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【鎌倉へ】(田丸謙二先生に会う)
(死刑廃止論・国歌論・愛国心byはやし浩司)

●3月30日(金曜日)自宅にて







Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 昼前に、山荘に到着。
その前に、ショッピングセンターに寄り、野菜の苗を仕入れる。
ナス、トマト、それにキュウリ。
それぞれ2苗ずつ。

山荘では、雑草を刈ろうと思ったが、あいにくの強風。
空が白くかすむほど、杉の花粉が舞っていた。

 ワイフは、苦しそうだった。
私も、そのうち鼻と喉が、痛くなりだした。
やることもなく、(何もできなく)、そのまま1〜2時間を、過ごす。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●畑仕事

 自宅に帰り、畑に苗を植える。
1つずつ、ていねいに植える。
まわりを風よけでおおう。
これが結構、重労働。
下半身には自信がある。
しかし上半身は、めったに使わない。
20〜30分も畑を耕していると、全身に汗がにじみ出てきた。

 これで6畝(うね)、作ったことになる。
ネギが、2畝。
レタスが、2畝。
ワケギが、1畝。
それに今回の野菜が、1畝。

 小さな畑だが、これで夏の終わりまで、いろいろな作物を収穫することができる。

●モクレン

 山荘のほうでは、モクレンが満開だった。
桜と花桃の花は、4分咲きといったところ。
4月に入ったら、一斉に咲き出すはず。

 そうそう、今日も、ハッサクの収穫をした。
全部で、50個ほど、収穫した。
これからが山荘の季節。
4月の終わりになると、ホトトギスが鳴きだす。
野生のジャスミンが、山荘のまわりを、甘い香りで包む。
野イチゴも、そのころ収穫できる。

 1週ごとに、山荘の様子は、大きく変わる。
楽しいというより、それがうれしい。

●義兄

 今夜は、義兄の家で、夜を過ごした。
先ほど、自宅に戻った。
時計をみると、午後10時を少し回っていた。

 その義兄が、こんな話をした。
「浜松でも、下町の土地が、売れないそうだ。
反対に、高台の土地に、売り物がないそうだ」と。

 少し説明しよう。

 浜松市という町は、下町と高台に分かれている。
太平洋沿いからつづき、海抜数メートル地帯を、「下町」という。
そこからなだらかな坂になり、北に向かって、山の手へとつづく。
山の手になる地帯を、「高台」という。
その高台は複雑に入り組んでいて、やがて三方原台地へとつづく。

義「6メートル程度の津波が来たら、下町は全滅だよ」
私「新幹線の線路が、防波堤になってくれると言っている人もいます」
義「あんなのは、簡単に乗り越えるよ」と。

 道理で……というか、この1年、不動産屋が、よく我が家へ来る。
DMもよく届く。
「売り土地はありませんか?」と。

私「下町の土地の価格は、さがっているんですか?」
義「そう、同じ面積なら、2分の1程度にまで、なっている」
私「2分の1?」
義「R町の人が土地を売り、浜北区のほうへ引っ越した。売ったお金で、土地を買ったら、土地
の広さが2分の1になったと、こぼしていたよ」
私「じゃあ、高台のほうは、価格があがっているんですか?」
義「それほどあがっていない。が、何しろ、売る人がいない」と。

 3・11大震災の影響は、こんなところにまで及んでいる。

●日は替わって、今日は、3月31日(土曜日)

 今日は、これから鎌倉に向かう。
田丸謙二先生に、会いに行ってくる。
約束の時刻は、3時。

 朝起きると、雨がはげしくガラス窓を叩いていた。
「まずいな……」と思った。
が、予定を変えるわけにはいかない。

 そのあと今夜は、平塚のホテルに一泊。
鎌倉から、江ノ電沿線上のどこかに……と思っていたが、あいにく、どこも満員。
春休みの土曜日。
今ごろの鎌倉は、足の踏み場もないほど、混雑しているはず。
ということで、平塚になった。

●高台

 私は岐阜県の山の中、育ち。
それもあって(?)、平地にある土地は、どうも落ち着かない。
また道路と同じ高さの家も、落ち着かない。
……ということで、現在住んでいる土地を買い求めた。

 入野町の中でも、西のはずれにある高台。
さらに家を建てるとき、40センチ〜150センチほど、土地を盛りあげた。
盛りあげたのには、理由がある。

 私の実家は、道路と同じ高さの平坦地にあった。
いつ自動車が飛び込んできても、おかしくない。
そんな敷地だった。
それが、私には、こわかった。
角にある一本の柱が折れただけで、私の家は、そのまま崩れてしまう。

 だから私は土地を盛りあげた。
が、ワイフにはそれが理解できなかったよう。
当時、さかんに、私にこう聞いた。
「どうして、盛りあげるの?」と。

 ワイフは、平地にある家に生まれ育った。
つまり感覚というのは、そういうもの。
平地が好きな人もいれば、山の手が好きな人もいる。
人や車の出入りがしやすいから……という理由で、平地が好きな人もいれば、私のように、わ
ざわざ土地を盛りあげる人もいる。

 人は、それぞれの思いをもって、家を建てる。
こういうばあい、「人間だから……」という共通項は、ない。
人、それぞれ。

●スピアマンの2因子説

 そう言えば、知能にも、「2因子説」がある。
「因子」という言葉(概念)を最初に使ったのは、スピアマンという学者だが、こういうこと。

 1つは、生まれながらにもっている(g因子)。
もうひとつは、後天的に身につける(s因子)。
人間(子ども)の知能は、この2つの因子で、構成される、と。

わかりやすく言えば、(g因子)というのは、遺伝的に受け継いだ因子、(s因子)というのは、環
境要因によって決定される因子ということになる。

 が、何もこれは、知能因子だけの話ではない。

 だれしも、「静かで、落ち着いた場所に、家を建てたい」と思っている。
これは、(g意識)ということになる。
が、そのあと、人は、自分の経験に応じて、それぞれが自分の家を思い描く。
これは、(s意識)ということになる。

 マンション風の家がよいと思う人もいれば、一戸建ての家のほうがよいと思う人もいる。
平地にある家のほうがよいと思う人もいれば、高台にある家のほうがよいと思う人もいる。
つまり、人それぞれ。
言い換えると、人間(子ども)の知能も、人、それぞれ。

●新幹線の中で

 新幹線に乗ると、電光ニュースに、こんなニュースが流れてきた。
「死刑存廃について、有識者の会議を……」と。

 死刑制度など、廃止すればよい。
それが文明国の常識。

もともと「刑」には、2つの意味がある。
ひとつは、本人に対する懲罰としての刑。
もうひとつは、世間一般に対する、見せしめとしての刑。
その両面から考えても、死刑には、それを支持するだけの根拠がない。

 で、もうひとつの残された問題。
それが被害者遺族に対する、心のケアと補償の問題。
それは国家的施策として、対処する。

 以前、書いた、私の死刑廃止論をここに掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
+++++++++++++++++

●死刑廃止論(2007年9月記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

死刑制度に、死刑制度としての
意味があるかどうかというと、
それは疑わしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●犯罪性の認識

 たとえば死刑に値するような犯罪を犯している最中に、その犯罪者は、「死刑」という刑罰の
重大性を認識しているかどうかというと、答はNO。
ふつうの状態であれば、「こんなことをすれば死刑になるかもしれない」という思いが、犯罪行
為に走るのを、思いとどまらせる。

 しかしふつうの状態でないから、ふつうでないことをしてしまう。
それが「犯罪」。

言うまでもなく、刑罰には、2面性がある。

ひとつは、本人に対する、罰としての「刑」。Aという悪いことをしたら、A罪。Bという悪いことを
したら、B罪というように、あらかじめ決めておく。
わかりやすく言えば、「これこれ、こういう悪いことをしたら、それなりの責任を取ってもらいます
よ」という意味。

 もうひとつは、世間一般に対する、見せしめとしての「刑」。
これによって、犯罪の発生を予防する。
わかりやすく言えば、世間一般に対して、「これこれ、こういう悪いことをしたら、こうなりますよ
と教える」という意味。

死刑には、見せしめとしての意味はあっても、当の本人(=主体)を抹殺してしまうという点で、
罰とての「刑」の意味はない。
罰を与えたとたん、その犯罪者は、この世から消えていなくなってしまう。

 そこで改めて、この問題の原点について考えてみる。

「公」としての組織体、つまり「国」に、見せしめとして、1人の人間を抹殺する権限はあるのか。

わかりやすい例で考えてみよう。

 ひとりの男が、窃盗をしたとする。
その男に対して、「窃盗は悪いことだ」「その窃盗をしたのは、右手」ということで、右手を切断し
たとする。
そうした行為が、果たして刑罰として、許されるものかどうかということ。

このばあいは、(1)罰としての刑と、(2)見せしめとしての刑の、双方がまだ成り立つ。
本人は、右手を切られて、何かと不自由することだろう。
また多くの人は、右手を切り取られた人を見て、「窃盗するということは恐ろしいことだ」と知る。

 しかし死刑のばあいは、脳みそも含めて、体そのものを(切り取る)行為に等しい。
右手を切り取るという行為自体、ほとんどの人は、残酷な行為と考える。「いくらなんでも、それ
はひどい」と。
だったら、肉体全体は、どうなのかということになる。

 そこで最高裁は、ひとつの基準をもうけた。
最高裁が83年に定めた「永山基準」というのが、それ。
それによれば、つぎのようにある。

(1) 犯罪の罪質
(2) 動機
(3) 殺害の手段方法の執拗性、連続性
(4) 結果の重大性、ことに殺害された被害者の数
(5) 遺族の被害感情
(6) 社会的影響
(7) 犯人の年齢
(8) 前科
(9) 犯行後の情状

 これらの「情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大で、罪刑の均衡の見地からも、一
般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められるばあいは、死刑の選択も許される」
(永山基準)と。

 が、最近の傾向としては、この基準が拡大解釈、つまり、基準がゆるやかに適応されるよう
になってきている。
つまり死刑判決が、乱発される傾向にある。
犯罪そのものが凶悪化しているという理由もある。

 しかし繰りかえすが、罰すべき(主体)を残しておいてこそ、刑罰は刑罰としての意味をもつ。
罰すべき(主体)を消してしまったのでは、刑罰は刑罰としての意味を失ってしまう。

 中には、「死という恐怖感を味あわせること自体、社会が与えることができる最大の罰であ
る」と説く人がいる。

 しかしほんとうに、そうか。
反対に、「死ねば、楽になる」と考える人だっているかもしれない。
たとえば今の私にしても、若いころとはずいぶんと、「死」に対する考え方が変わってきた。
「疲れ」を感じたようなとき、「このまま死ねば楽になるのだろうか」と、ふと思うことがある。
ヨボヨボになって、みなに、迷惑をかけるようになったら、それ以上に長生きをしたいとは思わ
ない。

 反対に生きているから、刑が軽いということにもならない。
死刑に値する凶悪犯であるならなおさら、生かしながら、罪の重さで苦しませる。
刑罰としては、そちらのほうがずっと重い。

 さらに中には、短絡的に、「悪いヤツは、生かしておいてもしかたない」と考える人もいるかも
しれない。
しかしそれこそまさに、幼稚的発想。
思考力がまだじゅうぶん発達していない子どもが、ゲームの中で使う言葉である。

 が、もうひとつ、死刑には、重大な問題がある。

 K国のような独裁国家、言いかえると、国民がすべての権限をひとりの独裁者に付託したよう
な国なら、いざ知らず。
日本のような民主主義国家において、「公」としての組織体、つまり「国」に、見せしめとして、1
人の人間を抹殺する権限はあるのかということ。

 独裁国家では、死刑にするのは、独裁者個人である。
しかし民主主義国家では、死刑にするのは、国民1人ひとりである。
つまり私たち自身が、その人を殺すことになる。
私や、あなたが、だ。
もしあなたが「国のやることだから、私には関係ない」と考えているなら、それこそ、民主主義の
放棄ということになる。

 こうして考えていくと、死刑を肯定する理由が、どこからも浮かんでこない。
ゆいいつ残るとすれば、(5)の遺族の被害感情である。

 その犯罪者によって、人生そのものが、大きく狂ってしまうこともある。
愛する人を奪われ、深い悲しみのどん底にたたき落とされる人もいる。
犯罪者を殺したいほど憎く思うこともあるだろう。
あるいは「国が殺してくれなければ、私が殺す」と思う人もいるかもしれない。

 そうした被害者の救済は、どうするかという問題は残る。
が、それこそ国が考えるべき問題ではないだろうか。
金銭的な被害はもちろんのこと、精神的苦痛、悲しみ、怒り、そうした心情を、私たちみなが、
力を合わせて、救済していく。
それとも犯罪者を抹殺したところで、その人は、救済されるとでもいうのだろうか。

 さらに言えば、これは暴論に聞こえるかもしれないが、犯罪者といっても、ふつうの人と、紙
一重のちがいでしかない。
どこかで人生の歯車が狂い、狂ったまま、自分の意思とは無関係に、深みにはまってしまう。
私たちが生きているこの社会では、善と悪の間に、明確な一線を入れることすら、むずかし
い。

 ……長い間、私なりに死刑について考えてきたが、このあたりが、私の結論ということにな
る。

つまり死刑について、これからは、明確にその廃止を訴えていきたい。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●同窓会

 高校の同窓会に出させてもらう。
コースは、その前日に、郡上八幡に行く。
市内の吉田屋で一泊。
朝、郡上八幡を出る。
午後の同窓会にださせてもらったあと、岐路につく。

 吉田屋は、一度は泊まってみたいと思っていた旅館。
郡上八幡へ行く機会は、ときどきあった。
そのたびにそう思った。
が、泊まる機会がなかった。

●郡上八幡

 ……ということで、郡上八幡には、思い出が多い。
郷里の美濃市からは、車でも1時間ほど。
今は高速道路ができたから、もっと早く行ける。
その郡上八幡。
郡上八幡といえば、盆踊り。
『♪かわさき(郡上踊り)』は、とくに名を知られている。
『♪郡上のなア〜、八幡〜ン』と歌う、あの歌である。

 今でも、つまり故郷を離れて46年になるが、郡上踊りを聞くたびに、ジンとあのころの自分が
戻ってくる。
飾り気のない素朴な民謡だが、名曲中の名曲。
一応、私も岐阜県人。
人並みには、郡上踊りを歌うことができる。




 ……今、高校時代の友人の三輪政則君(実名)を思い出した。
その三輪政則君がはじめて運転免許を手にしたとき、いっしょに郡上八幡までドライブをした。
そのとき彼は、早稲田大学に通っていた。
中学時代は、よきライバルで、2年間、学年の1位、2位を争った。

 ライバルといっても、親友だった。
期末試験などでは、休み時間を利用し、よく解答の交換をした。
(私も結構、ワルだった。)
三輪君が学年1位になると私が喜び、私が学年1位になると、三輪君が喜んだ。
そういう仲だった。

 で、その郡上八幡へ行く途中、私が少し運転した。
暗い夜道だった。
が、しばらく走ると、後ろから、回転ライトをつけた車が近づいてきた。
私はあわてて車を、泥脇に止めた。
パトカーと思った。
が、それは工事用の車だった。

 ほっとしたのも束の間、見ると車は、崖すれすれのところに停車していた。
ガードレールはなかった。
あのまま崖から落ちていれば、今の私は、い・な・い。

 ……それが今でも、大きなトラウマになっている。
悪夢の中にも、よく出てくる。
以来、車の運転ができなくなってしまった。
今でも、運転免許証はもっていない。
そのときが、私にとって、最初で最後の運転だった。

 その三輪政則君、今、この原稿を読んだら、一度、連絡してほしい。
郷里へ帰るたびに、また今でもあちこちをさがしてみるが、見当たらない。
元気か?

●藤沢

 小田原から在来線に乗り換え、藤沢に向かう。
その藤沢には、こんな奇怪な思い出がある。
事実をそのまま話す。

 G社(出版社)に、TZさんという女性の編集者がいた。
その少し前、TZさんは、G社を退職し、そのときは、独立して、出版の手伝いをしていた。
で、何かのことで、私は、そのTZさんに仕事を依頼した。

 そのときのこと。
2、3度、藤沢のマンションで、TZさんに会った。
TZさんは、本の出版について、快く承諾してくれた。
原稿も送った。

 が、そんなある日。
日にちは確かではないが、12月に入って間もないころのことだった。
突然、TZさんから電話があった。
いつもと変わらない、元気な声だった。
こう言った。
「はやしさん、悪いんだけど、仕事を引き受けられなくなったわ。
少し、体を悪くして……」と。

 ていねいな言い方だった。
私は、それに納得し、電話を切った。

 が、それから2、3か月後の、春先のころのこと。
TZさんは、大腸がんで亡くなった。
突然の訃報だった。

 で、その葬儀の席でのこと。
TZさんの無二の同僚だったNN氏に、そのことを話すと、NN氏は、吐き捨てるようにこう言っ
た。
「はやしさん、そんなこと、ありえませんよ」と。

 NN氏は、こう言った。
「そのときすでにNNさんは、昏睡状態で、電話などかけられるような状態ではなかった」と。

 私は驚いた。
NN氏も、驚いた。
しかしたしかに電話はあった。
いつもと変わらない元気な声だった。

 で、私とワイフの結論は、こうだ。

 そういう状態だったが、たまたまそのとき意識を取り戻した。
そのとき、電話をかけてくれたのでは、と。

TZさん……辻村房子さん。(実名、「つじ」は、「土・ハ・土」に、「しんにょう」の「逵」。)
NN氏……中野満月氏。(実名)

●田丸謙二先生

 現在、扇が谷(鎌倉)の家は、改築中。
その間だけということで、田丸謙二先生は、鎌倉市の近くの、(住所は鎌倉市xxx)、Sという有
料老人ホームに身を寄せている。

 午後3時、ちょうどにそこに着いた。

 元気そうだった。
うれしかった。
ビデオカメラを机の上に置いたが、田丸謙二先生は気にすることもなく、あれこれ話してくれ
た。

 そのときの様子は、YOUTUBEにそのままUPしておく。
私は田丸謙二先生の一言半句、聞き漏らすまいと、懸命に耳を傾けた。
田丸謙二先生は、私の人生の先輩であると同時に、恩師でもある。
この42年間、いつも私は、田丸謙二先生のあとを見ながら、ひよこのように、追いかけてき
た。

 その田丸謙二先生が、そこにいた。

 夕食は、老人ホームの食堂で、みなといっしょに食べた。
薄味の卵丼ぶりだった。
おいしかった。

●ホテル・サンライフガーデン(平塚)

 帰りが遅くなりそうだったので、予定通り、平塚のホテルに泊まった。
「ホテル・サンライフガーデン」。
ホテルというよりは、結婚式場。
重厚な感じがしたが、星は、3つの★★★。

 料金が高い。
東京料金。
素泊まりで、1万3000円(2名分)。 
平塚の駅からも遠い。
送迎バスで、20分ほど。

 「土曜日の夜だからしかたない」ということで、泊まった。
が、後悔、80%。
三島まで行き、そこでドーミーインに泊まればよかった。
あそこなら大浴場がある。

 ホテル全体は、コの字型になっていて、窓の外には、その中庭が見える。
南米や南欧へ行くとよく見かける、ホテル様式である。
イギリスのグラマースクールも、似たような建て方をする。
私たちの部屋は、その中庭に面している。

 ここは5回だが、左下の4階では、ちょうど結婚式が終わるところだった。
新郎と新婦が、花束を手に、列席者と別れを告げているところだった。

 また反対側の数階下は、レストランになっているらしい。
何組かの男女が、四角いテーブルを囲んで、食事をしている。
……先ほど、その1組と目が合ったので、手を振ってやった。
が、私を見て笑っているだけで、返答はなかった。

●都会

 藤沢、平塚……。
神奈川県とはいうが、大都会。
東京そのもの。
料金も、東京そのもの。

 サービスといっても、形だけ。
心など、探しても、ない。
このあたりに住んでいる人には、それがわからないかもしれない。
しかし私のような田舎者には、それがよくわかる。
言葉にも、共鳴感というより、共鳴性がない。

 藤沢の駅で電車を待っているとき、私はワイフにこう聞いた。
「こんなところに、住みたいと思うか?」と。
ワイフは、こう言った。
「たまに遊びに来るにはいいけど、住みたくないわ」と。

 あまりにも予想通りの答だった。
だから私は、返事もしなかった。

●田丸謙二先生との話

 そのつど田丸謙二先生は、私に意見を求めた。
が、何よりも、私が言いたかったことは、つぎのこと。

 国際触媒学会のときもそうだったが、今回の化学会に年会のときも、そうだった。
2000人(フランス・パリ)とか、8000〜9000人(東京三田)とかの科学者が集まった。
にもかかわらず、日本のマスコミは、1行も、また1秒も、それについて報じなかった。
田丸謙二先生も、こう言った。

「新聞を読んでも、何もおもしろくありません」と。
「もし福島第一原発事故がなかったら、今ごろはどんな記事が載っているのでしょうね」とも。

 同じように、田丸謙二先生は、こう言った。

 田丸謙二先生の父親の、田丸節郎氏は、まさに日本の科学界の黎明期に活躍した。
今の日本が、その地位を築くことができたのも、田丸節郎氏の力によるところが大きい。
たとえば東京工業大学にしても、田丸節郎氏が設立したと言っても過言ではない。
ベルリン大学に対して、ベルリン工科大学があった。
それをまね、東京大学に対して、東京工業大学を設立した。

が、そうした功績を知っている人は少ない。
功績を知らないだけではない。
そうした先駆者たちに感謝の念をもっている人は、少ない。
みな、そこにそれがあるのが当たり前……といったふう。
「敬老」という言葉そのものが、今、死語化している。
が、これでは、先駆者たちの苦労が、浮かばれない。

 どこかのドラ息子やドラ娘が、親の苦労も知らないで、大学を出たと威張っているようなも
の。
「私は自分で努力して、大学へ入ったのだ」と。

 私は田丸謙二先生の話を聞きながら、そんなことを考えた。

●田丸節郎

 理化学研究所の、主任研究員の名簿がある(1922年)。
そのまま紹介する。

『駒込本所以外の各帝国大学に研究室を置くのも自由とし、理研からの研究費で研究員を採
用し研究を実施した。

長岡半太郎、
池田菊苗、
鈴木梅太郎、
本多光太郎、
真島利行、
和田猪三郎、
片山正夫、
大河内正敏、
田丸節郎、
喜多源逸、
鯨井恒太郎、
高嶺俊夫、
飯盛里安、
西川正治の、14研究室発足』と。

 そうそうたる名前が並んでいる。
言い換えると、当時は、こうした学者を称える社会的風土がまだ、日本にはあった。
現在、こうした人たちの名前を、私が知っていること自体が、その証拠ということになる。
が、今は、どうか?

 先にも書いたように、「1行」も、「1秒」も、報道されない。
サポーターのいない、野原で、サッカーの試合をするのと同じ。
選手たちも、やる気をなくすだろう。
なくして、当然。

 田丸謙二先生は、こんなことも話してくれた。

「現在ね、(東大で教授をしていた)仲間たちがね、みんな、シンガポールへ行っているよ」と。
東大を退官したあと、そういった教授たちの多くが、シンガポールの大学や研究所へ、迎えら
れているという。
私たちは、こうした事実を、どう理解すべきなのか。
あるいはこういう事実を、いったい、どれほど多くの人たちが知っているか。

●田丸謙二先生より

 田丸謙二先生からメールが入った。

『林様:今日は本当に有難うございました。
わざわざ遠くからお二人で来て頂き、大変に楽しく、貴重な話を沢山聞かせて頂き、厚く御礼
申し上げます。
大変によい勉強になりました。

「反世代」の若者たちが、わが国を如何に変えて行くのか切実な問題だと思います。
近頃日本が世界のトップグループから消え去って行く話をよく聞かせられるだけに、深刻な気
が致します。

今お働き盛りの貴君だけに心からご活躍を祈念いたします。
健康には充分に気をつけて大いに頑張って下さい。
期待をしています。
田丸謙二』

 89歳になっても、天下国家を論じ、日本の未来を心配し、案じている。
それが田丸謙二先生。

 田丸謙二先生を前にすると、自分がかぎりなく小さく見えてくる。

●ホテル・サンライフガーデン

……ワイフが、どこか退屈そう。
「何かしたいか?」と聞くと、「おなか、すかない?」と。
「コンビニへでも行ってこようか?」と聞くと、「あなたは?」と。

 ……コンビニへ行ってくることにした。

(休憩)

●就寝

 ワイフはいつものように、コンビニで、チューハイを買った。
あとは酒のつまみを、少し。

 寝る前に、田丸謙二先生から、追伸が届いていた。

『林様:今日のお話について、例えば「日本はこれでいいのか?」位の題で本をお書きになった
ら如何でしょうか。
ベストセラーになります。
頑張って下さい。
田丸謙二』と。

【はやし浩司より、田丸謙二先生へ】

田丸謙二先生へ

こんばんは!

これからは本の時代でもないように感じます。
浜松の田舎から見ていると、いつもそこに「東京」という関所があります。
その関所を通らなければ、世界の人の目に触れることはない。

が、今は、インターネットがその関所を取っ払ってくれました。
いきなり外国へ、直接、原稿を送ることができます。
日本語であっても、すぐそのまま全世界の言葉に翻訳できます。
(英語で出しているBLOGも、ひとつあります。)

もちろん本も大切ですが、(収入という意味では)、私はもうものを書くことで、お金を儲けようと
いう気はありません。
世界中をひっかきまわしてやりたい……それだけです。

事実、こうしてBLOGに原稿を発表していると、どこかのポータルサイト、あるいはニュースサイ
トが、原稿をそのまま取り上げてくれることがあります。
とたん、アクセス数が、1日で、数万件となることもあります。
すごいことだと思います。

まさに第二の産業革命を、私たちは身をもって、体験しているわけです。

で、ひとつだけ、生意気な意見を!
先生の文章を読んでいて、いつも気になるのは、こんなことです。
今では、ネットに文章を書くときは、余白や、空白部を気にしてはいけません。
たとえばこの文章がそうですが、余白がカスカウですね。
それでいいのです。

紙に文字を印刷していた時代には、「紙がもったいない」ということで、ぎっしりと文字を詰めて
書いたものです。
今は、余白がいくらあっても、ただです。
ですから、余白を思いきって、多くする。
改行を多くする。
そのほうが今風になり、文章がずっと読みやすくなります。
たとえば、こんな感じです。

先生の文章を借りて、少し、手直ししてみます。

+++++++++++田丸謙二先生の原稿+++++++++++++++++

(先生のもとの原稿)

私が大学を出たのは終戦の翌年で文字通り「どん底の時代」でした。大学院に進学して研究テ
ーマを頂きに、鮫島実三郎先生のところに伺いましたら、一言「触媒をおやりになったら如何で
しょうか」と言われました。しかし当時鮫島研究室にも化学教室にも触媒の研究をしている人は
誰もいなく、自分一人で考えねばなりません。終戦から余り月日も経っていないので外国の文
献も入って来ず、戦前の古い資料に基づいて研究というものは何をすればいいのか、一人で
苦しみぬいたとても辛い五ヶ月間でした。Pd触媒によるアセチレンの水素添加反応を選びまし
たが、実験をしながら自分は何か間違いをしていないか、もっといい発展がないだろうか、常に
真剣に自問自答した体験は非常に苦しかったのですが大変に貴重な体験で、結果も面白く、
研究の楽しさを学びました。(その数年後に出版され
たEmmettが編集したCatalysisという本に私の結果が3ページにわたり引用された。当時誰も
知らなかった面白いことだったのである。全くの幸運であった。)   


(私が改変した原稿)

 私が大学を出たのは終戦の翌年で文字通り「どん底の時代」でした。
大学院に進学して研究テーマを頂きに、鮫島実三郎先生のところに伺いました。
そうしたら、一言「触媒をおやりになったら如何でしょうか」と言われました。

 しかし当時鮫島研究室にも化学教室にも触媒の研究をしている人は誰もいなく、自分一人で
考えねばなりません。
終戦から余り月日も経っていないので、外国の文献も入って来ず、戦前の古い資料に基づい
て研究というものは何をすればいいのか、一人で苦しみぬきました。
とても辛い五ヶ月間でした。

 Pd触媒によるアセチレンの水素添加反応を選びましたが、実験をしながら自分は何か間違
いをしていないか、もっといい発展がないだろうか、常に真剣に自問自答した体験は、非常に
苦しいものでした。

が、大変に貴重な体験で、結果も面白く、研究の楽しさを学びました。

(その数年後に出版されたEmmettが編集したCatalysisという本に私の結果が3ページにわた
り引用された。
当時誰も知らなかった面白いことだったのである。
全くの幸運であった。)  

++++++++++++++++++++++++

ねっ、読みやすいでしょ!
紙に書くのではありませんから、こんなふうに、余白をぐんと多くして、書けばいいのです。
ご参考までに!!!

はやし浩司

*************************** 

●4月1日

 教師の姿勢が、問題になっている。
国歌斉唱のとき、歌った、歌わないとか。(2012年4月)

『大阪府の松井一郎知事は1日、府立学校の卒業式で国歌斉唱時に起立斉唱しなかった教
職員について、「入学式でも同一人物が同じ行動をとった場合、現場から外すべきだ」との認
識を記者団に示した』(MSN・ニュース)とか。

 2005年に書いた原稿を添付する。
なおこの中で、「愛国心(ペイトリアチズム)」について、これは私個人が、ギリシャ語、さらには
ラテン語と調べて、知ったことである。
そののち、どこかの政治評論家が、断りもなく、この部分を盗用した。
さらにどこかの政党党首も、盗用した。
2005年という、年号が、何よりも、その証拠である。
こういう盗用は、本当に、謹んでほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●若者の意識

 財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)が、高校生の意識調査をした。昨年(04)9月から
12月にかけて、3か国35の高校で行い、3649人が回答した。

★国歌・国旗について

 「自分の国に誇りを持っているか」との設問に、「強く持っている」「やや持っている」と答えた
日本の高校生は、あわせて51%と、米中両国に比べ目立って低かった。

国旗、国歌を「誇らしい」と思う割合も、米中両国の半分以下。
「国歌を歌えるか」との質問には、「歌える」と答えた日本の高校生は、66%にとどまり、三人
に一人は、「少し歌える」「ほとんど歌えない」と答えるなど、国旗国歌に抵抗感を植えつける自
虐的教育(報告書の言葉)の影響を懸念させる結果となった。

 こうした意識は国旗国歌への敬意などに表れ、「学校の式典で国歌吹奏や国旗掲揚されると
き、起立して威儀を正すか」との質問に、「起立して威儀を正す」と答えた日本人高校生は、米
中の半分以下の30%。

38%は「どちらでもよいことで、特別な態度はとらない」と答え、国際的な儀典の場で、日本の
若者の非礼が、批判を受ける下地となっていることをうかがわせた。

★将来、意欲について

 将来への希望を問う設問では、「将来は輝いている」「まあよいほうだが最高ではない」と答え
た割合は中国が80%と最も高く、日本は54%で最も悲観的であることがわかった。

さらに、勉強については「平日、学校以外でほとんど勉強しない」が45%(米15%、中8%)、
「授業中、よく寝たり、ぼうっとしたりする」も73%(米49%、中29%)と、学習意欲も米中に比
べて明らかに低いことが裏づけられた。

 生活面では「若いときはその時を楽しむべきだ」と答えた高校生の割合も、三カ国で最も高
かった。

★恋愛、家族について

 恋愛観では「純粋な恋愛をしたい」と考える割合は、九割と日本が最も高かった。
しかし、結婚後「家族のために犠牲になりたくない」も日本がトップ。
将来「どんなことをしても親の面倒をみたい」は三カ国で最も低く、逆に「経済的な支援をする
が、介護は他人に頼みたい」が18%と、米国9%、中国12%を大きく上回った。

(以上、報告書のまま)

++++++++++++++++++++

 いろいろ反論したいことはあるが、日本の高校生の実像を表していることは、事実。
で、こうした事実を並べて、財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)は、つぎのように結論づ
けている。

 『日本の高校生たちについて、「純愛で結婚したいが、家族の犠牲にはなりたくない。親の面
倒は、金で他人に見てもらいたいという自己中心的な恋愛観・家族観が浮かんでいる」』と。
(はやし浩司 日本 青少年 青少年意識 高校生 意識 意識調査 国旗 国歌 はやし浩
司 若者の意識 自己中心的な恋愛観 恋愛至上主義 はやし浩司 高校生の意識)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●国旗、国歌について

 国旗はともかくも、国歌について言えば、それを歌うから愛国心があり、歌わないから愛国心
がないというふうに、決めつけてほしくない。

 私は、(あなたもそうだろうが……)、外国で、日本を思うときは、別の歌を歌う。
「ふるさと」であり、「赤とんぼ」である。

●自虐的教育について

 この日本では、自国の歴史を冷静に反省することを、「自虐的教育」という。
右翼的思想の人が、左翼的傾向のある教育を批判するとき、好んで使う言葉である。

 「どうして?」と思うだけで、あとがつづかない。

●親のめんどう

 それだけ日本人の親子は、関係が、希薄ということ。
親自身が、無意識のうちにも、親子の関係を破壊している。
そういう事実に気づいていない。

 子どもの夢、希望、目的をいっしょに、考え育てるというよりは、「勉強しなさい」「いい高校に
入りなさい」という、短絡的な教育観が、親子の関係を破壊していることに、いまだに、ほとんど
の親は気づいていない。

 「子どもが自己中心的だから」という結論は、どうかと思う。
こういうところで、自己中心的という言葉を、安易に使ってほしくない。
家族の形態そのものも、ここ半世紀で大きく変わった。

ここに表れた「経済的な支援をするが、介護は他人に頼みたいが、18%」という数字は、数年
前の調査結果と、ほとんどちがっていない。

 よりよい親子関係を育てるためには、(ほどよい親)(暖かい無視)に心がける。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(605)

●BRIC's レポート

 最近経済界で話題になっているキーワードに、「BRIC's レポート」というのがある。

 ゴールドマン・サックス証券会社が発表した、経済レポートをいう(03年10月)。

B……Brazil(ブラジル)
R……Russsia(ロシア)
I……India(インド)
C……China(中国)を、まとめて、「BRIC's」という。

 同レポートによれば、2050年ごろには、これらBRIC'sの4か国だけで、現在の日本、アメリ
カ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアの総合計を、経済規模で、上回るようになるという。

 そしてその結果、世界のGDPは、上から順に、

(1) 中国
(2) アメリカ
(3) インド
(4) 日本
(5) ブラジル
(6) ロシアの順になるという。つまり日本は、4位に転落するという。

 こうした国々をながめてみると、これからの日本が相手にすべき国は、どこか、すぐわかるは
ず。

 アメリカ、インド、ブラジルの3か国である。
とくに注目したいのが、インドとブラジルである。
これら2国は、日本との関係も深く、親日的である。
最近ある公的機関を定年退職したが、ニューデリーに住んでいる、友人のマヘシュワリ君は、
大の日本びいき。
メールをくれるたびに、「どうしてインドへ来ないのか?」と聞いてくる。

 日本よ、日本人よ、どうしてもっと、インドやブラジルに目を向けないのか?

