音楽と原稿(1) 

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はやし浩司総集編
エッセー……(Essays)

My Essays with Music


            
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Impressions
                           

隣人は西ジャワの王子だった【1】



●世話人は正田英三郎氏だった



 私は幸運にも、オ−ストラリアのメルボルン大学というところで、大学を卒業したあと、研究
生活を送ることができた。



 世話人になってくださったのが正田英三郎氏。皇后陛下の父君である。



 おかげで私は、とんでもない世界(?)に足を踏み入れてしまった。私の寝泊りした、インター
ナショナル・ハウスは、各国の皇族や王族の子息ばかり。西ジャワの王子やモ−リシャスの皇
太子。ナイジェリアの王族の息子に、マレ−シアの大蔵大臣の息子など。ベネズエラの石油王
の息子もいた。



 「あんたの国の文字で、何か書いてくれ」と頼んだとき、西ジャワの王子はこう言った。「インド
ネシア語か、それとも家族の文字か」と。



 「家族の文字」というのには、驚いた。王族には王族しか使わない文字というものがあった。
また「マレ−シアのお札には、ぜんぶうちのおやじのサインがある」と聞かされたときにも、驚
いた。一人名前は出せないが、香港マフィアの親分の息子もいた。「ピンキーとキラーズ」(当
時の人気歌手)が香港で公演したときの写真を見せ、「横に立っているのが兄だ」と笑った。



 今度は私の番。「おまえのおやじは、何をしているか」と聞かれた。そこで「自転車屋だ」とい
うと、「日本で一番大きい自転車屋か」と。私が「いや、田舎の自転車屋だ」というと、「ビルは
何階建てか」「車は、何台もっているか」「従業員の数は何人か」と。



●マダム・ガンジーもやってきた



 そんなわけで世界各国から要人が来ると、必ず私たちのハウスへやってきては、夕食を共
にし、スピ−チをして帰った。よど号ハイジャック事件で、北朝鮮に渡った山村政務次官が、井
口領事に連れられてやってきたこともある。



 山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンに来ていた。その前年にはマダム・ガ
ンジ−も来たし、『サ−』の称号をもつ人物も、毎週のようにやってきた。インドネシアの海軍が
来たときには、上級将校たちがバスを連ねて、西ジャワの王子のところへ、あいさつに来た。
そのときは私は彼と並んで、最敬礼する兵隊の前を歩かされた。



 また韓国の金外務大臣が来たときには、「大臣が不愉快に思うといけないから」という理由
で、私は席をはずすように言われた。当時は、まだそういう時代だった。変わった人物では、ト
ロイ・ドナヒュ−という映画スタ−も来て、一週間ほど寝食をともにしていったこともある。『ル−
ト66』という映画に出ていたが、今では知っている人も少ない。



 そうそう、こんなこともあった。たまたまミス・ユニバースの一行が、開催国のアルゼンチンか
らの帰り道、私たちのハウスへやってきた。そしてダンスパ−ティをしたのだが、ある国の王子
が日本代表の、ジュンコという女性に、一目惚れしてしまった。で、彼のためにラブレタ−を書
いてやったのだが、そのお礼にと、彼が彼の国のミス代表を、私にくれた。



 「くれた」という言い方もへんだが、そういうような、やり方だった。その国では、彼にさからう
人間など、誰もいない。さからえない。おかげで私は、オ−ストラリアへ着いてからすぐに、す
ばらしい女性とデートすることができた。そんなことはどうでもよいが、そのときのジュンコとい
う女性は、後に大橋巨泉というタレントと結婚したと聞いている。



 ……こんな話を今、しても、誰も「ホラ」だと思うらしい。私もそう思われるのがいやで、めった
にこの話はしない。が、私の世にも不思議な留学時代は、こうして始まった。一九七〇年の
春。そのころ日本の大阪では、万博が始まろうとしていた。

もっと読んでくださる方は……●

            
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2001年、宇宙の旅(2001:A Space Odyssey)
                           

●三一年目の約束



ちょうど三十一年前の卒業アルバムに、私はこう書いた。

「二〇〇一年一月二日、午後一時二分に、(金沢の)石川門の前で君を待つ」と。

それを書いたとき、私は半ば冗談のつもりだった。当時の私は二十二歳。ちょうどアー
サー・クラーク原作の「二〇〇一年宇宙の旅」という映画が話題になっていたころでもあ
る。私にとっては、三十一年後の自分というのは、宇宙の旅と同じくらい、「ありえない未
来」だった。

 しかし、その三十一年が過ぎた。一月一日に金沢駅におりたつと、体を突き刺すよう
な冷たい雨が降っていた。「冬の金沢はいつもこうだ」と言うと、女房が体を震わせた。と
たん、無数の思い出がどっと頭の中を襲った。話したいことはいっぱいあるはずなのに、
言葉にならない。細い路地をいくつか抜けて、やがて近江町市場のアーケード通りに出た。

いつもなら海産物を売るおやじの声で、にぎやかなところだ。が、その日は休み。「初売
りは五日から」という張り紙が、うらめしい。カニの臭いだけが、強く鼻をついた。

 自分の書いたメモが、気になり始めたのは数年前からだった。それまで、アルバムを
見ることも、ほとんどなかった。研究室の本棚の前で、精一杯の虚勢をはって、学者然と
して写真におさまっている自分が、どこかいやだった。

しかし二〇〇一年が近づくにつれて、その日が私の心に重くのしかかるようになった。
アルバムにメモを書いた日が「入り口」とするなら、その日は「出口」ということか。し
かし振り返ってみると、その入り口と出口が、一つのドアでしかない。その間に無数の思
い出があるはずなのに、それがない。人生という部屋に入ってみたら、そこがそのまま出
口だった。そんな感じで三十一年が過ぎてしまった。

 「どうしてあなたは金沢へ来たの?」と女房が聞いた。「…自分に対する責任のような
ものだ」と私。あのメモを書いたとき、心のどこかで、「二〇〇一年まで私は生きているだ
ろうか」と思ったのを覚えている。が、その私が生きている。生きてきた。時の流れは、
時に美しく、そして時に物悲しい。

フランスの詩人、ジャン・ダルジーは、かつてこう歌った。「♪人来たりて、また去る…」
と。

部分的にしか覚えていないが、続く一節はこうだった。「♪かくして私の、あなたの、彼
の、彼女の、そして彼らの人生が流れる。あたかも何ごともなかったかのように…」と。

何かをしたようで、結局は、私は何もできなかった。時の流れは風のようなものだ。ど
こからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。つかむこともできない。握った
と思っても、そのまま指の間から漏れていく。

 翌一月二日も、朝からみぞれまじりの激しい雨が降っていた。私たちは兼六園の通り
にある茶屋で昼食をとり、そして一時少し前にそこを出た。が、茶屋を出ると、雨がやん
でいた。そこから石川門までは、歩いて数分もない。

歩いて、私たちは石川門の下に立った。「今、何時だ」と聞くと、女房が時計を見ながら
「一時よ…」と。私はもう一度石川門の下で足をふんばってみた。「ここに立っている」と
いう実感がほしかった。

学生時代、四年間通り抜けた石川門だ。と、そのとき、橋の中ほどから二人の男が笑い
ながらやってくるのに気がついた。同時にうしろから声をかける男がいた。それにもう一
人……! 

そのとたん、私の目から、とめどもなく涙があふれ出した。


            
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●レット・イット・ビー
                           

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●レット・イット・ビー

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻が愛し合い、信頼し合っているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。

そう、『子はかすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろうとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないのか。もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、10年も20年も、新婚当時の気持ちのままでいることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたことないから、わからない」と答える。

 …こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。先日もある女性(40歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やったわ!」と。

聞くと、夫が単身赴任で北海道へ行くことになったという。ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(33歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も年に一度あるかないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃあ、ない?」と。明るく屈託がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人それぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは気にしてはいけない。

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中に描く。それ自体は悪いことではない。が、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

 そこでどうだろう。こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから…」「親子だから…」と考えると、あなたも疲れるが、家族も疲れる。

大切なことは、今あるものを、あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じないから結婚もおしまい」とか「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そういうふうに大げさに考える必要はない。つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきらめる。

そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがままに…)」と。それはまさに「智恵の言葉」だ。

            
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      ●マジソン郡の橋     
        

(音楽↓、クリック)(中央の▼ではなく、左下の▼をクリックしてください)(音楽↓、クリック)





母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充実感がない……。今、そんな女性がふえている。

Hさん(32歳)もそうだ。結婚したのは24歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、20歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋
 
R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。

            
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●ロメオとジュリエット
                           

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●マダム・バタフライ

(音楽↓、クリック)
http://jp.youtube.com/watch?v=7Z3-yBlDckY

 久しぶりに、「マダム・バタフライ」を聞いた。ジャコモ・プッチーニのオペラである。私はあの曲が好きで、聞き出すと何度も、繰り返し聞く。

「♪ある晴れた日に、
  遠い海の向こうに一筋の煙が見え、
  やがて白い船が港に着く……
  あの人は私をさがすわ、
  でも、私は迎えに行かない
  こんなに私を待たせたから……」

 この曲を聞くと、何とも切ない気持ちになるのは、なぜか。遠い昔、長崎からきた女性に恋をしたことがあるからか。色の白い、美しい人だった。本当に美しい人だった。その人が笑うと、一斉に太陽が輝き、一面に花が咲くようだった。その人はいつも、春の陽光をあびて、まばゆいばかりに輝いていた。

 マダム・バタフライ、つまり蝶々夫人は、もともとは武士の娘だったが、幕末から明治にかけての混乱期に、芸者として長崎へやってくる。そこで海軍士官のピンカートンと知り合い、結婚。そして男児を出産。が、ピンカートンは、アメリカへ帰る。先の歌は、そのピンカートンを待つマダム・バタフライが歌うもの。今さら説明など必要ないかもしれない。

(音楽↓、クリック)(中央の▼ではなく、左下の▼をクリックしてください)



 同じような悲恋物語だが、ウィリアム・シェークスピアの「ロメオとジュリエット」もすばらしい。少しだが若いころ、セリフを一生懸命暗記したこともある。ロメオとジュリエットがはじめてベッドで朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。「喜びの日が、モヤのかかった山の頂上で、つま先で立っている」と。本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の頂上にモヤにかかっている。モヤがそのあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はやはりそのシーンになると、たまらないほどの切なさを覚える。

そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」はすばらしい。私はあの映画を何度も見た。ビデオももっている。サウンドトラック版のCDももっている。その映画の中で、若い男が、こう歌う。ロメオとジュリエットがはじめて顔をあわせたパーティで歌われる歌だ。

 「♪若さって何?
   衝動的な炎。
乙女とは何? 
氷と欲望。
世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前。「息子が恋をするとき」というエッセーを書いたので、このあとに添付しておく。

 最後にもう一つ映画の話になるが、「マジソン郡の橋」もすばらしい。短い曲だが、映画の最後のシーンに流れる、「Do Live」(生きて)は、何度聞いてもあきない。いつか電撃に打たれるような恋をして、身を焼き尽くすような恋をしてみたいと思う。かなわぬ夢だが、しかしそういうロマンスだけは忘れたくない。いつか……。
(02−10−5)※

*Romeo and Juliet

++++++++++++++++++

(Love Theme from Romeo and Juliet)

What is a youth?  Impetuous fire.  若さって、何? 燃えさかる炎。
What is a maid?  Ice and desire.  乙女って、何? 氷と欲望。
The world wags on,  世界は、その上で踊る。
a rose will bloom.... ばらは咲き、
It then will fade:  そして色あせる。
so does a youth,  若さも、また同じ。
so does the fairest maid. もっとも美しい乙女も、また同じ。
Comes a time when one sweet smile その人の甘い微笑みが
has a season for a while....  しばしの間、その季節を迎えるときがやってきた。
Then love's in love with me.  そして私と恋を恋するときがやってきた。
Some they think only to marry,  結婚だけを考える人もいる。
others will tease and tarry.  からかうだけの人や、じらすだけの人もいる。
Mine is the very best parry.  でも私のは、あるがまま。
Cupid he rules us all.  キューピッドだけが、私たちを支配する。
Caper the cape, but sing me the song,  ケープをひらめかせ、私に歌を歌え。
Death will come soon to hush us along. やがて死が訪れ、私たちを痛めつける。
Sweeter than honey... and bitter as gall,  蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦く、
Love is a task and it never will pall.  愛は、すべきこと、隠すことはできない。
Sweeter than honey and bitter as gall. 蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦い。
Cupid he rules us all." キューピッドが私たちを支配する。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●息子が恋をするとき

