、高地へ。

学校の裏に山があるなら、まずそこへ逃げる。

裏山へ逃げれば、全員が助かっていたはず。

運動場で点呼など取っているほうが、おかしい。



 こんなことを書くと、亡くなった子どもをもつ親たちは、いたたまれない気持ちになる

だろう。

その場にいた教師のほとんども亡くなっている。

教師に責任を求めても、死んだ子どもは帰ってこない。

しかし避難マニュアルがどうのこうのと言っているうちに、津波が来てしまった。



 その反対の例もある。

福島第一原発のY所長は、「上」からの命令を無視し、原子炉に海水を注入しつづけた。

結果的に、このY所長の判断が、大惨事から、日本を救った。

が、世間の目は冷たかった。

Y所長のした行為は、独断による越権行為だった、と。

BLOG上でも、その行為について、賛否両論が今でもつづいている。



 が、どうして?

もしあのときY所長が、マニュアル通りの操作をしていたら、管直人前首相が行っている

ように、「東京にだって、人、1人住めなくなっていただろう」。



●ギリシア問題



 今のギリシアも、それに似ている。

国家破綻を前にし、公務員たちはストにストを重ねている。

一時はカンフル剤を注射してもらい、財政健全化に向かうかと思われたが、結局は何も変

わらなかった。

「救いようがない」というのは、そういう意味。 



●介護制度



 介護制度にも、大きな問題がある。

現在の介護制度の中で、恩恵を受けられる人は、必要以上に恩恵を受けられる。

その一方で、恩恵を受けられない人は、常にカヤの外。

特別養護老人ホームへ入るにも、2年待ち、100番待ち……というのが常態化している

(浜松市)。



 一方、巧みに、介護制度を利用している人も多い。

X氏(80歳)もその1人。



 妻も80歳。

日常的に歩くことには、それほど支障はない。

が、どうやってその介護度を取ったかは知らないが、介護度4(5段階中)。

ふつう介護度4というと、寝たきりの状態をいう。



 が、妻は、同時に有料の老人ホームに入居している。

週に2回、自宅に帰ってきている。

その日に、訪問介護があるからである。

恐らく自宅では、寝たきりの様子をして見せているのだろう。

介護士は、掃除、洗濯、料理などをして帰る。



 興味深いのは、訪問介護士が来る日は、夫のほうも家の中に引きこもっているというこ

と。

ふだんは、畑や庭で、いそがしそうに歩き回っている。

さらに驚くことに、妻の送り迎え(有料老人ホームと自宅の間)は、ボランティアの人た

ちがしているということ。

たまにタクシーを使うこともあるが、このタクシー代も、市が負担している。



 そういう老人がいるのを知るにつけ、「うまくやっているなあ」と感心する前に、怒りの

ようなものを、覚えてしまう。

私の母のときは、そういうサービスは、一度も受けられなかった。

2年間で、一度も受けられなかった。



(そろそろ眠くなってきたので、ここで眠る。)



●天竜峡

 

 今日は、駒ケ岳に登った。

ワイフの尻を押しながらの登山となった。

朝、7時30分ごろ、ホテル千畳敷を出発。

戻ってきたのが、10時半ごろだった。

駒ケ岳の頂上までは登れなかったが、中岳の手前にある山小屋まで行くことができた。



 天気に恵まれた。

風も、そよ吹く程度。

快晴。

気温は、20度。

簡単言えば、夢のような世界。

もう少し詩的な表現を……と考えるが、それ以上の言葉が思いつかない。

やはり「夢のような……」が、いちばん合っている。

現実の世界とは、とても思えなかった。



 よかった。

満足。

今は、帰りの列車の中。

飯田で特急に乗り換えるつもりだったが、天竜峡まで。

そこで2時間ほど、過ごすつもり。

どこかの温泉宿で一服し、そこで特急をつかまえる。

それにまだ昼食をとっていない。

何かおいしいものがあれば、よいのだが……。



 こうして私の駒ケ岳への旅は終わる。

来月はあちこちで講演がある。

それを利用して、あちこちの温泉地を巡る。

楽しみ!



 そうそう明日から、『サンクタム』、さらに明後日から、『ロスアンジェルス決戦』が始ま

る。

忙しくなりそう!



●おまけ



 天竜峡では、「龍峡亭」という旅館で、風呂に入らせてもらった。

事情を説明すると、女将が出てきて、「今日は15日です。ご縁の日です。600円でいい

です」と。



 天竜川の川沿いにある、「絶景の宿」(宿の案内書)。

「まだ泊り客は来ていないので……」という理由で、私とワイフの2人だけで入らせても

らった。

プラス、リンゴジュースのサービスつき。



 そのあと駅前まで歩き、私たちはそばを食べた。

4時14分の特急を待った。



 2011年9月15日。

おしまい。



(付記)



駒ヶ岳登山の写真集は……

http://bwmusic.ninja-web.net/

で、ご覧いただけます。





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