 中国や韓国など、もう相手にしてはいけない。
必要なことはするが、限度を、しっかりとわきまえる。
仲よくはするが、反日感情については、無視。
そして余裕があるなら、インドやブラジルに目を向けるべきである。

 そのインドも、昔は借金国。
しかし世界銀行やアジア開発銀行などからの借金の30億ドルを、2002年度までに完済して
いる。
(韓国などは、先のデフォルトのとき、550億ドルも、日本が中心になって援助したが、感謝の
「カ」の字もない! 中国などは、いまだに日本の無償援助をよこせと、がんばっている!)

 私が日本のK首相なら、イの一番に、インド、つづいてブラジルを回る。
もう一か国つけ加えるなら、オーストラリアも回る。
オーストラリア人の親日性は、日本のK首相が、イラク派兵を頼んだときに、証明された。

 オーストラリアは、日本の自衛隊を守るために、オーストラリア兵を、イラクへ派遣してくれた
(05・3月)。
どうして、そういう国を、もっと大切にしないのか!

 あえてけんかをすることはないが、日本を嫌い、日本人を軽蔑している国々と、頭をさげてま
で、仲よくすることはない。
それよりも今、重要なことは、50年先を見越して、日本の立場を、より強固にしていくことであ
る。

 ちなみに、「インドの人口は10億人。
国土は日本の9倍。南アジア最大の軍事大国だが、同時にアジア有数の親日国家でもある。
そのインドが資本市場を急速に自由化させ、中国にかわって、世界の工場となるシナリオが、
日々高まってきた。

インドの昨年第四・四半期(10月ー12月)のGDP成長率は、中国を抜いて、堂々の10・4%
だった」(宮崎正弘レポート)。

 そのインドに、中国が目を向けないはずがない。
少し前まで、仲が悪いと思われていたが、ここ1、2年で、中印貿易高は、日印貿易高を、とうと
う追いこしてしまった。
が、それだけでは、ない。
それを猛烈に追いあげているのが、実は、韓国である。

 この分野でも、日本は、完全に出遅れている。
さらに最近の、中国や韓国の合言葉はただ一つ。「日本を、極東の島国から、太平洋の奈落
の底にたたき落せ」である。
うわべはともかくも、K国が、核ミサイルを、東京にうちこんだとき、それを一番喜ぶのは、中国
であり、韓国なのである。

 現実の国際政治というのは、そういうものだし、現実的でない国際政治というのは、意味をも
たない。

 もちろんそんなことを、K国にさせてはならない。(させてたまるものか!)

 そこで日本としては、6か国協議に見切りをつけて、K国の核問題を、国連安保理に付託す
るしかない。
(中国や韓国は、それを警戒している。
そしてそういう動きを見越して、韓国は、日韓関係の整理をし始めている。)

 話がそれたが、S県の県議会が、「竹島の日」を、こういう微妙なときに定める真意が、私に
は理解できない。
国際性のなさというか、まあ、何というか。
S県の「S」は、「島」という漢字をあてる。
こうした島国根性こそが、日本の将来の足かせになっている。

 2050年という、45年後には、私は、もう生きていない。
しかしそのとき、世界はどうなっているか。
それを示しているのが、ここにあげたBRIC's レポートということになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

さらに、以前書いた原稿を2作。
日付は2002年になっているが、実際には、さらにその数年前に書いた原稿と思う。
ここに書いたことは、今の今も、少しもブレていない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「公」について(What is "Public"?)

 以前、教育改革国民会議は、つぎのような報告書を、中央教育審議会に送った。

いわく「自分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬
(いけい)の念をもち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を育てると
ともに、社会生活に必要な基本的知識や教養を身につけることを、教育の基礎に位置づける」
と。

 こうした教育改革国民会議の流れに沿って、教育基本法の見なおしに取り組む中央教育審
議会は、〇二年一〇月一七日、中間報告案を公表した。
それによれば、「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かんよう)する
ことが大切」とある。

 一読するだけで頭が痛くなるような文章だが、ここに出てくる「涵養(かんよう)」とは何か。
日本語大辞典(講談社)によれば、「知識や見識をゆっくりと身につけること」とある。
が、それにしても、抽象的な文章である。
実は、ここに大きな落とし穴がある。
こうした審議会などで答申される文章は、抽象的であればあるほど、よい文章とされる。
そのほうが、官僚たちにとっては、まことにもって都合がよい。
解釈のし方によっては、どのようにも解釈できるということは、結局は、自分たちの思いどおり
に、答申を料理できる。好き勝手なことができる。

 しかし否定的なことばかりを言っていてはいけないので、もう少し、内容を吟味してみよう。

 だいたいこの日本では、「国を守れ」「国を守れ」と声高に叫ぶ人ほど、国の恩恵を受けてい
る人と考えてよい。
お寺の僧侶が、信徒に向かって、「仏様を供養してください」と言うのに似ている。
具体的には、「金を出せ」と。
しかし仏様がお金を使うわけではない。
実際に使うのは、僧侶。
まさか「自分に金を出せ」とは言えないから、どこか間接的な言い方をする。
要するに「私たちを守れ」と言っている。

 もちろん私は愛国心を否定しているのではない。
しかし愛「国」心と、そこに「国」という文字を入れるから、どうもすなおになれない。
この日本では、国というと、体制を意味する。
戦前の日本や、今の北朝鮮をみれば、その意味がわかるはず。
「民」は、いつも「国」の道具でしかなかった。

 そこで欧米ではどうかというと、たとえば英語では、「patriotism」という。
もともとは、ラテン語の「パトリオータ(父なる大地を愛する人)」という語に由来する。
日本語では、「愛国心」と訳すが、中身はまるで違う。
この単語に、あえて日本語訳をつけるとしたら、「愛郷心」「愛土心」となる。
「愛国心」というと反発する人もいるかもしれないが、「愛郷心」という言葉に反発する人はいな
い。

 そこで気になるのは、「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かん
よう)することが大切」と答申した、中教審の中間報告案。

 しかしご存知のように、今、日本人の中で、もっとも公共心のない人たちといえば、皮肉なこと
に、公務員と呼ばれる人たちではないのか。
H市の市役所に三〇年勤めるK市(五四歳)も私にこう言った。
「公僕心? そんなもの、絶対にありませんよ。私が保証しますよ」と。

とくに長年、公務員を経験した人ほどそうで、権限にしがみつく一方、管轄外のことはいっさい
しない。
情報だけをしっかりと握って、それを自分たちの地位を守るために利用している。
そういう姿勢が身につくから、ますます公僕心が薄れる。
恐らく戦争になれば、イの一番に逃げ出すのが、官僚を中心とする公務員ではないのか。
そんなことは、先の戦争で実証ずみ。
ソ連が戦争に参画してきたとき、あの満州から、イの一番に逃げてきたのは、軍属と官僚だっ
た。

 私たちにとって大切なことは、まずこの国や社会が、私たちのものであると実感することであ
る。
もっとわかりやすく言えば、国あっての民ではなく、民あっての国であるという意識をもつことで
ある。
とくに日本は民主主義を標榜(ひょうぼう)するのだから、これは当然のことではないのか。
そういう意識があってはじめて、私たちの中に、愛郷心が生まれる。
「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識」というのは、そこから生まれる。

 これについて、教育刷新委員会(委員長、安倍能成・元文部大臣)では、「本当に公に使える
人間をつくるには、個人を一度確立できるような段階を経なければならない。
それが今まで、日本に欠けていたのではないか」(哲学者、務台理作氏)という意見が大勢をし
めたという(読売新聞)。
私もそう思う。
まったく同感である。
言いかえると、「個人」が確立しないまま、「公」が先行すると、またあの戦時中に逆もどりしてし
まう。
あるいは日本が、あの北朝鮮のような国にならないともかぎらない。
それだけは何としても、避けなければならない。

 再び台頭する復古主義。
どこか軍国主義の臭いすらする。
教育の世界でも今、極右勢力が、力を伸ばし始めている。
S県では、武士道を教育の柱にしようとする教師集団さえ生まれた。
それを避けるためにも、私たちは早急に、務台氏がいう「個人の確立」を目ざさねばならない。
このマガジンでも、これからも積極的に、この問題については考えていきたい。
(02−11−4)

(読者のみなさんへ)
 みなさんがそれぞれの立場で、民主主義を声を高くして叫べば、この日本は確実によくなりま
す。みんなで、子孫のために、すばらしい国をつくりましょう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 公僕意識 公教育 道徳教育 
パトリオータ はやし浩司 公と民 はやし浩司 愛国心 愛国心とは)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

★国歌……何度も書くが、どうして「国歌」にそれほどまでに、こだわるのか。
こだわらなければならないのか。
私には、その理由が、よくわからない。

 国歌でなくても、長唄でも小唄でも、能の謡(うたい)でもよい。
詩の朗読でもよい。
国歌を歌ったからといって、愛国心があるということにはならない。
国家を歌わないからといって、愛国心がないということにもならない。

 加えて、日本の「君が代」には、問題がある。
ないとは言わせない。どうして主権在民の民主主義国家で、天皇をたたえる歌が、国歌なの
か。
いや、こう書くからといって、何も「君が代」に反対しているわけではない。

 それでもいいという国民が過半数を超えているなら、それはそれでいいと思う。
それも民主主義。
みんなで話しあって決めたことは、みんなで従う。私も従う。

 ただ公教育の先生が、公的な立場で、個人的な実力行使をするのは、許されない。
国歌斉唱に反対するなら、公的な立場を離れ、個人的な意見として発表すべきである。
それはたとえて言うなら、子どもの親が、どんな犯罪者でも、その子どもを差別してはいけない
という論理に通ずる。

 公的な人間は、公的な人間としての立場をわきまえて行動する。
私的な主義主張は、公的な立場を離れてるす。公教育というのは、そういうものである。

 数週間前も、1億円という巨額なワイロを受け取りながら、その責任を部下におしつけて逃げ
てしまった元総理大臣がいた。
「覚えていません」と。

 私はともかくも、一般の人たちや、そして子どもたちは、そういう政治家を見ながら、そういう
政治家たちが言うところの愛国心というものが、どういうものであるかを知る。
愛国心をぶちこわしているかどうかということになれば、そういう政治家のほうが、よほど、ぶち
こわしていることになるのではないのか。

【補記】

 「君が代を歌え」と迫る政府。
それはどこかカルト的? 一方、「君が代は歌わない」とがんばる先生たち。
それもどこかカルト的?

 この話をワイフにしたら、ワイフは、こう言った。
「そういうのを逆カルトというんじゃ、ない?」と。

 おもしろいネーミングである。
カルトに対して、逆カルト。
ナルホド!

 似たような例は、多い。
……というより、私自身も経験している。

 ある時期、私は、カルト教団と呼ばれる宗教団体に、猛烈な反発を感じた。
何冊か、本も書いた。
そのときのこと。
そのカルト教団については、何もかも否定、また否定。
まさに『坊主憎ければ、袈裟(けさ)まで憎い』の心境になってしまった。

 しかし、カルト教団だから、「悪」と考えてはいけない。
しかしそれに気づくまでに、何年もかかった。
「悪いのは指導者であって、信者ではない」と。
 
 そのときの私の心理が、いわゆる「逆カルト」ということになる。
心の余裕というか、ゆとりをなくす。
車の運転でいえば、「遊び」の部分をなくす。
ものの考え方が、どこかギクシャクしてくる。

 私などは、もともと、どこかいいかげんな人間。
だから、心の中では、「?」と思っていても、そのときになったら、ちゃんと相手に合わせる。
たとえば卒業式や入学式では、みなといっしょに、大声で、国歌を歌う。歌ってすます。
主義主張は、人並み以上にはあると思うが、しかし卒業式や入学式の場で、主義主張にこだ
わる必要はない。
たかが「歌」ではないか。

 いくら酒は飲めないといっても、グラスを勧められたら、一応口だけはつけて、「乾杯!」と言
いかえす。
それがここでいう「遊び」である。「心のゆとり」である。

 ……と書いて、私は九州の隠れキリシタンの話を思い出した。
九州の日出藩(ひじはん)の踏み絵がよく知られている。

 たとえば豊前国小倉藩の家臣、加賀山隼人は、キリシタンであったという理由で、処刑されて
いる。
こんな話が伝わっている(「日本耶蘇教会年報」)。

 加賀山隼人の娘が、父親の隼人に、「父上、何も、裁きを受けず、大罪を犯した訳でもなく、
ただ、キリスタンなるが故の死罪、外で執行されるに及ばず。
我等にとりても、此の家が一番好都合でありませぬか」と。
つまり、「ただキリスト教徒というだけで、処刑なんて、おかしいでしょう。
私たちにとって、この家の幸福が、一番、大切ではないですか」と。

それに答えて、「ならぬ。かの救世主・耶蘇基督(キリスト)は罪なき身を以って、エルサレムの
城門外に二人のあさましき兇徒(きょうと)の間に置かれ、公衆の面前で死なんと欲したではな
いか。
我もまた、公衆の面前で汚辱を受けつつ死を熱望するなり」と。
つまり、「あのイエスも、信仰を守るため、公衆の面前で処刑にあっているではないか。
私も、それを希望する」と。

 この話は、その筋の世界では、「美談」として、もてはやされている。
「命がけの信仰」として、たたえられている。
しかし私は、こういう話に、どうしても、ついていけない。
信仰心と、盲目的な忠誠心を、どこかで混同しているのではないか?

 ……と書くと、猛烈な反発を買いそうだが、いくら信仰をしても、自分を見失ってはいけない。
命までかけて、信仰をしてはいけない。
信仰をしながらも、自分の心にブレーキをかける。
そのブレーキをかける部分が「私」である。

いいか、キリストは、自分の信念で処刑に甘んじた。
信者は、信念といっても、(脳注入された信念)である。
誤解してはいけない。

 キリストの立場で考えてみれば、それがわかる。

 彼自身は、公衆の面前で処刑された。
しかしキリストは、すべての民の原罪を背負って、処刑された。
決して、「自分の信者に、同じことをせよ」と、見本を見せたわけではない。
いつだったか、私は、「キリストも教師ではなかったか?」という文章を書いた。

 それをここに再掲載しておく。

++++++++++++++++++++++++++++

【神や仏も教育者だと思うとき】 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。
私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかっ
た。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。
仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなか
った。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。
ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった
少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまっ
た。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。
しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。
「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずが
ない。
いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。
携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報
道)。
どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇
〇万件とは!

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。
その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 

人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。
窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。
たとえば親鸞の『回向論』。

『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与え
られているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

 しかしこれでは意味がわからない。
こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。
宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。
(実際には、説明している本人にすら、意味がわかっていないのではないか? 失礼!)

要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」
と。
しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。
「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。
頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。
つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。
そういうのは教育とは言わない。
問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。
私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。
その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障
害者が多いのは、そのためだ」(R宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。
他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが
言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」と
は思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。
いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏では
ない。
悪魔だ。
だいたいにおいて、地獄とは何か? 
子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。
しかしそれは地獄でも何でもない。
教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解
できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。
しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまう。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。
人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしま
う。
医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●田丸謙二先生より(4月1日2012年)

『林様:メール有難うございました。
とても興味深く拝読しました。
私にとっては新しい情報ですが、貴君の原稿を何十万の人が読むと言いますがそれだけの人
が本当に読んでいる保証があるのでしょうか。
読むことは出来るかもしれませんが、本当に興味を持って読む人が一人もいないということは
あり得ないのでしょうか。
その原稿に対してどんな形でどのくらいの収入があるのでしょうか。
本当に興味を持って読んでいる人は何人いるのでしょうか。
どうしたらそれが解るのでしょうか。
確かに現在は「本の時代ではない」かもしれませんが、それだけに出版社たちは、一人でも多
くの読者があるような、興味があって有意義な本を出す苦労をしているはずです。
貴君の書かれる原稿がその中に入らない理由が何かあるのでしょうか。
「ものを書いてお金を儲けようという気はない」のも結構ですが、皆が読みたがる立派で社会の
ために重要な原稿を書けば、本屋は見逃さずに本にしたがるものではないでしょうか。
何故その部類に貴君の原稿が入らないのでしょうか。
これは「浜松」だとか「東京」とかという問題を越えたことではないでしょうか。
何もよく知らないで申して申し訳ないのですが、ファンの一人として、そういう点についてご説明
していただければ幸いです。
くれぐれもお元気で。
田丸謙二』(2012−04−01)

【はやし浩司より、田丸謙二先生へ】

 先生が言われる通りです。
「アクセス数」というのは、あくまでも「アクセス数」です。
本屋での立ち読みのようなものです。
チラッと見て、ポイ。
それを「アクセス数」と言います。

 ですから、アクセスした人イコール、読者ということではありません。
興味本位、あるいは、中には反感をもちながら、アクセスしてくる人も多いはずです。
ですから、「毎月50万アクセス」と言っても、中身は、薄いです。

 が、その一方で、電子マガジンの読者、BLOGの購読者、さらには定期発行物の登録会員
など、明らかに私の「読者」と考えてよい人も、います。
そういう人は、現在、合計で、2000人前後、います。
私は、そういう読者を、たいへん大切にしています。

 で、その中間の人たちは、どうか?
それについては、私にもわかりません。
好意的に読んでくれる人もいるでしょうし、逆に、反感を覚えながら読んでくれる人もいるでしょ
う。
しかし何よりも大切なことは、(人の目に触れること)です。

 で、本について。

 ご存知のように、私は20代の初めから、「本=書籍」について、いろいろな形で、関わってき
ました。
ゴーストライターもしてきました。
しかし私の世界では、本というのは、「商品」でしかありませんでした。
出版社にしても、まず(売る)ことを考えます。
そうした傾向が強くなったのは、1990年前後からからではないでしょうか。
大手の出版社でも、編集部より、販売部のほうの力が大きくなりました。
編集部がOKを出しても、販売部のほうで、STOPがかかるということは、この世界では、よくあ
ることです。
不況が、それに拍車をかけました。

出版業界全体の市場は、1996年をピークに約25%減少しており、多くの企業が業績悪化に
苦しんでいます(Diamond on Line)。

私も30冊近い本を出してきましたが、1990年ごろから、印税も、売れた本の分だけ。
しかも半年から1年後払いというのが、常識になってきました。
つまり「本は儲からない」。
端的に言えば、時代が、変わったということです。
で、「本」に対する幻想が、このころから崩れ始めました。

また現在、よく売れる本の著者というのは、マスコミ、とくにテレビへの露出度で決まります。
出版社も、そのことをよく知っています。
だから逆に、こう言われます。
「林さんも、東京へ出て、テレビに出てくださいよ」と、です。

 が、それでも私は(売れる本)に心がけてきました。
また私は20代〜30代は、市販の教材作りの仕事をしてきました。
教材ですから、まさに(商品)です。

 で、本に話を戻します。
本でも、テレビでも、編集者、あるいはディレクターの意向が強く働きます。
意向に反したりすると、ボツになるか、2度目がありません。
とくに私のような、地位、肩書のない人間のばあいは、そうです。
「どこの馬の骨?」というところから、企画が始まります。
そういう意味では、私は、ドン底を、這って生きてきました。
(先生とは、立場が、180度違うということを、どうか、ご理解ください。)

 で、そういう自分が、つくづくいやになりました。
あちこちに尻尾を振り、自分の魂を削りながらものを書くという作業が、です。
で、2001年ごろに書いた本を最後に、原稿は、すべてネットで公開することにしたわけです。
無料です。

 ……この「無料」というところに意味があります。
無私無欲、です。
そのかわり、書きたいことを、そのまま、書く。
だれにも媚を売らず、だれにも遠慮せず、です。
私を受け入れてくれる人がいれば、それはそれでよし。
しかしそうでなければ、それもまたよし。

 こんな男性がいます。
もと小学校の教師です。
今年90歳近い男性です。

 毎月、「植物観察会※」なるものをしています。
雨の日もしています。
もちろん無料です。

 で、その男性ですが、雨の日も、待ち合わせ場所で待っています。
が、だれも来ない日もあるそうです。
そういときは、ある程度待ち、そのまま家に帰っていきます。

 無私無欲だからこそ、そういうことができるのですね。
もし、功利、打算が入ったら、そういうことはできません。
つまりね、私はそういった生き方の中に、自分の老後のあり方を見つけたというわけです。

 ……こうして無私無欲で、ものを書く。
実際のところ、アクセス数は、ただの数字に過ぎません。
山の上から、空に向かって叫ぶようなもので、読者の顔はまったく、見えません。
実感など、さらにありません。
インターネットの世界は、そこが不思議な世界です。
パソコンというのは、実体のあるモノですが、その画面の向こうは、まさに仮想現実の世界で
す。

 だからインターネット上で、「読者」を論じても、あまり意味はありません。
ただの情報、です。

 しかし私は、こう考えます。
だからこそ、そこは「私」を超えた、人間の世界、と。

 仮にチラッと見て、ポイであっても、一部は、それを見た人の脳に残る。
それが集合され、やがて人間全体へと伝わっていきます。
「はやし浩司」という個人の名声にこだわれば、「本」が有効です。
また「本」でなければなりません。

 しかしどうせ死ねば、私は、この宇宙もろとも、消えてなくなるわけです。
生まれる前の状態に戻り、億年のその億倍の、「虚」という無の世界に戻るわけです。
だからこそ、私はこう考えます。

 何も本にこだわる必要はないのでは……と。

 ……もうすぐ、浜松に着きます。
(現在、新幹線の中です。
つづきは、またあとで書きます。)

 それにもう一つ。

 私は現在、毎日、50〜100枚の原稿を書いています。
単行本であれば、たいてい120〜140枚で、1冊の本になります。
ですから単行本になおせば、毎月、少なくとも、3〜4冊の本を書いていることになります。

 しかしご存知のように、本というのは、本当に、めんどうです。
出版社とのやりとりだけで、うんざりします。
ていねいな出版社になると、校正だけで、数往復します。
それよりも、私にとって大切なことは、こうしてものを書き、すべてを発表していくことです。
多少荒っぽくても、「生」の自分をさらけ出す。
またそのほうが、「影響力」もあります。
それができるのは、やはりインターネットです。

 まだまだ信頼性もなく、玉成混交の世界ですが、やがて淘汰され、洗練されていくものと思い
ます。
私はそれを信じていますし、もうこの流れを止めることは、だれにもできないと思います。

 で、私の場合ですが、「本」はよく買います。
週に、5〜6冊、雑誌や単行本を買います。
しかしそのほとんどは、「資料」として使える本です。
「著者」という著者が書いた本ではなく、「資料」です。
それをもとに、考えて書くのは、あくまでも私。
その主導権だけは、だれにも渡したくありません。

 では、今、掛川の駅を出ましたので、一度、ここでメールを送っておきます。

はやし浩司

(2012年3月31日、鎌倉にて、田丸謙二先生に会う。)

平塚市・サンライズホテルに一泊する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※……2009年6月に書いた原稿より)

●無料の植物観察会

昨日、講演をさせてもらった、S小学校の校長から、こんな話を聞いた。なんでもその老人は、
今年84歳になるという。
元、小学校の教師。毎月、一回、植物観察会を開いているという。
無料で開いているという。

日時と集合場所が、毎月、決まっている。
が、集まる会員と人数は、そのつどちがうらしい。
雨の日などは、ゼロになることもあるという。
が、その老人は休むということをしない。
雨の中で、会員が来るのをじっと待っているという。そして時刻になっても、だれも来ないと、そ
れを確かめたあと、その場を離れて、家に帰る、と。
 
その話を聞いて、「すばらしい」と思う前に、私自身の近未来の目標を示してもらったようで、う
れしかった。
「私もそうしたい」と。

●老後の生きがい

 私自身もそうだったが、(老後の生きがい)について、みな、あまりにも安易に考えすぎ
ている。
「安易」というより、「何も考えていない」。

 「老後になったら、休む」とか、「遊ぶ」とか言う人は多い。
しかし「遊べ」と言われても、遊べるものではない。
「休め」と言われても、休めるものではない。
だいたいた、遊んだからといって、それがどうなのか? 
休んだからといって、それがどうなのか? 
私たちが求めているのは、その先。「だからそれがどうしたの?」という部分。
つまり、(生きがい)。

 もしそれがないようだったら、私のように死ぬまで仕事をするということになる。
仕事をつづけることによって、老後になるのを、先送りすることができる。
が、仕事がいやなのではない。
仕事ができるということも、喜びなのだ。
その(喜び)を絶やさないようにする。

 目が見える。音が聞こえる。
ものを考えることができる。体が動く。
……それらすべてが集合されて、(生きる喜び)につながる。

●自分との戦い

 その老人の気持ちが、痛いほど、私にはよく理解できる。
その老人にしてみれば、それが(生きがい)なのだ。
雨の日に、ひとりで、どこかで待つのはつらいことだろう……と、あなたは思うかもしれない。
「なんら得にもならないようなことをして、何になるだろう」と思う人もいるかもしれない。
しかしその老人は、そういう世俗的な同情など、とっくの昔に超越している。
そこらのインチキ・タレントが、名声を利用して開くチャリィティ・コンサートとは、中身がちがう。
心の入れ方がちがう。
(みなさんも、ああした偽善にだまされてはいけない!)

 その老人にしてみれば、参加者が来ても、また来なくても、かまわない。
たった1人でもよい。
多ければ多いほど、やりがいはあるだろう。しかし(やりがい)イコール、(生きがい)ということ
でもない。
つまりそれは他者のためではない。自分自身のため。
老後の生きがいというのは、つまるところ、(自分自身の生きがい)。
それとの戦いということになる。

●統合性は、無私無欲で……

 まだその芽は、小さいかもしれない。
しかしその心は、私も大切にしたい。

何度も書くが、「老後の統合性」は、無私無欲でなければならない。
そこに欲得がからん
だとたん、統合性は意味を失い、霧散する。
仮にその老人が会費なるものを徴収して、観察会を開いていたとしたら、どうだろうか。
最初のうちは、ボランティア(=無料奉仕)のつもりで始めても、そこに生活がからんできたとた
ん、(つもり)が(つもり)でなくなってしまう。
「今日は1人しか来なかった……」という思いは、そのまま落胆につながる。
「雨の中で待っていたのに、だれも来なかった。みな、恩知らず」と思うようになったら、おしま
い。

 だったら、最初から、無私無欲でなければならない。
またそうでないと、つづかない。
こうした活動は途切れたとたん、そこで終わってしまう。
生きがいも、そこで消えてしまう。
つまりそれがいやだったら、最初から無私無欲でやる。
何も考えず、無私無欲でやる。

 もちろん私にもいくつかの夢がある。
そのひとつは、「子育て相談会」。
今まで積み重ねてきた経験と知恵を、若い親たちに伝えたい。
もちろん無料で。
もちろん損得を考えることなく。
そうした計画は立てている。

 今は、インターネットを利用して、その(まねごと)のようなことをしている。
しかしそれもやがて限界に来るはず。
無私無欲とは言いながら、いつもどこかで、何かの(得)を考えている。
アクセス数がふえれば、うれしい。
ふえなければ、とたんにやる気を失う。
つまりそれだけ私の心が不純であることを示す。

 もっとも仕事ができるといっても、あと8年。
70歳まで。
そのころまでに、私の統合性を確立したい。
少しずつだが、その目標に向かって、進みたい。そしていつか……。

 どこかの会場で、ひとりでポツンと、来るか来ないかわからない親を待つ。
そして時間が来て、だれも来なくても、そんなことは気にせず、鼻歌でも歌いながら、会場を片
づける。
そんな日が来ればよい。そんな日が来るのを目標にしたい。

(注)統合性の確立……(やるべきこと)と(現実に自分がしていること)を一致させることをいう
(エリクソン)。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 植物観察会 老後の生きがい 統合性 小田原 サンライズホテルにて)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司


 







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【焼津・Hotel Ambia 松風閣にて】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

午後になり、少し昼寝。
起きたのが、1時半。
「2時に行こう」と私。

目的地は焼津(やいづ)。
焼津の市内で、夕食。
そのまま近くのホテルで1泊。
Hotel・Ambia・松風閣。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司



●北朝鮮の人工衛星(光明星1号)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日、北朝鮮の人工衛星について書いた。
アクセス数が多かったこともあるが、
書き足りなかった点もあるので、改めて
書き足してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 ここ数日、週刊現代誌に載っていた、北朝鮮の人工衛星なる模型が気になってしかたない。
現在、ピョンヤンの「電子工業館」に展示してある模型は、前回、北朝鮮が打ち上げた人工衛
星、「光明星1号」の模型という。
模型だから、本物ではない。
しかしまったくの、創造物とは言い難い。
もちろん、おもちゃではない。

 こうした展示館で模型を飾るときは、常識として、できるだけ本物に近いものを並べる。
たいていは、予備に作った本物を並べる。
古今東西、どこの展示館でも、そうしている。

 だから週刊現代誌で紹介されている人工衛星は、かぎりなく本物(?)に近いものと考えてよ
い。
しかし疑問がいくつかある。

●スプートニック1号、2号

 北朝鮮の人工衛星を見て、まず気がつくのは、その形状。
一見して、旧ソ連が打ち上げた、スプートニック1号および2号にそっくり。
球形で、アンテナが斜め後方に4本、伸びている。

スプートニック1号および2号の写真と、北朝鮮の人工衛星の写真を並べて、紹介する。

 なおスプートニック1号、2号というのは、スプートニク計画により、1950年代後半に旧ソ連
によって地球を回る軌道上に打ち上げられた、人類初の無人人工衛星をいう。

(1950年代だぞ!)

732psupu-tonikku (スプートニック1号) Sputnik2_vsm (スプートニック2号) img321 (北朝鮮の人工衛星)
 この3枚の写真を見比べただけでも、北朝鮮の人工衛星がいかに「おもちゃ風」であるかが
わかる。
おもちゃでなければ、サッカーボール。
あるいはクラブやディスコの天井につり下げてある、ミラーボール。
週刊現代誌は、「おもちゃイムニダ」と皮肉っている。

●疑問(1)アンテナ

 アンテナを見たとき、最初にこう思った。
「これはラジカセのアンテナ?」と。

 よく見ると、1本のアンテナが3段に分かれている。
携帯用のアンテナなら、伸縮できるように、3段にしたりする。
しかし人工衛星では、それは必要ではない。
仮に必要であるとしても、いったい、だれがどのようにして伸したり、縮めたりするのか。

 が、さらに詳しく見ると、3段になったアンテナが、その接続部で、溶接らしきものがほどこし
てあるのがわかる。
写真でも見ても、それぞれの部分が、不揃いにふくらんでいる。

img323 (北朝鮮の人工衛星・3段になったアンテナ) img322 (北朝鮮の人工衛星・アンテナ付け根部分)

 仮にこれが人工衛星であるとしても、数百億円もかけて宇宙へ飛ばす価値があるのだろう
か。
反対に、数百億円もかけて飛ばすくらいなら、もう少しその価値のあるものを打ち上げるので
はないだろうか。
この矛盾を、どう考えたらよいのか。

●着色の謎

 謎はまだつづく。

 宇宙では、温度の差が問題となる。
たとえば月面では、昼は+120℃、夜はー150℃になる。
月は自転をしているので、昼の蓄熱と夜の冷却が繰り返され、まだ温度差は小さい。
では、宇宙ではどうか。
回転していなければ、太陽の光の当たる表面は、限界温度、裏はー270℃近くになる。
 
 そのため人工衛星は、温度を平均化するため、回転するようにできている。
とくに人間が居住するような人工衛星は、そうである。

 が、もし機器を積んだだけの人工衛星であれば、「熱」だけを考えればよい。
電子機器は、「冷え」には強いが、「熱」には弱い。
そこで人工衛星は、スプートニック1号、2号のように、熱を反射するため、ピカピカに磨かれ
る。
ところが、である。
北朝鮮の人工衛星は、ピカピカどころか、着色してある。
わざわざ着色した理由は何なのか。
つまりここが不自然。

●本物と模型

 私は子どものころから、プラモデルを作るのが趣味だった。
そのプラモデル。
よくできたプラモデルほど、本物に近い。
たとえば飛行機にしても、それぞれの部品には意味がある。
意味のない部品は、ない。
「こんなところに、こんなものがついている。何だろう……」と考えていくと、かならず、その答が
ある。
とくに戦闘機のばあいは、無駄がない。
もちろん飾りもない。
(塗装は別だが……。)

 一方、たとえばガンダムのようなプラモデルは、言うなれば、「ウソの塊(かたまり)」。
もっともらしい部品は無数についているが、みんなウソ。
そこにある部品の意味を考えても意味は、ない。
すべてが作者の想像力から生まれた、「飾り」である。

 つまり本物をもとにしたプラモデルと創作をもとにしたプラモデルのちがいは、ここにある。

 で、人工衛星のばあいは、どうか。
……とあえて問題を提起するまでもなく、無駄なものは、いっさい、ない。
飾りも、いっさい、ない。
戦闘機のような塗装も、ない。
そんな必要もないし、そんなことをすれば、重くなるだけ。

 その人工衛星に着色がしてある?
タイルごとに、2色が使われている?
しかも人工衛星の本体は、球形ではなく、多面体。
昔見た、ウルトラマンの映画にも、こんな人工衛星は出てこない。

●つづく疑問

 もう一度、スプートニック2号の写真を見てほしい。
スプートニック2号は、ロケット本体に、きちんと格納してある。
つまりこの状態で宇宙へ飛んでいく。
つまり宇宙へ届いたら、カプセルが開き、人工衛星は外へ放たれる。
が、問題は、そのとき。
人工衛星が宇宙へ放たれると同時に、当然、アンテナは、傘を開くように開かれる。

 そこでスプートニック1号の写真をよく見てほしい。
アンテナの付け根部分である。
たぶんバネ式になっていて、アンテナが開く構造になっているのがわかる。
かなり複雑な構造をしている。

 一方北朝鮮の光明星1号は、見るからにラジカセのアンテナ風。
自動的に開くとか、そういった構造になっていないことがわかる。
「どうやって宇宙で開くのだろう」と考えるだけ、ヤボ。
このアンテナでは、宇宙で、開くことはできない。
が、展示してある光明星1号のそれは、ちゃんと開いている。

●結論

 北朝鮮の人工衛星は、どう見ても人工衛星ではない。
アンテナひとつとりあげても……というか、私たちの家にあるラジカセのアンテナと見比べてみ
ればよい。
取りつけ方、形状ともに、そっくり!