息子が恋をするとき(人がもっとも人間らしくなれるとき)

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今までの人生の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相手の女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員30名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転車屋。「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。

オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男がそう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つかと言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。年俸が1億円も2億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめてみせる。一着数百万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難民の募金を涙ながらに訴える。暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やF国政府から、日本を代表する文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つかむことができる、「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。もしそれがまちがっているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそんなことはありえない。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そしてそれを見る観客は、その二人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。しかしそれは決して、他人の恋をいとおしむ涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。あの無限に広く見えた青春時代も、過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝ていた。6月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなになってしまいそうだった。ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度も何度も私は歯をくいしばった。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。そしてそれが今、たまらなくなつかしい。私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私も、また笑った。

            
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              ●And I love her             

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【ビートルズの歌で終わった青春時代(白血病だったジル)】

(世にも不思議な留学記より)

●行くも最後という時代だった

 行くのも最後、帰るのも最後という時代だった。往復の旅費だけで、40万円以上。まだまだ日本は貧しかった。メルボルンを飛び立つときは、本当にさびしかった。そしてそのさびしさは、フィリッピンのマニラに到着してからも消えなかった。

夜、リザ−ル公園を歩いていると、6、7人の学生がギタ−を弾いていた。私がぼんやりと見ていると、「何か、曲を弾いてあげようか」と声をかけてくれた。私は「ビ−トルズのアンド・アイ・ラブ・ハ−を」と頼んだ。私はその曲を聞きながら、あふれる涙をどうすることもできなかった。

 私には一人のガ−ルフレンドがいた。ジリアン・マックグレゴーという名前の女の子だったが、「嘘つきジル」というあだ名で呼ばれていた。が、私にはいつも誠実だった。映画「トラトラトラ」を二人で見に行ったときも、彼女だけが日本の味方をしてくれた。映画館の中で、アメリカの飛行機が落ちるたびに、拍手喝采をしてくれた。

あの国では、静かに映画を見ている観客などいない。そのジルに私が帰国を告げたとき、彼女はこう言った。「ヒロシ! 私は白血病よ。その私を置いていくの!」と。私はそれが嘘だと思った。……思ってしまった。だから私は天井に、飲みかけていたコ−ヒ−のカップを投げつけ、「嘘つき! どうして君は、ぼくにまで嘘をつくんだ!」と叫んだ。

 夜、ハウスの友だちの部屋にいると、デニスという、今でも無二の親友だが、その彼が私を迎えにきてくれた。そのデニス君とジルは幼なじみで、互いの両親も懇意にしていた。デニスに、ジルの病気の話をすると、彼はこう言った。「それは本当だよ。だからぼくは君に言っただろ。ジルとはつきあってはダメだ。後悔することになる、と。しかしね、ジルが君にその話をしたということは、ジルは君を愛しているんだよ」と。

彼女の病気は、彼女と彼らの両親だけが知っている秘密だった。私はジ−ロンという、メルボルンの南にある町まで行く途中、星空を見ながら泣いた。オーストラリアの星空は、日本のそれよりも何倍も広い。地平線からすぐ星が輝いている。私はただただ、それに圧倒されて泣いた。

●こうして私の青春時代は終った……

 こうして私の留学時代は終わった。同時に、私の青春時代も終わった。そしてその時代を駆け抜けたとき、私の人生観も一八〇度変わっていた。私はあの国で、「自由」を見たし、それが今でも私の生活の基本になっている。私がその後、M物産という会社をやめて、幼稚園教師になったとき、どの人も私を笑った。気が狂ったとうわさする人もいた。

母に相談すると、母まで「あんたは道を誤った」と、電話口のむこうで泣き崩れてしまった。ただデニス君だけは、「すばらしい選択だ」と喜んでくれた。以後、幼児教育をして、二八年になる。はたしてその選択が正しかったのかどうか……?

 そうそう、ジルについて一言。私が帰国してから数カ月後。ジルは、西ドイツにいる兄をたよってドイツへ渡り、そこでギリシャ人と結婚し、アテネ近郊の町で消息を断った。

また同じハウスにいた、あの皇太子や王族の息子たちは、今はその国の元首級の人物となって活躍している。テレビにも時々顔を出す。デニスは、小学校の教員をしたあと、国防省に入り、今はモナーシュ大学の図書館で司書をしている。本が好きな男で、いつも「ぼくは本に囲まれて幸せだ」と言っている。私だけは相変わらず、あの「自転車屋の息子」のままだが……。

            
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I am sailing
                           

●青年の樹(き)

雲が流れる 丘の上
花の乱れる 叢(くさむら)に
共に植える ひともとの
ひともとの
若き希望と 夢の苗
空に伸びろ 青年の樹よ


嵐すさぶ 日もあらん
憂いに暗い 夜もなお
腕組み合わせ 立ち行かん
立ち行かん
熱き心と 意気地もて
森に育て 青年の樹よ


多感の友よ 思わずや
祖国の姿 今如何に
明日の夜明けを 告げるもの
告げるもの
我等をおきて 誰かある
国を興(おこ)せ 青年の樹よ

(作詞、東京都知事・石原慎太郎氏)

 私は学生時代、悲しいことやつらいことがあると、決まってこの歌を口ずさみ、自分をなぐさめた。今でも、ときどき、この歌が、口から出てくる。

 で、この歌には、こんなエピソードがある。

 私がオーストラリアのカレッジで、この歌を歌っていると、一人の友人(オーストラリア人)が、「それは何の歌か?」と。そこで私が、「これはすばらしい歌だ。訳してあげよう」と言って、訳してやった。

「雲が、丘の上に流れて、みんなで青年の木という木を植えた。その木よ、伸びろという歌だと教える」と、その友人は、顔をかしげて、「何だ、そんな歌か」というような顔をした。

 で、私が「いい歌詞だろ」とたたみかけると、「ヒロシ、雲が丘の上にあるって、そんなことは何でもないではないか」と。彼らには、日本的なデリカシーが理解できないようだ。

 しかし、これと反対のことがある。

 ずいぶんと昔だが、一人の高校生(男子)が、興奮したおももちで私のところにやってきて、こう言った。「先生、すばらしい歌がある。翻訳してほしい」と。

 それがロッド・スチュアートの「セーリング」だった。が、訳してみると、何でもない歌詞。

 「ぼくは、航海している。ぼくは航海していると、何でもないよ。海を横切って、あなたのところへ帰るって、ね」と。

 その高校生は、がっかりした様子だったが、それからしばらくしたあとのこと。私はその曲を聞いて、たいへんなまちがいをしたことを思い知らされた。「セーリング(sailing)」は、すばらしい曲だった。

 あとで、その高校生にあやまったことは、言うまでもない。

(音楽↓、クリック)(中央の▼ではなく、左下の▼をクリックしてください)



●Sailing

               
I am sailing, I am sailing,
home again 'cross the sea.
I am sailing, stormy waters,
to be near you, to be free.


I am flying, I am flying,
like a bird 'cross the sky.
I am flying, passing high clouds,
to be with you, to be free.


Can you hear me, can you hear me
thro' the dark night, far away,
I am dying, forever trying,
to be with you, who can say.


Can you hear me, can you hear me,
thro' the dark night far away.
I am dying, forever trying,
to be with you, who can say.


We are sailing, we are sailing,
home again 'cross the sea.
We are sailing stormy waters,
to be near you, to be free.


Oh Lord, to be near you, to be free.
Oh Lord, to be near you, to be free,
Oh Lord.

(Written by Rod Stewart)

 若いお父さん、お母さんは、「青年の樹」も、「セーリング」も知らないかもしれない。不思議なものだ。しかしこういった歌を口ずさむと、そのときの光景のみならず、友の顔、雰囲気、心の様子まで心の中によみがえってくる。歌というのは、そういうものか。

 そしてもう一つ。そういう歌が出てくるときというのは、そのときの心情と共通するとき。「青年の樹」が出てくるということは、今がそのさみしいとき、つらいときかもしれない。がんばろう!
(030831)

●ロッド・スチュアートは、最後にこう歌う。

「♪オー、主よ。あなたに近づくために、魂を解放するために。
  オー、主よ、あなたに近づくために、魂を解放するために。
  オー、主よ」と。

 こういう歌を堂々と歌える人が、うらやましい。

            
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ロッキー
                           

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●満60歳!

満、60歳。その実感は、ない。まったく、ない。
皆で、鍋料理を食べた。ケーキを食べた。

「(市販の)ショートケーキでいいよ」と私が言うと、
「作るからいい」と、ワイフは言った。

静かな時が流れた。安らいだ時が流れた。
私はパソコンを前にして、眠った。いくつかの夢を見た。

見ると、ワイフが横にいた。「眠ったみたい」と、私。
「もうすぐ、準備ができるから」と、ワイフ。

いつもの夕方。いつもの夕食。そしていつもの誕生日。

長男とワイフが、私の声に合わせて歌ってくれた。

「♪ハッピーバースディ、ツー、ユー」と。

夕食後、みなで、『ロッキー・ザ・ファイナル』を見た。
よい映画だった。なつかしかった。涙があふれた。
60歳の誕生日に、ふさわしい映画だった。

私「あと10年、がんばるよ」
ワ「いつものペースでいいのよ」
私「そうだね」と。

私はここで誓う。

もう1人の邪悪な私とは、決別する。いじけやすく、
ひがみやすく、くじけやすい。そんな私だ。

それにもうひとつ。この先、その10年に、
私の命を賭ける。私の命を燃焼する。燃焼しつくす。

残りの人生は、私のものではない。
私の息子たちのもの。私のワイフのもの。
そして……。

おおげさなことは言えない。書けない。
しかし私の命を、この地球に、宇宙に、
返したい。みなに、捧げたい。

「どんな気分?」と、ワイフは言った。
満60歳になった気分をワイフは聞いた。私は、
「別に……」と答えた。

何も変わらない。その自覚もない。
「60」という数字などに、意味はない。
私は私。どこまでいっても、私は私。

ただこの闘志は何か? 「やるぞ!」という闘志。
今までになかったもの。何かにつけ、負け戦(いくさ)。
あきらめること、引きさがること、そればかりを
考えていた。が、そんな私の中で、何かが燃えだした。

よい映画だった。『ロッキー・ザ・ファイナル』は、
よい映画だった。こんな私にも、生きる勇気を
与えてくれた。希望を与えてくれた。

私にあるのは、過去ではない。未来だ。
その未来に向かって、私は進む。

「どんなに打ちのめされても、前に進み続ける……。
決してあきらめずに。NEVER GIVE UP!」
「自分を信じなきゃ、人生じゃない」と。

見ていて涙がポロポロとこぼれたのは、そのためか。
35年前の、あの感動、つまりあの当時の感動が、
よみがえってきた。

あの時代、私は、無我夢中で生きていた。毎日、
がむしゃらに働いた。その感動が、よみがえってきた。

これからも、私は、無我夢中で、生きていきたい。
生きていく。私、はやし浩司は、まだまだ現役だ。

その日が来るまで……。

はやし浩司、満60歳の誕生日に。

(付記)

 『ロッキー・ザ・ファイナル』の中の、シルヴェスター・スタローンの肉体を見てほしい。彼はこの映画を完成させるために、自分の肉体を鍛えた。そのプロ根性が、スクリーンを通して、私たちに伝わってきた。それが、私たちを感動させた。

シルヴェスター・スタローンは、役者としてではなく、映画を通して、自分の生きざまを、私たちに示してくれた。

 ウソやインチキでは、あの映画はできない。


            
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ラマンチャの男
                           

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●私はドンキホーテ

 セルバンテス(ミゲル・デーサーアベドラ・セルバンテス・一五四七〜一六一六・スペインの小説家)の書いた本に、『ドンキホーテ』がある。『ラマンチャの男』とも呼ばれている。夢想家というか、妄想家というか、ドンキホーテという男が、自らを騎士と思いこみ、数々の冒険をするという物語である。