 恐らく今回打ち上げるミサイルにしても、似たようなものが積んであるのだろう。
重さは、100キロという。
北朝鮮は、世界に公開すると言っている。
だったら、その衛星本体を見せればよい。
ちがうかな?

●夢

 北朝鮮の人工衛星の話はひとまず、ここでやめ、つぎの話。

 昼寝をしたとき、こんな夢を見た。
おもしろい夢だったので、ここに記録する。

 ……私は、どこかの山道を歩いていた。
その先には、幾重も、低い山が連なっていた。
私は、どこかの町、……たぶん浜松市をめざして歩いていた。

 が、ふとこんなことを考えた。
こんな山なら、エンジン付きのパラグライダーで飛び越えてやろう、と。

 もちろん私は、パラグライダーなるものには、乗ったことがない。
見たことはある。
山荘の空の上を、よく飛んでいる。
が、いくら飛び立とうとしても、空を、木々の枝が覆っていて、飛び立てない。
木々の枝が、電線のようになり、それをじゃました。

 そこで私はこう考えた。
棒高跳びで使うような棒を用意し、それでひとっ飛びに山を乗り越えてやろう、と。

 幸い棒はすぐ見つかった。
丸くて長い棒だった。
私はその棒をよじ上り始めた。
が、しばらく上っていくと、下から何人かの男たちも、いっしょに上ってくるのがわかった。
1人は、私のすぐ下にいた。

 気にはなったが、私は上を見、そのまま上りつづけた。
あとはそのまま向こう側へ倒れればよい。
それでこの深い山を、抜け出ることができるはず……。
というようなことを、心のどこかで考えていた。

 私は棒を上った。
かなり高いところまで上った。
雲が、はるか下に見えた。
が、やがて棒の先端に。
その先端には、小さな看板が打ちつけられていた。
見ると、それには、「神」と書いてあった。
それを見て、私は、「ああ、ここは天国」と思った。

で、その看板をつかもうとすると、その看板は、スーッと消えた。
手をよけると、その看板が現れた。
で、もう一度、その看板をつかもうとした。
やはり、同じように、その看板は、スーッと消えた。

 ……そこで目が覚めた。

●夢判断

 支離滅裂な夢だった。
が、意味がないわけではない。
自分なりに夢分析をしてみる。

++++++++++++++

山の中にいた……私の閉ざされた世界を、象徴している。閉塞感。
「抜け出たい」という思い……生への葛藤。あるいは束縛からの解放。
空を覆う木々の枝……生きることにまつわる障害の数々。
丸い棒……男の象徴。ジャックと豆の木の話に出てくる、豆の木。
棒を上る……どこか芥川龍之介の『蜘蛛の糸』様。
後からついてくる男……不安の象徴。強迫観念。
「神」と書いた看板……頂点をめざしたいという欲求。願望。
看板が消える……天国に到達できないという限界。それにまつわる、はがゆさ。葛藤。

++++++++++++++

●リビドー

 空を飛ぶという夢は、ときどき見る。
が、思うように飛べないときのほうが、多い。
あるいは飛んでも、うまくコントロールできない。
「夢判断」なるものによれば、いろいろに解釈できる。
が、ジークムント・フロイトなら、こう言うだろう。

「抑圧されたリビドー(性的エネルギー)の解放を求めて葛藤している」と。

 そう、このところ不完全燃焼感が強い。
何をやっても、中途半端。
達成感や満足感がない。
何かをしなければと思うが、その何かが、何であるかさえわからない。
そこにあるはずなのに、手が届かない。

 このはがゆさ。
それが先に書いた夢の中に、凝縮されている。
が、精神科医なら、たぶん、こう判断するだろう。
「この男は、かなり強い強迫感をもっている」と。

●強迫性障害

 ウィキペディア百科事典では、つぎのように定義している。

『強迫症状とは強迫性障害の症状で、強迫観念と強迫行為からなる。
両方が存在しない場合は強迫性障害とは診断されない。
強迫症状はストレスにより悪化する傾向にある。

(1)強迫観念(きょうはくかんねん)とは、本人の意志と無関係に頭に浮かぶ、不快感や不安
感を生じさせる観念を指す。
強迫観念の内容の多くは普通の人にも見られるものだが、普通の人がそれを大して気にせず
にいられるのに対し、強迫性障害の患者の場合は、これが強く感じられたり長く続くために強
い苦痛を感じている。
ただし、単語や数字のようにそれ自体にはあまり意味の無いものが執拗に浮かぶ場合もあ
る。

(2)強迫行為(きょうはくこうい)とは、不快な存在である強迫観念を打ち消したり、振り払うた
めの行為で、強迫観念同様に不合理なものだが、それをやめると不安や不快感が伴うために
なかなか止めることができない。
その行動は患者や場合によって異なるが、いくつかに分類が可能で、周囲から見て全く理解
不能な行動でも、患者自身には何らかの意味付けが生じている場合が多い』(以上、ウィキペ
ディア百科事典より)と。

 強迫性障害(患者数)と診断される日本人は、100万人とされる(ウィキペディア百科事典)。
人口の約2%(世界共通)だそうだ。

 この数を多いとみるとか、少ないとみるか……。
が、内容は、一様ではない。

 ウィキペディア百科事典では、つぎのように分類している。

『(1)不潔強迫……潔癖症とも言われている。手の汚れが気になり、手や体などを何度も洗わ
ないと気がすまない。
体の汚れが気になるためにシャワーや風呂に何度も入る患者によっては電車のつり革を触る
ことが気持ち悪くて手袋をはめて触ったり、お金やカード類も外出して穢れた、汚れたという感
覚を持つため帰宅の度に洗う場合もある。

(ただし、本人にとって不潔とされるものを触ることが強い苦痛となるため、逆に身体や居室に
触れたり清掃することができずに、かえって不衛生な状態に発展する場合もある。手の洗いす
ぎから手湿疹を発症する場合もある)など。

(2)確認行為
確認強迫とも言う。外出や就寝の際に、家の鍵やガスの元栓、窓を閉めたか等が気になり、
何度も戻ってきては執拗に確認する。
電化製品のスイッチを切ったか度を越して気にするなど。

(3)加害恐怖
自分の不注意などによって他人に危害を加える事態を異常に恐れる。
例えば、車の運転をしていて、気が付かないうちに人を轢いてしまったのではないかと不安に
苛まれて確認に戻るなどの行為。
赤ん坊を抱いている女性を見て、突如としてその子供を掴んで投げてしまったり、落としたりす
るのではないかというような、常軌を逸した行為をするのではないかという恐怖も含まれる。

(4)被害恐怖
自分が自分自身に危害を加えること、あるいは自分以外のものによって自分に危害が及ぶこ
とを異常に恐れる。
例えば、自分で自分の目を傷つけてしまうのではないかなどの不安に苛まれ、鋭利なものを異
常に遠ざけるなど。

(5)自殺恐怖
自分が自殺してしまうのではないかと異常に恐れる。

(6)疾病恐怖
または疾病恐怖症など。
自分が重大な病や、いわゆる不治の病などにかかってしまうのではないか、もしくは、かかって
しまったのではないかと恐れるもの。
HIVウイルスへの感染を心配し、血液などを異常に恐れたりするものも含まれる。

(7)縁起恐怖
縁起強迫ともいう。
自分が宗教的、もしくは社会的に不道徳な行いをしてしまうのではないか、もしくは、してしまっ
たのではないかと恐れるもの。
信仰の対象に対して冒涜的な事を考えたり、言ってしまうのではないかと恐れ、恥や罪悪の意
識を持つ。
例えば、神社仏閣や教会において不信心な事を考えてしまうのではないか、聖典などを毀損し
てしまうのではないか、というもの。
ある特定の行為を行わないと病気や不幸などの悪い事柄が起きるという強迫観念に苛まれる
場合もあり、靴を履く時は右足から、などジンクスのような行動が極端になっているものも見ら
れる。

(8)不完全恐怖
不完全強迫ともいう。物を秩序だって順序よく並べたり、対称性を保ったり、本人にとってきち
んとした位置に収めないと気がすまず、うまくいかないと不安を感じるもの。
例えば、家具や机の上にある物が自分の定めた特定の形になっていないと不安になり、これ
を常に確認したり直そうとする等の症状。
物事を進めるにあたって、特定の順序を守らないと不安になり、うまくいかないと最初から何度
もやり直したりするものもある。
郵便物を出す際のあて先や、書類などに誤りがないかと執拗にとらわれる場合もあるため、結
果として確認行為を繰り返す場合もある。

(9)保存強迫
自分が大切な物を誤って捨ててしまうのではないかという恐れから、不要品を家に貯めこんで
しまうもの。
本人は不要なものだとわかっている場合が大半のため、自分の行動の矛盾に思い悩む場合
がある。

(10)数唱強迫
不吉な数やこだわりの数があり、その数を避けたり、その回数をくり返したりしてしまう。
数字の4は「死」を連想するため、日常生活でこの数字に関連する事柄を避ける、などの行
為。

(11)恐怖強迫
ある恐怖あるいはことば、事件のことを口にできない。
そのことを口にすると恐ろしいことが起こると思うため口にできない。
この他、些細であったり、つまらない事柄、気にしても仕方の無い事柄を自他共に認める状態
にあっても、これにとらわれ(強迫観念)、その苦痛を避けるために生活に支障が出るほど過
度に確認や詮索を行う(強迫行為)』(以上、ウィキペディア百科事典より。詳しくは……、http:/
/ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E8%BF%AB%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

●私のばあい

 私のばあい、(1)〜(11)のどれにも当てはまらない。
「そういうことも、たまにはあるな」という程度。
……ということで、ウィキペディア百科事典を読み、少し安心する。
(自分でそう思っているだけかもしれないが……。)
と、同時に、「あの人が、そうだ」「この人も、そうだ」と、いろいろな人が頭の中に思い浮かぶ。

 が、ここで誤解してはいけない。
だれにも、ここに書いたような傾向はある。
ない人はいない。
あとは軽重の問題。
それが重くなり、通常の社会生活がむずかしくなった状態を、「強迫性障害」と呼ぶ。
ここに書いてあることがあてはまるからといって、「障害者」ということにはならない。
(あてはまらないから、強迫性障害でないということにもならないが……。)

●出版の世界

 私はこうしていつもものを書いている。
が、けっして、何かに追い立てられて書いているのではない。
むしろ逆。
それが楽しいから、書いている。

 本を読むのが好きな人がいるように、私は、ものを書くのが好き。
書いているときだけ、私は私でいられる。
反対に書かないでいると、頭の中が、すぐパンクしそうになる。
で、それを書いて、吐き出す。
その爽快感がたまらない。
前にも書いたが、ひどい便秘症の人が、BENを、ドサッと出したときの気分に似ているのでは
……?
だから書く。

 で、たまたま今日も、田丸謙二先生から、メールが届いた。
「だったら、本を書きなさい」と。

 実のところ、もう本には興味はない。
どうでもよい。
それよりも、時間が欲しい。
時間が足りない。
書きたいことがつぎつぎと出てきて、ときに自分でも収拾がつかなくなるときがある。
それに本といっても、私のほんの一部。
一部を切り売りしても、意味はない。
満足感は得られない。

 田丸謙二先生は、知らないが、この10年間だけでも、私は、10万枚(40字x36行)以上の
原稿を、書いている。
平均すれば、1日28枚前後。
これらをすべて本にすれば、130枚前後で1冊の本になるので、770冊(単行本)。
もちろんそのほとんどは、本にする価値もない駄文。
が、どんな駄文でも、それは「私」。
「これは駄文でないから、本にする」「これは駄文だから、本にしない」というのであれば、最初
から本にしてもらわなくても、結構。

……というか、本当は、私は出版社に、相手にされていない。
相手から見れば、私など、どこかのただの(馬の骨)。
出版社を責めているのではない。
私自身も、若いころ、出版社の立場で、本や教材の編集を手伝っていたことがあるから、その
あたりの事情は、よく知っている。
 
 本といっても、商品。
出版社は、まず売れる本かどうかを判断する。
販売部、もしくは営業部が、それを判断する。
編集部が動くのは、そのあと。
逆に編集部が動いたとしても、販売部が「NO」と言えば、その企画は流れる。

もちろん買い取り部数がしっかりと確約されているばあいは別。
たとえば宗教団体の多くは、こうした手法で本を出す。
「○○万部は、うちで買いますから……」と。

ほかに自費出版という方法もある。
が、私には経験がない。
本になるかならないかは、知名度と時代性で決まる。

 もちろん私には、そんな力はない。
知名度、ゼロ。

 ……これ以上書くと、グチになるから、この話はここまで。

●不完全燃焼感

 要するに、先ほど見た夢は、私の不完全燃焼感を、そのまま象徴化している。
「何かをしなければと思うが、その何かが、何であるかさえわからない。
そこにあるはずなのに、手が届かない」と。

 何だろう?
どうすればいいのだろう?

 列車は、先ほど、掛川を通り過ぎた。
書き忘れたが、今、私はこの原稿を、焼津に向かう列車の中で書いている。

●DSM−IV

 再び、強迫性障害について。
DSM−IVの診断基準によれば、(1)強迫観念と、(2)強迫行為の2つがあって、はじめて強
迫性障害と診断されるそうだ。

 で、この中で興味深いのは、(7)の縁起恐怖。
先にも書いたように、「あの人がそうだ」「この人もそうだ」という人が、つぎつぎと浮かんでくる。
「縁起恐怖」というより、「迷信恐怖」。
この迷信という代物は、実にやっかい。
一度取りつかれると、それから逃れるのは、容易なことではない。
前にも書いたが、こんな人がいた。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年11月に書いた原稿、ほか1作

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●迷信

 迷信のはじまり……仏壇屋のおやじが、こんなおもしろい話をしてくれた。

 「たとえばね、何かの法事をしなかったとしますね。
そのあと、何かの事故が起きたりすると、『やっぱり、これは先祖様を供養しなかったためだ』
とかなんとか、人は思ったりするものです。

 反対にね、もし法事をしたあと、何かいいことがあったとしますね。
すると『やはり、先祖様を大切にすることはいいことだ』と、人は思ったりするものです。

 つまりね、林さん、こうして迷信というのが生まれてくるんですよ。その人の中に……」と。

 仏壇屋という職業を通して、そのおやじは、人の生死を見つめてきた。
私は仏壇屋のおやじらしからぬ話を聞きながら、そのつど、感心した。
「この人は、ただの人ではないぞ」と。
つまりそのおやじは、人間が根源的にもっている(弱さ)を見抜いている!

 「そんなことを言ったら、仏壇が売れなくなりますよ」と私は言いかけたが、それは言わなかっ
た。

●私の母

 私の母は、若いころから迷信深い人だった。
「迷信のかたまり」とさえ思ったことがある。
一貫性がなく、そのつど、迷信に振り回されていた。

もっとも母はそれでよいとしても、それによって振り回される私たちは、たまったものではない。

 たとえば靴一足を買うにしても、時間が指定された。
「夕方から遅い時間に買ってはだめ」とか、「買うなら、朝にしなさい」とかなど。
ほかに、「表(=玄関)で脱いだ靴は、裏(=勝手場)のほうで、はいてはだめ」というのもあっ
た。

 ときには、靴を買う日まで、指定されたこともある。
「今日は、日が悪いので、買ってはだめ。あさってにしなさい」と。

 一事が万事。
ありとあらゆることに、その迷信が、入り込んでいた。
学校へ行くときも、裏口から出て行こうとすると、そこで呼び止められ、叱られた。
「表(=玄関)から出て行きなさい!」と。

 幼いころの私はそれに従ったが、小学3、4年生にもなるころには、息苦しさを覚えるようにな
った。
私は、そのつど母に反発したが、母は母で、自分の主張を曲げなかった。
そういう話を、寺や神社で聞いてきて、いつも私にこう言った。

「そういうことを言うと、バチが当たる!」と。

●されど迷信

 迷信、ただの迷信、されど迷信。
その迷信と戦うにも、かなりの勇気が必要。
ゆいいつの武器は、知性と理性、それに知識である。
何かのことで「おかしい?」と感じたら、そのことについて、徹底的に自分で調べるのがよい。
けっして不可思議なものに心をゆだね、その虜(とりこ)になってはいけない。

できればはじめから、近づかないこと。

こうした迷信というのは、一度気にすると、心の内側にペタリと張りつく。
取れなくなる。
取れなくなるばかりか、ときに自分が自分でなくなってしまう。

 このことは、子どもの世界を見ているとわかる。
10年ほど前、それについて調べたことがあるが、小学生にしても、大半が、まじないや、占い
を信じている。
「霊」の存在を信じている子どもも、多い。

 大切なことは、自分で考えること。
仮に納得がいかないことがあったとしても、それを不可思議な「力」のせいにしてはいけない。
こんなことがあった。

 ある家庭に、3人の子どもがいた。
上から、長男、長女、それに二女。
長男、長女は、中学時代から札付きの番長に。
高校へは進学しなかった。
二女は、だれの子ともわからない子どもを妊娠、そして出産。
長女が、17歳のときのことだった。

 それについて、迷信深い叔父が近くにいて、「これは何かのたたり」と言って騒いだ。
そこでその両親は近くの神社を訪れ、「お祓(はら)い」なるものをしてもらった。

 が、原因は、母親自身にあった。
親意識が強く、権威主義。
口もうるさかった。
その上わがままで、思いこみもはげしかった。
子どもの心など、最初から、どこにもなかった。

 父親はいたが、週に1、2度赴任先の会社から帰ってくる程度。
母親は自分が感ずるストレスを、そのまま子どもたちにぶつけていた。

 子どもたちにすれば、さぞかし居心地の悪い家庭だっただろうと思う。
その結果は、先に書いたとおりである。

 つまりほんの少しだけでも、その母親に(考える力)があれば、こうした事態は防げたはず。
が、その母親には、その力さえなかった。
もっとも今は、3人ともそれぞれが結婚し、家庭をもち、それなりに幸福に暮しているから、とく
に問題はない。

 またその後のことは聞いていないが、あの母親のことだから、今ごろは、きっとこう言ってい
るにちがいない。

「何かあったら、あのX神社でお祓いをしてもらうといいですよ」と。
(以上、2008年11月記)

Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●迷信について(もう1作)

 信仰は、あくまでも教えに従ってするもの。
迷信や狂信、さらには、妄信は、人の心を狂わす。
かえって危険ですら、ある。

 S市に住む、Aさん(女性、妻)から、以前、こんなメールをもらった。「私が、夫の宗教を批判
するたびに、夫は、『お前がそういうことを言うと、ぼくたちは、地獄へ落ちる』と言って、体をガ
クガクと震わせます」と。

 最初、そのメールを読んだとき、「冗談か?」と思った。
その夫というのは、国立大学の工学部を卒業したような、エリート(?)である。
そんな人でも、一つの宗教を妄信すると、そうなる。

 もし、仮に、人間に、そういったバチを与える宗教があるとするなら、それはもう信仰ではな
い。
少なくとも、神や仏の所作(しょさ)ではない。
悪魔の所作である。
だいたいにおいて、神や仏が、いちいち人間のそうした行動に、関与するはずがない。

 たとえば私の家の庭には、無数のアリの巣がある※。アリから見れば、私は、彼らの神か仏
のようなもの。
私はその気にさえなれば、彼らを全滅させることもできる。
だからアリたちも、ひょっとしたら、そう思っているかもしれない。
「あの林は、我々の神様だ」と。

 そのアリの中の一匹が、私(=はやし浩司)の悪口を言ったとしても、私は気にしない。
私を否定しても、私は記にしない。
もともと相手にしていないからだ。いわんや、バチを与えているようなヒマなど、ない。

 人間社会を、はるかに超越しているから、神といい、仏という。
もし神や仏がいるとするなら、宇宙的な視野で、かつそれこそ11次元的な視野で、人間社会
を見つめているにちがいない。

 そういう神や仏が、いちいち人間に、バチなど与えるはずがない。
ものごとは、もっと常識で考えたらよい。

 信仰には、たしかにすばらしい面がある。
しかしそれは、教えによるもの。
あの釈迦も、法句経の中で、『法』という言葉を使って、それを説明している。

※アリの大きさを、〇・五センチ。人間の大きさを、一七〇センチとすると、その面積比は、1:
115600となる。
私の家の庭は、約五〇坪(165平方メートル)だから、この五〇坪の庭は、そこに住むアリにと
っては、人間の住む広さに換算すると、165x115600/1000000=19(平方キロメート
ル)の広さということになる。
人間の社会で、一辺が約四キロメートル四方の社会が、この庭の中で、アリたちによって営ま
れていることになる。
私が住んでいるI町(町内)だけでも、約一万世帯。
約三万人の人が住んでいる。
大きさも、約四キロメートル四方だから、私の庭は、アリにとっては、私が住む町内と、同じ広さ
ということになる。
多分、この庭に住んでいるアリも、約三万匹はいるのでは……? 
初春の陽光をあびて、青い草が、さわさわと風に揺れている。
その庭を見ながら、ふと、今、そんな計算をしてみた。

(しかし、この計算は、どこかおかしい? 人間なら、四キロ歩くのに、約一時間かかる。
しかしアリが、この庭を端から端まで横切るのに、一時間はかからない。
一〇分くらいで行ってしまうのでは? 
あるいは、アリは、歩く速度が、速いのか。
今、ふと、そんな疑問が、心をふさいだ。
ヒマな方は、電卓を片手に、一度、計算しなおしてみてほしい。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●Hotel Ambia 松風閣(焼津)

 「ホテル・アンビア」という。
地元の人は、「松風閣」という。
海岸の絶壁に建つ、絶景第一のホテル。
いろいろなホテルに泊まったが、まさに絶景。
断崖絶壁の上に建つ、絶景のホテル。
部屋へ入ったとき、思わず、ウォーッと声をあげてしまった。

 まるで空中の楼閣のよう。
眼下というより、真下に海岸線が見える。
たまたま今日は、「爆弾低気圧」が発生したとか。
四国のどこかでは、秒速42メートルの突風を記録している。
そのせいか、5〜6メートルもあるような大波が、真下で絶壁に打ち上げ、白いしぶきをあげて
いた。

 ハイクラスの、やる気度120%の、豪華ホテル。
浜松周辺では、このホテルと比較できるホテルといえば、伊良湖岬にある、伊良湖ビューホテ
ル。
しかしこのホテルのほうが、上品。
ビューホテルのほうは、客層があまり、よくない(失礼!)。

 部屋へ入ると、若い女性が、館内の説明をしながら、お茶を立ててくれた。

●夕食

 夕食は、ここへ来る前、焼津さかなセンターで食べた。
さかなセンターの中には、いくつかの食堂がある。
その中の1つで、食べた。
なお焼津さかなセンターで売られている魚介類は、ショッピングセンターのそれと比べて、2〜
3割は安い。
が、食堂の料理は、「安い」という印象は、もたなかった。

 で、夕食は、抜き。
が、その間に入浴すれば、がらがらのはず。
案の定、その時間をねらって大浴場へ行くと、客は私、1人だけ。
ゴーゴーと吹きすさぶ黒い雲を見ながら、露天風呂につかる。
まさに、絶景かな、絶景かな。

 大満足!

 明日は窓から富士山がながめるとか。
天気予報を調べると、「晴れ、ときどき曇り」とか。
ラッキー!

 窓の外を見ながら、ワイフがこう言った。
「いつか、こういうときが懐かしくなるかもね」と。
それに答えて、私はこう言った。
「まだまだ序の口。これから遊んで、遊んで、遊びまくる」と。

●今東光

 昔、今東光という作家がいた。
政治家でもあり、天台宗の大僧正でもあった。
一度、平泉の中尊寺で、法主(ほっす)として、法要をいとなんでいるのを見たことがある。
11PM(日テレ)で企画を書いているとき親しくなり、それが縁で、今東光ががんに侵されたと
き、ときどき見舞いに行った。

 今東光は、2度、東京築地のがんセンターに入院している。
最初の1回目は、まったく元気だった。
医師に止められていたにもかかわらず、私を、センターの前にある焼肉屋で連れて行ってくれ
た。
今東光の病名は、直腸がんだった。
だから私のほうが心配して、「いいんですか?」と聞くと、「いいべえ」と。

 そんなある日。
また別の日に見舞うと、突然、こう言った。
「女を買いに行くべえ」と。

 当時、今東光は、女性のヌード画を描いていた。
体や性格にまったく不釣り合いな、細い線のヌード画だった。
今東光が前もって電話をすると、画廊のほうで、モデルを用意し、待っていてくれた。

 その今東光がこう教えてくれた。
「俺はな、若いころ、修行、修行で、女遊びができなかった。
病気も、もらったがな。
だから今でも、それを思うと、悔しくて、女を買いに行く」と。

 たしかそのとき「19歳から23歳まで、修行した」と言った。
そのとき聞いた年齢は記憶によるものなので、不正確。

 ……今、そのときの今東光の気持ちが、よくわかる。
私も、若いころは、仕事、仕事で、遊ぶことを知らなかった。
暇さえあれば、仕事をしていた。
それが今になってみると、悔しい。
だから、遊ぶ。
今、遊ぶ。

私「あきるほど、遊ぼう」
ワ「そうね」と。

 今では、今東光の名前を知る人も、少ない。
なお2度目に入院したときには、今東光は、ベッドの上で身動きが取れない状態だった。
丸いテント様のおおいに覆われ、顔だけ外に出していた。
それでも今東光は、原稿を書いていた。
いつ、どのようにして書いたかは知らないが、原稿を書いていた。
その原稿が、入り口のデスクの上に、きちんと並んでいた。
それが私に強烈な印象を与えた。

●ロビーにて

 ワイフが売店へ行こうと誘った。
応じた。
今、ワイフは、売店で、何やら買っている。
クラブの仲間へのみやげらしい。
私は、それを背中に、こうしてパソコンのキーボードを叩く。

 ……少し前、エレベーターで、9階から下りてきた。
そのとき焼津の夜景が、宝石のように美しく輝いていた。
嵐は去ったよう。
……だれかがエレベーターの中でこう言った。
「明日の日の出は、5時29分ね」と。

 運がよければ、またそのとき目を覚ましていれば、私も日の出を見ることができるはず。
楽しみ。
富士山を右手に、美しい写真を撮れるはず。

●春休み

 春休みということもあって、どこへ行っても、子どもの声がする。
今も背中側の通路で、子どもたちが騒いでいる。
聞きなれた声だが、うるさいものは、うるさい。
大声で、騒いでいる。
走り回っている。

 ロビーの前は、広い日本庭園になっている。
白い砂利が、ロビーの明かりを受け、白く光っている。
そのガラス窓に、ワイフの姿が映った。
何かを買ったらしい。
それを手にもち、ぶらぶらと歩いている。

●小沢系29人(民主党)辞表

 ワイフが朝日新聞の朝刊をもってきた。
1面の下の方に、「小沢系29人、辞表」とあった。
小沢系といえば、50人近くいたはず。
つまり20人以上が、小沢一郎から離反したことになる。

 「そういうものかなあ」と思ってみたり、「どうしてだろう」と思ってみたりする。
政治の世界は、一寸先が闇。
一枚下も、これまた闇。
そこは権力と欲望が、醜く渦巻く世界。
「いやな世界だろうな」と思ってみたり、「よくやるなあ」と思ってみたりする。
 
 そう言えば、以前、「平成の忠臣蔵」というタイトルで、エッセーを書いたことがある。
野田政権が誕生したとき、小沢派議員の忠僕性を皮肉ったものである。
探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●民主党

 野田首相が生まれた。
その話をしながら、昨夜も参観に来ていた父親と、こんな話をした。
「どうして管さん(=管直人首相)では、だめなんですかねエ?」と。
するとすかさずその父親も、こう言った。
「私も、そう思います」と。

 わかりやすく言えば、みなが寄ってたかって、管直人前首相の足を引っ張った。
官僚、ゼネコン、そして同族の一派。
この日本では、行政改革(=脱官僚政治)を訴えただけで、その政治家は干される。
ゼネコン(=原発建設業者)を叩いただけで、経済界からはじき飛ばされる。
民主党といっても、中身は、派閥政治。
「数」と「金(マネー)」がものをいう、派閥政治。
野党時代は、あれほど自民党の派閥政治を批判していたにもかかわらず、政権与党になっ
たとたん、この体たらく。

 もちろんその原点は、忠臣蔵。
私たちが若いころは、毎年12月になるたびに、忠臣蔵がテレビで放映されていた。
恒例番組にもなっていた。
それがそのまま日本人の精神的バックボーンになっている。
政治の世界でも、そうだ。

 ・・・というのは、考えすぎかもしれない。
しかし今の民主党、とくに小沢一派の議員の動きを見ていると、忠臣蔵そのもの。
称して「平成の忠臣蔵」。
権力を背負っているだけに、暴力団より始末が悪い。
日本人は、あの封建時代の遺物を、いまだに色濃く引きずっている。

●武士道

 ・・・もし江戸時代の武士道なるものが、どういうものかを知りたかったら、現在の「ヤクザ(暴
力団ではない)の世界」を見ればよい。
皮肉なことに、ヤクザの世界は、封建時代における武士の世界そのものといってよい。
忠実に過去を踏襲している。
いまだにその武士道なるものを礼賛する人は多い。
「武士道こそ、日本が世界に誇るべき精神的バックボーン」と説く学者もいる。
しかし封建時代がもつ「負の遺産」に目を当てることもなく、一方的に礼賛するのもどうか?

 5%にも満たない武士が日本の社会を牛耳り、95%の日本人が、その暴政に苦しんだ。
江戸時代という時代にしても、世界に類を見ないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代だった。
が、何よりも忘れていけないことは、私たちの先祖は、その95%の農民であったという事実。
(工民、商人は、数がぐんと少なかった。)

 もしあのまま今でも封建時代がつづいていたら、私たちはまちがいなく、農民だった。
その農民が、武士のまねごとを説いて、どうなる?
どうする?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●タクシーの中で

 今では、どこへ行っても、原発事故と、地震や津波の話。
今日も、そうだった。
JR焼津駅からタクシーに乗ると、運転手がこう言った。

 「どちらから?」と。
「浜松から」と答えると、「浜松は、だいじょうぶですか?」と。

 運転手は、こう言った。
「焼津の人たちの中にもね、藤枝の方へ引っ越す人がふえていますよ」と。

 浜松市内でも、遠州浜沿いに住んでいる人たちの引っ越しが始まっている。
少し前までは、新幹線の北側は安心と言っていた。
が、震度7、津波の高さ21メートル。
3つのプレートが同時に動くと、それくらいの地震になるそうだ。

 で、もしそうなら、新幹線の線路でも、防ぎようがない。
地震で地盤の液状化も起こるだろう。
そこへ21メートルの津波!
海抜10メートル前後の下町は、全滅。

 3・11大震災前なら、そんな話はだれも信じなかっただろう。
私も信じなかった。
が、今は、ちがう。
「今すぐ……」というわけではないが、いつかは起こる。
かならず、起こる。
そういう前提で、この先を見る。

 数日前も、義兄がこう言った。
「下町の人たちが、山の手のほうへ、移動しているよ」と。
義兄は、大地主で、自分の土地の管理もかね、不動産屋を営んでいる。

 いやな世の中になったものだ。
今、この瞬間にも、大地震が起こるかもしれない。

●浜岡原子力発電所

 ときどき、ワイフとこんなふうに話しあう。
もし大地震が起きたら、すぐ逃げよう、と。
近くには、浜岡原子力発電所がある。
防災は万全と言っているが、だれも信用していない。
私も、信用していない。

 あの3・11大震災から数か月後のこと。
浜岡原子力発電所でも、配管に穴が開いているのが見つかった。
放射性物質が、海へ垂れ流されているのがわかった。
で、その前後、「大規模な」(報道)、防災訓練がなされた。
が、その防災訓練が、へん!
消防自動車がやってきて、原子炉に水をかけていた。

 原子炉に水だぞ!

 私はそれをテレビのニュースで見て、笑ってしまった。
つまり日本の防災意識も、その程度。
北朝鮮では、がんでも、赤チンをつけて治すそうだ。
何かの本で、そう読んだことがある。
それと同じ。

 ……こういう話は、やめよう。
せっかくの旅行。
考えれば考えるほど、憂うつになる。

●4月4日

 明けて、今日は4月4日。
目覚ましを、午前5時15分にセットしておいた。
目覚ましと同時に、目を覚ますと、窓全面に、青い空がまぶしいほどに光っていた。
同時にワイフも目を覚ました。

 このホテルには、一度、皇族方全員が宿泊している。
言うなれば家族旅行。
そのときはじめて、私は納得した。
「この景色なら、その価値がある」と。

 浜松からは、鈍行列車で来ても、50分。
車で来れば、もっと早い。
愛知県の西浦温泉などよりは、ずっと近い。
こんな近くに、こんなよい温泉旅館があるとは!
星は、文句なしの、5つ星。
すばらしい。

 今、時刻は午前8時07分。
大波が右上から左下に、行く筋もの山を作り、その間で、糸のように細い小波が揺れている。
プラチナ色の海。
それを取り囲むように、淡いコバルト色の海。
たった今、デジタルカメラを構えて何枚か写真を撮った。
まぶしくて、液晶画面が見えなかった。
その方向にカメラを向け、勘で撮った。

 さあ、このまま帰る。
シャトルバスは、8時30分に出る。

はやし浩司 2012−04−04 焼津・ホテルアンビア・松風閣にて

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司




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●オーストラリア旅行記byはやし浩司


【バスの中で】

●3月30日、中部空港・セントレアへ

 「さあ、行くぞ!」と、バスの中。
エンジンがかかった。
時刻は6時10分。
行き先はオーストラリア。
メルボルン。
アデレード。

 タクシーの中でもそうだった。
震災の話も、原発事故の話もしたくない。
今は、そんな気分。
話したところで、どうにもならない。
堂々巡り。
愚痴。
不平、不満。
その繰り返し。

●浜松もあぶない?