 この物語のおもしろいところは、ひとえにドンキホーテのおめでたさにある。自らを騎士と思いこみ、自分ひとりだけが正義の使者であり、それこそ世界をしょって立っていると思いこんでしまう。そして少し頭のにぶい、農夫のサンチョを従者にし、老いぼれたロバのロシナンテに乗って、旅に出る……。

 こうした「おめでたさ」は、ひょっとしたら、だれにでもある。実のところ、この私にもある。よくワイフは私にこう言う。「あんたは、日本の教育を、すべてひとりで背負っているみたいなことを言うね」と。最近では、「あなたは日本の外務大臣みたい」とも。私があれこれ国際情勢を心配するからだ。

 が、考えてみれば、私一人くらいが、教育論を説いたところで、また国際問題を心配したところで、日本や世界は、ビクともしない。もともと、だれも私など、相手にしていない。それはいやというほどわかっているが、しかし、私はそうではない。「そうではない」というのは、相手にされていると誤解しているというのではない。私は、だれにも相手にされなくても、自分の心にブレーキをかけることができないということ。そういう意味で、ドンキホーテと私は、どこも違わない。あるいはどこが違うのか。

 よく、私塾を経営している人たちと、教育論を戦わすことがある。私塾の経営者といっても、経営だけを考えている経営者もいるが、中には、高邁(こうまい)な思想をもっている経営者も、少ないが、いる。私が議論を交わすのは、後者のタイプの経営者だが、ときどき、そういう経営者と議論しながら、ふと、こう思う。「こんな議論をしたところで、何になるのか?」と。

 私たちはよく、「日本の教育は……」と話し始める。しかし、いくら議論しても、まったく無意味。それはちょうど、街中の店のオヤジが、「日本の経済は……」と論じるのに、よく似ている。あるいはそれ以下かもしれない。論じたところで、マスターベーションにもならない。しかしそれでも、私たちは議論をつづける。まあ、そうなると、趣味のようなものかもしれない。あるいは頭の体操? 自己満足? いや、やはりマスターベーションだ。だれにも相手にされず、ただひたすら、自分で自分をなぐさめる……。

 その姿が、いつか、私は、ドンキホーテに似ていることを知った。ジプシーたちの芝居を、現実の世界と思い込んで大暴れするドンキホーテ。風車を怪物と思い込み、ヤリで突っ込んでいくドンキホーテ。それはまさに、「小さな教室」を、「教育」と思い込んでいる私たちの姿、そのものと言ってもよい。

 さて私は、今、こうしてパソコンに向かい、教育論や子育て論を書いている。「役にたっている」と言ってくれる人もいるが、しかし本当のところは、わからない。読んでもらっているかどうかさえ、わからない。しかしそれでも、私は書いている。考えてみれば小さな世界だが、しかし私の頭の中にある相手は、日本であり、世界だ。心意気だけは、日本の総理大臣より高い? 国連の事務総長より高い? ……勝手にそう思い込んでいるだけだが、それゆえに、私はこう思う。「私は、まさに、おめでたいドンキホーテ」と。

 これからも私というドンキホーテは、ものを書きつづける。だれにも相手にされなくても、書きつづける。おめでたい男は、いつまでもおめでたい。しかしこのおめでたさこそが、まさに私なのだ。だから書きつづける。
(02−12−21)

●毎日ものを書いていると、こんなことに気づく。それは頭の回転というのは、そのときのコンディションによって違うということ。毎日、微妙に変化する。で、調子のよいときは、それでよいのだが、悪いときは、「ああ、私はこのままダメになってしまうのでは……」という恐怖心にかられる。そういう意味では、毎日、こうして書いていないと、回転を維持できない。こわいのは、アルツハイマーなどの脳の病気だが、こうして毎日、ものを書いていれば、それを予防できるのでは……という期待もある。

●ただ脳の老化は、脳のCPU(中央演算装置)そのものの老化を意味するから、仮に老化したとしても、自分でそれに気づくことはないと思う。「自分ではふつうだ」と思い込んでいる間に、どんどんとボケていく……。そういう変化がわかるのは、私の文を連続して読んでくれる読者しかいないのでは。あるいはすでに、それに気づいている読者もいるかもしれない。「林の書いている文は、このところ駄作ばかり」と。……実は、私自身もこのところそう思うようになってきた。ああ、どうしよう!!

●太陽が照っている間に、干草をつくれ。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●命のあるかぎり、希望はある。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばならない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●パンさえあれば、たいていの悲しみは堪えられる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●裸で私はこの世にきた。だから私は裸でこの世から出て行かねばならない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●真の勇気とは、極端な臆病と、向こう見ずの中間にいる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)


            
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卒業
                           

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●尾崎豊の「卒業」論

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 学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

 宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえることができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

 実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに貧しい人たちへの寄金を訴える。こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

+++++++++++++++++++++

●生きる原点に視点を……

 本当なら、Uさん自身も、尾崎豊のように、「学校なんか、クソ食らえ!」と叫んでみたらいいと思うのです。あるいは、一度、尾崎豊の「卒業」を聞いてみられたらいかがでしょうか。少しは胸の中が、スカッとするかもしれませんよ。何度も聞いていると、少しずつですが、意識が変わってくるかもしれません。試してみてください。

 話をもとにもどしますが、Uさんは、もうじゅうぶん苦しみました。しかしね、Uさんを苦しめたのは、Uさんのお子さんではない。Uさん自身でもない。Uさんを苦しめたのは、実は、Uさん自身の中にある、「つくられた意識」だということです。私がここで言えることは、「勇気をもって、その意識とは決別しなさい」ということ。今のUさんには、想像もつかないことかもしれませんが、その先には、明るい出口があります。そして今と同じように、さわやかな空気があり、明るい太陽があります。何も変わらないのです。シャンドル(ハンガリーの詩人、1823−49)はこう書いています。

『絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じ』(「希望論」)と。

 あの魯迅も、まったく同じことを書いているのは、たいへん興味深いですね。こう書いています。

『絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じ』(「野草」)と。

 このあたりが賢人たちの共通した意見のようです。わかりやすく言うと、絶望にせよ、希望にせよ、そういうものは、勝手に人間が作りだしたものにすぎないということ。大切なことは、その向こうにあるものを見失わないということ。Uさんの立場で言うなら、お子さんたちとの絆(きずな)を、見失ってはいけないということ。そう、今、ここにあなたがいて、子どもたちがいる。その重要さを忘れてはいけないということです。繰りかえしますが、まさにそれは「奇跡」なのです。その奇跡にまさる希望など、あるはずもないのです。

 いつもストレートに書きすぎるため、気分を悪くなさったところもあるかもしれませんが、どうかこの手紙を、前向きにとらえてください。決してあなたはひとりではない。私がいます。ずっと私が、あなたのそばにいますから、勇気をもって、前に進んでください。いくらでも力になります。いつか、Uさんが、「そういうこともありました」と笑う日がくるまで、力になります。いっしょに、がんばりましょう!

はやし浩司


            
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Brave Heart(ウイリアム・ウォレス)
                           

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●日本の常識、世界の常識

●忠臣蔵論

 私の部屋へは、よく客がきた。「日本語を教えてくれ」「翻訳して」など。中には、「空手を教えてくれ」「ハラキリ(切腹)のし方を教えてくれ」というのもあった。あるいは「弾丸列車(新幹線)は、時速一五〇マイルで走るというが本当か」「日本では、競馬の馬は、コースを、オーストラリアとは逆に回る。なぜだ」と。さらに「日本人は、牛の小便を飲むというが本当か」というのもあった。話を聞くと、「カルピス」という飲料を誤解していたことが原因とわかった。カウは、「牛」、ピスは、ズバリ、「小便」という意味である。

 が、ある日、オリエンタルスタディズ(東洋学部)へ行くと、四、五人の学生が私を囲んで、こう聞いた。「忠臣蔵を説明してほしい」と。いわく、「浅野が吉良に切りつけた。浅野が悪い。そこで浅野は逮捕、投獄、そして切腹。ここまではわかる。しかしなぜ、浅野の部下が、吉良に復讐をしたのか」と。加害者の部下が、被害者を暗殺するというのは、どう考えても、おかしい。それに死刑を宣告したのは、吉良ではなく、時の政府(幕府)だ。刑が重過ぎるなら、時の政府に抗議すればよい。また自分たちの職場を台なしにしたのは、浅野というボスである。どうしてボスに責任を追及しないのか、と。

 私も忠臣蔵を疑ったことはないので、返答に困っていると、別の学生が、「どうして日本人は、水戸黄門に頭をさげるのか。水戸黄門が、まちがったことをしても、頭をさげるのか」と。私が、「水戸黄門は悪いことはしない」と言うと、「それはおかしい」と。

 イギリスでも、オーストラリアでも、時の権力と戦った人物が英雄ということになっている。たとえばオーストラリアには、マッド・モーガンという男がいた。体中を鉄板でおおい、たった一人で、総督府の役人と戦った男である。イギリスにも、ロビン・フッドや、ウィリアム・ウォレスという人物がいた。

●日本の単身赴任

 法学部でもこんなことが話題になった。ロースクールの一室で、みながお茶を飲んでいるときのこと。ブレナン法学副部長が私にこう聞いた。「日本には単身赴任(当時は、短期出張と言った。短期出張は、単身赴任が原則だった)という制度があるが、法的な規制はないのかね?」と。そこで私が「何もない」と答えると、まわりにいた学生たちまでもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と叫んだ。

 日本の常識は、決して世界の常識ではない。しかしその常識の違いは、日本に住んでいるかぎり、絶対にわからない。が、その常識の違いを、心底、思い知らされたのは、私が日本へ帰ってきてからのことである。

●泣き崩れた母

 私が三井物産という会社をやめて、幼稚園の教師になりたいと言ったときのこと、(そのときすでに三井物産を退職していたが)、私の母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア〜」と。だからといって、母を責めているわけではない。母は母で、当時の常識に従って、そう言っただけだ。ただ、私は母だけは、私を信じて、私を支えてくれると思っていた。が、その一言で、私はすっかり自信をなくし、それから三〇歳を過ぎるまで、私は、外の世界では、幼稚園の教師をしていることを隠した。一方、中の世界では、留学していたことを隠した。どちらにせよ、話したら話したで、みな、「どうして?」と首をかしげてしまった。

 が、そのとき、つまり私が幼稚園の教師になると言ったとき、私を支えてくれたのは、ほかならぬ、オーストラリアの友人たちである。みな、「ヒロシ、よい選択だ」「すばらしい仕事だ」と言ってくれた。その言葉がなかったら、今の私はなかったと思う。
 

            
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未知との遭遇
                           

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●見たぞ、巨大なUFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、それを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「まちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の十二時を過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見上げると、淡いだいだい色の丸いものが、並んで飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くと女房も同じことをしていたという。

 が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現れたからだ。私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたからだ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

 が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はその人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。

 …とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。

 そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書いてみた。


            
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CAN'T HELP FALLING IN LOVE
                           

●子どもの金銭感覚が決まるとき

●結婚式のお金がなかった

 一〇万円のお金が残ったとき、私は女房に聞いた。「このお金で香港へ行きたいか。それとも結婚式をしたいか」と。すると女房は、小さな声でこう言った。「香港へ行きたい……」と。

 当時の私はほとんど毎週のように、台北や香港へ行っていた。マニラやシンガポールまで足をのばすこともあった。いくつかの会社の翻訳や通訳、それに貿易の仕事を手伝っていた。そこでその仕事の一つに、女房を連れて行くことにした。そんなわけで私たちは結婚式をしていない。……と言うより、そのお金がなかった。

●ホテルで七五三の披露宴
 
 それから二八年あまり。二〇〇〇年のある昼、テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルでする親がいるという。豪華な披露宴に、豪華な食事と引き出物。費用は一人あたり、二万円から三万円だという。見るとまだあどけない子どもが、これまた豪華な衣装を身にまとい、結婚式の新郎新婦よろしく、皆の前であいさつをしていた。私と女房はそれを見ながら、言葉を失った。

 その私たち。何かをやり残した思いで、新婚時代を終えた。若いころ女房はよく、「一度でいいから、花嫁衣裳を着てみたい」とこぼした。そこでちょうど私が三〇歳になったとき、あるいは四〇歳になったとき、披露宴だけはしようという話がもちあがった。しかしそのつど身内の親たちの死と重なって、流れてしまった。さすがに四〇歳も半ばを過ぎ、髪の毛に白髪が混じるようになると、女房も結婚式のことは言わなくなった。

●現実感をなくす子ども
 
 ぜいたくに慣れれば慣れるほど、子どもは「現実感」をなくす。お金や物は、天から降ってくるものだと思うようになる。子ども自身が将来、おとなになってからも、それだけの生活を維持できればよい。が、そうでなければ、苦労するのは、結局は子ども自身ということになる。いや、親だって苦労する。今では、成人式の費用は、たいてい親が出す。女性の晴れ着のばあい、貸衣装でそろえても、一五万円から二〇万円(浜松市内の貸衣装店主の話)。上限はない。

 さらに社会人になったときの新居の費用、結婚式の費用すらも、親が負担する。七五三の祝宴ですら、ホテルで豪華に催すご時世である。どうしてそのときになって、「自分の費用は自分で払え」と、子どもに言えるだろうか。が、それだけではすまない。

●ストーブは一日中、つけっぱなし 

 現実感をなくした子どもは、「親の苦労」というものがどういうものか、わからなくなる。感謝もしない。「してもらって当然」と考える。ある母親が大阪で学生生活をしている息子のアパートを訪ねてみたときのこと。それほど裕福な家庭ではない。その母親は息子が大学に入学すると同時に、近くのスーパーでパートの仕事を始めた。母親は驚いた。春先だったというが、電気ストーブは一日中、つけっぱなし。携帯電話の電話料も月に三万円近くもかかっていた。「バイクがほしい」と言ったのでお金を送ったのだが、その息子は、三〇万円もするキンキラキンのアメリカンスタイルのバイクを買っていたという。「中古のソフトバイクなら、三〜四万円でありますよ」と私が言うと、その母親は、「あら、ソ〜ウ!」と驚いていた。

●「私なら出席しないわ」

 人は人それぞれだが、ここから先は、私と女房の会話をそのまま書く。私が七五三の様子を見てあきれていると、女房はこう言った。「何かおかしいわ」と。こうも言った。「私なら、あんな披露宴、招待されても行かないわ」と。私は私でこう言った。「幼児のときから、あんなにぜいたくに育てれば、苦労するのは子どもだ」と。「子どもを大切にするということは、子どもを王様にすることではない。金をかけて、楽をさせることではない。親としてやるべきことが違う」と。しかしこれは、結婚式ができなかった私たち夫婦の、ひがみかもしれない。私と女房はその報道を見ながら、何度もため息をついた。

香港のホテルで、弾き語りの人に、この歌を歌ってもらいました。
2人で聴いた思い出の曲です。

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喜びも悲しみも幾年月
                           

●日本の映画

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 韓国の映画の躍進がめざましい。それもそのはず。今、韓国では、国をあげて、映画制作の振興をはかっている。多くの大学の多くには、ちゃんとした演劇学部がある。俳優になるための基本を、その基礎からたたきこんでいる。

私が知るかぎりでも、35年前でさえ、オーストラリアの小学校には、ドラマ(演劇)という科目があった。もとろんアメリカにも、あった。

 それに引きかえ、日本は……?

 俳優の演技が、どれも演技、演技している? 喜怒哀楽の表現も、まさに、そのまま。「怒っているときは、こういう表情をするものです」「悲しいときは、こういう表情をするものです」というような演技をする。この演技ぽさが、日本の映画を、つまらないものにしている。

 それにおかしな権威主義が、はびこっている。「昔からの俳優」「歌舞伎俳優」というだけで、主演になることが多い。

 日本の映画ファンも、多いことと思う。そして私のこうした意見に、腹を立てる人も多いことと思う。もちろん、中には、すばらしい俳優もいる。「ラスト・サムライ」を主演した、WKの演技は、よかった。

 が、やはり全体としてみると、日本の映画は、つまらない。たとえば、日本の映画では、いかにも知的レベルの低そうな男優が、学者や研究者の役をしたりする。「あんな学者は見たことないけどなあ」と思ったとたん、興がさめてしまう。あるいは顔中、化粧で塗りたくったような女優が、生活で疲れた女性を演じてみせたりする。

 どこか、無理がある。この無理が、ますます日本の映画を、おもしろくないものにする。

 で、ときどき、前評判などを聞いて、「今度こそ……」と思って、日本映画のビデオを借りてくる。しかしそのほとんどに、失望。たいてい途中で、見るのをやめてしまう。

 自然な演技。ごく自然な演技。カメラや観客を意識しない、自然な演技。そういう演技ができる俳優を名優という。が、これがむずかしい?

 私の好きな映画に、木下恵介監督の、『喜びも悲しみをも幾歳月』がある。あの中で灯台守の有沢四郎を演じた、佐田啓二、妻のきよ子を演じた、高峰秀子らは、名優中の名優。俳優自身の誠実さというか、人間性が、そのまま画面に出ていた。

 言いかえると、俳優は、俳優自身が、その心の持ち主でなければならない。にごった心の俳優が、いくら誠実な人間を演じても、ピンとこない。ピンとこないところから、矛盾が生まれる。事実、そのあと作られた、リメイク版の『新・喜びも悲しみ幾歳月』は、「これが誠実な人間です」という演技ぽさばかりが目立ち(失礼!)、まったくおもしろくなかった。

 話は変わるが、昼のワイドショーを見ていたときのこと。一人のキャスターが、あるタレントのハレンチ行為をあれこれと非難していた。しかしそれを非難しているキャスター自身が、見るからにスケベそう。彼自身も、いかにも、そういうことをしそうな雰囲気を漂わせていた。私はワイドショーを見ながら、こう思った。

 「自分だって、同じことしているんじゃないの?」と。

 つまりは人間性の問題ということになる。その人間性を磨かないで、うわべだけで演技しても、演技は演技のまま。それを観客が見ぬいたとき、観客は、その映画から、一歩、退いてしまう。俳優に、自分を注入できなくなってしまう。

 映画は、きわめて重要な文化である。芸術である。一本の映画の中に、その国の文化すべてが集約されることも珍しくない。が、この日本では、俳優にしても、どこかのプロダクションが養成するのが、ひとつの流れになっている。

 ただ名声を求めるだけの俳優を並べて、映画をつくるのが、映画ではない。ある意味で、映画ほど、恐ろしい芸術はない。文学にせよ、美術にせよ、それらは間に、本や絵を間に置くことで、自分の表情を隠すことができる。

 しかし映画は、ちがう。その人の人間性が、表情を通して、そのままモロに出てくる。演技とはいいながら、観客は、演技の向こうに、その人自身を見る。

 そういう意味では、アメリカ映画は、日本映画よりはるかに先を行っている。あるインタビュー番組の中で、ハリソン・フォードはこう言っていた。「外科医の役をすることになったときには、病院へ行き、何日もかけて外科医の雰囲気を、研究(study)した」と。

 こうした姿勢のちがいが、アメリカ映画を、おもしろいものにしている。何でもアメリカの映画産業が稼ぐ外貨は、日本が電子産業で稼ぐ外貨と同じだそうだ。映画は、立派な産業にもなりえる。

それだけではない。100人の外交官が、100年かかってするような仕事を、1本の映画がすることだって、ありえる。

 教育の分野について言うなら、その人を演ずることによって、別の人生を生きることができる。他人の立場でものを考える力を身につけることができる。その効果と意義については、これからの課題ということになるが、たとえばいじめられて苦しむ子どもの役を演ずるだけでも、その子どもの、いじめについてのものの見方が変わるかもしれない。

 ところで私が子どものころには、「役者」という職業には、大きな偏見があった。職業による差別意識が、まだ根強く残っていた。どう偏見があったかについては、ここには書けないが、私自身も、こうまで役者に対する見方が変わるとは、思ってもいなかった。

 「おとなになったら、タレントになりたい」と言う子どもは、今では、珍しくない。が、私が子どものころには、まず、いなかった。「俳優になる」ことを考える子どもさえいなかったのでは……。そうした偏見が、日本の映画を、ここまで遅らせたとも言える。

 がんばれ、日本の映画人!!!

(補記)私の教室では、年に一度、「演技」というテーマでレッスンしている。表情や、感情を、子どもたちに、表現させる。「うれしかったら、うれしそうな顔をしなさい!」と。

 心の状態と、表情が、一致している子どもを、幼児教育の世界では、「すなおな子ども」という。

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++++++++++++++++++

喜びも悲しみも幾歳月

俺ら岬の 燈台守は
妻と二人で 沖行く船の
無事を祈って
灯をかざす 灯をかざす

冬が来たぞと 海鳥なけば
北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が
呼びかける 呼びかける

離れ小島に 南の風が
吹けば春来る 花の香便り
遠い故里
思い出す 思い出す

朝に夕に 入船出船
妻よがんばれ 涙をぬぐえ
もえてきらめく
夏の海 夏の海

星を数えて 波の音きいて
共に過した 幾歳月の
よろこび悲しみ
目に浮かぶ 目に浮かぶ
(木下忠司・作詞、作曲)


            
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Imagine
                           

●プロローグ

かつてジョン・レノンは、「イマジン」の中で、こう歌った。

♪「天国はない。国はない。宗教はない。
  貪欲さや飢えもない。殺しあうことも
  死ぬこともない……
  そんな世界を想像してみよう……」と。

少し前まで、この日本でも、薩摩だの長州だのと言っていた。
皇族だの、貴族だの、士族だのとも言っていた。
しかし今、そんなことを言う人は、だれもいない。
それと同じように、やがて、ジョン・レノンが夢見たような
世界が、やってくるだろう。今すぐには無理だとしても、
必ず、やってくるだろう。
みんなと一緒に、力をあわせて、そういう世界をめざそう。
あきらめてはいけない。立ち止まっているわけにもいかない。
大切なことは、その目標に向かって進むこと。
決して後退しないこと。
ただひたすら、その目標に向かって進むこと。

+++++++++++++++++

イマジン(訳1)

♪天国はないこと想像してみよう
その気になれば簡単なこと
ぼくたちの下には地獄はなく
頭の上にあるのは空だけ
みんなが今日のために生きていると想像してみよう。

♪国なんかないと思ってみよう
むずかしいことではない
殺しあうこともなければ、そのために死ぬこともなくない。
宗教もない
平和な人生を想像してみよう

♪財産がないことを想像してみよう
君にできるかどうかわからないけど
貪欲さや飢えの必要もなく
すべての人たちが兄弟で
みんなが全世界を分けもっていると想像してみよう

♪人はぼくを、夢見る人と言うかもしれない
けれどもぼくはひとりではない。
いつの日か、君たちもぼくに加わるだろう。
そして世界はひとつになるだろう。
(ジョン・レノン、「イマジン」より)

(注:「Imagine」を、多くの翻訳家にならって、「想像する」と訳したが、本当は「if」の意味に近いのでは……? そういうふうに訳すと、つぎのようになる。同じ歌詞でも、訳し方によって、そのニュアンスが、微妙に違ってくる。

イマジン(訳2)

♪もし天国がないと仮定してみよう、
そう仮定することは簡単だけどね、
足元には、地獄はないよ。
ぼくたちの上にあるのは、空だけ。
すべての人々が、「今」のために生きていると
仮定してみよう……。

♪もし国というものがないと仮定してみよう。
そう仮定することはむずかしいことではないけどね。
そうすれば、殺しあうことも、そのために死ぬこともない。
宗教もない。もし平和な生活があれば……。

♪もし所有するものがないことを仮定してみよう。
君にできるかどうかはわからないけど、
貪欲になることも、空腹になることもないよ。
人々はみんな兄弟さ、
もし世界中の人たちが、この世界を共有したらね。

♪君はぼくを、夢見る人と言うかもしれない。
しかしぼくはひとりではないよ。
いつか君たちもぼくに加わるだろうと思うよ・
そしてそのとき、世界はひとつになるだろう。

ついでながら、ジョン・レノンの「Imagine」の原詩を
ここに載せておく。あなたはこの詩をどのように訳すだろうか。

(音楽↓、クリック)(中央の▼ではなく、左下の▼をクリックしてください)


Imagine

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
No religion too
Imagine life in peace…

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world…

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one.