 今回のオーストラリア行きは、去年から予定していた。
チケットの予約を入れたには、先月(2月)の終わり。
どこか弁解がましいが、今回の震災(3月11日)とは関係ない。
が、その一方で、日本から脱出するという意識もないわけではない。
不幸中の幸いというか、今回の原発事故では「風」に守られた。
事故以来、冬型の天気図。
風はずっと陸から海側に吹いていた。

 が、そんな「幸い」が、いつまでもつづくとはかぎらない。
風向きが変われば、東京があぶない。
浜松があぶない。
原発事故は、100キロ単位どころか、1000キロ単位で広がる。

●人災論

 今回の原発事故について、人災論が浮上してきた。
いくつかのヘマが重なって、事故が拡大した。
処理が、長引けば長引くほど、そうだろう。
責任論が大きくなる。

原発は「作る」のは簡単。
「閉じる」のがむずかしい。
これは私の意見ではない。
世界の常識。

 つまり閉じ方も確立されていないまま、今回の事故が起きた。
ホースで水をかける程度の処理で、事故が収束するはずがない。
たとえば昨日になって、プルトニウム吸収剤を散布するとか(報道)。
そんな話が決まった。
しかしこの日本に、そんな吸収剤はあるのか?

●1970年

 ……またまた震災の話になってしまった。
やめよう。
こんな愚痴を書いても、何もならない。

 私がオーストラリアへ渡ったのは、1970年の3月。
大阪万博(1970)が始まる、その直前だった。
日にちはよく覚えていない。
1970年の3月3日か4日だった。
私はあえて各駅停車の飛行機に乗った。
世界中を見たかった。
もっとも当時の飛行機(DC−8)は、航続距離が短い。
香港とマニラで給油のため駐機した。

 はじめての香港。
はじめてのマニラ。
私は自分の体が宙を舞っているように感じた。

●悪夢

 ワイフは横で、今しがたまで、何やらメモを取っていた。
どこかウキウキしている。
若いころからのんきな女性で、なにごとにつけ、楽天的。
おおらか。
だからこそ、私のワイフでいられた。
今回も、1か月も前から、旅行の準備をしたのは、私。
「まだ早いでしょ!」と。
何度もワイフの言われた。

 が、私は落ち着かない。
今でも悪夢と言えば、飛行機や列車に乗り遅れる夢。
29歳のとき飛行機事故を経験している。
それだけではないが、こうした強迫観念は、どうしようもない。
いつも何かに追い立てられている。
それがそういう悪夢につながっている。

●オーストラリアの秋

 窓の外は冬景色。
今年の冬は寒かった。
今も寒い。

 昨日、オーストラリアの友人に問い合わせた。
アデレードでは気温は、10度〜30度という。
日本の気候にちょうど6か月を加えたのが、オーストラリアの気候ということになる。
が、実際には、オーストラリアの夏は暑い。
オーストラリアは、今が秋。
これから畑に種をまき、冬の間に小麦を育てる。
今ごろは緑の草原が美しく広がっているはず。
楽しみ。

●終着点

 今回の旅行は、旅行というより、人生のしめくくり。
ワイフのことは知らないが、私はそうとらえている。
ちょうど41年。
オーストラリアでの学生生活を「出発点」とするなら、今が「終着点」。
その41年を、何とか乗り切った。
生き延びた。

 私の人生を総括すると、そうなる。
つまり自由業というのは、そういうもの。
「自由」というのは、そういうもの。
だれにも頼らず、たったひとりで生きる。
が、充実感は、それほどない。
私のばあい、いつもハラハラしながら、生きてきた。
今の今も、そうだ。
こういう旅行をしながらも、別の心では、すでに帰国後のことを考えている。
あるいは、そのころ、日本はさらに混乱しているかもしれない。

 またまた原発事故の話になる。
今のやり方では、だめ。

●フンギリ

 「フンギリ」という言葉がある。
「糞切り」と書くのか。
どこかでフンギリをつける。
そのフンギリがない。

 事故直後から、廃炉を覚悟すべきだった。
が、それを何とか原子炉を残そうとした。
今の今もそうだ。
原子炉内への注水とタービン室の排水。
この2つを両立させようとしている。
が、このやり方では問題は解決しない。
へたをすれば、両倒れ。
私なら、海はあきらめ、原子炉のメルトダウンだけを考えて対処する。
海の汚染は、まだ何とかなる。
しかし原子炉がメルトダウンし、原子炉が爆発したら、万事休す。
死の灰は、日本中に降り注ぐ。

 話は脱線したが、「自由」というのは、そういうもの。
損と得が、いつも隣り合わせになっている。
損にこだわっていたら、自由にはなれない。
深みにはまり、やがて身動きが取れなくなる。
フンギリをつけるときは、つける。
それが身を軽くする。
今回の原発事故には、そのフンギリがない。
つまり卑しき役人根性。

「やるべきことはします。しかしそれ以上のことはしません」と。
あとは責任逃れ。
そればかり。

アーア、また愚痴になってしまった!

●自由業

 自由業について、一言。

 今、この日本で、自由業と言えるような自由業というのは、ほとんどない。
農業にしても漁業にしても、補助金漬け。
補助金がなければなにもできない。
どう補助金漬けになっているかは、その世界の人なら、みな知っている。
町の小さな企業ですら、いかに公的機関の仕事かで、血眼(ちまなこ)になっている。
いかに多く公的機関の仕事を受注するかで、命運が決まる。
土建業を例にあげるまでもない。
つまりみながみな、「国」にぶらさがっている。
また「国」にぶらさがらないと生きていかれない。

 私など、補助金の「ホ」も手にしたことがない。
国からそれらしきものを手にしたのは、出産時の祝い金だけ。
3人の息子たちが産まれるたびに、それをもらった。
10万円x3=30万円!
計30万円!

 だからこう言う。
「生き延びた」と。

●究極の選択

 人生には、潮時というものがある。
今が、そのときかもしれない。
私も63歳。
団塊の世代、第一号。

 ここでいつも究極の選択に迫られる。

(1) 健康な間に、好き勝手なことをする。
(2) 死ぬまで今のまま、がんばる。

 「好き勝手なこと」というのは、私の夢を果たす。
そう、あのとき私は、オーストラリアに移住したかった。
留学生活が終わったとき、そのままオーストラリアに残りたかった。
が、それができなかった。
郷里の母が、今にも死にそうな声でこう言った。
「帰ってきておくれ」「帰ってきておくれ」と。

 が、今ならそれができる。
だれにも遠慮せず、好き勝手なことができる。
ワイフも、それを言う。
「移住しましょうよ」と。

 おかしなもので、オーストラリアを知らないワイフのほうが、積極的。
どうしてだろう?

【セントレア空港で】

●シンガポール航空

 シンガポールからメルボルンまで、A380。
わかるかな?
エア・バス380だぞ。
世界最大の旅客機。
「2階席にしますか、1階席にしますか?」と聞かれた。
それでそれを知った。
もちろん私はこう答えた。
「2階席に」と。

 今や、シンガポールがアジアの中心。
東京ではない。
シンガポール。
1人当たりの国民所得でも、すでに日本は追い抜かれている。
だからそういう飛行機でも買うことができる。
世界最大の旅客機。
「日本は負けたね」とワイフに言うと、ワイフはあっさりとこう認めた。
「とっくの昔にね」と。

●ラウンジで

 出発まで1時間半。
ワイフラウンジで、軽い朝食。
意外と白人が少ない。
前後左右、みな、ジャパニーズ。
セントレアはまだ、国際的にあまり認知されていない?
そんな印象をもった。

 が、うるさいことといったらない。
右横の家族は、ギャーギャーと大声で騒ぎあっている。
祖父母らしき両親を中心に、2人の娘と1人の息子。
それにその子どもたち(孫)。
その孫が4人。

 その向こう隣には、同じような組み合わせの家族。
子どもはいないが、やはり大声で騒ぎあっている。
のどかとは言いがたいが、平和な風景。

 それにしてもうるさい!

●うるさい

 左横の家族は、グアムへ行くらしい。
「グアム」と書いた大きな雑誌を開いたり、閉じたりしている。
さらにその向こう側の2人連れは、何やらを書類に書き込んでいる。
若い方の女性が、「ここはこう……」というような言い方で、もう1人の女性に指示
している。

 「あと1時間……」とワイフが言った。
搭乗ゲートは、14番。
一番、端。
今、右横の家族を見たら、そちらは「韓国」と書いた本を読んでいる人がいた。
あのうるさい家族。

「韓国へ行くんだ」と思った。

 「早めに14番ゲートへ行くか」と私。
「うん」とワイフ。
ここはう・る・さ・い。
子どもたちまで、ギャーギャーと騒ぎ出した。

●14番ゲートで
 
 目の前に58インチのテレビがある。
震災で犠牲になったアメリカ人教師の話をしている。
右下の案内には、「日本人を愛したアメリカ人教師」とある。
「生徒の無事を確認したあと、津波に……」と。
名前は、テイラー・アンダーソンさんという。
そのテイラー・アンダーソンさんに対する義援金募集をしている。

 今度の津波で、多くの外国人も行方不明になっているという。
たぶん、もう生きてはいないだろう。
今の日本から、震災、津波、原発事故の話から逃れることはできない。
どこへ行っても、だれと話しても、その話ばかり。

●A330

 飛行機に乗ると、すぐ、映画、「ガリバー旅行記」を観た。
おもしろかった。
で、すぐ食事とつづき、そのあと、睡魔。
1時間ほど、眠った。

 時刻は日本時間で、午後2時23分。
もう4時間も乗っている。
日本との時差は、ちょうど1時間。
シンガポール語後1時23分。

 機種は、エアバス330。
いろいろ頭の中をさぐってみるが、エアバスに乗るのは、これがはじめてではないか。
ボーイング社の飛行機とは、微妙に内装がちがう。
ざっと見たところ、新品。
汚れもなく、真新しい。
30〜40年前には、アジアの国々は、みな、日本が払い下げた中古機を使っていた。
フィリッピン航空の飛行機などは、窓枠がさびていた。
が、今は、ちがう。
この世界も、すっかり様変わりした。

 画面にそのつど時速(対地速度)が表示される。
それによれば、518マイル(833km)とか。
ボーンイング777や747よりは、遅い?

●さらば、日本!

 若いときからそうだ。
だから、どうかそういう私を責めないでほしい。
私は若いときから飛行機に乗り、離陸したとたん、こう思う。
「さらば、日本!」と。
とたん、日本のことを忘れる。
小さな国。
それが日本。
何かにつけ、わずらわしい国。
それが日本。

 そのクセが今も残っている。
「さらば、日本!」と。
今、私ははじめて、震災や津波、それに原発事故を頭の中から振り払うことができた。
この2週間、本当に気が重かった。
「重い」というよりショック状態。
ゆううつな気分が、四六時中、頭の中を離れなかった。
……ということは、逆に、帰国するとき、どんな気分になるのだろう。
それが心配。

●『東洋航路』

 シンガポールまで、あと約2300キロ。
頭の中で計算する。
あと約3時間。

 これも私のクセ。
シンガポールへ行くたびに、W・サマーセット・モームの書いた『東洋航路』という
本を思い出す。 
東南アジアへの旅行記である。
学生時代、無我夢中で読んだ。
どこかの港での描写が、鮮明な記憶となって残っている。
それもあって、私は東南アジアが好き。
タイ、カンボジア、ベトナム、シンガポール、そして香港……。
どの国も好き。
違和感を覚えない。
 
●非国民

 ああ、今、本当に日本のことが頭から消えた。
震災で苦しんでいる人には申し訳ない。
原発事故と懸命に戦っている人には申し訳ない。
しかし今の私は、やっとその重圧感から解放された。
やっと気が楽になった。

 こういう私のような日本人を、「非国民」というのか。
わかっている。
しかし総じて言えば、……つまり私の過去を振り返ってみれば、日本は日本。
いろいろがんばってはみたが、私はいつもはじき飛ばされてばかりいた。
つまり相手にされなかった。

ほとんどの日本人は、「日本は自由な国」と思い込んでいる。
しかしどこに「自由」がある?
自由もどきの自由、つまり「自由」という幻想を信じているだけ。
自由に生きる人間を認めない。
その価値を認めない。

 ある新聞社の記者(女性)は、私にこう言った。
「林さん(=私のこと)、私たちはあなたのような人が、成功してもらっては
困るのです。
あなたのような人が成功するのを見ると、私たちは自己否定しなければなりません」と。

 「組織」という「束縛」の中で、みな、体中をがんじがらめに縛られている。
縛られているという意識さえないまま、縛られている。
またそれ以外に生きる道がない。
あの日本では……。

●官僚主義国家

 では、私には愛国心はないのか?……ということになる。
が、私にとって愛国心とは、「民」をいう。
「土地」をいう。
「国」ではない。
頂点に「天皇」がいて、その下に官僚制度がある。
その官僚制度が、日本という「国」の柱になっている。
日本が民主主義国家と思っているのは、私たち日本人だけ。

 日本という国は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、官僚主義国家。
そんな官僚主義国家を愛せよと言われても、私にはできない。
日本人も日本の文化も好き。
しかし「国」となると、どうしても好きになれない。

●自由と依存性

 41年前、オーストラリアに渡った。
毎日が驚きの連続だった。
が、その中でもオーストラリア人のもつ、あの「自由」には驚いた。
ある日、友人に招待され、小さな町に行った。
そこでのこと。
車の中にいっしょにいた中学生くらいの友人の弟が、こう言った。

「ヒロシ、あの橋には、X万ドルもかかったんだよ。無駄な橋だよ」と。

 これには驚いた。
そんな中学生ですら、税金の使われ方に目を光らせている。
一方、私たち日本人には、それがない。
万事、お上(かみ)任せ!

何かといえば、「国が……」「国が……」という。
何でも国がしてくれるものと、思い込んでいる。
その依存性こそが問題。
隷属意識と言い換えてもよい。
つまり自由と依存性は、相克(そうこく)関係にある。
依存性が強い分だけ、自由への意識が薄い。
自由への意識が薄い分だけ、依存性が強い。

●キャンピング

 オーストラリアの学校には、「キャンピング」という科目がある。
「選択かもですか?」と聞いたら、「必須科目」という。
つまり原野でも、ひとりで生きていかれる。
そんな子どもを育てるのを目的としている。

 そのこともあって、オーストラリア人は、独立心が旺盛。
私が学生だったころでも、親のスネをかじって大学へ通っている学生は、さがさなければ
ならないほど、少なかった。
今は、もっと少ない。
奨学金を得るか、借金をするか、あるいは働くか。
それぞれがそれぞれの方法で大学へ通っていた。
友人の1人は、1年働き、1年大学へ通い、またつぎの1年働き……ということを繰り返
していた。

 その友人は、あいた時間を利用して、下着のセールスをしていた。
車のトランクの中に女性の下着をいっぱい詰めこんでいた。

●よみがえる思考回路

 おもしろい現象である。
飛行機でオーストラリアに近づくにつれて、忘れていた記憶がどんどんとよみがえって
くる。
あのころの自分が、そのまま戻ってくる。
思考回路まで、戻ってくる。
それに英語まで戻ってくる。

 日本で英語を話すと、このところ大きな疲労感を覚える。
が、今は、それがない。
この飛行機の中では、日本語のほうが、かえって話しにくい。
体で示すジャスチャまで、英語式。
オーストラリア式。

●機内サービス

 今回は、シンガポール航空を利用した。
いつもはカンタス航空を利用している。
戦後、一度も航空機事故を起こしていない。
世界でもっとも安全な航空会社。
それについてオーストラリアの友人に確かめると、こう教えてくれた。
「オーストラリアはオーストラリア独自の安全基準を作った。
世界の僻地(へきち)だったから、万事、手探りで、そうした」と。
つまりほかの国々のことがわからなかったから、独自の安全基準を作った、と。
それがかえって幸いし、今にみるカンタス航空を育てた。

 で、今回はシンガポール航空。
料金は、日本のJ社のそれより、やや安いといった程度。
(J社は、お高くとまりすぎ!)
現在、高級化路線を歩んでいるが、やがて裏目に出るはず。
ボロボロの飛行機を使って、高級化路線もない。
今度の震災以後、30%も客足が落ちているという(2011年3月)。

 一方、破竹の進撃を繰り返しているのがANA。
エアバス380の導入も決めている。
ボーイング787の購入もすませている。

 ワイフがこう言った。
「スチュワーデスの体型がみな、同じね」と。
みな、細く、スラリとしている。
それに美人ぞろい。
「きっと体型に関する機内規程があるんだろうね。
体重が50キロを超えたら、クビとか……」と。

美しいだけではない。
サービスも、たいへんよい。
ワインもビールも飲み放題。
先ほど座席の移動を頼んだら、こころよくそれに応じてくれた。
窓際の席から、4席あいている中央列の席に移動した。

【チャンギ空港にて】

●日本のニュース

 チャンギ空港では、乗り継ぎのための時間が、4時間半もあった。
その間に軽い食事。
何本か、飲み物を口にする。

 テレビではアメリカのニュース番組をそのまま流していた。
しばし、それに見入る。

 フクシマの原発事故も、アメリカでは経済ニュース。
もっぱら経済的な視点で論じられていた。
「損失はいくら……」とか、「復興費はいくら……」とか、そんな話ばかり。
すでに世界では、チェルノブイリ、スリーマイルと並び、世界の三大原発事故に
並べ始めている。

 そのニュースを見ながら、こんなことを考える。
もし戦後、沖縄が香港になり、東京がシンガポールになっていたら、今の今も日本は、
押しも押されぬ世界の経済大国として君臨していただろう、と。

沖縄を香港化すべきだった。
東京をシンガポール化すべきだった。
今や東証に上場されている外資企業は、1けた台。
10社もない。
一方、シンガポールには、数百社以上。
チャンギ空港は、ハブ空港として、世界の経済の中継地になっている。

ラウンジで知り合ったイギリス人は、イギリスから来て、ここシンガポールで
飛行機に乗り換え、オーストラリアに向かうということだった。
どうしてそれを羽田でしないのか?
羽田で乗り継がないのか?

●日本vs外国

 シンガポールまで来ると、こう考える。
「何も、日本にこだわる必要はないのではないか」と。
ワイフも同意見。
世界の人たちは、もっと自由に、「国」を考えている。
EUを例にあげるまでもない。
言い換えると、日本も、外国をそういう目で見る必要がある。
「日本だ、外国だ」と、垣根を高くすればするほど、日本のほうが世界ののけ者に
なってしまう。

 わかりやすく言えば、日本で仕事がなくなれば、外国へ行けばよい。
外国で働けばよい。
そのあたりを、もっと気楽に考えたらよい。
ラウンジで会ったイギリス人の男も、そう言っていた。
親や兄弟は、オーストラリアに住んでいる。
が、自分の家族はイギリスに住んでいる。
たがいに行ったり来たりしている、と。

●A380

 目を覚ますと、A380は、アデレード上空まで来ていた。
眠ったのか、眠らなかったのか、よくわからない。
何かの夢を見たようだが、よく覚えていない。
シンガポールとメルボルンの時差は3時間。
私が目を覚ましたのを見ると、ワイフがこう言った。
「星空がきれいだった」と。

 星と言えば、南十字星。
サザン・クロス。
オーストラリアへ着いたら、真っ先にワイフにそれを見せてやりたい。

【メルボルンにて】

 空港からはデニス君の車で。
そのままインターナショナルハウスへ。
ボブ君が、ゲストハウスを予約しておいてくれた。
荷物を置いて、そのままデニス君の家へ。
車で1時間ほど。
カーネギーという地名。

 ……仙台市のことを「杜(もり)の都」という。
豊かな街路樹に覆われ、夏でも涼しげな森の影をつくってくれる。
が、もしあなたがメルボルンを見たら、「杜」の概念が変わるだろう。
とくにこのローヤルパレード通りを見たら、変わるだろう。
どう変わるかは、ここに書けない。

昔からこう言う。
メルボルンの中に、公園があるのではない。
公園の中に、メルボルンがある、と。

 カーネギーでは、数時間を過ごした。
その間、ワイフは、2時間ほど、友人の家で眠った。
私たちは、つまりデニスとボブと私は、いろいろ話した。
で、ワイフが起きたのをみはからって、近くの日本料理店へ。
私とデニスは、オーストラリア式の天丼。
ボブは、オーストラリア式のうな丼。
ワイフは、これまたオーストラリア式の牛丼を食べた。

 どれも日本的というだけで、日本のものとはちがう。
また値段にしても、天丼よりうな丼のほうが安かったのには、驚いた。
AS$で、8〜9ドル前後だった。
「このあたりには、モナーシュ大学の留学生が多く住んでいる。
だからこういう店が多い」と。

 通りには日本料理店のほか、ベトナム料理店、マレーシア料理店、
中華料理店などが並んでいた。
帰りに私とワイフは、八百屋で、果物を何種類か買った。
イタリア風(ギリシャ風?)の八百屋で、一種類ずつ大きなコーナー
に、山積みにして売っていた。

●インターナショナル・ハウス

 イギリスのカレッジ制度の説明をするのには、時間がかかる。
簡単に言えば、「ハリーポッターの世界」。
全寮制であると同時に、カッレジ自体が大学の機能を分担する。
ほかのカレッジから学生がやってくることもある。
もちろんその反対のこともある。

食事は毎回、フルコース。
学生たちはローブと呼ばれるガウンを身につけ、食事に臨む。
もちろん正装。

 が、その後オーストラリアも、政権が変わったり、不況を経験したりした。
「予算が削られた」というような理由で、簡略化された。
が、何よりも変わったのは、男女共学になったこと。
若い女子学生が多いのには、戸惑った。
私たちの時代には、男子専用のカレッジだった。

 私は寮長の横、つまりハイテーブルで食事をすることができた。
「ハイテーブル」。
もしそれがよくわからなかったら、映画の1シーンを思い出してほしい。
そこはまさに「ハリーポッターの世界」。

 そういう意味では、あの映画はカレッジ制度を理解するのには、役立つ。
メジャーな教育は、大学構内の中で受ける。
それ以外のマイナーな教育は、カレッジで受ける。
カレッジでの教師はチューターと呼ばれる。
そのチューターたちが、アンダー・グラジュエイト(大学生)の教育をする。

●ゲストルーム

 ゲストルームは、ハウスの裏手にあった。
部屋は4ルーム。
2つのベッドルームのほか、キッチンや談話室が備わっていた。

いつもそう思うのだが、オーストラリアでは、すべてが大ざっぱ。
シャワーにしても、ザーッと水が出るというよりは、ドカーッと出る。
タオルに石鹸をつけて体を洗おうとしても、石鹸のほうが先に落ちてしまう。
こちらの生活に慣れるには、それなりの時間がかかる。

●家具

 家具も、大ざっぱ。
日本的なこまかい細工はない。
ないかわりに、しかしどれも本物の木材を使っている。
ベットの横に小さな小物戸棚があるが、ワイフは動かすことすらできなかった。
ドシンと重かった。

 家具といっても、10年先、20先を考えて作る。
年数がさらに重みをます。

 このゲストルームにしても、50年以上前に建てられたもの。
独特の、あのにおい。
白人の体臭というか、なめし皮のにおい。
床のジュータンと、乾いたペンキのにおい。
そのにおいに包まれると、そのまま41年前にタイムスリップしてしまう。

●花博覧会(4月1日)

 たまたまメルボルン市で、花博覧会が開かれていた。
今日の目的は、その花博覧会を見ること。

 ボブとデニスが案内してくれた。
ワイフはやや疲れ気味。
私たちはローヤルパレード通りをシティ(町)のほうへ歩き、
そこからトリィニティ・カレッジを通り抜けた。
中世の城を思わせるカレッジである。
このカレッジだけで、ひとつの大学がすっぽりと入ってしまうほど広い。
通りがかった人(教授?)に人数を聞くと、270人の学生と、30人の
ポスト・グラジュエイト(修士・博士課程)の学生がいる。
そう教えてくれた。

 それから一度、大通りに出て、花博覧会に向かう。

●馬車

 花博の会場からは、トラム(市内電車)で、フリンダース駅に向かう。
日本で言えば、新宿のようなところ。
その前に、あの荘厳な、St.ポール大寺院がある。

 4人で入る。
「写真を撮っていいか」と聞くと、売店の女性が「いいです」と言った。
しかし私は撮らなかった。
あまりにも畏れおおい。
その荘厳さに圧倒された。

 大寺院から出たところに、2頭だての馬車が泊まっていた。
さっそく料金を交渉。
4人で100ドルでよいと言った。
加えて20ドルのチップ。
120ドルを渡した。

 御者は気をよくして、街中をあちこち回ってくれた。
私たちは、1時間ほどかけ、ハウスに戻った。

●会食

 夜はデニス君が夕食に招待してくれた。
デニス君の娘が2人と、婚約者が来ていた。
私たちはスキヤキを食べた。

 日本的なスキヤキといった感じだった。
ネギの代わりに、タマネギを使っていた。
焼き豆腐の代わりに、ふつうの豆腐を使っていた。
肉はもちろん赤肉。
霜ふり肉など、このオーストラリアにあるはずもない。

 「日本にスキヤキと同じか?」と、数回聞かれた。
「シミラー(similar=似ている)」と答えた。
「日本のスキヤキに似ている」という意味で、そう言った。

 その席で、デニスの娘のタミーが、「結婚式に来てほしい」と言った。
「いいよ」と答えた。
ハネムーンは、日本へ来るという。
「日本ではぼくがめんどうをみてあげるよ」と言うと、うれしそうに
笑った。

フィアンセの名前は、Luke(ルーク)という。
以前から私は彼のことを、「スカイウォーカー」と呼んでいる。
映画『スターウォーズ』の主人公の名前が、ルーク。
それでそう呼んでいる。

●4月2日

 4月2日、朝早く起きて、サザン・クロス駅に向かう。
昔は「スペンサーSt.駅」と呼んだ。
そこからオーバーランド号に乗って、友人の自宅のあるボーダータウンに
向かう。

 いつ走り出すともわからない列車。
平均時速は85キロとアナウンスされたが、その速度もなかった?。
ノロノロ……というか、ガタンゴトン……といったふう。

 やがて2人の若い男がやってきて、朝食の注文を取りにきた。
私たちは一番値段の高いのを注文した。
高いといっても、12ドル前後。

●メルボルンからジーロンへ

 以前とは列車の走るコースが変わっていた。
以前は一度バララートへ出て、そこからアデレードに向かった。
今は、一度ジーロンまで南下し、そこからアデレードに向かう。
友人の話では1995年に変わったという。
列車の線路幅も、そのとき現在の線路幅になったという。

 ジーロンはこのあたりの工業地帯。
以前は羊毛の輸出港として栄えた。
昨夜日本料理店へ招待してくれたデニス君の生まれ故郷でもある。
途中、ジーロン・グラマー・スクールがある。
デニス君は、その学校に幼稚園児のときから、高校2年生まで通った。
そこで1年飛び級をし、メルボルン大学へ。
修士号を得た後、今はモナーシュ大学で働いている。

 皇太子の娘の「愛子さん」も、一時は、この学校に通うという話が出た。
その話はどうなったのか。

●田園風景

 それからは5時間あまり、単調な田園風景がつづく。
行けども行けども、牧場と穀倉地帯。
4月ということもあって、つまりオーストラリアでは秋ということも
あって、枯れた平原。

 気が遠くなる……というより、ぼんやりと見ていると、眠くなる。
ワイフも、私も、ときどき眠った。

 昼食も同じようにして、とった。
私たちはみな、いちばん値段の高い料理を注文した。

●人間臭さ

 サザン・クロス駅の話に戻る。
日本でいう車掌たちが、自由な服装をしてたがいに話し込んでいた。
日本では見られない光景である。
ワイフは目ざとくそれを見て、こう言った。
「ズボンだけは同じみたい」と。

 私は「何とだらしないことよ」と思った。
が、やがて私の常識のほうがおかしいことを知った。

 車掌は、名簿から私たちの名前を見つけると、楽しそうに話しかけてきた。
それ以後、私たちを見ると、ファーストネームで私たちを呼んでくれた。
が、何と言っても驚いたのは、ジーロン駅でのこと。
オーバーランド号は、20分も早く、ジーロン駅に着いた。
車内アナウンスが、「ここで17人の客を乗せる」と言った。

 列車はしばらくそこに停まった。
曜日によって、市内を回るコースと、郊外の駅を回るコースがちがうらしい。
が、その17人が乗った。
とたん列車が動き出した。
時刻表も、客しだい。

 つまり、それを「自由」という。
日本では、考えられない。

【ボーダータウンにて】

●ジューン

 ボーダータウンには、ボブの母親が迎えに来てくれていた。
今年84歳になるが、シャキシャキとしているのには驚いた。
話し方も、41年前と同じ。
名前をジューンという。
私はいつも「ジューン」と呼んでいる。
5、6年前に、一度、日本へ来てくれたことがある。
そのときは、長野を案内した。

 そのときのこと。
ジューンは日本式(スリッパ型)のトイレの使い方がわからず、苦労した。
楽しい思い出がどっとよみがえってきた。

●1・6エイカー

 ボブの家の敷地は、1・6エイカーもある。
16000平方メートル。
坪数に換算すると、約5000坪。
どんな広さかといっても、文では表現できない。
見たままの広さということになる。

 その一角をフェンスで囲み、そこを住居としている。
家に着くと私は何枚か、写真を撮った。

++++++++++++++++++++++

● 4月4日・ボーダータウン(南オーストラリア州)の朝

昨夜は郊外の奥地まで、夕食を食べたあとドライブをした。
野生のカンガルーを見られるかもしれない。
ボブはそう言った。
が、残念!

で、今日は4月4日。
月曜日。
昼から、アウトバック(荒野)をめざしてドライブ。
「今日はカンガルーを見せてあげる」と、ボブは言った。

前後するが、昨夜は、町の中の中華レストランで夕食。
6時から10時ごろまで、そこで過ごした。

……朝、起きると、オーストラリアの景色が窓の外に
広がっていた。

Good Morning!

Hiroshi Hayashi+++++++April. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●オーストラリア旅行

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【出発前に……】

●オーストラリア

+++++++++++++++++++++

2011年、3月30日。
ワイフと私はオーストラリアへ「行く」。
「行く」と構えるほど、私にとっては、重大事。
サケが長い回遊を経て、ふるさとの源流に
もどるように、私は心の源流にもどる。

それをメールで知らせると、2人の友人から、すかさず
返事が届いた。
アデレードで2泊の予定だった。
が、2泊ではとても足りそうにない。
それにアデレードからメルボルンまでは、列車で移動する予定だった。
が、友人が言うには、車でオーストラリア大陸を縦断しよう、と。
そうなると、とても2泊では足りない。

+++++++++++++++++++++

●Rosin the Beau

 オーストラリアの友人が教えてくれた歌に、「ローザン・ザ・ボー」
というのがある。
アイルランドの民謡(drinking song)ということだが、私はその歌を
今でもソラで歌える。
しかし歌の題名がわからない。
YOUTUBEで調べてみた。
「Rosan the Ballか?」・・・ということで、調べてみたが、
うまくヒットできなかった。

 が、今日、その歌を教えてくれた友人から、返事が届いた。
正しくは、「Rosin the Beau」。
さっそくYOUTUBEで検索。
いくつかのシンガー・グループが歌っているのがわかった。
その中でも、「ザ・ダブリンズ」のが、そのままの歌い方だった。
こうした民謡は、歌手によって、アレンジの仕方がまちまち。
私はその歌を聴きながら、ポロポロと涙がこぼした。
そのときの情景が、そのままそこにあった。
私はちょうど40年前に、タイムスリップした。

 それを横で見ていて、ワイフがこう言った。
「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。

 私は名前を教えてくれた友人に、返事を書いた。
「30年間、ぼくはこの歌をさがしつづけた。
やっとこの歌に、めぐり会えた。
ありがとう」と。

●1日が1年

 あのころの私は、1日を1年のように長く感じながら生きていた。
けっして大げさな言い方ではない。
本当に、そう感じた。
1日が終わり、ベッドに体を横たえた瞬間、そう感じた。
そんなある日のこと。
ちょうど3か月目のことだった。
私はこう思った。
「まだこの先、こんな生活が9か月もつづくのか!」と。
うれしかった。
それがたまらなく、うれしかった。

 私は留学する前、4年間、金沢の大学に通った。
そういう自分を振り返りながら、その密度のちがいに驚く。
4年間、通ったはずなのに、その4年間の重みがどこにもない。
思い出がない。
あるにはあるが、オーストラリアでの経験があまりにも濃密すぎた。
そのため金沢での学生生活がかすんでしまう。
その感覚は、今でもそうで、青春時代というと、あの時代ばかりが光り輝く。
金沢での4年間もそうだが、さらに高校時代の3年間となると何も残っていない。
単調な生活。
スケールの小さな生活。
「学問」と言っても、暗記また暗記。
あの時代には、(今でもそうだが)、自分で考えるということすら許されなかった。
疑問をもてば、なおさら。
疑問をもったとたん、「学校」というコースからはじき飛ばされてしまっていた
だろう。

●不思議な世界

 そうした様子は、『世にも不思議な留学記』に書いた。
地元の中日新聞と、金沢学生新聞に、あしかけ5年に渡って、連載させてもらった。
興味のある方は、ぜひ、読んでほしい。
私のホームページ(ウェブサイト)から、『世にも不思議な留学記』へと進んでもらえば
よい。

 が、時代が変わった。
今では高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。
私たちが学生のころには、考えられなかったことである。
往復の旅費(羽田・シドニー間)だけで、42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超え始めた時代である。

 私には、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
日本には綿棒すら、まだなかった。
バンドエイドもなかった。
風邪を引けば、風呂へ入ることを勧められた。
医学部の学生が部屋までやってきて、注射を打ってくれた。
こんなこともあった。

 カレッジ対抗で、演劇会をもつことになった。
大学の構内では、壁紙を張ることが、きびしく禁じられている。
が、友だちが、「これからその案内のポスターを貼りに行く」と。
驚いてついていくと、彼らはそれを地面に貼っていた。
(地面だぞ!)