+++++++++++

愛国心について考える
……ジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら……。

 毎年八月一五日になると、日本中から、「愛国心」という言葉が聞こえてくる。今朝の読売新聞(八月一六日)を見ると、こんな記事があった。「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・田中英道・東北大教授)のメンバーが執筆した「中学歴史教科書」が、愛媛県で公立中学校でも採択されることになったという。採択(全会一致)を決めた愛媛県教育委員会の井関和彦委員長は、つぎのように語っている。

 「国を愛する心を育て、多面的、多角的に歴史をとらえるという学習が可能だと判断した。戦争賛美との指摘は言い過ぎで、きちんと読めば戦争を否定していることがわかる」(読売新聞)と。

 日本では、「国を愛する」ことが、世界の常識のように思っている人が多い。しかし、たとえば中国や北朝鮮などの一部の全体主義国家をのぞいて、これはウソ。日本では、「愛国心」と、そこに「国」という文字を入れる。しかし欧米人は、アメリカ人も、オーストラリア人も、「国」など、考えていない。たとえば英語で、愛国心は、「patriotism」という。この単語は、ラテン語の「patriota(英語のpatriot)、さらにギリシャ語の「patrio」に由来する。

 「patris」というのは、「父なる大地」という意味である。つまり、「patriotism」というのは、日本では、まさに日本流に、「愛国主義」と訳すが、もともとは「父なる大地を愛する主義」という意味である。念のため、いくつかの派生語を並べておくので、参考にしてほしい。

●patriot……父なる大地を愛する人(日本では愛国者と訳す)
●patriotic……父なる大地を愛すること(日本では愛国的と訳す)
●Patriots' Day……一七七五年、四月一九日、Lexingtonでの戦いを記念した記念日。この戦いを境に、アメリカは英国との独立戦争に勝つ。日本では、「愛国記念日」と訳す。

欧米で、「愛国心」というときは、日本でいう「愛国心」というよりは、「愛郷心」に近い。あるいは愛郷心そのものをいう。少なくとも、彼らは、体制を意味する「国」など、考えていない。ここに日本人と欧米人の、大きなズレがある。つまり体制あっての国と考える日本、民あっての体制と考える欧米との、基本的なズレといってもよい。が、こうしたズレを知ってか知らずか、あるいはそのズレを巧みにすりかえて、日本の保守的な人たちは、「愛国心は世界の常識だ」などと言ったりする。

 たとえば私が「織田信長は暴君だった」と書いたことについて、「君は、日本の偉人を否定するのか。あなたはそれでも日本人か。私は信長を尊敬している」と抗議してきた男性(四〇歳くらい)がいた。このタイプの人にしてみれば、国あっての民と考えるから、織田信長どころか、乃木希典(のぎまれすけ、明治時代の軍人)や、東条英機(とうじょうひでき・戦前の陸軍大将)さえも、「国を支えてきた英雄」ということになる。

もちろん歴史は歴史だから、冷静にみなければならない。しかしそれと同時に、歴史を不必要に美化したり、歪曲してはいけない。先の大戦にしても、三〇〇万人もの日本人が死んだが、日本人は、同じく三〇〇万人もの外国人を殺している。日本に、ただ一発もの爆弾が落とされたわけでもない。日本人が日本国内で、ただ一人殺されたわけでもない。しかし日本人は、進駐でも侵略でもよいが、ともかくも、外国へでかけていき三〇〇万人の外国人を殺した。

 日本の政府は、「国のために戦った英霊」という言葉をよく使うが、では、その英霊たちによって殺された外国人は、何かということになる。こういう言葉は好きではないが、加害者とか被害者とかいうことになれば、日本は加害者であり、民を殺された朝鮮や中国、東南アジアは、被害者なのだ。そういう被害者の心を考えることもなく、一方的に加害者の立場を美化するのは許されない。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 ある日突然、K国の強大な軍隊が、日本へやってきた。日本の政府を解体し、かわって自分たちの政府を置いた。つづいて日本語を禁止し、彼らのK国語を国語として義務づけた。日本人が三人集まって、日本語を話せば、即、投獄、処刑。しかもK国軍は、彼らのいうところの首領、金元首崇拝を強制し、その宗教施設への参拝を義務づけた。そればかりか、数十万人の日本人をK国へ強制連行し、K国の工場で働かせた。無論、それに抵抗するものは、容赦なく投獄、処刑。こうして闇から闇へと葬られた日本人は数知れない……。

 そういうK国の横暴さに耐えかねた一部の日本人が立ちあがった。そして戦いをしかけた。しかしいかんせん、力が違いすぎる。戦えば戦うほど、犠牲者がふえた。が、そこへ強力な助っ人が現れた。アメリカという助っ人である。アメリカは前々からK国を、「悪の枢軸(すうじく)」と呼んでいた。そこでアメリカは、さらに強大な軍事力を使って、K国を、こなごなに粉砕した。日本はそのときやっと、K国から解放された。

 が、ここで話が終わるわけではない。それから五〇年。いまだにK国は日本にわびることもなく、「自分たちは正しいことをしただけ」「あの戦争はやむをえなかったもの」とうそぶいている。そればかりか、日本を侵略した張本人たちを、「英霊」、つまり「国の英雄」として祭っている。そういう事実を見せつけられたら、あなたはいったい、どう感ずるだろうか。

 私は繰り返すが、何も、日本を否定しているのではない。このままでは日本は、世界の孤児どころか、アジアの孤児になってしまうと言っているのだ。つまりどこの国からも相手にされなくなってしまう。今は、その経済力にものを言わせて、つまりお金をバラまくことで、何とか地位を保っているが、お金では心買えない。お金ではキズついた心をいやすことはできない。日本の経済力に陰(かげ)りが出てきた今なら、なおさらだ。

また仮に否定したところで、国が滅ぶわけではない。あのドイツは、戦後、徹底的にナチスドイツを解体した。痕跡(こんせき)さえも残さなかった。そして世界に向かって反省し、自分たちの非を謝罪した。(これに対して、日本は実におかしなことだが、公式にはただの一度も自分たちの非を認め、謝罪したことはない。)その結果、ドイツはドイツとして、今の今、ヨーロッパの中でさえ、EU(ヨーロッパ連合)の宰主として、その地位を確保している。

 もうやめよう。こんな愚劣な議論は。私たち日本人は、まちがいを犯した。これは動かしがたい事実であり、いくら正当化しようとしても、正当化できるものではない。また正当化すればするほど、日本は世界から孤立する。相手にされなくなる。それだけのことだ。

 最後に一言、つけ加えるなら、これからは「愛国心」というのではなく、「愛郷心」と言いかえたらどうだろうか。「愛国心」とそこに「国」という文字を入れるから、話がおかしくなる。が、愛郷心といえば、それに反対する人はいない。

私たちが住む国土を愛する。私たちが生活をする郷土を愛する。日本人が育ててきた、私たちの伝統と文化を愛する。それが愛郷心ということになる。「愛郷心」と言えば、私たちも子どもに向かって、堂々と胸を張って言うことができる。「さあ、みなさん、私たちの郷土を愛しましょう! 私たちの伝統や文化を愛しましょう!」と。
(02−8−16)※

            
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 Hair
             

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

私も、「私」について、若いとき、悩みました。
それについて書いたのが、つぎの原稿です(駐日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

(音楽↓、クリック)(中央の▼ではなく、左下の▼をクリックしてください)


●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見い
だした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、
適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つ
まらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれ
る。

            
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Titanic
                           

●男女の性差別(ジェンダー)

++++++++++++++++

男の子は、男の子らしく、女の子は
女の子らしくあるべき。

そんな時代錯誤的、逆行的な意見
が、またまた、台頭してきた。

男と女を差別することは、基本的
に、まちがっている。

もちろん生理的な違いというのは
ある。父親と母親との役割の違い
もある。

しかし「男」と「女」を区別する
必要は、まったくない。また、し
てはならない。

男女は、100%、同権であるべ
きである。どうして同権であって
はいけないのか?

++++++++++++++++

(音楽↓、クリック)(中央の▼ではなく、左下の▼をクリックしてください)


●仕事を失う女性たち

 女性は、子どもを産んで、みな、母親になる。が、母親になったとたん、女性は、それまでの「顔」を失う。

 たとえば私の教室へ連れてくる母親たちを見てみよう。教室の横ですわっている母親を見れば、ごくふつうの母親たちである。しかしそのうち、そのうちの何割かは、たいへんな経歴の持ち主であることがわかる。

 国際線の元スチュワーデス。
 国体の元選手。
 元商品デザイナー。
 バイクの元女性テストライダー。
 女子短大の元講師、などなど。
 現時点において、そういう人たちが、「母親」をしている。

 話を聞いて、「ハア?」と、私のほうが、驚くほどである。そういう女性たちが、結婚し、子どもをもうけることで、「仕事」から離れる。しかしそれから受ける、挫折感というか、中断感には、相当なものがある。

 そう、それまでキャリアを生かして仕事をしていた女性が、結婚と同時に、その仕事をやめ、家庭に入る。いくら納得した結婚であっても、だ。しかも職種の華々しさだけが、問題ではない。看護婦や幼稚園の教師をしていた人でも、その挫折感というか、中断感は、同じである。

 今、家庭に入り、それなりに幸福そうに見える女性でも、不完全燃焼のまま、悶々としている女性は、多い。

 こうした女性も、ある意味で、役割混乱を起こしているのではないか。あるいはその心理状態に近いのではないか。今、ふと、そう思った。

 私は、そういう母親たちに出会うたびに、「どうして?」と思ってしまう。「どうして、仕事をやめたのか?」ではなく、「どうして仕事をやめなければならないのか?」と。

●ジャンダー

肉体的な性差を「セックス」。社会的、文化的、伝統的な性差を「ジェンダー」という。もちろん男女の間には、越えがたいセックスがある。それはそれとして、問題はジェンダー。

このジェンダーについては、それ自体、意味がなく、それから生まれる偏見と誤解をなくすのが、今、世界の常識にもなっている。

 ただ生理学的に、男らしさ、女らしさを決めるのが、アンドロゲンというホルモンであることは、よく知られている。

男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、ある程度の性差があることも知られている。そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女性的な遊びを求めるということはある。(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的でないとは書けない。それ自体が、偏見を生む。)

 ただ子どものばあい、こうした性差が明確でなく、時期的に、男児が女児の遊びを求めたり、女児が男児の遊びを求めたりすることは、よくある。

私も小学3年生くらいのとき、人形がほしくてたまらなかったことがある。そこで伯母に内緒で作ってもらい、毎晩抱いて寝たことがある。だからといって、今、どうこうということはない。こうした現象は半年単位で、様子をみるのがよい。また同性愛者になるかならないかは、もっと本質的な理由によるという。

 しかし現実には、男児の女児化は、著しい。世の中の人たちは、どういうところを見て、「男らしく……」「女らしく……」という言葉を使うのか、よくわからない。今では、幼稚園や小学校(低学年児)でも、いじめられて泣くのは男の子。いじめて泣かすのは、女の子という図式が定着している。

 腕白(わんぱく)で、昔風にたくましい男児となると、10人に1人とから2人しかいない。とくに最近の男の子は、どこかナヨナヨしていて、ハキがない。

 「男の子らしく」ということになれば、皮肉なことに、最近の女児のほうが、よっぽど(男のらしい)。

●なぜ女性は、家庭に入るのか?

いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助(=夫の不随物)」程度にしか考えていない男性が多いのは、驚きでしかない。

いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、2割近くもいる。

たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(2000)によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも50%以上。「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、77%いる。が、その反面、「(男女の同権には)反対だ」と答えた女性も23%もいる!