 あるいは冬の寒い日。
1人の女の子が私を、海へ誘ってくれた。
水着をもってくるように言われた。
今となっては本当かウソかよくわからないが、・・・というのも、
オーストラリア人は、この種のウソを平気でつくので、・・・名前をタマラ・ファクター
といった。
自分で、「私は、(化粧品の)マックス・ファクターの孫」と言っていた。

 で、海へ行くと、・・・そういえばそこで私ははじめて、「ミート・パイ」という
オーストラリアでもっともよく食べられているパイを食べた。
その食べている間に、彼女は、水着姿になってしまった。
泳ぐためではない。
「サン・ベイジング(日光浴)」のためだった。
・・・などなど。

言い忘れたが、冬に浜辺でサン・ベイジングなるものをするという
習慣は、当時の日本人にはなかった。
そう言えば、同じカレッジにいた友人は、冬の日でも、また雨の日でも、
金曜日の夕方になると、キャンピング道具をもって、近くの森へキャンプ
に出かけていた。
そういう習慣も、当時の日本人にはなかった。

 ……こうして書き出したら、キリがない。

●常識論

 アインシュタインは、常識というのは、18歳までに作られる偏見であるという
ようなことを書いている。
たしかにそれはそうで、子どもたちにしても、綿棒を見て驚く子どもはいない。
そこにあるものを、当然のものとして、受け入れていく。
が、それは18歳ごろ、常識として脳の中で、固まる。
それ以後は、その常識に反するものを、「異質なもの」として処理しようとする。
ときにそれが脳の中で、それまでの常識とはげしく対立することもある。

 たとえば私は向こうの女子学生たちが、みなノーブラで、それこそ乳首が飛び出て
いるような状態で、薄いシャツを着ているのを見て驚いたことがある。
その(驚いた部分)というのが、私の常識ということになる。

 では、何歳くらいの子どもだったら、驚かなかっただろうか。
15歳くらいか。
16歳くらいか。
それともアインシュタインが言うように、18歳くらいだろうか。
少なくとも私は驚いた。
そのとき私は23歳だった。
ということは、やはり18歳前後ということになる。
(アインシュタインという人は、本当にすごい!)

 そのころまでに「常識」が形成される。
それがその人の意識の基盤になる。
ものの考え方の基盤になる。

●自由

 が、今では、高校生でも驚かない。
綿棒を見ても、バンドエイドを見ても、驚かない。
むしろそちらのほうこそ、不思議!、ということになる。
彼らもまた、生まれながらにして、そこにあるものを、当然と思い込んでいる。

 話は大きく脱線したが、私には毎日が驚きの連続だった。
が、その中でも最大の驚きといえば、彼らの「自由」に対するものの考え方だった。
彼らがもっている自由の意識は、私がもっていた意識とは、明らかに異質のもの
だった。
たとえば職業観。
たとえば家族観。
たとえば人生観。
それを知るたびに、私の頭の中で火花がバチバチと飛び散るのを感じた。

 当時の私たちは職業といえば、迷わず、大企業への就職を選んだ。
「寄らば大樹の影」。
それが常識だった。
が、オーストラリア人には、それがなかった、などなど。

私などは、友人の父親たちが、収入に応じて、つぎつぎと家を移り替えていく
のに驚いた。
「家」に対する意識も、ちがっていた。

 私が大学で使ったテキストには、こうあった。
「日本は、君主(Royal)官僚主義国家」と。
が、これには私は反発した。
「日本は民主主義国家だ」と。
しかしだれも相手にしてくれなかった。

 日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、官僚主義国家。
首相以下、国会議員の大半は、元官僚。
県知事の大半も、元官僚。
大都市の知事も、これまた元官僚。
40年前の日本は、さらにそうだった!

●自由の意識

 もちろんオーストラリアでの生活は、私の人生観に大きな影響を与えた。
それがよかったのか、悪かったのか。
現在の私が、その「結果」とするなら、よい面もあるし、悪い面もある。
この日本は、組織型社会。
組織に属している人は、実力以上の「得」をする。
たいした努力をしなくても、「得」をする。
今の公務員たちをみれば、それがわかる。
組織に属していない人は、実力があっても、「損」をする。
努力に努力を重ねても、「損」をする。
今の商工業界の人たちをみれば、それがわかる。

 「自由」を知らない国民には、それが常識かもしれない。
しかもそうした常識は、遠く江戸時代の昔から、しっかりと日本の社会に根を
おろしている。
そう簡単には、なおらない。

 が、あえて私は自由の道を選んだ。
たいへんな道だったが、私は私の生き様を貫くことができた。
その原点が、あのオーストラリアでの学生生活にある。

 人は、友だちや師、さらには社会や国から、さまざまなものを学ぶ。
何を学ぶかは、それぞれの人によってちがう。
私のばあい、「生き様」を学んだ。
一編の論文を書いたわけではない。
もしあの時代の論文があるとすれば、今の私自身ということになる。
オーストラリアという国は、私にはそういう国だった。

【バスの中で】

●3月30日、中部空港・セントレアへ

 「さあ、行くぞ!」と、バスの中。
エンジンがかかった。
時刻は6時10分。
行き先はオーストラリア。
メルボルン。
アデレード。

 タクシーの中でもそうだった。
今もそうだ。
震災の話も、原発事故の話もしたくない。
今は、そんな気分。
話したところで、どうにもならない。
堂々巡り。
愚痴。
不平、不満。
その繰り返し。

●浜松もあぶない?

 今回のオーストラリア行きは、去年から予定していた。
チケットの予約を入れたには、先月(2月)の終わり。
「こんなときに旅行?」と思う人もいるかもしれない。
が、震災の前から、今回の旅行は、予定していた。

どこか弁解がましいが、今回の震災(3月11日)とは関係ない。
が、その一方で、日本から脱出するという意識もないわけではない。
不幸中の幸いというか、今回の原発事故は「風」が幸いした。
事故以来、冬型の天気図。
風はずっと陸から海側に吹いていた。

 が、そんな「幸い」が、いつまでもつづくとはかぎらない。
風向きが変われば、東京だってあぶない。
浜松だってあぶない。
原発事故は、100キロ単位どころか、1000キロ単位で広がる。

●人災論

 今回の原発事故について、人災論が浮上してきた。
いくつかの人的なヘマが重なって、事故が拡大した。
処理が、長引けば長引くほど、そうだろう。
責任論が大きくなる。

原発は「作る」のは簡単。
「閉じる」のがむずかしい。
これは私の意見ではない。
世界の常識。

 つまり閉じ方も確立されていないまま、今回の事故が起きた。
ホースで水をかける程度の処理で、事故が収束するはずがない。
たとえば昨日(3月29日)になって、プルトニウム吸収剤を散布するとか(報道)。
そんな話が決まった。
しかしこの日本に、そんな吸収剤はあるのか?

 それにしても腹立たしいのが韓国。
「日本・危険説」をさかんに世界に向けて発信している。

●1970年

 ……またまた震災の話になってしまった。
やめよう。
こんな愚痴を書いても、何にもならない。

 私がオーストラリアへ渡ったのは、1970年の3月。
大阪万博(1970)が始まる、その直前だった。
日にちはよく覚えていない。
1970年の3月3日か4日だった。
私はあえて各駅停車の飛行機に乗った。
世界中を見たかった。
もっとも当時の飛行機(DC−8)は、航続距離が短い。
香港とマニラで給油のため駐機した。

 はじめての香港。
はじめてのマニラ。
私は外国に降り立つたびに、自分の体が宙を舞っているように感じた。

●悪夢

 ワイフは横で、今しがたまで、何やらメモを取っていた。
どこかウキウキしている。
若いころからのんきな女性。
なにごとにつけ、楽天的。
おおらか。
だからこそ、私のワイフでいられた。
今回も、1か月も前から、旅行の準備をしたのは、私。
「まだ早いでしょ!」と。
何度もワイフに言われた。

 が、私は落ち着かない。
今でも悪夢と言えば、飛行機や列車に乗り遅れる夢。
29歳のとき飛行機事故を経験している。
それだけではないが、こうした強迫観念は、どうしようもない。
いつも何かに追い立てられている。
それがそういう悪夢につながっている。

●オーストラリアの秋

 窓の外は冬景色。
今年の冬は寒かった。
今も寒い。

 昨日、オーストラリアの友人に問い合わせた。
アデレードでは気温は、10度〜30度という。
日本の気候にちょうど6か月を加えたのが、オーストラリアの気候ということになる。
が、実際には、オーストラリアの夏は暑い。
オーストラリアは、今が秋。
これから畑に種をまき、冬の間に小麦を育てる。
今ごろは緑の草原が美しく広がっているはず。
楽しみ。

●終着点

 今回の旅行は、旅行というより、人生のしめくくり。
ワイフのことは知らないが、私はそうとらえている。
ちょうど41年。
オーストラリアでの学生生活を「出発点」とするなら、今が「終着点」。
その41年を、何とか乗り切った。
生き延びた。

 私の人生を総括すると、そうなる。
つまり自由業というのは、そういうもの。
「自由」というのは、そういうもの。
だれにも頼らず、たったひとりで生きる。
が、充実感は、それほどない。
私のばあい、いつもハラハラしながら、生きてきた。
今の今も、そうだ。
こういう旅行をしながらも、別の心では、すでに帰国後のことを考えている。
あるいは、そのころ、日本はさらに混乱しているかもしれない。

 またまた原発事故の話になる。
今のやり方では、だめ。

●フンギリ

 「フンギリ」という言葉がある。
「糞切り」と書くのか。
どこかでフンギリをつける。
そのフンギリが感じられない。

 事故直後から、廃炉を覚悟すべきだった。
廃炉を覚悟で、処理に取りかかるべきだった。
が、それを何とか原子炉を残そうとした。
今の今もそうだ。
原子炉内への注水とタービン室の排水。
この2つを両立させようとしている。
が、このやり方では問題は解決しない。
へたをすれば、両倒れ。

私なら、海はあきらめ、原子炉のメルトダウンだけを考えて対処する。
海の汚染は、まだ何とかなる。
しかし原子炉がメルトダウンし、原子炉が爆発したら、万事休す。
死の灰は、日本中に降り注ぐ。

●自由

 話は脱線したが、「自由」というのは、そういうもの。
損と得が、いつも隣り合わせになっている。
損にこだわっていたら、自由にはなれない。
深みにはまり、やがて身動きが取れなくなる。
フンギリをつけるときは、つける。
それが身を軽くする。
今回の原発事故には、そのフンギリがない。
つまり卑しき役人根性。

「やるべきことはします。しかしそれ以上のことはしません」と。
あとは責任逃れ。
そればかり。

アーア、また愚痴になってしまった!

●自由業

 自由業について、一言。

 今、この日本で、自由業と言えるような自由業というのは、ほとんどない。
農業にしても漁業にしても、補助金漬け。
補助金がなければなにもできない。
どう補助金漬けになっているかは、その世界の人なら、みな知っている。

町の小さな企業ですら、いかに公的機関の仕事を多く受注するかで、命運が決まる。
土建業を例にあげるまでもない。
つまりみながみな、「国」にぶらさがっている。
また「国」にぶらさがらないと生きていかれない。

 一方、私など、補助金の「ホ」も手にしたことがない。
国からそれらしきものを手にしたのは、出産時の祝い金だけ。
3人の息子たちが産まれるたびに、それをもらった。
10万円x3=30万円!
計30万円!

 だからこう言う。
「生き延びた」と。

●究極の選択

 人生には、潮時というものがある。
今が、そのときかもしれない。
私も63歳。
団塊の世代、第一号。

 ここでいつも究極の選択に迫られる。

(1) 健康な間に、好き勝手なことをする。
(2) 死ぬまで今のまま、がんばる。

 「好き勝手なこと」というのは、私の夢を果たす。
私には私の夢があった。
そう、あのとき私は、オーストラリアに移住したかった。
留学生活が終わったとき、そのままオーストラリアに残りたかった。
が、それができなかった。
郷里の母が、今にも死にそうな声でこう言った。
「帰ってきておくれ」「帰ってきておくれ」と。

 が、今ならそれができる。
だれにも遠慮せず、好き勝手なことができる。
ワイフも、それを言う。
「移住しましょうよ」と。

 おかしなものだ。
オーストラリアを知らないワイフのほうが、積極的。
どうしてだろう?

【セントレア空港で】

●シンガポール航空

 シンガポールからメルボルンまで、A380。
わかるかな?
エア・バス380だぞ。
世界最大の旅客機。
「2階席にしますか、1階席にしますか?」と聞かれた。
それでそれを知った。
もちろん私はこう答えた。
「2階席に」と。

 今や、シンガポールがアジアの中心。
東京ではない。
シンガポール。
1人当たりの国民所得でも、すでに日本は追い抜かれている。
だからそういう飛行機でも買うことができる。
世界最大の旅客機。
「日本は負けたね」とワイフに言うと、ワイフもあっさりとこう認めた。
「とっくの昔にね」と。

●ラウンジで

 出発まで1時間半。
ワイフラウンジで、軽い朝食。
意外と白人が少ない。
前後左右、みな、ジャパニーズ。
これも原発事故の影響か?
そんな印象をもった。

 が、うるさいことといったらない。
右横の家族は、ギャーギャーと大声で騒ぎあっている。
祖父母らしき両親を中心に、2人の娘と1人の息子。
それにその子どもたち(孫)。
その孫が4人。

 その向こう隣には、同じような組み合わせの家族。
子どもはいないが、やはり大声で騒ぎあっている。
のどかとは言いがたいが、平和な風景。

 それにしてもうるさい!

●うるさい

 左横の家族は、グアムへ行くらしい。
「グアム」と書いた大きな雑誌を開いたり、閉じたりしている。
さらにその向こう側の2人連れは、何やらを書類に書き込んでいる。
若い方の女性が、「ここはこう……」というような言い方で、もう1人の女性に指示
している。

 「あと1時間……」とワイフが言った。
搭乗ゲートは、14番。
一番、端。
今、右横の家族を見たら、そちらは「韓国」と書いた本を読んでいる人がいた。
あのうるさい家族は、韓国へ行くらしい。

韓国でも同じように騒ぐのだろうか。

 「早めに14番ゲートへ行くか」と私。
「うん」とワイフ。
ここはう・る・さ・い。
子どもたちまで、ギャーギャーと騒ぎ出した。

●14番ゲートで
 
 目の前に58インチのテレビがある。
震災で犠牲になったアメリカ人教師の話をしている。
右下の案内には、「日本人を愛したアメリカ人教師」とある。
「生徒の無事を確認したあと、津波に……」と。
名前は、テイラー・アンダーソンという。
そのテイラー・アンダーソンに対する義援金募集をしている。

 今度の津波で、多くの外国人も行方不明になっているという。
たぶん、もう生きてはいないだろう。
今の日本から、震災、津波、原発事故の話から逃れることはできない。
どこへ行っても、だれと話しても、その話ばかり。

●A330ー300

 飛行機に乗ると、すぐ、映画、「ガリバー旅行記」を観た。
おもしろかった。
で、すぐ食事とつづき、そのあと、睡魔。
1時間ほど、眠った。

 時刻は日本時間で、午後2時23分。
もう4時間も乗っている。
日本との時差は、ちょうど1時間。
シンガポールは、午後3時23分。

 機種は、エアバス330。
いろいろ頭の中をさぐってみるが、エアバスに乗るのは、これがはじめて?
ボーイング社の飛行機とは、内装が微妙にちがう。
ざっと見たところ、新品。
車でいえば、新車。
汚れもなく、真新しい。
30〜40年前には、アジアの国々は、みな、日本が払い下げた中古機を使っていた。
フィリッピン航空の飛行機などは、窓枠がさびていた。
が、今は、ちがう。
この世界も、すっかり様変わりした。

 画面にそのつど時速(対地速度)が表示される。
それによれば、518マイル(833km)とか。
ボーンイング777や747よりは、遅い?
このあたりは、いつも強い向かい風を受ける。
そのせいかもしれない。

●さらば、日本!

 若いときからそうだ。
だから、どうかそういう私を責めないでほしい。
私は若いときから飛行機に乗り、離陸したとたん、こう思う。
「さらば、日本!」と。
とたん、日本のことを忘れる。
小さな国。
それが日本。
何かにつけ、わずらわしい国。
それが日本。

 そのクセが今も残っている。
「さらば、日本!」と。
今、私ははじめて、震災や津波、それに原発事故を頭の中から振り払うことができた。
この2週間、本当に重かった。
「重い」というよりショック状態。
ゆううつな気分が、四六時中、頭の中を離れなかった。
……ということは、逆に、帰国するとき、どんな気分になるのだろう。
それが心配。

●『東洋航路』

 シンガポールまで、あと約2300キロ。
頭の中で計算する。
あと約3時間。

 これも私のクセ。
シンガポールへ行くたびに、W・サマーセット・モームの書いた『東洋航路』という
本を思い出す。 
東南アジアへの旅行記である。
学生時代、無我夢中で読んだ。
どこかの港での描写が、鮮明な記憶となって残っている。
それもあって、私は東南アジアが好き。
タイ、カンボジア、ベトナム、シンガポール、そして香港……。
どの国も好き。
違和感を覚えない。
 
●非国民

 ああ、今、本当に日本のことが頭から消えた。
震災で苦しんでいる人には申し訳ない。
原発事故と懸命に戦っている人には申し訳ない。
しかし今の私は、やっとその憂うつ感から解放された。
やっと気が楽になった。

 こういう私のような日本人を、「非国民」というのか。
わかっている。
しかし総じて言えば、……つまり私の過去を振り返ってみれば、日本は日本。
いろいろがんばってはみたが、私はいつもはじき飛ばされてばかりいた。
つまり相手にされなかった。

ほとんどの日本人は、「日本は自由な国」と思い込んでいる。
しかしどこに「自由」がある?
自由もどきの自由、つまり「自由」という幻想を信じているだけ。
自由に生きる人間を認めない。
その価値を認めない。

 ある新聞社の記者(女性)は、私にこう言った。
「林さん(=私のこと)、私たちはあなたのような人が、成功してもらっては
困るのです。
あなたのような人が成功するのを見ると、私たちは自己否定しなければなりません」と。

 「組織」という「束縛」の中で、みな、体中をがんじがらめに縛られている。
縛られているという意識さえないまま、縛られている。
またそれ以外に生きる道がない。
あの日本では……。

●官僚主義国家

 では、私には愛国心はないのか?……ということになる。
が、私にとって愛国心とは、「民」をいう。
「土地」をいう。
「国」ではない。
頂点に「天皇」がいて、その下に官僚制度がある。
その官僚制度が、日本という「国」の柱になっている。
日本が民主主義国家と思っているのは、私たち日本人だけ。

 日本という国は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、官僚主義国家。
そんな官僚主義国家を愛せよと言われても、私にはできない。
日本人も日本の文化も好き。
しかし「国」となると、どうしても好きになれない。

●自由と依存性

 41年前、オーストラリアに渡った。
毎日が驚きの連続だった。
が、その中でもオーストラリア人のもつ、あの「自由」には驚いた。
ある日、友人に招待され、小さな町に行った。
そこでのこと。
車の中にいっしょにいた中学生くらいの友人の弟が、こう言った。

「ヒロシ、あの橋には、X万ドルもかかったんだよ。無駄な橋だよ」と。

 これには驚いた。
そんな中学生ですら、税金の使われ方に目を光らせている。
一方、私たち日本人には、それがない。
万事、お上(かみ)任せ!

何かといえば、「国が……」「国が……」と。
何でも国がしてくれるものと、思い込んでいる。
その依存性こそが問題。
隷属意識と言い換えてもよい。
そういう精神構造を、「甘えの構造」ともいう。

つまり自由と依存性は、相克(そうこく)関係にある。
依存性が強い分だけ、自由への意識が薄い。
自由への意識が薄い分だけ、依存性が強い。

●キャンピング

 オーストラリアの学校には、「キャンピング」という科目がある。
「選択科目ですか?」と聞いたら、「必須科目」という。
つまり原野でも、ひとりで生きていかれる。
そんな子どもを育てるのを、オーストラリアの学校は目標としている。

 そのこともあって、オーストラリア人は、独立心が旺盛。
私が学生だったころでも、親のスネをかじって大学へ通っている学生は、さがさなければ
ならないほど、少なかった。
今は、もっと少ない。
奨学金を得るか、借金をするか、あるいは働くか。
それぞれがそれぞれの方法で大学へ通っていた。
友人の1人は、1年働き、1年大学へ通い、またつぎの1年働き……ということを繰り返
していた。

 その友人は、あいた時間を利用して、下着のセールスをしていた。
車のトランクの中に女性の下着をいっぱい詰めこんでいた。

●よみがえる思考回路

 おもしろい現象である。
飛行機でオーストラリアに近づくにつれて、忘れていた記憶がどんどんとよみがえって
くる。
あのころの自分が、そのまま戻ってくる。
思考回路まで、戻ってくる。
それに英語まで戻ってくる。

 日本で英語を話すと、このところ大きな疲労感を覚える。
が、今は、それがない。
この飛行機の中では、日本語のほうが、かえって話しにくい。
体で示すジャスチャまで、英語式。
オーストラリア式。

●機内サービス

 今回は、シンガポール航空を利用した。
オーストラリアへ行くときは、いつもカンタス航空を利用している。
戦後、一度も航空機事故を起こしていない。
世界でもっとも安全な航空会社。
それについてオーストラリアの友人に確かめると、こう教えてくれた。
「オーストラリアはオーストラリア独自の安全基準を作った。
世界の僻地(へきち)だったから、万事、手探りで、そうした」と。
つまりほかの国々のことがわからなかったから、独自の安全基準を作った、と。
それがかえって幸いし、今にみるカンタス航空を育てた。

 で、今回はシンガポール航空。
料金は、日本のJ社のそれより、やや安いといった程度。
(J社は、お高くとまりすぎ!)
現在、高級化路線を歩んでいるが、やがて裏目に出るはず。
ボロボロの飛行機を使って、高級化路線もない。
バカげている。
今度の震災以後、30%も客足が落ちているという(2011年3月)。

 一方、破竹の進撃を繰り返しているのがANA。
エアバス380の導入も決めている。
ボーイング787の購入もすませている。

 ワイフがこう言った。
「スチュワーデスの体型がみな、同じね」と。
みな、細く、スラリとしている。
それに美人ぞろい。
「きっと体型に関する機内規程があるんだろうね。
体重が50キロを超えたら、クビとか……」と。

美しいだけではない。
サービスも、たいへんよい。
ワインもビールも飲み放題。
先ほど座席の移動を頼んだら、こころよくそれに応じてくれた。
窓際の席から、4席あいている中央列の席に移動した。

【チャンギ空港にて】

●日本のニュース

 チャンギ空港では、乗り継ぎのための時間が、4時間半もあった。
その間に軽い食事。
何本か、飲み物を口にする。

 テレビではアメリカのニュース番組をそのまま流していた。
しばし、それに見入る。

 フクシマの原発事故も、アメリカでは経済ニュース。
もっぱら経済的な視点で論じられていた。
「損失はいくら……」とか、「復興費はいくら……」とか、そんな話ばかり。
すでに世界では、チェルノブイリ、スリーマイルと並び、世界の三大原発事故に
並べ始めている。

 そのニュースを見ながら、こんなことを考える。
もし戦後、沖縄が香港になり、東京がシンガポールになっていたら、今の今も日本は、
押しも押されぬ世界の経済大国として君臨していただろう、と。

沖縄を香港化すべきだった。
東京をシンガポール化すべきだった。
今や東証に上場している外資企業は、1けた台。
10社もない。
一方、シンガポールには、数百社以上。
チャンギ空港は、ハブ空港として、世界の経済の中継地になっている。

ラウンジで知り合ったイギリス人は、イギリスから来て、ここシンガポールで
飛行機に乗り換え、オーストラリアに向かうということだった。
どうしてそれを羽田でしないのか?
羽田で乗り継がないのか?

航路的にも、(イギリス)→(北極)→(羽田)→(オーストラリア)のほうが、
短い。

●日本vs外国

 シンガポールまで来ると、こう考える。
「何も、日本にこだわる必要はないのではないか」と。
ワイフも同意見。
世界の人たちは、もっと自由に、「国」を考えている。
EUを例にあげるまでもない。
言い換えると、日本も、外国をそういう目で見る必要がある。
「日本だ、外国だ」と、垣根を高くすればするほど、日本のほうが世界ののけ者に
なってしまう。

 わかりやすく言えば、日本で仕事がなくなれば、外国へ行けばよい。
外国で働けばよい。
そのあたりを、もっと気楽に考えたらよい。
ラウンジで会ったイギリス人の男も、そう言っていた。
親や兄弟は、オーストラリアに住んでいる。
が、自分の家族はイギリスに住んでいる。
たがいに行ったり来たりしている、と。

●A380

 目を覚ますと、アデレード上空まで来ていた。
眠ったのか、眠らなかったのか、よくわからない。
何かの夢を見たようだが、よく覚えていない。
シンガポールとメルボルンの時差は3時間。
私が目を覚ましたのを見ると、ワイフがこう言った。
「星空がきれいだった」と。

 星と言えば、南十字星。
サザン・クロス。
オーストラリアへ着いたら、真っ先にワイフにそれを見せてやりたい。

【メルボルンにて】

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 空港からはデニス君の車で市内に向かった。
そのままインターナショナルハウスへ。
ボブ君が、ゲストハウスを予約しておいてくれた。
荷物を置いて、そのままデニス君の家へ。
車で1時間ほど。
カーネギーという地名。

 ……仙台市のことを「杜(もり)の都」という。
豊かな街路樹に覆われ、夏でも涼しげな森の影をつくってくれる。
が、もしあなたがメルボルンを見たら、「杜」の概念が変わるだろう。
とくにこのローヤルパレード通りを見たら、変わるだろう。
どう変わるかは、ここに書けない。
書けないが、変わるだろう。

昔からこう言う。
メルボルンの中に、公園があるのではない。
公園の中に、メルボルンがある、と。

 カーネギーでは、数時間を過ごした。
その間、ワイフは、2時間ほど、友人の家で眠った。
私たちは、つまりデニスとボブと私は、いろいろ話した。
で、ワイフが起きたのをみはからって、近くの日本料理店へ。
最近開店したという。
私とデニスは、オーストラリア式の天丼。
ボブは、オーストラリア式のうな丼。
ワイフは、これまたオーストラリア式の牛丼を食べた。

 どれも日本的というだけで、日本のものとはちがう。
また値段にしても、天丼よりうな丼のほうが安かったのには、驚いた。
AS$で、8〜9ドル前後だった。
「このあたりには、モナーシュ大学の留学生が多く住んでいる。
だからこういう店が多い」と。

 通りには日本料理店のほか、ベトナム料理店、マレーシア料理店、
中華料理店などが並んでいた。
帰りに私とワイフは、八百屋で、果物を何種類か買った。
イタリア風(ギリシャ風?)の八百屋で、一種類ずつ大きなコーナー
に、山積みにして売っていた。

●ワイフの印象

 ワイフはメルボルンの街並みを見ながら、「ディズニーランドみたい」と言った。
1度や2度ではなく、何度もそう言った。
家々の形や色、それがディズニーランドのそれみたい、と。

 人によってメルボルンの印象はちがうだろう。
「おもしろい見方だな」と私は思った。
が、そのうち私も、そういう目で見るようになった。
「たしかにそうだ」と。

 家々の中には、子どもが喜ぶようなアトラクションこそないが、無数の見知らぬドラマ
が詰まっている。
たとえば車の中から見かける電車にしても、バスにしても、異国風というよりは、ディズ
ニーランドのそれ。
カラフルで、それが秋の白い陽光を受けて、まぶしいほどに輝いていた。

●インターナショナル・ハウス

 イギリスのカレッジ制度の説明をするのには、時間がかかる。
日本で考える「寮」とは、趣をかなり異にする。
また日本で考える「寮」をそのまま当てはめて考えてはいけない。

簡単に言えば、「ハリーポッターの世界」。
全寮制であると同時に、カッレジ自体が大学の機能を分担する。
ほかのカレッジから学生がやってくることもある。
もちろんその反対のこともある。

食事は毎回、フルコース。
学生たちはローブと呼ばれるガウンを身につけ、食事に臨む。
もちろん正装。
当時は、そうだった。

 が、その後オーストラリアも、変わった。
政権が変わったり、不況を経験したりした。
「予算が削られた」というような理由で、簡略化された。
が、何よりも変わったのは、男女共学になったこと。
若い女子学生が多いのには、戸惑った。
私たちの時代には、男子専用のカレッジだった。

●ハイテーブル

 私は寮長の横、つまりハイテーブルで食事をすることになっている。
食堂は、大きくハイテーブルとローテーブルに分かれる。
数段高い位置にあるのが、ハイテーブル。
アンダーグラジュエイト(一般大学生)が座るのが、ローテーブル。

もしそれもよくわからなかったら、映画の1シーンを思い出してほしい。
そこはまさに「ハリーポッターの世界」。

 そういう意味では、あの映画はカレッジ制度を理解するのには、役立つ。
メジャーな教育は、大学構内の中で受ける。
それ以外のマイナーな教育は、カレッジで受ける。
カレッジでの教師はチューターと呼ばれる。
そのチューターたちが、アンダー・グラジュエイト(大学生)の教育をする。

●1970年

 1970年。
大阪で万博が開かれた年である。
その年に私はメルボルンに向かった。
正田氏(美智子皇后陛下の父君)が、「どこの大学にしたいか」と聞いた。
私は迷わず、「メルボルン大学」と答えた。
すかさず正田氏が聞いた。
「どうしてだ」と。

 私はさらに胸を張ってこう答えた。
「日本からいちばん遠いからです」と。

 その当時の人口は、300万人。
そんなメルボルン市にも、日本人の留学生は、私1人だけ。
通産省から1人、研修生が来ていたが、彼は数か月で帰ってしまった。

 当時の日本人は、それなりの人物による身元引き受け人がいないと留学が
できないしくみになっていた。
その身元引き受け人に、正田氏がなってくれた。

●アルバイト

 日本円に換算すると、当時の寮費は、月額20万円前後。
1ドルが400円の時代だった。
また大卒の初任給が、やっと5万円に届いたころ。
往復の飛行機料金(羽田・シドニー間)が、42万円前後。
それだけでも、私には気が遠くなるような金額だった。

 が、アルバイトができなかったわけではない。
日本領事館の井口氏や、M物産の支店長らが、そのつどアルバイトを回して
くれた。
たいていは観光案内。
日本からやってくる政治家や実業家を、案内して回る。
その中には、たまたまハイジャック事件で北朝鮮に渡った、山村運輸政務次官もいた。
あの事件のあと、山村氏は、メルボルンにしばらく身を隠していた。
理由は、聞いていない。

なおアルバイト料はあとから受け取ったが、それよりも日本料理を腹いっぱい食べ
られるのが、何よりもうれしかった。
当時、コリンズ通りだったと思うが、路地を入ったところに一軒だけ、日本料理店が
あった。
当時の日本料理は、それこそひとつが、?万円を超えるほど、高級料理だった。
まぐろの刺身にしても、そのつどコック長が、マグロをそのまま席へもってきて、
どこを食べるか聞いた。

 私はすぐその料理店のみなと、親しくなった。

●ゲストルーム

 ゲストルームは、ハウスの裏手にあった。
部屋は4ルーム。
2つのベッドルームのほか、キッチンや談話室が備わっていた。
実のところ、私も、そんなところにゲストルームがあるとは、知らなかった。
ハウスには、毎週のようにノーベル賞級の学者がやってきて、私たちといっしょに
生活した。
そうしたゲストたちが、そこに泊まっていた。
が、今回は、私たちの番。

いつもそう思うのだが、オーストラリアでは、すべてが大ざっぱ。
シャワーにしても、ザーッと水が出るというよりは、ドカーッと出る。
タオルに石鹸をつけて体を洗おうとしても、石鹸のほうが先に落ちてしまう。
こちらの生活に慣れるには、それなりの時間がかかる。

●家具

 家具も、大ざっぱ。
日本的なこまかい細工はない。
ないかわりに、しかしどれも本物の木材を使っている。
ベットの横に小さな小物戸棚があるが、ワイフは動かすことすらできなかった。
ドシンと重かった。

「100年先、200年先を考えて、こういう家具を使っているのだね」と私が言うと、
ワイフも、「そうねえ」と。
どこか感慨深そうだった。
年数がさらに重みをます。

 このゲストルームにしても、100年近く前に建てられたもの。
外観は古いが、あちこちに歴史的な重みを感ずる。
加えて、独特の、あのにおい。
白人の体臭というか、なめし皮のにおい。
床のジュータンと、乾いたペンキのにおい。
そのにおいに包まれると、そのまま41年前にタイムスリップしてしまう。

●食事

 夕食は6時半から。
この時刻は、41年前と変わっていない。
私とワイフは、寮長(ウォードン)の横に並んで座った。
たまたまホッケーで活躍した女子学生たちも、ハイテーブルに並んだ。

 最初のスピーチで、寮長が私たちのことを紹介した。
「41年ぶりに、この2人の紳士がこのハウスに泊まります」と挨拶すると、食堂から
拍手がわいた。
うれしかった。
私の名前も写真も、ハウスの記録の中に残っていた。
うれしかった。

●話題

 「日本」というと、すぐ「津波」と「原発事故」の話になる。
私は冗談を交えながら、話題をそらした。
寮長も、対面して座った女子学生たちもそれを知って、話題を変えた。

 不思議なものだ。
ハウスに入ったとたん、ワイフにまで英語で話しかけている。
へたくそな英語の上に、あのオーストラリアン英語。
わかってくれたのかどうかはわからない。
そのつどワイフも、英語で答えてくれた。

 このハウスでは、アジア人でも外国人。
日本人的な顔をしていても、外国人。
ワイフもその外国人に見えた。
……というか、日本語と英語を同時に話すのは、疲れる。
本当に疲れる。

【4月1日】

●花博覧会(4月1日)

 たまたまメルボルン市で、花博覧会が開かれていた。
今日の目的は、その花博覧会を見ること。

 ボブとデニスが案内してくれた。
ワイフはやや疲れ気味。
私たちはローヤルパレード通りをシティ(町)のほうへ歩き、
そこからトリィニティ・カレッジを通り抜けた。
中世の城を思わせるカレッジである。
このカレッジだけで、ひとつの大学がすっぽりと入ってしまうほど広い。
通りがかった人(教授?)に人数を聞くと、270人の学生と30人の
ポスト・グラジュエイト(修士・博士課程)の学生がいるとのこと。
そう教えてくれた。