 ある農村地域でこのジェンダーについて話したら、担当者(教育委員会課長)が、「そういう話はまずいです。そうでなくても、どの家も、嫁の問題で頭をかかえているのだから」と。「夫が家事をするというのも、現実的な話ではない」とも。この話に私は驚いた。

 それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ妻もふえている。「第2回、全国家庭動向調査」(厚生省・98年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、52%しかいない。

この数値は、前回93年のときよりも、約10ポイントも低くなっている(93年度は、61%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、53%もいた。なお、アメリカでは裁判闘争が多いのは事実だが、これは裁判制度の違いによるもの。(正解?)

 で、こうした(違い)は、外国の夫婦と比較してみると、すぐわかる。

 先月も、オーストラリア夫婦が、2組、我が家に、ホームステイをした。ちょうど1か月あまり滞在していった。

 その夫婦。家事については、たがいに見事なほど、分担しているのがわかった。掃除や洗濯はもちろんのこと、食後のあと片づけなどなど。日本の男性諸君のように、食後、デ〜ンと、テーブルの前に座っている夫は、いない。

 食事が終わると、さっと立って、食器を洗い、それを拭いて、戸棚へしまう。しかも2人とも、夫は、その地方では、著名なドクターたちである。

 そういう現実を見せつけられると、日本の男たちがもつ、基本的なおかしさというか、女性に対する偏見を、強く感ずる。これは別のオーストラリア人男性の話だが、やはり我が家にホームステイしたとき、洗濯をいつもしていたのは、夫のほうだった。

 で、私のワイフが見るに見かねて、それを手伝ったほどだが、その夫いわく、「オーストラリアでは、50%くらいの夫は、自分で洗濯をする」とのこと。「50%」という数字を聞いて、私は、心のどこかで、ほっとしたのを覚えている。

 そうそう 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七〜八人の老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。

私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

++++++++++++++++++

少しむずかしい話がつづきました
ので、以前、息子の一人に書いた
手紙を、そのままここに転載しま
す。

ジャンダーを考える、一つのヒン
トになれば、うれしいです。

++++++++++++++++++

●ジェンダーは、文化か?

 人間がつくりあげた文化というのは、こまかい(約束ごと)の集まりだよ。無数の(約束ごこと)が、それぞれ複雑にからんで、文化をつくる。

 「有機的」といういい方は、どこかあいまいな言い方だが、しかし「生きている」という意味で、文化は有機的にからんでいる。だから一面だけを見て、つまりそれが矛盾しているからといって、それを否定してはいけない。

 トイレを例にあげて、考えてみよう。

 お前は、男女別のトイレしか知らないが、オーストラリアの列車では、おとな用と子ども用に分かれている。足の長さが問題になるからね。

 それから日本では、公衆トイレのドアは、みな、閉まっている。しかしアメリカでは、使用していないトイレは、開けておく慣わしになっている。

 少し前まで、イギリスでもオーストラリアでも、公衆トイレには、ドアはなかった。通路を歩くと、みなが用を足している姿が、外から丸見えだった。

 この日本でも、トイレができたのは、江戸時代も、終わりになってからではないのかな。平安時代には、天皇ですらも、廊下から庭先に向けて、小便をしていたというよ。女性たちは、部屋の中に置かれた、(おまる)の中で、それをしていた。

 ぼくが子どものころでさえね、女性は、服(着物)を上にまくって、立ったままお尻を便器のほうに向けて、小便をしていたよ。そういう光景をよく見たし、何ら違和感もなかった。

 しかし無数の(約束ごと)が集合化してくると、そこに文化が生まれる。あるいはそれがときには、それが偏見になったり、誤解を生んだりする。セックスという言葉は、肉体的なちがいをさす言葉だが、ジェンダーというのは、そういった文化的な背景から生まれたちがいを意味する言葉だよ。

 そういうジェンダー(文化的性差)も、生まれた。

 それが正しいとか、正しくないとかいう判断は、こういうケースのばあい、ほとんど、意味がない。男性がするネクタイにせよ、女性がはくスカートにせよ、「それはおかしい」と思うのは、その人の勝手かもしれないが、否定してはいけない。

 もちろん個人的な立場で、それを批判するのは自由だけどね……。

 というのも、こうした文化というのは、ここにも書いたように、それぞれが、たがいに複雑に、かつ有機的にからんでいる。そしてその結果として、今、ぼくたちがここに見る文化というものをつくりあげた。

 一つを否定すると、つまりは、別の多くの面で、さらに大きな問題が起きてくる。たとえば、「公衆トイレの男女別はおかしい」と主張して、お前が、女性トイレに入ったとすると、どうなるか。その結果は、お前にだって、想像できると思うよ。アメリカだったら、銃で射殺されるかもしれない……。

 とくにトイレの問題は、そこに「男」と「女」という問題がからんでくる。この問題は、人間の種族保存本能とからんでくるだけに、やっかいな問題といってもよい。もしそこまで否定してしまうと、結婚という制度そのものまで、おかしくなってしまう。

 子どもにせよ、「他人の子どもも、自分の子どもも、子どもは子ども。人類の共通の財産」などと考えられなくもないが、そこまで自分の魂を、昇華する(=もちあげる)ことができるようになるまでには、まだまだ時間がかかる。

 同じように、「男も女も、同じ。同じ、トイレを使えばいい」と考えられるようになるまでには、まだまだ時間もかかる。あらゆるジェンダーにまつわる問題が解決されてからのことだろうと、ぼくは、思う。

 しかしね、ぼくは最近、こうした不完全で、矛盾だらけの文化に、どこか愛着を感ずるようになってきたよ。おもしろいというか、楽しいというか。

 たとえば映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいたからこそ、おもしろい映画になった。もしあの映画の中に、ジャックとローズがいなければ、あの映画は、ただの、本当にただの、船の沈没映画でしかなかった。ちがうだろうか。

 つまりね、そのジャックとローズが、「男」と「女」というわけ。そしてその先に、公衆トイレがあるというわけ。

 高校生が、アメリカでは、アルバイトで、車を洗う。水着を着ている。お前は、それをおかしいと思う。ぼくも、同じような疑問をもつことは多い。たとえば下着のシャツでホテルの中を歩くことはできない。しかしそのシャツに色をつけ、ガラを描き、Tシャツとしたとたん、ホテルの中を歩くことができる。

 同じ、シャツなのにね。

 つまりこれが、ぼくがいう、(無数の約束ごと)の一つというわけ。

 もちろんだからといって、こうした(約束ごと)は、普遍的なものでもなければ、絶対的なものではない。時代とともに、変りえるものだし、どんどん変っても、少しもおかしくない。国によっても、ちがう。お前が言うように、「用足し・プライベートという二つの機能を分けた空間」にしてもよい。

 お前が、建築家なら、そういう提案をして、世に問うてみればよい。あとの判断は、大衆に任せるしかないけどね。

 しかしね、ぼくには、こんな苦い経験がある。

 あるときね、男子トイレの大便ボックスに入っていたときのことだよ。ぼくが、K大学で学生だったときのことだよ。

 そのボックスは、隣の女子用トイレと共同になっていた。つまりその一つだけが、女子用トイレに食いこむ形で、そこにあった。

 そのボックスにかがんでいるとね、その前のボックスに、一人の女子学生が入ってきた。トイレの壁の下のほうに、数センチ程度のすきまがあった。

 ぼくは、音を出すのはまずいと感じて、そのまま静かにしていた。何となく、遠慮したのだと思う。

 ところがだよ、その女子学生は、うしろのボックスにぼくがいるとも知らず、ブリブリブー、グシャグシャと、大便をし始めた。

 その臭いことと言ったらなかった。猛烈な悪臭が、壁の下のすき間から、容赦なく、ぼくのボックスのほうに流れこんできた。ものすごい悪臭だった!

 その女子学生は、それから用を足して、出て行った。ぼくは、そのとき、「あんな臭いのをするのは、どんなヤツだ」と思って、急いで、自分の用を足し、外へ出てみた。

 ぼくは、その女子学生を見て、ア然としたね。

 急いで廊下に出てみると、その女子学生はすました表情で、廊下を向こうに歩いていくところだった。

 で、なぜ唖然としたかって……?ハハハ。実は、その女子学生は、ぼくが好意をもっていた、文学部のMさんだったからだよ。英文科の学生でね。ぼくが、デートを申し込む、寸前の女性だった。

 いいかな、ここが文化なんだよ。ぼくは、その日以来、そのMさんには、別の印象をもってしまった。顔を見るたびに、あの悪臭を思い出し、どうしてもそれ以上のアクションを起こすことができなくなってしまった。

 やっぱりね、公衆トイレは、男女別々のほうがいいよ。お前は、同じでも構わないと言うけど、ぼくは、そうは、思わない。わかるかな、この気持ち。

 しかし問題意識をもつことは、とても重要だよ。またお前のエッセーに、あれこれコメントをつけてみるよ。

 そうそう社長には、あいさつをしたほうがいいよ。下から見ると、雲の上の人に見えるかもしれないが、上から見ると、そういうふうに見られるのが、いやなものだよ。そういう気持は、今のお前にはわからないかもしれないけど……。

 「ハロー、いつもお世話になっています」くらいは、言えばいいのさ。

 ではね。こちらは、明日から、凧祭り。にぎやかになるよ。

 Have a nice day!

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●男女共同参画事業

話が、少し脱線してきたが、もう少し、深刻な問題もある。

 男と女を区別するのは、その人の勝手だし、「男は、仕事、女は家事」と考えるのも、その人の勝手。

 しかし、これからの日本では、現実問題として、そんなことを言っていることはできなくなる。

 言うまでもなく、少子化による労働力の不足である。そういう深刻な問題がある一方で、家事、子育てを押しつけられた女性たちの悲鳴も、これまた大きい。

日本労働機構の調査によれば、専業主婦、就業主婦(被雇用主婦)にかかわらず、約80〜85%の女性が、「育児にストレスや不安を感じている」という。その中でも、「ひんぱんにある」と答えた人が、30%前後もいる。

 子育ては重労働である。一瞬たりとも気が抜けない。動きのはげしい子どもをもつ親にとっては、なおさらである。ちょっとした油断が、大事故につながるということも、少なくない。

 この問題を解決するための最善の方法は、男女共同参画事業の拡充である。男女のカベを破り、ジェンダー(性差別)を解消する。はっきり言えば、夫に、もっと育児を負担させる。その意識をもってもらう。その一方で、女性たちにも、仕事をしてもらう。

 そこで政府は、「2020年には、指導的立場になる女性が、30%前後になることを目標とする」(細田官房長官の私的懇談会)という方針を打ちだした。夫にその分だけ、家事、育児を負担してもらおうというわけである。

(女性の社会進出によって、女性の負担を減らそうというのではなく、その分、男性にも、家事や育児に、もっと目を向けてもらおうという考え方による。)しかしこの方針には、もう一つ、重要な意味が隠されている。

 女性の負担を減らすことによって、現在進行中の少子化に歯止めをかけようというわけである。言うまでもなく、少子化の最大の原因は、(母親の不安と心配)。その不安と心配が解消されないかぎり、少子化に、歯止めをかけることができない。

 みんなで進めよう、男女共同参画事業! 日本のために! ……と少し、力んだところで、もう少し、先を考えてみよう。

●役割混乱

 子どもは、成長するとともに、自分らしさを、つくりあげていく。

 わかりやすい例としては、「男の子らしさ」「女の子らしさ」がある。

 服装、ものの考え方、言い方など。つまりこうして自分のまわりに、男の子としての役割、女の子としての役割を形成していく。これを「役割形成」という。
 
 こうした「役割」を感じたら、その役割にそって、親は、子どもを伸ばしていく。これが子どもを伸ばすコツということになる。

 子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「あら、そうね。すてきな仕事ね」と。ついで、「じゃあ、今度、お庭をお花でいっぱいにしようね」などと言ってやるのがよい。

 こうして子どもは、身のまわりに、「お花屋さんらしさ」をつくっていく。自然と、植物に関する本がふえていったりする。

 しかしこの役割が、混乱することがある。

 私のばあいだが、私は、高校2年の終わりまで、ずっと、継続的に、大工になるのが夢だった。それがやがて、工学部志望となり、建築学科志望となった。しかし高校3年になるとき、担任に、強引に、文学部コースへと、変えられてしまった。当時は、そういう時代だった。

 ここで私は、たいへんな混乱状態になってしまった。工学部から、文学部への大転身である!