 それから一度、大通りに出て、花博覧会に向かう。

●馬車

 花博の会場からは、トラム(市内電車)で、フリンダース駅に向かう。
日本で言えば、新宿のようなところ。
その前に、あの荘厳な、St.ポール大寺院がある。

 4人で入る。
「写真を撮っていいか」と聞くと、売店の女性が「いいです」と言った。
しかし私は撮らなかった。
あまりにも畏れおおい。
その荘厳さに圧倒された。

 大寺院から出たところに、2頭だての馬車が泊まっていた。
さっそく料金を交渉。
4人で100ドルでよいと言った。
加えて20ドルのチップ。
120ドルを渡した。

 御者は気をよくして、街中をあちこち回ってくれた。
私たちは、1時間ほどかけ、ハウスに戻った。

●会食

 夜はデニス君が夕食に招待してくれた。
デニス君の娘が2人と、婚約者が来ていた。
私たちはスキヤキを食べた。

 日本的なスキヤキといった感じだった。
ネギの代わりに、タマネギを使っていた。
焼き豆腐の代わりに、ふつうの豆腐を使っていた。
肉はもちろん赤肉。
霜ふり肉など、このオーストラリアにあるはずもない。

 「日本にスキヤキと同じか?」と、数回聞かれた。
「シミラー(similar=似ている)」と答えた。
「日本のスキヤキに似ている」という意味で、そう言った。

 その席で、デニスの娘のタミーが、「結婚式に来てほしい」と言った。
「いいよ」と答えた。
ハネムーンは、日本へ来るという。
「日本ではぼくがめんどうをみてあげるよ」と言うと、うれしそうに
笑った。

フィアンセの名前は、Luke(ルーク)という。
以前から私は彼のことを、「スカイウォーカー」と呼んでいる。
映画『スターウォーズ』の主人公の名前が、ルーク。
それでそう呼んでいる。

●4月2日

 4月2日、朝早く起きて、サザン・クロス駅に向かう。
昔は「スペンサーSt.駅」と呼んだ。
そこからオーバーランド号に乗って、友人の自宅のあるボーダータウンに
向かう。

 いつ走り出すともわからない列車。
平均時速は85キロとアナウンスされたが、その速度もなかった?。
ノロノロ……というか、ガタンゴトン……といったふう。

 やがて2人の若い男がやってきて、朝食の注文を取りにきた。
私たちは一番値段の高いのを注文した。
高いといっても、12ドル前後。

●メルボルンからジーロンへ

 以前とは列車の走るコースが変わっていた。
以前は一度バララートへ出て、そこからアデレードに向かった。
今は、一度ジーロンまで南下し、そこからアデレードに向かう。
友人の話では1995年に変わったという。
列車の線路幅も、そのとき現在の線路幅になったという。

 ジーロンはこのあたりの工業地帯。
以前は羊毛の輸出港として栄えた。
昨夜日本料理店へ招待してくれたデニス君の生まれ故郷でもある。
途中、ジーロン・グラマー・スクールがある。
デニス君は、その学校に幼稚園児のときから、高校2年生まで通った。
そこで1年飛び級をし、メルボルン大学へ。
修士号を得た後、今はモナーシュ大学で働いている。

 皇太子の娘の「愛子さん」も、一時は、この学校に通うという話が出た。
その話はどうなったのか。

●田園風景

 それからは5時間あまり、単調な田園風景がつづく。
行けども行けども、牧場と穀倉地帯。
4月ということもあって、つまりオーストラリアでは秋ということも
あって、枯れた平原。

 気が遠くなる……というより、ぼんやりと見ていると、眠くなる。
ワイフも、私も、ときどき眠った。

 昼食も同じようにして、とった。
私たちはみな、いちばん値段の高い料理を注文した。

●人間臭さ

 サザン・クロス駅の話に戻る。
日本でいう車掌たちが、自由な服装をしてたがいに話し込んでいた。
日本では見られない光景である。
ワイフは目ざとくそれを見て、こう言った。
「ズボンだけは同じみたい」と。

 私は「何とだらしないことよ」と思った。
が、やがて私の常識のほうがおかしいことを知った。

 車掌は、名簿から私たちの名前を見つけると、楽しそうに話しかけてきた。
それ以後、私たちを見ると、ファーストネームで私たちを呼んでくれた。
が、何と言っても驚いたのは、ジーロン駅でのこと。
オーバーランド号は、20分も早く、ジーロン駅に着いた。
車内アナウンスが、「ここで17人の客を乗せる」と言った。

 列車はしばらくそこに停まった。
曜日によって、市内を回るコースと、郊外の駅を回るコースがちがうらしい。
が、その17人が乗った。
とたん列車が動き出した。
時刻表も、客しだい。

 つまり、それを「自由」という。
日本では、考えられない。

【ボーダータウンにて】

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●ジューン

 ボーダータウンには、ボブの母親が迎えに来てくれていた。
今年84歳になるが、シャキシャキとしているのには驚いた。
話し方も、41年前と同じ。
名前をジューンという。
私はいつも「ジューン」と呼んでいる。
5、6年前に、一度、日本へ来てくれたことがある。
そのときは、長野を案内した。

 そのときのこと。
ジューンは日本式(スリッパ型)のトイレの使い方がわからず、苦労した。
楽しい思い出がどっとよみがえってきた。

●1・6エイカー

 ボブの家の敷地は、1・6エイカーもある。
16000平方メートル。
坪数に換算すると、約5000坪。
どんな広さかといっても、文では表現できない。
見たままの広さということになる。

 が、このあたりでは平均的。
「平均的」ということは、平均的。
町の中では、200〜300坪的の家もあるが、郊外へ足を延ばすと、10エイカー
前後の家はいくらでもある。
町の中で中華料理店を開いているT氏の家は、見渡すかぎり、彼の敷地。
その一画を囲んで、自宅の敷地としていた。

 遊びに行くと、裏手に牧場があった。
羊が、30〜40頭、群れをつくっていた。
「あなたの羊か?」と聞くと、「だれかが勝手に草を食べさせている」と。

 ボブの家も。その一角をフェンスで囲み、自宅としている。
「囲む」ということは、日本風に言えば、「垣根」ということになる。
その垣根の中では、芝生がこの時期でも青々と育っている。
家に着くと私は何枚か、写真を撮った。

●物価

 オーストラリアへ来て驚いたのは、物価が高いということ。
自動販売機で買う飲食物にしても、3ドル〜3・5ドル前後。
現在の為替レートで計算しても、240〜290円。
量はやや多いが、だいたい2倍前後とみてよい。
(現在、1オーストラリアドル=94円前後。)

 言い換えると日本円が、それだけ弱いということ。
本来なら、つまり同等になるためには、1ドル=50円前後が妥当。
さたに言い換えると、日本ではその分だけ、「無駄」が覆いということ。

 公共施設は立派だが、民家はボロボロ。
オーストラリアでも、ある程度の差はあるが、国の富が一般家庭にまで、
平等に行き渡っている。
それでもオーストラリアの人たちはみな、こう言う。
「オーストラリアも官僚主義的になってきた」と。

 わかりやすく言えば、こういうこと。
本来なら、1本50円前後で買えるはずのジュースを、日本人は120円で
買っている。
税金だか何だか知らないが、無駄な人に無駄な仕事をさせておくために、
そうしている。
そういう矛盾が、こういう国へ来てみると、よくわかる。

●夕食

 夜、ジューンさんが、夕食に招待してくれた。
料理は、ケーキとピザ。
イタリア人の女性も来ていた。
話しは、メルボルンで食べた日本食になった。
それについて話すと、そのイタリア人、名前をサンタと言ったが、
サンタはこう言った。

 「オーストラリアではピザにパイナップルをのせているのには、驚いた」と。
「日本でもパイナップルをのせる」と話すと、「イタリアではのせない」と。
それぞれの国では、それぞれの国の人に舌にあわせて、料理を作り変える。
それはそれでよいことかもしれない。

 なおイタリアでは、「ロメオとジュリエット」のことを、「ジュリエッタとロミィオ」と
言うのだそうだ。
「オーストラリアへ来て、いろいろなものが、逆になっているのを知って驚いた」と。
ほかにもいろいろな例をあげて、話してくれた。

●原稿

 実は、この数日、原稿を書いていない。
現在は、4月6日。
旅行最終日……というか、午前の便で日本へ帰ることになっている。
時刻は午前3時(南オーストラリア時間)。

 忙しくて、自分の時間がもてなかった。
が、今朝は3時に目が覚めてしまった。
ワイフが時計を読みまちがえた。
あるいは、私が聞きまちがえた。
「6時?」と思って起きたら、3時だった。
今朝は、ワイフのために簡単にアデレード市内の観光をすませ、そのあと空港に
向かう。

●中華料理店

 先にボーダータウンの中華料理店について書いた。
経営者は、45歳になるT氏。
あの天安門事件のときには、北京大学にいた。
そのあとオーストラリアに逃げてきて(?)、しばらくシドニーに住んだという。
ボーダータウンに移り住んだのは、そのあと。

 その中華料理店は、木、金、土、日の4日だけ開いている。
しかも午後4時以後のみ。
それでいて郊外には、日本人の常識では考えられないような大豪邸に住んでいる。
敷地の広さは先にも書いた。
が、家の広さにも度肝を抜かされる。
居間だけでも、日本的に言えば、40畳前後。
どの部屋も、20畳前後。
そういう部屋が、居間を取り囲んで、10室前後もある。

 家全体を遠くから見ると、小さく見えるのは、それだけ天井が高いから。
「どうしてこんないい生活ができるのか?」と思いながら、その一方で、「日本人は
どうしてこんないい生活ができないのか?」と。
理由は、あなたの家の近くにある公共施設を見れば、わかるはず。

 いいか、日本人!
私たちは、本来なら、もっとよい生活ができてもよいのだぞ!
税金を安くして、その分のお金を私たち自身に使わせてほしい。
……とまあ、またまた愚痴。
やめよう、こういう話は……。

●老人村

 ボーダータウンにも、「老人村」というのがある。
「オールドマン・ビレッジ」という。
町の一角全体が、その老人村になっている。

 「村」といっても、もちろん日本的な「村」ではない。
ごくふつうの住宅街。
1棟に2家族、もしくは1人ずつが住んでいる。

 で、その村の中には、幼稚園がある。
「老人は幼児が好きだから」と。
また道をはさんで、そのとなりには、日本でいう「特別養護老人ホーム」もある。
歩けなくなったような老人は、そのホームに移り住む。

 「オールド・マン」という言い方は、好きではないが……。

●広大な土地

 オーストラリアへ来たら、広大な土地を楽しむのがよい。
楽しみ方は、さまざまだろう。
しかしそれを楽しむのがよい。

 行けども行けども、牧場、農地……。
まばらに点在する羊や牛の群れ。
ときどき馬も見える。

 残念ながら今回は、カンガルーを見ることはできなかった。
そのかわり自然公園で、美しい鳥を見ることができた。

 で、その楽しみ方だが、ぼんやりとそれをながめる。
私のばあいは、そうしている。
そのうちウトウトと眠くなるが、それはそれで構わない。
それだけで心が洗われる。

 偏頭痛もちの私だが、オーストラリアを出発してから今日まで、偏頭痛は
一度も起きていない。
「心を洗う」というのは、そういうことをいう。

●独立心

 オーストラリア人がもつ独立心には、驚く。
親子でも、「つながり」は太いが、まるで他人。
そういうつきあい方をする。

 アデレードには、友人の母親もついてきたが、みな、別々のホテル。
息子や娘の住む家もあるが、そこには泊まらない。
息子や娘も、親を泊めようという意識さえない。
日本人の私には、何とも殺伐とした親子関係に見える。
が、それがオーストラリア人の生き様ということになる。

 「日本では、親子がいっしょに住むことが多い。
三世代、四世代住宅というものある」と話すと、みな、驚いていた。

●観光地

 いくつかの観光地も回った。
しかし私には、街の中の店を見て回るほうが、楽しい。
わけのわからない店を見つけるたびに、それがどんな店かを聞いた。
それが楽しい。

 ただ、どの店も、ガラ〜ンとしている。
客の姿など、めったに見ない。
メルボルンでも、ボーダータウンでも、またアデレードでも、そうだ。
日本風に言えば、「よくやっていけるな」となる。

 わずかな客を相手に、太々(「細々」ではない)と暮らしている。
「ラッキーカントリー」とはよく言ったもの。
穴さえ掘れば、彼らは生きていくことができる。
国中、鉱物資源だらけ。

●韓国製

 現在、オーストラリア第一の貿易相手国は、中国になっている。
数年前に、日本は追い抜かれた。
中国の巨大資本の進出も目立つ。
その日本のあとを、韓国が追い上げている。
それが現在の、オーストラリアということになる。

 「日本は何をしているのだ!」と叫びたくなるほどの、体たらく。
日本は「馬力」そのものを失ってしまった。
が、これだけは言える。

 日本人は、とくに日本の若者たちは、今に見る日本の繁栄は、永遠のものと
思い込んでいるかもしれない。
食料にしても、天から降ってくるもの、と。
しかし今に、日本の「円」は紙くずになる。
すでにここ数日、その徴候が現れてきている。
へたをすれば、国家破綻(デフォルト)。

 では、どうするか?
日本は「人材」で勝負するしかない。
それを支えるのは、教育しかない。
そういう現実、つまり教育の重要性がまるでわかっていない。

●日本の教育

 今の日本は、「たくましい子ども」を育てる構造になっていない。
まわりを見ても、キバを抜かれた、おとなしい子どもばかり。
むしろ腕白で、自己主張のはげしい子どもを、避ける傾向にある。
親たちの間でも、嫌われる。

 が、日本を一歩出れば、そこは海千山千の世界。
そんな連中を相手に、これからの日本人は、どう戦っていくというのか。

 で、韓国製の話。
今、韓国は、「この時」とばかり、日本の追い落としにかかっている。
竹島(独島) に、放射能見地装置を設置したり、放射能漏れを韓国政府に
通知しなかったと怒ってみせたり……。
あのトヨタのプリウス問題のときは、韓国紙はこう書いていた。
「こんなチャンスは、いつまでもつづくはずがない」と。

 このホテルのテレビは、ヒュンダイ製(韓国)、大型クーラーは、LG(韓国)。
駐車場には、まだ少数派だが、ヒュンダイ(韓国)の車も目につく。

 日本はこういう現実を、もっと知るべき。
知った上で、教育論を組み立ててるべき。

【アデレードからシンガポールへ】

●帰りの飛行機

 もう帰りの飛行機。
3月30日に日本を離れ、今日は4月6日。
名古屋に着くのは、明日。
4月7日。

 空港で、ボブとジューンに別れを告げる。
目頭が熱くなる。
昨日は、4時間をかけ、ボーダータウンからアデレードまでやってきた。
美しさでは、世界でも3本の指に入る。
美しい都市である。

 眼下には、すでにオーストラリア大陸が見える。
その右には水色の海。
淡く深みのある水色が、美しい。
ワイフは先ほどから、窓の外を見つめている。
しばらくすると、「赤い大地が見てきた」と言った。
「イグアナの背中みたい」とも。

●生活水準

 生活水準とは何か。
オーストラリアへ来るたびに、それを考える。
考えるが、そのたびに、日本はいったい何を求めてがんばってきたのか、
それがわからなくなる。

 たとえばおとといの朝(3月4日)、ジューンといっしょに、朝の散歩会に参加した。
45分ほど、ボーダータウンの街の中を歩いた。
そこでのこと。
私たちは広い公園の中を歩いていた。
小さなポールが立っていて、そこには犬の糞を始末する袋がつりさげられていた。
両手で引っ張ると、ボックスの中から、ショッピングバッグのようなものが出てくる。
犬の糞を、それに入れて始末する。

 それを「生活水準」という。
生活の「質」という。

●シンガポール航空

 再びシンガポール航空。
A330−300。
今日の便は、ほぼ満席。
サービスのよさでは、オーストラリア人でさえ、太鼓判を押す。
空港には、あるべきはずの日本の飛行機は一機もなかった。
羽田行きのANAは、キャンセルになっていた。

かわりに、シンガポール航空の飛行機が、数機翼を連ねていた。
シンガポールのチャンギと、日本の羽田。
位置的には、ヨーロッパへ行くなら、羽田回りのほうがよい。
それがチャンギ。

 若いころの私なら、かなり悔しがっただろう。
が、今は、ちがう。
おかしなニヒリズムが私の心を支配している。
「どうにでも、なれ!」と。
若い人たちのBLOGを見ていると、私たちの世代はすでに、「ゴミ」。
好き勝手なことを書いている。

 そういう若い人たちに現実を教えるためには、彼らを一度、「どん底」へ落として
みる必要がある。
つらい選択だが、そうするしかない?
高校生でも、私が、「日本は……」と言っただけで、眉をしかめる。
「ダサい!」と言って、はねのける。
「日本」を論ずることさえ、忘れてしまった。

●みやげ

 いつものことながら、今回も、みやげで困った。
どれも中国製。
「これは!」と思って手にしたものでさえ、中国製。
アメリカでもそうだった。

 オーストラリアで中国製のみやげを買って帰る。
何ともバカ臭い話。
が、それを嫌っていたら、何も買えない。
私とワイフは、スーパーマーケットを回りながら、日常的な食料を買い、それを
みやげにした。

●モーテル

 昨夜はモーテルに泊まった。
ボブが気を利かせて、料金が安いモーテルを選んでくれた。
私としては、アデレード一の、たとえばヒルトンホテルかどこかに泊まるのも一案だった。
最後の夜だった。
それに旅費だけでも、2人分で、28万円弱。
ホテル代をケチっても意味はない。

 しかし友人の気遣いを無視するわけにはいかない。
「ありがとう」と言いながら、友人のやさしさに感謝した。

●観光地

 見慣れない鳥、見慣れない植物。
そういうものを見ているだけで、楽しい。
オーストラリアにももちろん、観光地というのはある。
古い村とか、原始的な大木とか……。

 メイは、「ハサミの突き刺さった木」を案内してくれた。
メイというのは、ボブの前の妻。
今は、ボーダータウンの診療所で医師をしている。

「ハサミの突き刺さった木」というのは、昔、羊飼いたちが、羊の毛を刈ったあと、
ハサミを投げて遊んだ木である。
ダーツのようにして、的に当てて遊んだ。
ところどこにそのハサミの残骸が残っている。
そういうのが、このオーストラリアでは、観光地ということになる。

 「そんなものが?」と思う人も多いかもしれない。
私もそう思った。
日本で観光地と言えば、……そんなことは、ここに書くまでもない。

●睡魔と空腹感

 飛行機は今、赤い大地の上を飛びつづけている。
地表近くを、白いモヤがただよっている。
このあたりまでくると、農場の区画はもう見えない。
荒れた大地。
そんな感じがする。
時刻は、……アデレードを飛び立ってから、もう1時間10分。

 行けども行けども、広い大地。
気が遠くなるほど広い、大地。
ワイフは、先ほどから映画を観ている。
昼食が配られ始めた。
睡魔と空腹感が、同時に私を襲い始めた。
「昼食をとったら、眠ろう」。
今、そんなことを思った。

●未来

 食事後、飛行機の中で一眠りした。
気持ちよかった。
目を覚ますと、ワイフが横から、「トイレに行ってもいい?」と聞いた。
しばらくがまんしていてくれたらしい。
飛行機の座席は、狭い。

 時刻は南オーストラリア州時刻で、午後4時12分。
もう4時間も乗っている。
4時間も、オーストラリアから遠ざかった。

 「夢のような……」という言い方は、いつも大げさな感じがする。
しかし41年前のオーストラリアは、私にとっては夢のような毎日だった。
それがそのままそこにあった。

 古い建物をそのまま残すというのは、そういう意味でも大切なこと。
新しいものがつねに古いものの上に成り立つなら、「今」もやがて破壊される。
もしそうなら、「今」を生きることさえ、無駄になる。
「今」がつねに「未来」の犠牲になってしまう。

……現実はそうかもしれないが、老人にとっては、それほど過酷な世界はない。
「今」が「未来」に残るという可能性があるから、またそれを信じているから、
私たちは未来に希望を残して生きることができる。

 インターナショナル・ハウスや、メルボルン大学のほかのカレッジは、そのまま
残っていた。
それ自体が、私に大きな安心感を覚えさせた。
もちろん多くの近代的なビルも、たくさんふえていたが……。

●不規則性の中の規則性
 
 機体はインドネシア上空にさしかかったはず。
シートベルト着用のサインが点灯すると同時に、飛行機が大きく揺れだした。
この文を叩くのが、難儀に思われるほど揺れだした。

 刻々と飛行機の位置が座席の前のディスプレイに表示される。
飛行機は今までの直線的な飛行をあきらめたのか、大きく左へ旋回し始めた。
理由はよくわからないが、気流がかなり荒れているらしい。
窓をあけてみると、下にインドネシアの島々が見える。
オーストラリアとちがい、濃い緑に包まれた島々だ。
その上に、島のような白い雲のかたまりが、ボコボコとあちことで天に向かって
伸びている。
日本で言う入道雲のようなものか。
それが全体として、遠くから手前に向かって、ゆるやかな円弧を描いている。

 不規則性の中の規則性?
不可実性の中の確実性?
人間の生活に似ている。
みなそれぞればらばらなことをしながら、結局は一定のワクの中で生きている。
生と死は、それを永遠に繰り返しながら、そのあとに無数のドラマを残す。

●聖地

 今回の旅行は、私にとっては、聖地めぐりのようなものだった。
だれにでも、心の聖地がある。
神聖にして侵すべからざる聖地。

 キリスト教徒がキリストの生誕地を求めるように、私はいつもあのハウスを、心の
聖地としてきた。
私はあのハウスから始まり、結局は、そのハウスから一歩も外に出ることはなかった。
それが今回の旅行で、よくわかった。

 ただひとつだけ大きくちがうのは、ワイフがずっと横にいたこと。
あのころの私は、見た目には派手な生活をしながら、いつも寂しかった。
その寂しさがなかった。

 ワイフにしてもそうだろう。
私がこんな私だから、私に近づくことさえできなかった。
だからアデレードに着いてから、こう言った。

 「メルボルンを離れるとき、涙が出た。
あなたの人生が、ここにあると、やっとわかったから」と。

●ドラマ

 私も63歳。
得たものも多いが、同時に失ったものも多い。
そのままのものも多い。
大切なことは、失ったものを嘆かない。
得たもの、残ったものを大切にして生きる。

 友人の中には、妻を失った人、離婚した人、子どもと疎遠になった人、さまざまな
人がいる。
消息をたずねると、いろいろなことがわかった。
それが祖父母と息子や娘、さらに孫と、層を重ねるように複雑にからみあっている。
表面的にはともかくも、みな、懸命にそれと闘いながら生きている。
若いころは羽振りのよかった人も、今は、年金生活。
そんな人もいた。
それも今回の旅行でよくわかった。

●日本へ帰る 

 もうすぐ日本へ帰る。
「日本よ、さらば!」と言って、日本を出た。
その私が再び、日本に戻る。
日本人に戻る。

 原発問題。
経済問題。
この2つが、またまた大きなテーマになりそう。
本当なら、相手にもしたくないような小さな国だが、相手にするしかない。
相手にされないとわかっていても、相手にするしかない。
小さな国といっても、その小さな国で、私はさらに小さい。

 あたりを見回しても、左前の席に座っているアジア人をのぞいて、みな欧米人。
髪の毛の色と太さがちがう。
この中で、いくら私が声高に、自分を主張しても、だれも耳など傾けてくれないだろう。
私は私で、小さな日本人として生きていくしかない。
遠い遠い道を残しながら、生きていくしかない。

 何かをしてきたようで、結局は何もできなかった。
今度の旅行は、それを私に教えてくれた。
あとは落穂拾いする女性たち(ミレーの絵画)のように、残り少ない人生を、より
有意義に、楽しく生きていくしかない。

 つぎはx月に、アメリカに住む二男をたずねてみる。
先日電話で、二男にそう約束した。

(2011年4月6日、日本時間、午後4時10分。チャンギ空港着陸を目前して)

(1)メルボルン大学
インターナショナルハウス
友人の自宅へ
(2)メルボルン大学
メルボルン市内
花博
(3)ボーダータウン
南オーストラリア州
ボブの家
(4)ボーダータウンの町
ボーダータウン(2)
(5)ボーダータウンから
アデレードまで
(6)アデレードへ
マウント・ロフティ
(7)アデレードの町の中
メルボルン市内から、
メルボルン大学I.H.まで
旧友と馬車に乗る
メルボルンから
ボーダータウンまで、
オーバーランド号に乗る



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●湯谷温泉・泉山閣にてはやし浩司 2012−04−08

【日本は……!】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

春休み最後の1日は、湯谷温泉、泉山閣で過ごすことにした。
浜松市内から、車で、1時間ほど。
静岡県と愛知県との県境。
ひなびた山あいにある温泉郷。
昔からある由緒ある温泉郷。

この泉山閣には、こんな思い出がある。
「思い出」というよりは、私はこの温泉で、はじめて温泉のよさを知った。
以来、病みつきになってしまった。
つまり温泉巡りが好きになった。
それまでの私は、「温泉というのは、ジジババ様の行くところ」と考えていた。
が、気がついてみたら、私がそのジジ様になっていた。
その洗礼を受けたのが、この泉山閣。
私にとっては、大切な旅館である。

何もかもどこか古くて元気はないが、仲居さんたちのやる気度は満々。
テカテカの大理石も悪くはない。
しかし田舎らしい(失礼)、素朴なサービスを楽しむことができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司



●山育ち

 私はもともと山育ち。
そのせいか、海も好きだが、落ち着くといえば、こうした山あいにある温泉。
木々の香りをかぎ、川のせせらぎを聞いただけで、そのまま心が溶けてしまう。
……脳みそが思考を停止し、眠くなってしまう。

が、同時に、こうしていつまでもパソコンのキーボードを叩いていたい。
ほかにしたいことはない。
することもない。
できることもない。

 今の私は、こうして思いつくまま、キーボードを叩いているのが、何よりも楽しい。

●バブル世代

 とは言え、最近、世相を考えるたびに、さみしくなる。
おかしなニヒリズムが、時折、私を襲う。
「どうでもなれ」とか、「どうにもならない」とか。

 つい先日には、BLOGにこんなコメントがついた。
「貴殿のような老人がいる自体が、老害なんだ」と。
もちろん相手は、若い人である。
「あんたがた、バブル世代が、日本の繁栄を食いつぶした。それを率直に認めろ」とも。

 が、私たちの意識は180度、逆を向いている。
私たちバブル世代(=団塊の世代)こそが、現在の日本の繁栄を築きあげた。
そういうつもりでがんばってきたわけではないが、結果として、この日本は、そうなった。
そういう自負心は、どこかにある。
その私たちの世代をさして、「バブル世代」という。
この悲しさ。
この無念さ。
プラス、さみしさ。

 この先、老人虐待は、ますますふえるだろう。
「老人難民」という言葉も、生まれつつある。
孤独死、無縁死、そのあとの無縁仏は、常識化する。

 それをワイフに告げると、ワイフはこう言った。

 「そうでないことを、あなたはもっと若い人たちに伝える必要があるわ」と。
ワイフは、「今の若い人たちは、私たちの世代を誤解しているのよ」と。

●誤解

 誤解といっても、これは意識の問題。
私1人くらいが説明したところで、どうにもならない。
たとえて言うなら、意識というのは、日本という川を流れる大河。
その大河に、竹竿の1本や2本をさして、どうなる?
私の息子たちでさえ、私がもっている意識とは、180度、ちがう。
いつもこう言っている。

 「パパは、仕事ばかりしていて、家庭を顧みなかった」と。

 たしかにそうだった。
その通りだった。
それは認める。
仕事第一人間だった。
しかしそれしか、私には(=私たち団塊の世代には)、やりようがなかった。
あのどん底から、這いあがるには、それしかなかった。

息子たちにだけは、ひもじい思いや、貧困の悲しみを、味あわせたくない。
大学だけは出してやらねば、と。
そんな負担感は、いつもあった。
加えて、私には、実家のめんどうをみるという、重い荷物を背負っていた。
結婚前から、収入の約半分を、実家へ送っていた。

 病気になることもできない。
仕事を休むこともできない。
1か月に、休みが1日しかないという日々が、何年もつづいた。
そういう苦労を、息子たちは、別の目でとらえていた。

(だからといって、息子たちを批判しているのではない。
それが現代の、おおかたの若い人たちの標準的な考え方ということになる。
もちろんそうでない若い人たちも多いが……。)

●温泉

 先ほど、露天風呂に入ってきた。
つづいてたった今、大浴場から戻ってきた。
泉山閣には、失礼かと思ったが、このところどこへ泊まっても、ガンマ線を測定している。
温泉によっては、放射線量の高さを売り物にしているところもある。
それに対して、WHOは、日本政府に対して、「危険」という警告を何度もしている。
アメリカなどでは、放射線の高い地域では、建築許可がおりないという。
が、この日本では、野放し(?)。

 で、いつも放射線測定器をもって、私はあちこちを旅行している。
で、先ほど、大浴場で測定してみた。
湯面から、20センチほどの高さに置いて、測定してみた。
結果は、0・06〜0・07μシーベルト。
通常、1メートルの高さで測定する(注意書き)。
それによれば、0・05〜0・06μシーベルト。
浜松市内でも、0・05〜0・06μシーベルトだから、まったく問題なし。
地下1000メートルからの源泉というから、この程度の値は、当然といえば当然。
誤差の範囲。
(測定器は、エステー株式会社の、Air Counter−S。
主にガンマ線を測定する。)

 それを知り、2回目の入浴のときは、のんびりと、ゆっくりと湯につかった。

●温泉客

 大浴場で、3人の男たちと知り合いになった。
愛知県の西尾市から来ているということだった。
年齢が、67歳、73歳、もう1人は不明……。

 話題はもっぱら体重について。
みな、70キロ前後もあるという。
私もその程度の体重だから、偉そうなことは言えない。
しかし私のばあい、運動をしているせいか、ブヨブヨ感はない。
割と引き締まっている。
(自分で、そう思っているだけだが……。)
が、大切なのは、大腿筋(太もも)。

 大腿筋(太もも)が、鳥のガラのようになったら、よくない。(……そうだ。)
骨と皮だけ。
3人の中の1人がそうだった。
歩くのも、難儀そうだった。
あとはこの悪循環の中で、ますます足腰が弱くなっていく。
が、それだけではない。

 大きな筋肉は、(その第一が、脚の大腿筋ということになるが)、それ自体がホルモンを分泌
するという。
とくに大腿筋(太もも)は、若返りのホルモンを分泌するという。
少し前、何かの本で、そう読んだことがある。
つまり足腰を鍛えると、若返るということ。

 もう一度、その真偽のほどを確かめてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

検索してみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●マイオカイン

 あちこちのサイトを読んでみる。
その結果、大きく2つの説があることがわかった。

(1)運動が刺激となり、脳内の成長ホルモンの分泌を促す。
(2)新しい筋肉ができると、若返りのホルモンが分泌される。

某整体道場のサイトには、こうあった。

『……下半身の筋肉を鍛えて、新しい筋肉ができると「マイオカイン」といって若返りのホルモン
が分泌されます。
マイオカインは、脂肪の分解、糖代謝の改善、動脈硬化の予防、また認知症の予防などに効
果的に働くと云われています』(某整体道場HP)と。

 そこでさらに「マイオカイン」について調べる。
「マイオカイン」で検索をかけたら、すぐ見つかった。

 「おもいっきりTV」というテレビ番組がある。
そのサイトに、こんな記述が見つかった。

『筋肉から健康によい新物質が分泌されることがわかった。
 その名は「マイオカイン」。

★筋肉から出る新物質マイオカインの健康効果としては、つぎのものがある。

★脂肪組織に働いて脂肪分解
★肝臓に働いて糖代謝改善
★血管壁に働いて動脈硬化予防
★脳に働いて認知症予防

★筋肉の種類とマイオカイン

 白筋・・・激しい運動で出る
 赤筋・・・日常動作で出る

つまり赤筋を増やすことで特別な運動なしで常に健康物質マイオカインを出すことが可能であ
る』(「おもいっきりTV」)と。

 筋肉がホルモンを分泌しているなどということは、20年、30年前には、考えられなかった。
さらに最近では、こんなこともわかった。
何と胃壁からも、ある種のホルモンが分泌されているという。
ある研究者が、あるホルモンを調べていた。
が、脳のどこをさがしても、その分泌先がわからなかった。
で、枠を広げ、体中を調べてみたら、何と胃壁から分泌されていることがわかった、と。
そんな話も、何かの本で読んだことがある。

 これについても、一度、自分で調べてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

胃壁からホルモン。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ガストリン

 Meddic Jpサイトには、つぎのようにある。

『……ガストリン(gastrin)は、主に胃の幽門前庭部に存在するG細胞から分泌されるホルモン。
胃主細胞からのペプシノゲン分泌促進作用、胃壁細胞からの胃酸分泌促進作用、胃壁細胞
増殖作用、インスリン分泌促進作用などが認められている。ガストリン分泌は……』と。

 今度は、「ガストリン」?

 要するに、体中が、ホルモンの分泌器官であるということ。
が、それ以上に驚くことが、こうした山あいの旅館にいて、直接調べられるということ。
15年前なら、一日中、図書館にこもり調べてもわからなかった。
そんなことが、瞬時に、わかる。
(驚き!)

 このあたりで追跡調査はやめにしておく。
キリがない。

●要するに……

 「マイオカイン」にしても「ガストリン」にしても、名前だけ。
実物を見ても、ただの何かの水溶液にしか見えないはず。
便宜上、学者たちが、そういう名前をつけ、区別しているだけ。
だから名前を覚えても、意味はない。

 要するに、大切なことは、運動をつづけること。
その運動が、肉体の健康を保つと同時に、心身を若返らせるということ。
素人の私たちは、その程度のことを知っていれば、じゅうぶん。

●夕食

 夕食は、部屋食。
ここ泉山閣の料理には、定評がある。
風呂で会った人たちも、みな、こう言った。
「ここの料理は、いいね」と。

 この言葉に、異論はない。

●仰げば尊し

 『♪仰げば尊し』という歌がある。
今でも、私はその歌を聴いたり、歌ったりすると、涙が流れる。
(ただしワイフは、平気。)
今日、ここへ来る途中、その歌を聴きながらやってきた。
たまたまネットでその歌を、拾った。

 その『♪仰げば尊し』が、台湾では、今でも歌い継がれているという。
「和(倭)性のものは、袈裟まで憎し」という韓国、北朝鮮とは大違い。
が、それだけではない。
その台湾で歌われている、『仰げば尊し』の歌詞がすばらしい。

 YOUTUBEの中で歌われている、『♪仰げば尊し』を、紹介する。



『♪校庭の草木が青々と生い茂る。
 恵みの雨のごとく喜ばしい。
 筆とすずりのように、親しく朝晩笑っていた。
 なぜ今日が別れの朝なのか。
 人生の道は多く、人の道は遥かに広い。
 帆を上げて夜明けを待つ。
 真心で教えてくださった、進路は心に抱いています。
 先生の高い志を尊敬します』(歌詞は、YOUTUBE上の翻訳による)と。

 台湾のみなさん、ありがとう。
あなたがたは、日本の第一の友人であり、仲間です。

 なお原曲の作詞者も作曲者も、アメリカ人だそうだ。
最近の研究で、それがわかった(2011年)。
また台湾で、戦後もこの歌が歌い継がれていることについて、ウィキペディア百科事典は、つぎ
のように説明している。

『……この曲は台湾では現在も卒業式での「定番」として広く使用されており、映画「冬冬の夏
休み」では、冒頭からこの曲が流れ、社会での定着度を示している。

台湾へは日本による植民地統治時代に使用されていたものが、1945年以降も引き続き中国
語の歌詞によって使用されているものだが、歌詞は「中華文化高揚」というような民族的、政治
的な色彩を加えているものの、日本語の歌詞の影響下で作られたものであり、その関連性が
認められる』(以上、ウィキペディア百科事典より)と。

 たしかに2番は、政治的な色彩の濃い歌詞になっている。
それは別として、この歌が、アメリカ人による作詞、作曲であることがわかったのは、ごく最近
のこと。
が、台湾の人たちは、戦後、そのまま歌いつづけていてくれた。
わかるか?
日本人よ、わかるか?
日本よ、日本人よ、台湾を大切にしよう。
日本にとっては、この極東アジアでは、ただ1人の友人だぞ!

●ニヒリズム

 ともあれ、今夜のテーマは、ニヒリズム。
虚無主義。
というのも、このところ、「どうでもなれ」とか、「どうにもならない」とか、そんなふうに思うことが
多くなった。
「日本が……」と考えること自体、馬鹿らしく思うことが多くなった。
それをワイフに話すと、ワイフは、あっさりと、こう認めた。

 「あなただけよ、そんなこと言っているのは! ほかのだれも、そんなことを言っていないわ
よ」と。
つまり今では、「天下国家を論じている人はいない」と。
「とくに定年退職者たちは、そのまま黙ってしまう」とも。

 が、どっこい!
1人いる。
90歳近くになっても、まだがんばっている人がいる。
田丸謙二先生である。
先週、鎌倉で会ったときも、その話ばかりになった。
本来なら、現役から退き、自分のことだけを考えればよい。
が、そんな立場の先生でありながら、口にするのは、「日本は……」。

 そういう意味では、先生は、いつも、この私に生きる勇気と希望を与えてくれる。
ワイフが言うように、もしこの私さえも、「日本は……」と言わなくなってしまったら、だれが私の
代わりをするのか。

 金を稼ぎながら、評論している人は別である。
名声を求めながら、評論している人は別である。
政府やどこかの団体の御用学者は、別である。
そういう人たちが、「日本は……」と論ずるのは、当然のこと。

 大切なのは、私たち1人ひとりが、庶民の立場で、「日本は……」を論ずること。
それを忘れたら、この日本に、明日はない。
今、私がこうして書いている文章にしても、そのまま「絶滅」する。
そうでなくても、もし日本語そのものが、マイナーな言語になってしまったら……?
それを考えると、さみしい。
しかしそれこそ、私たち日本人の魂の死を意味する。
何としても、それだけは、阻止しなければならない。
100年後、200年後の日本。
私たちが目指すのは、そういう日本!

 田丸謙二先生は、いつも私を励まし、支えてくれた。
今も、励まし、支えてくれる。
田丸謙二先生、ありがとう!

●2度目の入浴

 これから3度目の入浴に行ってくる。
ここの温泉は、すばらしい。
本当に、すばらしい。

 たぶん、そのあとは、バタン……と眠ってしまうだろう。
だからここで、今日の日記はおしまい。

 明日からいよいよ仕事。
充実した春休みだった。
やりたいことは、すべて、した。
義兄も、こう言っている。

「来年のことは、わからないよ。年齢というのは、そういうものだよ」と。

私にも、それがよくわかっている。
わかっているから、今、がんばるしかない。

がんばろう。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 泉山閣 湯谷温泉 大腿筋のホルモン はやし浩司 太もものホルモン 胃
壁 ホルモン ニヒリズム)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司



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●高校の同窓会

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

近く、高校の同窓会がある。
「高校」といっても、遠い昔。
私にもそんな時代があったはず。
が、おかしなことに、今の私と、連続性がない。
その途中で、一度、(あるいは数度)、プツリと切れている。
あの時代を思い出すと、そんな感じがする。
なぜだろう?

本来なら、記憶をたどっていくと、そこの高校時代があるはず。
現在の私と、高校時代の私が、一本の糸でつながっているはず。
が、その高校時代だけが、記憶の流れから、はずれている。
たとえて言うなら、人生の途中で、別の映画を見ていたような感じ。
長いようで、短かった。
短いようで、長かった。

ただイメージは、あまりよくない。
暗い木造の校舎だけが、強く印象に残っている。
今でも、ときどき夢に出てくるが、どれも暗い。
3年生のときに、近代的な校舎に移った。
が、その校舎は、夢の中には、ほとんど出てこない。
高校というと、あの校舎。
木々の緑に包まれた、黒っぽい、木造のあの校舎。

が、おかしなことに、本当におかしなことに、高校というと、舟木一夫の「♪高校3年生」が、真
っ先に思い浮かんでくる。
私が高校2年生のときに、大ヒットした歌謡曲である。
私はそれを、たいへん残念に思った。
「あと1年、早く生まれていればよかった!」と。
つまりそれくらい、「♪高校3年生」は、私たちの心に深くしみ込んだ。

YOUTUBEで、さがしてみる。



ついでに、「♪君たちがいて、僕がいた」



それから「♪高原のお嬢さん」。
今でもこの歌を歌うと、涙がこぼれてくる。



「♪高校3年生」と並んで、忘れてならないのは、「♪学園広場」&「♪修学旅行」。





もう、何も語る必要はない。
舟木一夫が、私の心のすべてを歌ってくれている。
つまり私の高校時代イコール、舟木一夫の「♪高校3年生」であり、「♪学園広場」ということに
なる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●進路

 何も楽しみのない高校生活だった。
「監獄」とまではいかないが、それに近かった。
ゆいいつの楽しみは、女友だちとの浮いた話。
高校1年から2年までは、Aさんが好きだった。
デートも何度か、した。
が、高校3年のときに、別れた。
担任に見つかり、大目玉。
(当時は、デートは禁止されていた!)
そのあと大学生になってからも、数度会ったが、それっきり。

 ほかに覚えていることと言えば……。
3年生になるとき、無理矢理進路を変更されたこと。
私はそれまでは、理系の工学部へ進むつもりだった。
子どものころは、大工になりたかった。
それで「建築科へ」と思っていた。
が、担任兼進学指導の教師が、勝手に文化系に変えてしまった。
「君の成績では、京都大学の工学部は無理だが、文学部へなら入れる」と。

 それ以後、私の人生は、めちゃめちゃに狂ってしまった。
ア〜ア!

●うつ状態

 ……いろいろ思い出はあるが、どれもセピアカラー。
N君と夜中に、高校へ忍び込み、プールで泳いだこともある。
毛布を持ち込み、運動場で、一夜を明かしたこともある。
尾崎豊のように、窓ガラスを割るようなことまではしなかった。
が、その一歩手前程度のことは、いろいろ、した。
何度か、した。

 ただあの時代の私は、私であって、私ではなかった。
私はそれまでの中学生のときまでは、ひょうきんで笑わせ上手だった。
大学生になったあとも、ひょうきんで笑わせ上手だった。
が、あの時代だけは、暗く、沈んでいる。
今にして思うと、うつ状態だったかもしれない。
突発的にキレて、よく仲間と喧嘩した。

 学校が悪かったわけではない。
担任の教師が悪かったわけではない。
仲間が悪かったわけではない。
ミーンナ、私が悪かった。

●嫌われ者

 が、どういうわけだか、同窓会がそれほど、楽しみではない。
言うなれば、私だけが、異端児。
変わり者。
のけ者。
変人。

 そういうふうに見られていることが、自分でもよくわかる。
もっとも、その通りの人間だから、反論しようにも、しようがない。
それもあって、高校のばあい、同窓会に出るたびに、隅で小さくなっている。
中にはイヤミを言う仲間もいる。
「お前だけは、訳の分からない人間だな」とか、など。
そう言えば、私にこう言った仲間もいた。

「林(=私)、お前だけは、同窓会に肩で風を切ってやってくると思っていたがな。(たいしたこと
なかったな)」と。

 そう言われるたびに、私はヘラヘラと笑い返すだけ。
私はどこから見ても、負け犬。
ルーザー。
敗残者。

 今では、毎年、年賀状を交換しているのは、MZ君と、MR君だけ。
今度の同窓会は、そのMR君の大賞受賞を祝う会。
MZ君からの誘いとあれば、断れない。
……ということで、出席。
MZ君とMR君へのあいさつがすんだら、そそくさと退席する。
嫌われ者は、早く姿を消したほうがよい。

ミーンナ、私が悪かった。

●人生の結果報告会

 ……しかし……。
今度の同窓会で、もうつぎはないかもしれない。
15年ぶりの同窓会?
今の年齢に、15年を加えると、私も80歳。
それまでは生きていないだろう。
計算上は、約半数が、あの世行き。
それまで健康でいられる人となると、もっと少ない。

 同窓会というより、「人生の結果報告会」。
いや、報告はしたくない。
聞きたくもない。
私は私。
人は人。
しかし聞かれるだろうな……。
「林、お前は何をした?」と。

 が、私のばあい、そう聞かれても、答えられることが何もない。
あえて言うなら、「生涯、無頼(ぶらい)で過ごしました」と。
風来坊。
フー天。
無宿。
あえてかっこいい言葉をさがすなら、「自由人」。
そう、自由だけは、大切にしてきた。

 ……たぶん、私のような生き方は、みなには、理解されないだろう。

●同窓生
 
 ワイフは、聞く。
「会いたい人はいないの?」と。

 いるにはいるが、先に書いたAさんは、ほかのクラス。
私が1組で、Aさんは3組だった。
もう1人、Nさんという女性に会いたいが、Nさんは、同窓会には来ない。
「そういう会には出てはいけない」と教える、どこかの宗教団体に属している。

 10年ほど前まで、浜松までよく遊びに来たY君は、現在、病院に入っている。
少し前Y君の母親と電話で話したが、様態は、変わらないという。

 やはりMZ君とMR君ということになる。
幼稚園時代からの遊び友だちである。

●郡上八幡(ぐじょう・はちまん)

 前日は郡上八幡の市内で、1泊することにしている。
そちらをメインコースにし、同窓会は、デザート。
けっして軽んじているわけではない。
料理というのは、デザートを口にして、はじめて締めくくることができる。

 その締めくくり。
人生の締めくくり。
ありのままの姿で行き、ありのままの姿で、出席したい。
今さらかっこうつけてもしかたない。

 ミーンナ、私が悪いのです。

 さあ、みんな大声で歌おう!
舟木一夫の「♪高校3年生」!



(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 高校 同窓会 高校同窓会)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【おまけ】

●高校3年生のころ

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

私は昭和22年、生まれ。
1947年、生まれ。
ということは、1954年に小学1年生、
1960年に中学1年生、
1963年に高校1年生に、それぞれなったことになる。

フ〜〜〜ン。

1963年……高校1年生、
1964年……高校2年生
1965年……高校3年生。
この年に、満18歳になり、高校を18歳で卒業。

具体的には、1964年10月に、新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された。
私が高校2年生のときということになる。

●映像

 YOUTUBEで、当時の映像を拾ってみる。

★東京オリンピック



★1964年のころ



★新幹線・開通



★1965年(風景+加山雄三ヒット曲、ほか)




Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司




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【岐阜県・郡上八幡町へ】(はやし浩司 2012−04−28〜29)
吉田屋に一泊
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今、電車の中で、一息ついた。
コーラを口にした。
真っ白な日差し。
まぶしい……、というよりパソコンの画面が光る。
ブラインドを、下までさげる。

これから岐阜県は、郡上八幡町へ。
八幡城下町プラザ横、吉田屋旅館に一泊。
以前から、一度は泊まってみたいと思っていた。
その旅館に一泊。

ワイフは、チューハイを飲んでいる。
「キッチンドリンカーになるなよ」と声をかける。
「休みのときだけよ」とワイフ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読売新聞

 昨夕、読売新聞社(東京)から電話があった。
電話取材。
何でも東京都で、41歳の母親が、2歳の幼児を殺してしまったという。
それについてのコメント。

 つい先ほど、記事の確認の電話があった。
あわてて通路まで走ったが、そこで切れる。
待つことしばし。
2度目の電話。
「記事は、メールで送りました」と。

 記事は今日(4月28日)の夕刊(全国版)に載るとか。
が、肝心の私は、岐阜県の山の中。
夕刊を見ることはないだろう。

(記者の人が、記事をあとで送ってくれると言った。)

●母親心理

 2歳児前後の母親の心理。
(1)一体性と、(2)完ぺき性。

 一体性というのは、母子間の間に、「壁」がないことをいう。
この時期の母親は、自分イコール、子ども、子どもイコールという考え方をする。
本能に根ざしているだけに、それを母親に気づかせることは、ほぼ不可能。
本能に操られながらも、それを「私」と思い込んでいる。
私の意思でそうしている、と。
またそれが親の深い愛情の証(あかし)、と。
(それがまちがっていると書いているのではない。誤解のないように!)

 つぎに完ぺき性。
完ぺき性というのは、この時期の母親は、子どもに完ぺきさを求めやすいということ。
弱点、欠点があってはいけない。
遅れも許さない。
「標準」「平均」という言葉に、鋭く反応する。
たとえば言葉の発達が少し遅れた程度のことでも、大騒ぎする。
絶望感をもつ母親さえいる。
それぞれの子どもには、それぞれの子ども特有の発達特性というものがある。
それが理解できない。

 運動面がすぐれていても、言葉の面で遅れるということは、珍しくない。
もう少し大きくなれば、音感面ですぐれていても、数値能力面で遅れるということも、珍しくな
い。
が、もちろんその反対のこともある。

 たとえば自閉症児(「自閉症スペクトラム」)の中には、特異な才能を示す子どもがいる。
超難解な計算を、瞬時にしてしまう、など。
100桁の数を、瞬時に暗記してしまうのも、それ。
車のほんの一部を見ただけで、メーカーから車種まで当ててしまう子ども(4歳児)もいた。

 親はそういった天才児と思い込む。
それはそれ。
しかしこうした(こだわり)は、「能力」ではない。
能力とは区別して考える。
つまり教育の世界では、能力と認めない。
「能力」と認めるためには、教育的な普遍性がなければならない。
教育的効果によって、どんな子どもでも、そういう能力が引き出せる。
その方法があるか、ないか。
つまり、その方法論を実践するのが、「教育」ということになる。
実践できなければ、「教育」の範囲には、入らない。

 それはともかくも、母親は、常に「万能」を求める。
それが子育てをギクシャクしたものにしやすい。

 子どもを伸ばすコツ。
『得意分野を、伸ばす。不得意分野は、目を閉じる』、である。

 ついでながら、欧米では、「子どもは神から授かった子」という考え方をする。
だからたとえ子どもに何らかの障害があっても、日本人とはちがった考え方をする。
一方、日本人は、「子どもを自分の所有物」と考える傾向が強い。
だから子どもに何らかの障害があったりすると、「自分の責任」と思い悩。
その傾向が、より強い。

●蒲郡(がまごおり)

 たった今、JR蒲郡を出たところ。
このあたりには、いくつかの温泉地がある。
この10年間で、ほとんどのホテルや旅館に泊まった。

 ワイフが「あそこが、〜〜ね」と、さかんに話しかけてくる。
うるさい!

 ……今日は土曜日ということもあり、電車の中では、子どもの声も聞こえる。
大型連休の初日。
天気はまさに行楽日和(びより)。
今日の朝刊によれば、あちこちの高速道路で渋滞が始まっている、とか。

●録音機

 郡上八幡町の思い出は多い。
子どものころから学生時代まで。
よく行った。
町内の旅行会といえば、そちらの方面が多かった。
その郡上八幡町と言えば、盆踊り。
「♪かわさき」。
「♪郡上のなア〜、八幡〜ン、出ていくときはワ〜」という、あの歌。

 今回は、デジタルの録音機を用意した。
博覧館(祭り会館)というのがあって、そこでは常時、「♪かわさき(郡上踊り)」などの民謡を聞
くことができる。
それを録音する。
郡上の町をデジタルカメラに撮り、その上に、民謡を重ねる。
よいビデオができそう。
楽しみ。

●「日本海」の呼称問題

 韓国人は、どうしてああまで「日本海」の呼称問題にこだわるのか。
慰安婦問題にしても、そうだ。
ふつうではない。
病的ですら、ある。
もともと「東海」であったものを、日本人が勝手に「日本海」にしたのなら、まだ話もわかる。
しかし「日本海」という名前は、国際的に自然発生したもの。
それを今になって、「東海が正しい」とは?

 自己中心性もここまでくると、理解できない。
もしこんな論法がまかり通るなら、「メキシコ湾」を、「フロリダ湾」にすればよい。
アメリカの南にあるから、「南湾」でもよい。

 韓国の人たちが日本海を、「東海」と呼んでいたのは、至極、自然なこと。
日本海は朝鮮半島の東にある。
「東海」というのは、方向を示す言葉。
固有名詞ではない。
どうしてその「日本海」を、あえて「東海」にしなければならないのか。

 ……現在、韓国は、日本海と東海の併記を主張している。
が、そのうち、今度は、なし崩し的に、東海と日本海の併記にしたあと、日本海を消すつもりで
いる。
どうして自然の成り行きに任せないのか。

 わかりやすく言えば、『坊主憎ければ……』というのが、本音。
一言、付け加えると、あの福沢諭吉は、こう書き残している。
当時の韓国を訪問したあと、「あの国とは謝絶する」※と。
そのころを基準にして、日本海は日本海になった。
そのことは、以前、どこかに書いた。

 これに対して、韓国は、日本が提案した、「日本海の単独表記は否決された」(4月26日、IH
O(国際水路機関))と喜んでいる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

注※(2007年11月の原稿より)

かつて福沢諭吉は、こう言った。

「我は心に於て、亜細亜東方の悪友と謝絶するものなり」(脱亜論)と。
亜細亜(アジア)東方の国というのは、現在の韓国と北朝鮮のことをさす。

福沢諭吉のようなリベラリストですら、そう結論づけている。
なぜか? 
当時の朝鮮半島は、国としての「体」をなしていなかった。
では、現在の韓国(&北朝鮮)の反日感情の底流にあるのは何か。
答は明白。
韓国人にしてみれば、日本ごときが、アジアでナンバー・ワンであることが、気に入らないの
だ。

わかりやすく言えば、逆差別意識。
過激な民族主義(国粋主義)から生まれる、逆差別意識。
つまりそれがあるかぎり、日韓関係は、好転しない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●男の顔は履歴書

『男の顔は履歴書と言ったのは大宅壮一さんだが、(それを受けて吉行淳之介さんが「女の顔
は請求書」と)、人間の顔くらいおもしろいものはない』と言ったとか。
MSNニュースの「小沢一郎の隠し子スクープ」という記事の中に、そんな一節があった。

 男の顔は履歴書というのは、わかる。
しかしどうして女の顔は請求書なのか?
ただつぎのようなことは、よく思う。

 「女性(妻)には、苦労させてはいけない」と。
とくに金銭的な苦労。
生活態度がガツガツし始めると、とたんに、生活臭が顔に出てくる。
それが10年、20年とつづくと、生活臭が、醜悪さに変わる。
見苦しくなる。
男の顔は、たしかに履歴書だが、女の顔は、生活を映すカガミ。

 ……と書くと、「じゃあ、はやし(=私)、お前はどうなんだ!」と言われそう。
が、その前に、大宅壮一はどうなんだ、ということになる。
大宅壮一は、実に大宅壮一らしい。
そういう人が、「男の顔は履歴書」というのは、わかる。
が、私では役者不足。
いかにも、貧相。
底の浅さが、そのまま顔に出ている。
何とか、深み、重みをつけたいと思っているが、それができない。 

 だからこの話は、ここまで。

●「ツボ」という村

 岐阜からは、郡上八幡行、高速バスに乗る。
高速道路を走るから、高速バス。
そのバスが、故郷の美濃市を通り過ぎた。
その直後、眼下に、どこか見慣れた景色が飛び込んできた。
私の祖父の生まれ故郷である。

 「ツボ」という名前の村だった。
祖父は、8歳のとき、美濃町(美濃市)にある加治屋へ、丁稚奉公(でっちぼうこう)に出され
た。

 何人かいる兄弟のうちの、末っ子だったと聞いている。
名前を「銀吾」と言った。

 祖父はその鍛冶屋で、16歳まで働き、つぎの2年間、「礼奉公」というのをしたあと、18歳
で、独り立ちした。
当時は、そういう時代だった。
言うなれば、祖父は、実家から捨てられたようなもの。
が、それ以上に、実家は貧しかった。
やむをえなかった。

●祖父の実家

 その祖父の実家へ、私は小学6年か、中学1年のとき、自転車で行った。
祖父が連れていってくれた。
道端の、道路から少し入ったところにあった。
幅が、2間程度。
長さが、4間程度ではなかったか。
壁といっても、土壁を塗りたくっただけの、粗末な家だった。
だれも住んでいなかった。
荒れたままだった。
裏側から見た様子しか記憶に残っていないが、窓といっても、木枠などはなかった。

 そのあとしばらくして、今度は、独りで見に行った。
そのとき私は、中学生だった。
その家を見たとき、なぜ、祖父が8歳で丁稚奉公に出されたか。
その理由が、よくわかった。

●王子様、王女様

 が、祖父は、一度とて、自分の父親や母親を悪く言ったことはなかった。
聞いたこともなかった。
当時はそういう時代だったし、それがふつうの「親子関係」だった。
今のように、子どもが王子様、王女様になったのは、ここ30〜40年のこと。
今では、親は腫れ物にでも触れるかのように、子どもを育てる。
またそれが常識になっている。
が、私の時代を振り返っただけでも、私は今の時代のほうが、おかしい。

 どうして子どもが、王子様なのか。
王女様なのか。
先日亡くなった、K氏(享年82歳・浜松市引佐町)は、いつもこう言っていた。

「山から薪(たきぎ)を拾ってくるのは、子どもの仕事だったよ。
学校から帰ってくると、みな、暗くなるまで、薪拾いをしたものだよ」と。

 私の時代でも、私自身、家族旅行など、小学6年生までに1度しかしていない。
あとは町内で行く、町内旅行だけ。
それがふつうだったし、だれも不平、不満を言わなかった。
が、今は、ちがう。
どうちがうかは、ここに書いたことと比較してみればわかる。

 が、昔がよいとか、悪いとか、そんなことを書いているのではない。
子どもへのサービスは、時代とともに、変わる。
基準そのものが変わる。
今の基準が、けっして、標準的なものではない。
今、子どもに薪拾いをさせたら、「虐待」と言われるかもしれない。

ただ私の印象としては、現在は、サービス過剰。
手のかけ過ぎ。
時間のかけ過ぎ。
お金のかけ過ぎ。

やらなくてもよいことまでやり、かえって子どもに嫌われる。
子どもをだめにする。
昔でいう「ドラ息子・ドラ娘」は、当たり前。
今では、そうでない子どもを探す方が、むずかしい。

●新緑

 バスの中で、私はワイフとそんな話をした。
「要するに子どもの機嫌を取り過ぎなんだよ」と私。
「そうね」とワイフ。
機嫌を取るから、依存性がついてしまう。
「子どもは、してもらうのが当たり前」と考える。

……バスは、やがてすぐ郡上八幡町に入った。
若いころは、眼下の旧道を走った。
そのこともあって、郷里の美濃市から遠い町のように感じた。
が、今は、30分もあれば、着いてしまう。

 新緑が美しかった。
深い山々を背景に、薄黄緑色の木々が、青い空の下で、美しく輝いていた。
ワイフは、ときどき、こうつぶやいた。
「今が、いちばんいい季節ね」と。

 そう、今がすばらしい。
いちばん、すばらしい。
新緑の季節。

●郡上八幡町

 着くとすぐ、カメラを首にかけ、市内を歩いた。
日差しが強かった。
ワイフは一度、吉田屋に戻った。
日傘を取ってきた。
私も一度、戻った。
カメラの三脚を取ってきた。

 私には、ひとつの目的があった。
吉田屋から歩いて数分のところにある、博覧館(祭り会館)へ行くこと。
そこで郡上踊りの民謡を、録音すること。
デジタル録音機も、持参した。

 ちょうど3時からの説明が始まるときだった。
ビデオを回してよいかと聞くと、1人の女性が、指で、OKサインを返してくれた。
私は郡上踊りの説明を受けた。
踊り方も習った。

 ……といっても、踊り方は、知っている。
体にしみついている。
子どものころから高校生になるまで、夏になると、毎晩、踊った。
その私が踊り方の説明を受ける。
おかしな気分だった。
自分であって、自分でないような……。
地元の人間であるはずなのに、身分はよそ者。
踊り方を知らないフリをしながら、指示に従って手を動かす。
みなといっしょに笑う。

 そのあとワイフと町中をぐるりと一周した。
途中「美濃」という喫茶店に入った。
私はメロン・ソーダ。
ワイフはアイスクリームを注文した。

●吉田屋旅館

 吉田屋旅館は、町の中心部にある。
ときどき何かのことで郡上八幡へ来るたびに、「一度は泊まってみたい」と思っていた。
その願いが、今日、かなった。

 もちろん星は、文句なしの5つ星。

(ただし部屋にトイレ、風呂はない。
新館のほうには、ユニットバスだが、風呂とトイレがついている。
旧館のほうは、……つまり今回私たちが泊まったほうは、昔の料亭風。
どちらにするかは、宿泊を申し込むとき、よく相談してみたらよい。)

昔風の、つまり大正時代風の、格式ある旅館。
電話番号も、0001になっていることからも、それがよくわかる。
部屋に入ると、あの独特の匂い。
湿った木々の、古い屋敷の匂い。
私の実家の匂い。
母の実家の匂い。

中庭には、小さいが、よく手入れされた植えこみがあった。
あちこちに大きな石が、配してあった。

お茶を飲んだとたん、自分の体がスーッと部屋の中に溶け込んでいくのがわかった。

●同窓会

 明日は、美濃市で、高校の同窓会がある。
こちらを11時少し前のバスに乗れば、ちょうど12時ごろ、美濃市に着くことができる。
私はそれに出席する。
ワイフは、その間、美濃市の観光をする。
小倉公園で、味噌田楽(でんがく)を食べたらどうかと、提案した。

 「終わるのは3時ごろと思う」と私。
「そうね、それくらいね」とワイフ。

 今回は、MR君の大賞祝いを兼ねた同窓会。
MY君から、そのような連絡が入った。
今では、毎年年賀状を交換しているのは、その2人だけ。
高校時代といっても、それくらい遠い昔。
本当にそんな時代が、私にもあったのかと思えるほど、遠い昔。
その分だけ、みなと疎遠になってしまった。

 ともあれ、こうして無事、出席できることを喜ぶ。
中には、すでに他界した人もいる。
病気と闘っている人もいるだろう。
出席できるだけでも、御の字。
田丸謙二先生は、いつもメールでこう書いてくる。

「感謝、感謝、感謝です」と。
私も、それをまねる。
感謝、感謝、感謝、と。

●食事

 食事は、大満足。
量はどうしても多くなってしまうが、それぞれに趣向をこらしてあった。
ひとつひとつ、ワイフとああでもない、こうでもないと言いあって食べた。
懐石料理は、それが楽しい。

 鰻の蒲焼も出た。
それだけでも一食分。
このあたりでは、取った鰻をそのまま焼く。
浜松市のほうでは、一度蒸したあと、そのあと焼く。
だからこちらの蒲焼は、食感としては、かたい。
が、その分だけ、肉がしまっていて、おいしい。

●ビデオ撮影

 こうした旅行に来ると、私はいつも食事中の様子をビデオカメラに収める。
不思議に思う人もいるかもしれない。
しかしそれには理由がある。

 ……私は子どものころ、いつもおなかをすかしていた。
そんな中、ときどき祖父に連れられ、時代劇を見に行った。
その時代劇。
当時はかならずといってよいほど、侍たちが宴会をするシーンがあった。
私はそれを見て、「ぼくも俳優になりたい」と思った。
本気で思った。
「俳優になれば、いつも、ごちそうを食べられる」と。

 そういう思いが、今でも、心のどこかに残っている。
それがこういう所で、顔を出す。
旅行先で何かのごちそうを食べるたびに、こう思う。
「これが、ごちそう」と。
だからビデオカメラに収める。

 最初は軽い気持ちからだったが、今は、ほとんど毎回収めるようになった。
それがそのまま、ビデオを撮るときの、習慣になってしまった。

 ……それに旅行先で、食事タイムほど、楽しいものはない。
だからビデオカメラに収める。
あとで再生したとき、その楽しさがよみがえってくる。

●午後9時半

 先ほど2度目の入浴をすました。
どうやら旧館のほうの泊り客は、私たち夫婦だけ。
昼中は、多くの観光客でにぎわっていた通りだったが、日没とともに、人影が消えた。
みな、車でやってきて、車で帰っていく。
日帰り客。

 この傾向は、どこの観光地も、同じ。
高速道路ができたおかげで、泊り客は、ぐんと減った。
温泉地でも、今では日帰り客のほうが多いと聞く。
たいていは昼食をはさみ、温泉につかって帰る。

 ワイフはすでに寝息をたてて熟睡状態。
私も眠いはず。
今日は昼寝をしなかった。
が、頭の中のモヤモヤは、まだ残っている。
書きたいことがそこにあるはずなのに、それが吐き出せない。
このもどかしさ。

 ……やはり、今夜は、このまま眠る。
明日の朝、このつづきを書く。

●午前4時

 午前4時に目が覚めた。
枕元の明かりをつけて寝たのが悪かった。
「もう朝か?」と思いながら、目を覚ましてしまった。
それに、のどがカラカラだった。

 しばらくそのままにしていたが、頭が冴えてしまった。
で、起床。
こういうとき手元にパソコンがあるのは、ありがたい。
退屈しない。

●部屋の様子

 こうした旅館では、間取りが迷路のように入り組んでいる。
それがまた楽しいわけだが、この部屋にしてもそうだ。
廊下をくねくねと曲がって、やっとたどり着く。

 部屋は、10畳プラス縁側付き。
正方形。
床の間に、ユリが5〜6本、それにスズランが生(い)けてあった。
まさか……と思いながら指で触ってみると、本物だった。
そう言えば、着いたとき廊下で、お茶の葉の香りがした。
泊り客にしてみれば、こうした本気度がうれしい。

 料金は、1人1泊、16000円弱。
これに飛騨牛の焼き物がつくと、19000円弱。

●味噌

 ……かといって、今は、とくに書きたいことはない。
あえて言えば、味噌の話。

 今日、通りを歩いていて、味噌屋に入った。
いろいろな味噌が並べてあった。
「郡上味噌」というのもあった。
少し試食してみたが、舌が驚くほど、塩からかった。
このあたりでは、昔から塩が貴重品。
料理の味付けも、その分だけ、全体に塩からい。

 で、私たちは、岡崎で生まれたという、「八丁味噌」を、2パック買った。
濃い、丸味のある味噌で、具に何を入れてもおいしい。
簡単な食事のばあい、白いご飯とみそ汁だけという家庭も、少なくない。
そういうときは、味噌汁の中に入れる具を、多くする。

 郡上まで来て、岡崎の味噌を買う。
ハハハと笑いながら、岡崎の味噌を買う。

 ……やはり、もう一度、布団の中にもぐることにする。
今日は、同窓会もあり、途中で昼寝をする時間がない。

●チェックアウト

 今、部屋で最後のお茶を飲んでいる。
時刻は、9時を少し回ったところ。
バスは、11時27分に出発する。
それまで1時間ほど、時間がある。

 隣の城下町プラザでは、日曜日(今日)の朝は、朝市を開いているという。
ここを出たら、行ってみる。
また盆踊りの季節に、もう一度、来てみたい。
先ほど、女将に相談したら、旧館なら、まだ空いている、とのこと。

 「どうしようか?」と聞くと、「そうね……」と。

 が、8月には、大きな講演会が1本、入っている。
その日にちが、ここでは不明。
一度家に帰り、スケジュールを調整してみる。

 「これも冥土のみやげ」と私。
「そんな言い方はよくない」とワイフ。

●そうもん橋(惣門橋)

 町から岐阜バス営業所まで、歩いた。
30分ほど、歩いた。
一度、北へ歩き、トンネルをくぐり、その先へ。

 途中、脇道へそれたところで、「そうもん橋」を見つけた。
「♪かわさき」に出てくる、「そうもん橋」である。

 『♪心中なア〜、したげなア〜、そうもん橋でエ〜』(歌詞)と。

 小さな橋だった。
幅は、車1台分。
長さは、5〜6メートル。
こういう発見があるから、旅は楽しい。

 ワイフをその横に立たせ、記念撮影。

●岐阜バス営業所

 岐阜バス営業所へは、発車時刻より、1時間ほど前に着いた。
待合室に入り、飲料水を買った。

「なあ、同窓会、ドタキャンし、白鳥(しらとり)から大野(福井県)まで行かないか?」
「同窓会は?」
「ウ〜ン、そうだな……」と。

 絶好の行楽日和。
ほどよく暑く、歩けばひんやりとした森の冷気。
先ほどから、ワイフは、つぎの旅行先を探している。

「日本平(だいら)へ行きたいわ」
「しかしね、車でないと、無理だよ」
「新東名を使えば、すぐよ」と。

 日本平には、昔、日本平ホテルというのがあった。
今でもあるらしい。
通訳をしていたころ、外国から賓客が来ると、いつもそこへ案内した。
その中の1人が、スウェーデンから来た、エリザベス・ベッテルグレン女史。
スウェーデン性教育協会の会長をしていた。
たしか娘を1人、連れてきた。
とくに印象に残ったのには、理由がある。
女史が、「Free Sex」を説いて回ったため。

 誤解がないように書いておくが、女史が説いたのは、行為としてのSexではなく、性差別から
の解放。
「男だから……」「女だから……」という差別。
その性差別からの男女を解放という意味で、ベッテルグレン女史は、「Free Sex」という言葉
を使った。
(現在は、「ジェンダー」という言葉を使う。)

 ……しかしFree Sexというよりは、性の荒廃がここまで進むと、行為としての実技指導も、
そのうち必要になるかもしれない。
浜松市内でも、今では女子中学生の中絶手術など、珍しく何ともない。

 その日本平ホテルに泊まった夜のこと。
地元のテレビ局が、取材に来たのを覚えている。
ベッテルグレン女史、つまりエリザベス・ベッテルグレン女史というのは、そういう人だった。

●名鉄電車

 同窓会も無事終わった(?)。
予想以上に楽しい会だった。
今は、その帰りの電車の中。
みな、再来年の再開を約束し、別れた。
次回は、高山市にて。
T君が、その町で内科医をしている。
楽しみ!