 当時の、つまり高校3年生当時の写真を見ると、私は、どの顔も、暗く沈んでいる。心理状態も最悪だった。もし神様がいて、「お前を、若いころにもどしてやる」と言っても、私は、あの高校3年生だけは、断る。私にとっては、それくらい、いやな時代だった。

 この役割混乱について、ある講演会で、話をさせてもらった。それについて、そのあと、ある一人の男性が、こう聞いた。「役割混乱って、どういう心理状態でしょうかね?」と。

 私は、とっさの思いつきで、こう答えた。

 「いやな男性と、いやいや結婚して、毎日、その男性と、肌をこすりあわせているような心理状態でしょうね」と。

 そう答えたあと、たいへん的をえた説明だと、自分では、そう思った。

 もしあなたなら、そういう結婚をしたら、どう思うだろうか。それでも、そういう状態を克服して、何とか相手とうまくやっていこうと思うだろうか。それとも……。

役割混乱というのは、そういう状態をいう。決して、軽く考えてはいけない。

 ただし一言。よく「有名大学へ……」「有名高校へ……」と、子どもを追い立てている親がいる。

 しかし有名大学や有名高校へ子どもを入れたからといって、その子どもの役割が確立するわけではない。「合格したから、どうなの?」という部分がないまま、子どもを大学へ送りこんでも、意味はないということ。

 もう10年ほど前だろうか、こんなことがあった。

 2人の女子高校生が、私の家に遊びに来て、こう言った。

 「先生、私たち今度、SS大学に行くことになりました」と。

 関東地方では、かなり有名な大学である。そこで私が、「いいところへ入るね。で、学部は……?」と聞くと、すこしためらった様子で、「国際カンケイ学部……」と。

 そこでさらに、「何、その国際カンケイ学部って? 何を勉強するの?」と聞くと、二人とも、「私たちにも、わかんない……」と。

 大学へ入っても、何を勉強するか、わからないというのだ!

 しかしその姿は、私自身の姿でもあった。私は高校を卒業すると、K大学の法学部(法学科)に入った。しかしそこで役割混乱が収まったわけではない。そのあと、大学を卒業したあと、商社へ入社したときも、役割混乱は、そのままだった。

 まさに(いやな女房と、いやいや結婚したような状態)だった。

 つまり(本当に私が進みたいコース)と、(現実に進みつつあるコース)の間には、大きなへだたりがあった。このへだたりが、私の精神状態を、かなり不安定にした。やがて、私は、幼稚園で、自分の生きる道をみつけたが、その道とて、決して、楽な道ではなかった。

 ……ということで、子どもの役割形成と、役割混乱を、決して、安易に考えてはいけない。私自身が、その恐ろしさを、いやというほど、経験している。

●幼児を見ると……

 満5歳を超えるあたりから、子どもたちは、急速に「性」への関心をもち始める。性器はもちろん、性的行為についても、それらが何か特別な意味をもっていることを知る。

 男児が女児を意識し、女児が男児を意識するようにもなる。「男」と「女」を、区別することができるようにもなる。もちろん父親が男であり、母親が女であることも知る。

 そのため、この時期、重要なことは、その「性」に対して、うしろめたさを持たせないようにすること。性について、ゆがんだ意識や、暗いイメージをもたせないようにすること。男と女の差別意識(ジェンダー)については、もちろん、論外である。

 幼児教育では、「男はすぐれている」「女は賢い」といった教え方は、タブーである。「男は強い」「女は弱い」も、タブーになりつつある。

子ども「先生は、どうしてチューするの?」
私「チューイ(注意)するのが、いやだからね」
子ども「注意のほうがいいよ」
私「注意しても、どうせ、君たちは、ぼくの言うことなど、聞かないだろ」
子ども「聞く、聞く、ちゃんと、聞く」
私「そう? だったら、チューはしないよ」と。

●ジェンダーは、なぜ生まれるのか?

 男と女。その間には、生理的な違いはある。その違いまで、乗り越えて、男と女が平等であるということは、ありえない。「性欲」の問題が、そこにからんでくる……。

 ……と、考えるのも、最近は、どうかと思うようになった。

 フィンランドに留学している、オーストラリア人の女子学生がこんなことを話してくれた。

 彼女は、フィンランドで、建築学の勉強をしている。22歳である。いわく、「みな、サウナが大好き。サウナでは、混浴が、ふつう。老若男女の区別はしない。タオルで肌を隠したりすることもしない」と。

 そういう話を聞くと、「本当ですか?」と、何度も聞きかえさなければならないほど、日本人の性意識には、独特のものがある。つまりフィンランドでは、30〜40歳の男性と、10〜20歳の女性との混浴(サウナ)が、ごく日常的なこととして、公然となされているという。

 となると、(性意識)とは、何か? さらに(性差)とは、何か?

 文化論、遺伝子論、民族論などが、混在している。そしてそれぞれの人たちが、自分の立場で、「ジェンダーは、おかしい」「ジャンダーは、必要だ」などと、説く。最近では、むしろ、「男は仕事、女は家事という、日本民族がもつ独特のよさ(?)を、再確認しよう」と説く集団まで、現れた。政治家の中にも、そういう考え方をする人は多い。

 その根底には、日本古来の、独特の男尊女卑思想がある。「男が上、女が下」という、あの男尊女卑思想である。

 このところ、皇室の皇位継承問題もからんで、ジェンダー論が、にぎやかになってきた。昨日の新聞(中日新聞)も、この問題について、特集記事を並べていた。

 で、私の結論。

 だいたいにおいて、男と女を、人間として区別するほうが、おかしい。まったく、おかしい。男の子は、男の子らしく育てるとか、女の子は女の子らしく育てるという考え方、そのものも、おかしい。

 そんなことは、当の子どもたちが、そのときどきの文化の中で決めていくことであって、社会の問題でもなければ、教育の問題でもない。

 この問題で、もっとも重要なことは、男であるから、女であるからという理由だけで、人間的、社会的差別を、人は、受けてはならないということ。すべては、その一点に、結論は集約される。

            
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Scarborough Fair
                           

●市街地活性化について、ひとり言

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ここ10年、とくに中心部にあった
Mデパートが倒産してからというもの、
「市街地活性化」が、そのつど
問題になる。

莫大な市の予算も、投下された。

が、何かが、おかしい。へん。
ピントがズレている。

一市民の立場で、市街地活性化の
問題について、考えてみたい。

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(音楽↓、クリック)(中央の▼ではなく、左下の▼をクリックしてください)


 まず、買い物。「街へ行く」といえば、私たち夫婦のばあいは、「外食」を意味する。ほかに「映画」。モノは、めったに買わない。「街は高い」という先入観が固定化されてしまっている。

 それに街は、若者に占領されてしまった。夕方から夜にかけて、街を歩いてみると、それがよくわかる。私たちの年代のものには、居場所すら、ない。何もかも「豪華」だが、肝心の「心」がない。このことは、たとえば滋賀県の長浜の町と比較してみると、よくわかる。

 長浜の町には、いたるところに「楽しさ」がある。その「楽しさ」が、リピーターを生む。「また行きたい」という気持ちをかきたてる。市街地を活性化させるということはどういうことか、それを知りたければ、一度、長浜の町を歩いてみるとよい。そこでは若者たちが、アルバイトの店員としてではなく、「町の一員」として、働いている。その意気込みというか、熱気が、ガンガンと伝わってくる。

 市街地が活性化することには、異議はない。それはそれで結構なこと。しかしばく大な税金を使わなければそれができないというのであれば、「?」マークということになる。今のように、税金をタレ流さなければ、活性化が維持できないというのであれば、活性化など、もうあきらめたほうがよいのでは? 世の流れ、人の流れは、その時代、時代の人々が、自分で決めること。いつまでも「城下町思想」に固執するほうが、おかしい。

 外国など、どこを歩いても、駅前などというのは、どこも閑散としている。「駅前」にこだわる必要は、ない。

 が、それでも活性化、ということであれば、ここでいう「楽しさ」を創出するしかない。が、官製であってはいけない。たとえばE鉄道の高架下を利用して、ラーメン横丁なるものが数年前にできた。まさに「官製横丁」だが、今では、閑古鳥が鳴いている。「高い」「まずい」のほか、作りがいかにも、「官製」。このことも、あの長浜の町と比較してみると、よくわかる。

 否定ばかりしていてはいけない。

 で、私たち夫婦のような者が、街へ行くようにするためには、どうしたらよいか?

 ひとつには、先にも書いたように、「居場所」を作ってほしい。たとえば仙台市は、「杜(もり)の都」と呼ばれている。そのことからもわかるように、その居場所がいたるところにある。中年や老年の人たちでも、平気で座って休めるような場所が、ある。

 ……しかしここまで書いて、「ちょっと待てよ」という、ブレーキが働いてしまった。

 実は、その逆。つまり、市は、あの手この手を使って、私たちを、市の中心部に集めようとしている。コンサートホールにしても、映画館にしても、街の中心部にしかない。さらに法務局をはじめ、国や県の出先機関にしても、すべて街の中心部に集めた。しかし私たちはそれを「不便」と感じている。(実際、かえって不便になってしまった!)

 できれば、コンサートホールや映画館を、郊外へ移してほしい。国や県の出先機関にしても、そうだ。そのほうが、ずっと便利。冒頭で「外食」のことを書いたが、外食にしても、郊外のレストランのほうが、「安い」「うまい」。

 街が街でなければならない理由など、逆立ちしても出てこない。行きつくところは、結局は、「城下町思想」ということになる。「城下町思想」が転じて、「駅前思想」となった。しかし城下町にしても、「お上(かみ)」が音頭取ってつくるようなものではない。それを決めるのは、やはり、私たち、市民ということになる。

 ♪あなたは、スカボロー祭りに行くのか?
  パースレイ、セイジ、ローズマリー、&タイム……
  そこで会った人に、よろしくネ。
  なぜって、彼女は、かつてはぼくの真の恋人だったから……。

 どういうわけか、この原稿を書いているとき、サイモンとガーファンクルが歌って有名になった、「スカボロ−・フェア」(Scarborough Fair)を思い出した。

 どうしてだろ?

 スカボローは、中世の時代から、イギリス中の商人の重要な交易場であった。そこには道化師や手品師が集まり、毎年8月15日から、45日という長期間にわたって、無数の「市」が開かれたという。昔は、イギリスはもちろん、大陸からも商人たちが集まったという。

 そのスカボローへ、香辛料を馬車か何かに積んで運んでいた人がいたのだろう。パースレイ、セイジ、ローズマリー、タイムというのは、香辛料の名前である。それを運んでいた人に、失恋した男が、「スカボローに住む元恋人に、よろしく」と、語りかけている……。この歌は、そういう情景を歌ったものである。

 ……つまり、そういう「楽しさ」が、ない。悲しいかな、今の浜松市の「市街地」には、ない。「市(いち)」そのものが、ない。私など、街を歩くたびに、「こんなに税金をムダに使って……」という怒りばかりが、先に立つ。またそう思っているのは、私だけではあるまい。「豪華」といえば「豪華」だが、あそこまで豪華にする必要はないのではないか。

 ……ということで、この話も、ここまで。ただ一言。もうこれ以上、税金をムダに使うことだけは、やめてほしい!

 なおついでながら、市は、JR浜松駅を中心に、約150ヘクタール(150ヘクタールだぞ!)を、「中心街地活性化重点地区」とし、その基本計画の認定を、国に申請している。この申請が通れば、国は法律にもとづき、市を重点的に支援してくれるという。

 うむ……。何度も書くが、浜松市はかつては、工業の町だった。どうして工業の再生をもくろまないのか? 市街地が活性化するかどうかは、その結果として、決まること。私が市長なら、「郊外地工業活性化重点地区」の認定を、国に申請するのだが……?