 ……名鉄電車は、もうすぐ知立(ちりゅう)。
猛烈な睡魔が襲ってきた。
眠い。
つらい。

●恋話

 ……同窓会では、どうしても恋話に花が咲く。
そこらの中学生や高校生たちと同じ話。
「あのとき〜〜だった」、「このときは〜〜だった」と。
その結果、いくつかの新事実。

 こちらが思っていたほど、相手の女性は何とも思っていなかった。
反対に、そのときは軽く受け止めたが、相手の女性は、それを真剣に悩んでいた、など。
心というのはそういうもの。
かみあうことは、めったにない。
たがいに「ナーンダ、そうだったの!」と。

 誤解といえば、誤解だが、その誤解が楽しい。
話に花が咲く。
何人かが、「時効」という言葉を使った。
が、「時効」というより、「今さら」というところ。
今さら誤解も何も、あったものではない。
こんなショッキングな話も。

 私が交際していた女性が、私のほかにも別の男とも交際していたのが、わかった。
「エッ、本当?」と。
驚くこと、しばし!

私「ぼくは、知らなかった……」
女「ちがうわよ。あの人ね、林君じゃあなくて、G君が好きだったのよ」
私「でも、ぼくともつきあっていましたよ」
女「そんなはずは、ないわよ」
私「……?」と。

 それを横で聞いていたX君まで、こう言い出した。
「実は、ぼくも、つきあっていた……」と。

私「ちょっと待ってよ。ぼくは、純愛だと信じていた……」
X「林君(=私)ともつきあっていると、本人は言っていたけどね……」と。

 ……あとは、笑い話。
ゲラゲラ、ハハハと笑って、おしまい。

 それにしても、女性って、すごいね……ということで、郡上八幡町への旅行記は、これでおし
まい。

 「楽しかったね」「楽しかったわ」と。
ホント!
楽しかった。

 ……つぎは、日本平!
日本平ホテル!

(先ほどネットで調べたら、日本平ホテルは、目下再建設中とか。
2012年の秋、新装、オープンすると、あった。)

(はやし浩司 2012−04−29)

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 郡上八幡 吉田屋 吉田屋旅館 はやし浩司 同窓会)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司







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●沼津から、焼津へ(グランドホテルにて)

●沼津・家庭教育学級(2012年5月15日)(主催:沼津市教育委員会)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

沼津市の家庭教育学級で、講話をさせていただきました。
こじんまりとした会場でしたが、2時間という長い時間、みなさん真剣に聞いてくださいました。
ありがとうございました。

なおその帰り道、焼津市にあるグランドホテルに一泊させてもらいました。
そのときの様子をつづけて送ります。

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【家庭学級】(やる気のある子どもにするには!)

(1)

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(2)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/0ihPwaMSGN8" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

【焼津・グランドホテルにて】(すばらしい朝焼けでした)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/J_G1gTS-t88" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【焼津・グランドホテル】 はやし浩司 2012−05−15

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日は沼津市で講演。
そのあと、帰りの途中で、焼津のグランドホテルに一泊。
今は、その沼津市に向かう途中。
新幹線の中。

午前7時31分発。
三島で乗り換え、沼津へは、午前8時ごろ着く予定。
が、旅行記を書くのは、あと。

今は、講演の原稿に目を通す。

その中のひとつ。

 引きこもりも含めて、うつ病(Melancholia)の原因は、その子どもの乳幼児期にあると考える学
者がいる。

たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子ど
もは、『母親から保護される価値のない、自信のない自己像』(九州大学・吉田敬子・母子保健
情報54・06年11月)を形成すると説く。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になることもあ
るという。
それが成人してから、うつ病につながっていく、と

 うつ病の原因が、すべて、これで説明できるというわけではない。
そうでない人も多いだろう。
が、それくらい人にとって、乳幼児期というのは重要。
この時期に子どもの心は形成される。

そういう意味では、吉田敬子氏の意見には、納得できる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●午後

 現在、時刻は、午後1時58分。
焼津へ向かう電車の中。
地理的には、つぎのようになっている。

 (浜松)=(焼津)=(静岡)=(沼津)=(三島)

 つまり沼津からの帰り道に、焼津に寄る。
前回、焼津では、焼津アンビア松風閣に泊まった。
星は5つの、★★★★★。
あのホテルで、文句をつける人はいない。

 が、今回は、その隣にある焼津グランドホテル。
そこに一泊。
料金はほとんど同じか、やや割安といった感じ。
さて、どうなることやら。
このところ私たちの目は、旅行評論家程度に、肥えている。

あまりひどいようなら、実名は伏せる。
が、それはあとでの作業。
今は、こうして実名を出しておく。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ボッタクリ・レストラン

 沼津で、昼食をとった。
駅前近くにある、Xというレストラン。
味は、最低。
最悪。
料理という料理ではない。
素人が、見よう見まねで作った我流料理。
食材をそれらしく並べただけの、駄作料理。

が、値段だけは、一人前。
ワイフのが、1300円。
私のが、900円。
ともに材料費は、200円もかかっていないのでは?
家庭で作れば、150円程度。
まさにボッタクリ・レストラン。

●睡魔
 
 電車に乗ってから、睡魔が襲ってきた。
今が、そう。
眠い。

 その目をこすりながら、パソコンのキーボードを叩く。
うっすらと意識が遠ざかる。
ぼんやりと窓の外をながめる。

 小雨。
肌寒い風。
低く、近くの山々を包む、霧。

 車掌が「興津(おきつ)、興津、つぎは興津です」と案内した。
静岡までは10分と少し。
眠るには、時間が足りない。
(ワイフは、眠ったら……と言っているが。)

●電車の中

 目の前の女性が、笑っている。
携帯端末を見ながら、笑っている。
……というか、うれしそう。
純朴そうな女性。
飾り気もなく、都会ズレもしていない。
足で、雨傘をしっかりとはさんでいる。

 ……今日の講演の中で、映画『タイタニック』を酷評してやった。
ハハハ。
若い母親たちが多かったから、そうした。
いわく、「ジャックにしても、ローズにしても、少しは親のことを考えたことがあるのか!」と。

 みなさんは、あのあとの話を知っているか?
タイタニック号が沈没したあとの話。

 そのあとジャックの両親は、ジャックを気が狂ったように探したという。
アイルランド中を探した。
「船でアメリカへ行くかもしれない」とジャックが話していたのを聞いた仲間がいた。
そこでそのあとジャックの両親は、船という船の乗船名簿を、すべて調べたという。
が、どこにも、「ジャック・ドーソン」という名前はなかった。
ジャックの両親は、一時は、どこかの国に拉致されたかもしれないとか、そんなことまで考えた
らしい。

 一方、ローズの母親は、タイタニックが沈没したあと、現場へ数回も足を運んだ。
そのたびに、花を海にたむけ、涙を流したという。

 ……というのは、私の作り話だが、逆に考えてみればよい。
あなたの息子や娘が、あのジャックやローズのような運命を選んだとしたら、あなたはどうする
だろうか。
「ああ、どこかで死んだかもね」と、笑ってすますだろうか。
それとも行方を捜しつづけるだろうか。
つまりあの映画には、親の視点が欠けている。
親の苦しみや悲しみが、抜け落ちている。

 若い人たちは、あの映画の中に、愛の理想形を見るかもしれない。
しかしそんなものは、愛でも、何でもない。
ただの欲望。

 ……というのは、書き過ぎ。
それはよくわかっている。
しかしあの映画を、私のような目で批判する人は少ない。
30代、40代までの人には、すばらしい映画かもしれない。
(たしかにすばらしい映画だが……。)
しかし60代、70代の人には、そうではない。
ただの恋愛至上主義映画。
アメリカ文化に毒された、ただの恋愛至上主義映画。
それをあえてみなさんに、伝えたかった。

●グランドホテル

 グランドホテルには、午後3時ごろ着いた。
部屋は6階のxx号室。
最上階。
仲居さんが、先ほど、こう言った。
「明日の朝は、天気もいいそうです」と。

 天気がよければ、駿河湾をはさんで、手前左側に、富士山が見えるはず。
部屋も広く、18畳。
和風の禁煙室。
先ほどB1の大浴場から戻ったところ。
眠気は取れたが、頭のほうは、ぼんやりしている。
雑誌をパラパラとめくる。

グランドホテル……前回、隣の松風閣に泊まったこともあるので、よけいにそう思うのかもしれ
ないが、玄関は狭い。
全体に古い。
バスタブなどは、ところどころ割れ、補修がしてあった。
が、それをのぞけば、部屋も広く、眺望もよい。

●脳神経の周波数

 以前、こう書いた。
脳の中心部からは、パソコンように、電気信号が発せられているのではないか、と。
それがあらゆる生命の原動力になっている。
で、その電気信号には、周波数がある。
脳の神経細胞は、数Hzから数10Hzほどの電気信号を発しているというから、その程度では
ないか。

もちろんコンピューターのようには、速くない。
最近のコンピューターでは、クロック数が、3・2GHzとか、3・4GHzとかいうのまである。
単純に計算すれば、コンピューターのもつ能力は、人間のそれの、10の9乗、つまり10億倍
ということになる。
人間が1問、計算する間に、10億問、解くことができる。

 が、だからといって、コンピューターのほうがすぐれているとは思わない。
反対に、人間のほうが劣っているとも思わない。
それよりも重要なのは、電気信号の伝達速度。
人間のばあいは、電気信号と化学反応を併用した方法で、信号を伝達している。
が、これには、限界がある。
つまりどうしても遅くなる。

 だから一般論してよく言われるのは、脳が大きくなればなるほど、その分だけ、頭の回転も鈍
くなるということ。
当然、動作も鈍くなる。
人間と象の動きを比べてみれば、わかる。
あるいは、ハエと人間でもよい。

(注※……脳内の電気信号と活動電位(電気パルス))

 脳内の電気信号をミクロな視点で見ると、具体的には一つ一つの細胞による活動電位などと
呼ばれる電気パルスである。
(極小の時間だけ電圧波形が生じるパルス波形の信号。)(以上、ウィキペディア百科事典)

(注※……脳波)
『この一つ一つの細胞の電気パルスを個別にいくら調べても具体的に価値のある情報(音声
情報、視界情報など)が含まれていることはない。
実際に、脳波を測定することにより思考に応じて何かを動かすという装置はあっても細胞の電
気パルス信号を測定することにより、思考に応じて何かをするという装置はない。

 ここで、脳波とは、脳波 = 各種細胞で生じる電気パルス信号の総和で、数Hz〜数十Hz
程度の電気信号をいう。(電気パルスではない)
各細胞で生じた電気パルス信号を足し合わせた総和である脳波が、思考に応じて変化するこ
とがわかっている』(以上:思考盗聴の技術サイト)と。

 しかしつぎのようなことは、すでにわかっている。
たとえば外界の刺激に応じて、脳内の反応部分がちがうということ。
たとえば母親が赤ん坊の泣き声を聞いたりすると、ちょうど麻薬を服用したときと同じ分野が反
応するという。
つまり麻薬を服用したときと同じように、甘い陶酔感に襲われるという。

 同じように、美しい音楽を聞いたり、すばらしい絵画を見たときも、それぞれ、ある特定の分
野が反応するという。

(注※……母親の反応)
2008年7月13日は、つぎのように伝える。
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー
医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した』(以上、時
事通信)と。

 だんだん面白くなってきた。
が、こんな話をつづけて書くと、読者の方の負担になる。
少し話題をそらす。

●橋下市長と入れ墨

 橋下市長が、こう宣言した。
入れ墨のある職員に対して、「分限(免職)もあり得る」※と。

 だったら……というわけでもないが、茶髪もだめ、ついでにプチ整形もだめということになるの
か。
拡大解釈をすれば、そうなる。
というか、いくらでも、拡大解釈できる。

 なぜ入れ墨がだめか……ということになれば、イメージが悪い。
この日本では、入れ墨イコール、暴力団関係者というイメージが焼き付いている。
しかし入れ墨のある人イコール、暴力団関係者ということではない。
反対に、暴力団関係者がみな、入れ墨をしているわけでもない。

 たとえば私の知人は、元NTTの職員。
退職後の現在は、高利貸し金融の取り立て業をしている。
人相が悪いのが、幸い(?)した。
「調査に来ました」とか言って、不良債務者を脅している。

 なおこれに対して、橋下市長は、「私を批判したら、100倍にして返してやる」と息巻いている
(報道)。

橋下市長が、少しずつだが、本性を現し始めた。
私は以前、「橋下市長は、ヒットラーか、ジャンヌダルクか」という原稿を書いた。
(私が「ヒットラー」という言葉を最初に使った。
そのあと自民党の幹部が、その言葉を使い始めた。)
で、現在は、さらに警戒心を強くもつようになった。
ものの言い方が、どこか独裁者的?

●合理性

 外国では、入れ墨は、ファッション。
飛行機のパイロットはもちろん、スチュワーデスでもしている。
だからといって、入れ墨を奨励しているわけではない。
が、私には、入れ墨と、プチ整形の境目が、よくわからない。
あるいはどこがどう違うというのか。

 入れ墨は、視覚的に、色として認識できる。
プチ整形は、視覚的に、形として認識できる。
では、アザはどうなのか。
人相の悪い人はどうなのか。
橋下市長の主張には、合理性がない。
ないばかりか、こう思う。

「市長なら、もっとほかに、やるべきことがあるだろう!」と。
入れ墨にしても、入れ墨がどうのこうのというくらいなら、暴力団と、裏でつながっている人を調
べたらどうか。
もっとも、そんなことを調べたら、ほとんどの公共事業はストップしてしまうだろうが……。

 ……私は、それ以上に、橋下市長の政治姿勢を心配する。
ひとつのことにこだわり始めると、とことんこだわる。
そのこだわりかたが、ふつうではない。
どこか偏執的。

それに今回の発言は、入れ墨を象徴とする暴力団の逆鱗に触れるのでは?
入れ墨問題に介入するということは、暴力団を敵に回すことになる。
(けっして、暴力団を擁護しているのではない。誤解のないように!)
暴力を仕事とするから、暴力団という。

 というか、橋下市長は、じゅうぶん、注意したほうがよい。
勇気ある発言というよりは、無鉄砲(?)。
この日本に、言論の自由があるというのは、幻想にすぎない。
どうでもよい、くだらないことについては、書いたり言ったりする自由はある。
が、一線を越えると、とたんに命すらあぶなくなる。

 実は、私にも経験がある。
ある本を書いたとき、私は3人の男たちに、付け回された。
そういう意味でも、橋下市長は、発言に、もう少し慎重になったほうがよい。
(けっして、暴力団を擁護しているのではない。誤解のないように。)
 
(注※……入れ墨)
『大阪市の橋下徹市長(42)が14日、入れ墨をしている市職員に対し、「分限(免職)もあり得
る」と発言したことで、橋下氏と入れ墨職員のバトルはいよいよ"実戦"の段階に入った。
14日に回答期限を迎えた市の全庁調査では、入れ墨をしている職員が次々に見つかってお
り、「入れ墨職員は100人を超すかも」と市幹部は頭を抱えている。
ただ、橋下氏が免職という最終手段を行使できるかどうかについては疑問の声もある』(Yaho
o・News・2012・05・15より)と。

●脳下垂体

 脳下垂体から、パルス信号のようなものが発せられている。
それはすでに脳科学の世界では、証明された事実と考えてよい。
で、そのパルス信号には、強弱もあり、周期性もある。
興味のある人は、以下の記述をゆっくりと読んでみたらよい。
漢字と横文字を見ただけで、拒絶反応を起こす人は、つぎの部分を、とばしたらよい。

(注+参考資料……脳下垂体の働き)
『GnRHの姿は1977年ノーベル賞受賞者のロジェ・ギルマンとアンドリュー・ウィクター・シャリー
により次の様に明らかにされた。

●神経ホルモンとしてのGnRH

GnRHは特定の神経細胞で産生され、その神経末端から放出される神経ホルモンと考えられ
ている。
視床下部のGnRHの産生の主要エリアは視索前野で、そこに殆どのGnRH分泌ニューロンが含
まれている。
GnRHは正中隆起の高さで門脈血流へ分泌され、性腺刺激ホルモン産生細胞の膜上にある受
容体を活性化させる。
GnRHはタンパク質分解によって数分の内に分解される。

●FSHとLHのコントロール

下垂体ではGnRHはFSHとLHの合成と分泌を刺激し、その過程はGnRHパルスの頻度と強さ、
それからアンドロゲンとエストロゲンのフィードバックである。
GnRH分泌には性差が存在し、男性ではGnRHは一定の頻度で分泌されるのに対し、女性では
月経周期によってその頻度が異なり、排卵前にGnRHが急激に高まる。
GnRHの拍動性は全ての脊椎動物において見られ、正しい生殖機能を確実にするのに不可欠
である。
従って雌ではホルモンであるGnRHが単独で卵胞成長、排卵、黄体の保持という複合した過
程、そして雄では精子形成をコントロールする』。
(以上:ウィキペディア百科事典より)と。

●「性的エネルギー」(Ribido)

その点、心理学のほうの説明は、わかりやすい。
以前書いた原稿の一部を、ここに転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
「性的エネルギー」という言葉を考えたフロイトは、すばらしい。
後にフロイトの弟子のユングは、それを「生的エネルギー」という言葉に置き換える。
どちらであるにせよ、それが生きる原点になっている。

 で、最近の脳科学によれば、そうした原点的な信号が、脳下垂体の下部あたりから発せられ
ていることがわかってきた。
コンピューターのパルス信号のようなものではないかと、私は勝手に想像している。
その信号が、たとえばドーパミン(欲望と快楽を司るホルモン)の分泌を促したりする。
それが生きる原動力となって働く。

さらに今では、私たちが「感情」と称しているものにしても、ホルモン説、つまり脳内ホルモンに
よって引き起こされるという説は、常識である。
つまり脳内ホルモンを軽く考えてはいけない。

 この脳内ホルモンこそが、人間を裏から操る。

●「私」

 少し前、小学生が私にこう聞いた。
「先生は、エロ本を見たことがあるか」と。

私は鼻先で、「フン」と笑って、その場を去った。
が、それが青春。
この時期の子どもに、「君は性欲の奴隷になっているよ」と諭しても意味はない。
理解することさえ、不可能。
ぜったいに不可能。
その子どもは子どもなりに、それが「私」と思い込んでいる。
思い込みながら、つぎつぎと行動を発展させていく。

 恋愛もあるだろう。
結婚もあるだろう。
育児もあるだろう。
その過程で名誉を求めたり、肩書きを求めたりする。
欲望には際限がない。
富や権力を求め、それなりに苦労もするだろう。
そして最後に、こう思う。
「どうだい、私はすばらしいだろう!」と。

●メタ認知能力

 だからといって、「性的エネルギー」にせよ、「生的エネルギー」を否定してはいけない。
それがあるからこそ、人生も、これまた楽しい。
男が女を求め、女が男を求める。
そこから無数のドラマが生まれる。
そのドラマが、楽しい。

 あえて言うなら、できればその間に一線を引く。
(タマネギの皮の私)と、(タマネギの芯の私)の間に、一線を引く。
一線を引き、自分を客観的に見る。
これを「メタ認知能力」と言ってよいかどうかは知らない。
しかしこれこそが、まさに「高次(メタ)な認知能力」ということになる。

 大切なことは、性欲の奴隷であるにせよ、その奴隷のまま性欲に溺れてはいけないというこ
と。
常に自分を客観的に、醒(さ)めた目で見る。
そういう自分を見失ってはいけない。

 私は鼻で「フン」と笑ったとき、そう考えた。

●「精神のメルトダウン」

 また少し前、「精神のメルトダウン」という言葉を知った。
外国の社会学者が、何かの評論の中で使っていた。
「日本人は、精神的にもメルトダウンしている」と。

 ナルホド!

 私に欠けるのは、こうした自由な発想。
造語能力。
実にうまい。
的確。
精神的メルトダウン!

 たしかに日本人は、精神的にメルトダウンしてしまっている。
日本語的に表現すれば、「もの言わぬ従順な民」に、なりさがってしまっている。

 自分で考えない。
自分で行動しない。
自分で責任を取らない。

 その前に、そこにある不正、腐敗、矛盾、不公平、不平等に対しても、声をあげようともしな
い。
「だれかが何とかしてくれるだろう」
「何とかなるだろう」と。

 そしてその返す刀で、「自分だけ、そこそこによければ、それでいい」と、そこにある問題から
逃げてしまう。
まさに精神のメルトダウン。
実にうまい表現。
昨日、その言葉に感心した。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●グランドホテルの夕食

 
 話を戻す。

 今夜の料理は、和懐石。
「懐石」というのは、もともとは、「簡素な料理」を意味する。
しかし今では、超豪華。
つぎつぎと料理が並んだ。
おいしかった。
大満足に近い、満足。

 で、結論。
経済的に余裕があるなら、新館のほうで。
(あとで聞いたら、「新館というのは、とくにない」とのこと。
そのつど改装工事はしているとのこと。)

私たちは旧館のほうに、宿泊。
追加料理は、いろいろできる。

●弱音(よわね)

 少し弱音(よわね)を吐く……。

今日も講演をした。
が、終わったとき、ふとこう感じた。
「ぼくの時代も、終わったな」と。
「いろいろやってみたが、ここまで」とも。
このところ(繰り返し感)が強くなった。
自分のしていることが積み重なっていかない。
話を聞きに来てくれた人にしても、数か月もすれば、私のことなど、すっかり忘れるだろう。
名前さえ、記憶に残らない。
そのころ私はまた別のところで話をする。
あとは、その繰り返し。

 が、その私も、もうすぐ65歳。
この年齢まで、無事、こうして生きてこられたことを感謝する。
同時に、「もうそろそろ潮時かな?」とも。

 とは言っても、昨日、高校時代の友人のMY君と、こう約束しあった。
「75歳まで、現役でがんばろう」と。

 その気になれば、不可能ではない。
体力を維持し、気力をみがく。
日々に精進あるのみ。
75歳までがんばれるかどうかは、あくまでもその結果。

 しかしあの田丸謙二先生は、76歳まで、東京理科大学(山口)の理学部長を勤めた。
それを思えば、75歳といっても、けっして不可能な年齢ではない。
私だって、がんばれるはず。

 しかしときどき、自信をなくす。
疲れているせいもある。
こういうときは、気力も、弱くなる。

 もう少ししたら、もう一度、温泉につかってくる。
そのあとは、そのまま就寝。
自分で自分に、「ご苦労さま」。

●5月16日

 まばゆいばかりの朝日。
窓から飛び込んできた、その朝日で、目が覚めた。

 眼下は駿河湾。
左端に崖が見え、その向こうに、富士山が見えた。
日の出直前。
さっそくビデオカメラを回す。

 が、こういうときというのは、ワイフは、無頓着。
朝日を背に、向こう側を向いて眠っている。
私は、こうしてパソコンを立ち上げ、ニュースに目を通す。
真っ先に読んだのが、ギリシャ関連のニュース。

今朝のニュースによれば、ギリシャのEU離脱は、どうやら不可避の状況になってきた。
が、「?」。
明日になると、それがひっくり返る可能性もある。
ちょっとしたきかっけで、黒石が、ゾロゾロと白石に変わる。
まさにオセロゲーム。

 どうであるにせよ、ギリシャの人たちには、きびしい時代が待っている。
EUに残るも地獄。
EUから離脱するのも地獄。

 で、昨日の日本の株価は、73円安の8900円。
EUの株価は、23ユーロ安の、2178ユーロ。
つづくアメリカは、63ドル安の、12632ドル(午前5:51現在)。
経済ニュースのどこかに、「泥沼化」(Bloomberg)という文字が見えた。

●ぼたんインコ

 昨日もそうだった。
今朝もそう。
早く家に帰って、ぼたんインコの、ピッピに会いたい。
今は、息子がめんどうをみてくれているが、息子も忙しい。
おとなしく巣の中で、眠っていてくれればよいのだが……。

 本当に人間によく慣れた鳥で、手の中では、安心しきって眠っている。
ときおり、顔を近づけると、私の顔を、愛くるしそうになめてくれる。
あんな小さな鳥だが、懸命に愛情表現を繰り返す。
そのいじらしさ。
それが、心を癒す。

●証券会社

 世界のことは知らないが、この日本では、証券会社は、ブラック企業に含めてよいのではな
いか(失礼!)。
今回も、株価が暴落する直前は、こう言っていた。
「日本の株価は出遅れ感が強い。夏にかけて1万3000円から1万5000円をねらう展開にな
る」(N証券アナリスト)と。

 が、その直後からの大暴落。
「直後」というのは、その「数日後」という意味。
証券会社の言葉を信じ、大損をした人も多いはず。
最後は一般庶民(素人投資家)にババをつかませ、自分たちは逃げる。
そんな構図が、この日本では、定着してしまった。

 証券会社に責任があるというよりは、制度、さらには意識そのものに原因がある。
アメリカでは、どんな企業でも、投資家の所有物。
投資家の利益を第一に考える。
それを忘れたら、証券会社は、成り立たない。

が、この日本では、企業は銀行の所有物。
「投資家の利益保護」を第一に考えている企業など、どこにもない。
言うなれば、バクチ。
そのバクチの大元締めが、証券会社。

 が、こうした現状は、日本の経済にとっても、たいへん不幸なことである。
こんなことを繰り返していたら、日本人は、ますます証券会社から離れていく。
経済活動は、停滞する。
その結果が今。
いくら日銀が札をばらまいても、最終的にはみな、タンス預金へと化けていく。

 ……たとえばアメリカでは、証券会社が顧客に大きな損失を与えたばあいは、即、捜査の対
象になる。
今朝も、Bloombergは、つぎのように伝える。

『…… 5月15日(ブルームバーグ): 米司法省と米連邦捜査局(FBI)は、JPモルガン・チェー
スで発生した20億ドルのトレーディング損失について刑事捜査に着手した。事情に詳しい関係
者が明らかにした』と。

 が、この日本では、そういう理由で、関係者が投獄されたという話は、聞いたことがない。
あの日債銀事件でも、トップの責任者は、一応逮捕されたが、結局は無罪。
無罪放免。
2兆円という国税をドブに捨てさせながら、無罪放免。
隣の家から、1000円盗んでも、窃盗罪。
4兆円盗んでも、無罪※。
罪名すらつかない。
4兆円という額がどういう額か、ここに数字で書いておく。

 4兆円=4000000000000円。
100万円の札束を1センチの厚さにすると、4兆円は、40キロの高さになる。
(40キロだぞ!)
そんな金を、税金から盗んでも、窃盗罪にもならない。

 私の知人は、その日債銀にいた。
そのあと、子会社のSリースに天下り。
現在の今も、満額の退職金と企業年金を手にし、悠々自適の老後生活を楽しんでいる。

(注※)ウィキペディア百科事典より

『……この売却にあたり、金融再生委員会と預金保険機構は、日本債券信用銀行の債務超過
を穴埋めするため、3兆2,428億円の公的資金投入を行った。
この結果、1998年に投入した600億円を含め、実質的国民負担額は、金融機関の負担する預
金保険料1,714億円を差し引いた3兆1,314億円に上った(公的資金投入額のうち、一時国有化
月時点の不良債権処理費用は3兆1,497億円。
国有化後に発生した損失は931億円とされる)。但し、この数字には瑕疵担保条項によって、
国による不良債権買い上げによって生じる損失は、考慮されていない』

『ちなみに、"日債銀破綻のA級戦犯"と名指しされるも、時効により刑事立件を逃れた頴川史
郎の役員退任時の退職金は約6億円といわれる。
日債銀は損害賠償とは別に、頴川史郎元会長ら旧経営陣16人に対して総額19億円の退職金
の自主的返還も要請した。
全員が返還に合意したものの、これまでの返還額は計約2億5000万円にとどまっている。こう
したなか、2007年3月7日、頴川は死去、享年84』(以上、ウィキペディア百科事典より)と。

 アメリカだったら、無期懲役。
都市銀行も含め、日本の金融界はそういう世界と知った上で、つきあえばよい。
あとは、自己責任!

 ……そう言えば、この日本では、「株で損をした」という話を聞いても、だれも同情しない。
「馬鹿だ」と笑われて、おしまい。
だから損をした人は、黙る。
が、証券会社にとっては、これほど都合のよい話はない。
一説によると、(経済誌などによると)、一般投資家(素人)の95%が損をしているという(201
0年現在)。
FX取り引きともなると、今ではロボットが、数百分の1秒単位で取り引きを繰り返している。
(数千分の1秒単位という説もある。)
一般投資家(素人)に勝ち目はない。

●帰宅

さて、今日も始まった。
ワイフも、床から起きてきた。
なお、今週は、オーストラリアの友人がやってくる。
10月には、別の友人がやってくる。

 「7時には帰り支度をしよう」と声をかけると、「うん」と。

 窓からの日差しがますます強くなってきた。
窓は海に向かって、全面に開いている。

 ……たった今、ワイフは、レースのカーテンを閉めながら、こう言った。
「あまり変わらないね」と。
朝日のまぶしさが、あまり変わらないという意味で、そう言った。

●電車の中で

 浜松まで45分。
今回の講演旅行の総括。

 講演のできは、ふつう。
2時間近く、話しつづけた。
みな、最後まで真剣に聞いてくれた。
それを思えば、まずまずといったところか。

 ホテルは、焼津のグランドホテルに泊まった。
料金を勘案するなら、星は4つの★★★★。
団体客が多かったように思う。
火曜日(平日)だったが、かなりの混みよう。
仲居さんたちも、やる気度100%。
キビキビと働いていた。

 朝食はバイキングだったが、ほぼ満足。
メンタイコなど、中級以上の食材が、数多く並んでいた。
意見を求められたので、「満足」に丸をつけておいた。

次回は御殿場。
ホテルは、決めてある。
楽しみ。

 なお反対側の通路に、3人の女性が座っている。
年齢は、40歳前後。
その中の1人が、甲高い声で、しゃべりつづけている。
先ほど軽く注意したが、効果なし。
キャッ、キャッ、ペチャクチャ、ペチャクチャ……。

席はほぼ満席だが、その3人組の声だけが、車内で響き渡っている。
のどかな、それでいて、きわめて日常的な光景。
こうして今日も始まり、やがて終わる。

●心の実験

 心の実験をしてみることにした。
こんな実験。

 先ほど、私はこう思った。
帰りに、ぼたんインコの栄養剤を買って帰ろう、と。
駅から自宅までの間に、一軒、ペットショップがある。
そこで栄養剤を買う。

 が、多分、そのことはやがて忘れてしまうだろう。
意識の奥、つまり無意識の世界にそのまま入ってしまうはず。
雑誌を読んだり、ワイフと話したりしている間に、忘れてしまうはず。
メモ帳か何かにメモでもすれば、覚えているかもしれない。
が、忘れてしまうはず。
またそうでないと、ほかのことが考えられなくなる。

 果たして私は、あのペットショップの近くを通り過ぎるとき、それを思い出すだろうか。
それとも本当に忘れ、そのまま通り過ぎてしまうだろうか。
つまりこれがここでいう「心の実験」である。

●無意識の世界に操られる脳

 人間の心は、常に無意識の世界に操られている。
意識している部分は、脳の中でも、ほんの一部にすぎない。
もし私がペットショップの近くを通り過ぎたとき、栄養剤のことを思い出せば、思い出したという
より、無意識の世界からの命令に従ったということになる。
そうでなければ、そうでない。

 さて、どうなるか?

 ということで……眠い。
少し眠ることにした。

●自宅で……

 電車の中では夢を見た。
バスか何かに乗っていた。
ワイフが、「浜松よ」よ、私を揺り起こした。
私はフラフラと立ち上がった。
電車を出た。
駅を出た。
事務所の前まで歩き、そこで自分の車に乗った。

 で、帰り道、あのペットショップの近くにやってきた。
「ピッピの栄養剤を買って帰るよ」と言うと、ワイフは、車をその店の前に回してくれた。
私は、ショップで、栄養剤を買った……。

 さてそのときのこと。
私は自分の意思で、栄養剤を買ったことになるのか。
それとも無意識の世界からの命令に応じて、買ったことになるのか。

 最近の脳科学では、後者のほうが正しいということになる。
私たちが自分の意思でしていると思っている行動のほとんどは、実はそれ以前に、無意識の
世界で決められている。
私たちはその無意識の世界からあがってくる命令に従い、それを意識としてとらえ、行動する。

 電車を降りたとき、車に乗ったとき、私は、栄養剤のことは、まったく忘れていた。
意識の中に、なかった。
が、ペットショップの近くへやってきたとき、無意識の世界からの命令に従い、「ピッピの栄養剤
を買って帰るよ」と言った。

 ……ということで、実験、終了。
最近の脳科学の進歩は、すごい。
本当に、すごい。
ここまで人間の心がわかるようになった。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 心の実験 無意識の世界 意識とは
 はやし浩司 意識論 意識の中身 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 焼津
グランドホテル はやし浩司 2012−05−16)2012/05/16記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司








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