            
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若者たち
                           

●悲しき人間の心



 母親に虐待されている子どもがいる。で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に保護する。しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」とか、「ママのところに戻りたい」と言う。それを話してくれた、K市の小学校の校長は、「子どもの心は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。私たちおとなだって、いつもこの悲しみと隣りあわせにして生きている。そういう悲しみと無縁で生きることはできない。家庭でも、職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者たち」)を歌っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。「もう、生きているのをやめなさい。無理することはないよ。死んで早く、私の施設に来なさい」と。しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう言ったにちがいない。「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。それはとりもなおさず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。あなたも懸命に生きている。が、みながみな、満ち足りた生活の中で、幸福に暮らしているわけではない。中には、生きるのが精一杯という人もいる。あるいは生きているのが、つらいと思っている人もいる。まさに人間社会というワクの中で、虐待を受けている人はいくらでもいる。が、それでも私たちはこう言う。「家に帰りたい」「ママのところに戻りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NW一彦という友人がいた。一〇年ほど前、くも膜下出血で死んだが、円空(えんくう・一七世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。その彼と、金沢の野田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬんだね」と言うと、彼はこう言った。「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。

 それから三五年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。しかし今、ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。今はもうこの世にいないNW君に、こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。何がどうあるかわからないし、どうなるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生きてみる。そこに人間の尊さがある。生きる美しさがある。だから、死ぬことは、決して希望ではない、と。

……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだけかもしれない……。ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と思うことがこのところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、ふと、心のどこかで、抵抗を覚えた。「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、「本当にそうかなあ?」と思ってしまった。
(02−11−20)

            
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第四高等学校寮歌
                           

●31年ぶりの約束



 ちょうど三十一年前の卒業アルバムに、私はこう書いた。「二〇〇一年一月二日、午後一時二分に、(金沢の)石川門の前で君を待つ」と。それを書いたとき、私は半ば冗談のつもりだった。当時の私は二十二歳。ちょうどアーサー・クラーク原作の「二〇〇一年宇宙の旅」という映画が話題になっていたころでもある。私にとっては、三十一年後の自分というのは、宇宙の旅と同じくらい、「ありえない未来」だった。

 しかし、その三十一年が過ぎた。一月一日に金沢駅におりたつと、体を突き刺すような冷たい雨が降っていた。「冬の金沢はいつもこうだ」と言うと、女房が体を震わせた。とたん、無数の思い出がどっと頭の中を襲った。話したいことはいっぱいあるはずなのに、言葉にならない。細い路地をいくつか抜けて、やがて近江町市場のアーケード通りに出た。いつもなら海産物を売るおやじの声で、にぎやかなところだ。が、その日は休み。「初売りは五日から」という張り紙が、うらめしい。カニの臭いだけが、強く鼻をついた。

 自分の書いたメモが、気になり始めたのは数年前からだった。それまで、アルバムを見ることも、ほとんどなかった。研究室の本棚の前で、精一杯の虚勢をはって、学者然として写真におさまっている自分が、どこかいやだった。しかし二〇〇一年が近づくにつれて、その日が私の心に重くのしかかるようになった。アルバムにメモを書いた日が「入り口」とするなら、その日は「出口」ということか。しかし振り返ってみると、その入り口と出口が、一つのドアでしかない。その間に無数の思い出があるはずなのに、それがない。人生という部屋に入ってみたら、そこがそのまま出口だった。そんな感じで三十一年が過ぎてしまった。

 「どうしてあなたは金沢へ来たの?」と女房が聞いた。「…自分に対する責任のようなものだ」と私。あのメモを書いたとき、心のどこかで、「二〇〇一年まで私は生きているだろうか」と思ったのを覚えている。が、その私が生きている。生きてきた。時の流れは、時に美しく、そして時に物悲しい。

 フランスの詩人、ジャン・ダルジーは、かつてこう歌った。「♪人来たりて、また去る…」と。部分的にしか覚えていないが、続く一節はこうだった。「♪かくして私の、あなたの、彼の、彼女の、そして彼らの人生が流れる。あたかも何ごともなかったかのように…」と。何かをしたようで、結局は、私は何もできなかった。時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。つかむこともできない。握ったと思っても、そのまま指の間から漏れていく。

 翌一月二日も、朝からみぞれまじりの激しい雨が降っていた。私たちは兼六園の通りにある茶屋で昼食をとり、そして一時少し前にそこを出た。が、茶屋を出ると、雨がやんでいた。そこから石川門までは、歩いて数分もない。歩いて、私たちは石川門の下に立った。「今、何時だ」と聞くと、女房が時計を見ながら「一時よ…」と。私はもう一度石川門の下で足をふんばってみた。「ここに立っている」という実感がほしかった。学生時代、四年間通り抜けた石川門だ。

 と、そのとき、橋の中ほどから二人の男が笑いながらやってくるのに気がついた。同時にうしろから声をかける男がいた。それにもう一人…! そのとたん、私の目から、とめどもなく涙があふれ出した。

230
当日、石川門の前で

            
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因縁・生老病死
                           

●仏教聖典
(Buddah's Teaching)



仏教伝道協会発行の「仏教聖典」を座右の書とするようになって、そろそろ1年になる。
この本は、どこの旅館やホテルにも置いてある。そこでこの本のことを知った。
一度、あるホテルのマネージャーに売ってくれないかと頼んだことがあるが、断られた。
そこで協会のほうへ直接注文して、取り寄せた。料金は後払いでよいということだった。

内容については、私のBLOGやマガジンのほうでも、たびたび、
引用させてもらっている。

まず「因縁(いんねん)」について……。

因と縁のことを、「因縁」という。
因とは、結果を生じさせる直接的原因。縁とは、それを助ける外的条件である。
あらゆるものは、因縁によって生滅するので、このことを「因縁所生」などという。
この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされる。
世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したもので
あるから、注意を要する。
なお縁起というばあいも、同様である。(同書、P318)

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仏教聖典、いわく、

『この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも、病も、死も、みな苦しみである。
怨みのあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに執着(しゅうじゃく)を離れない人生は、すべて苦しみである。
これを苦しみの真理、「苦諦(くたい)」という』(P42)

こうした苦しみが起こる原因として、仏教は、「集諦(じったい)」をあげる。
つまりは、人間の欲望のこと。この欲望が、さまざまに姿を変えて、苦しみの原因となる。

では、どうするか。

この苦しみを滅ぼすために、仏教では、8つの正しい道を教える。
いわゆる「八正道」をいう。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

(1)正見 ……正しい見解
(2)正思惟……正しい思い
(3)正語 ……正しい言葉
(4)正業 ……正しい行い
(5)正命 ……正しい生活
(6)正精進……正しい努力
(7)正念 ……正しい記憶
(8)正定 ……正しい心の統一(同書)をいう。

仏教聖典には、こうある。

『これらの真理を人はしっかりと身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは、
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ、到達し得る。
さとりはこの8つの正しい道によってのみ、達し得られる(同書、P43)。

以前、「空」について書いたことがある。

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●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのでは(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

++++++++++++++++

八正道の中でも、私は、正精進こそが、
もっとも重要だと思う。

とくに、今の私のように、健康で、何一つ
不自由のない生活をしているものにとっては、
そうである。

けっして今の状況を、怠惰に過ごしてはいけない。
時間にはかぎりがあり、人生にも、それゆえに
限界がある。

それこそ死を宣告されてから、悟りを求めても、
遅いということ。

たとえば肺ガンを宣告されてから、タバコをやめたり、
胃ガンを宣告されてから、飲酒をやめても、遅い。

健康であるなら、さらに今の生活が満ち足りたものであるなら、
なおさら、私たちは、精進に精進を重ねる。

一瞬、一秒たりとも、無駄にできる時間はない。
また無駄にしてはいけない。

正精進について書いた原稿がある。
一部内容がダブるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進についても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 仏教聖典 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

【生・老・病・死】

+++++++++++++++++

生きていくのもたいへん。
老いていくのも、これまたたいへん。
病気はこわい。
死ぬのは、さらにこわい。

+++++++++++++++++

●損をすることの美徳

損をすることの美徳。
最近、そのすばらしさが、よくわかるようになった。
私のばあい、とくに、金銭面においては、損ばかりしてきた。
今も、している。

投資で失敗したとか、そういうことではない。

一方、金銭面で得をしたという話は、ない。
ただ一度だけ、ワイフの実父がなくなったとき、
現金で、10万円の遺産が入ったことがある。

あとにも先にも、そういう形で、「得?」をしたのは、それだけ。
しかし私たちは、その10万円で、庭石を買った。
義父の思い出ということで、そうした。

こうなってくると、わずかな損得など、どうでもよくなってしまう。
寛大になったというわけではない。
どうでもよくなってしまう。

そのかわり、(時間)というか(命)の大切さが、よくわかるようになった。
どうせ死ねば、この世もろとも、すべてのものが、私の目の前から消える。
そうそう、子どものころ、こんなことがあった。
何歳のときだったかは、覚えていないが、たぶん、私が小学5、6年生の
ころのことではなかったか。

私は夢の中で、自分がほしかったものを手に入れた。
それが何だったのかは忘れたが、ほしかったものを手に入れた。
が、そのとき同時に、どういうわけか、それが夢だと、わかった。
「これは夢だ」「それはわかっているが、しかしこれがほしい」と。
そこで私は、その(もの)を、しっかりと手で握った。
夢の中で、握った。目をさましてからも、手放さないために、である。

が、目がさめてみると、その(もの)は消えていた。(当然である!)
自分の手を見たが、その(もの)はなかった。

この世界のものも、すべて、それと同じと考えてよい。
「あの世がある」と信じている人もいるかもしれないが、だったら、
なおさら、そうである。

そこにある(モノ)にしても、光と分子が織りなす幻覚でしかない。
大切なのは、それを私が、今、見ているという(時間)。
そしてその(実感)。

その(時間)は、刻一刻とすぎていく。
その大切さに、病気になってから気づいても、遅い。
老いてから気づいても、遅い。

もしあなたが今、若くて健康なら、今から、それに気づく。
そして今というこの(時点)から、命のかぎり、自分を燃やす。
燃やして燃やしつくす。

が、それでも、(真実)に近づくことはむずかしい。
不可能かもしれない。
しかしその前向きな姿勢こそ、大切。
そこに生きる意味がある。価値がある。

で、「老」がやってきたら、どうするか?
私もその入り口に立ったわけだが、もしそのとき健康であるなら、
老など、気にしなくてもよい。
年齢というのは、ただの(数字)にすぎない。

(病気)については、どうか?
それが一時的なものであれば、治せばよい。
心の病気も、同じ。

ただ病気というのは、あくまでも(過去)の結果としてやってくるもの。
もし今、あなたが健康なら、「健康とは作るものではなく、守るもの」と
考えて、運動を大切にしたらよい。
運動をする習慣を大切にしたらよい。

怠惰な生活を繰りかえしていて、どうして健康を維持できるというのか。
10年後、20年後をいつも念頭に置きながら、運動を大切にする。
もちろんタバコは吸わない。酒は飲まない。

言いかえると、たいした運動もせず、喫煙、飲酒を繰りかえしているなら、
病気になっても、あわてないこと。それこそ身勝手というもの。

あとは、その日がくるまで、毎日、感謝して生きる。
感謝しながら、その心を、社会に還元していく。
「死」がやってきたら、そのときは、そのとき。
じたばたしない。

法句経の中にもこんな一節がある。

ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。
どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて、死を覚悟したことがある。
そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。

それからすでに30年になるが、それからの30年間は、まさに(もらいもの)。
その(もらいもの)と比べたら、金銭的な(損)など、何でもない。
むしろ損をすることによって、(執着)から、自分を解放させることができる。

その解放感がたまらない。

冒頭で、「損をすることの美徳」と書いたのはそういう意味だが、
損をすることを恐れないこと。
あえて自分から損をする必要はないが、すべきことはする。
その結果として、損をするなら、損をすることを恐れないこと。

むしろ反対に、時間を無駄にしている人を見るたびに、私は、こう思う。
「ああ、もったいないことをしている!」と。
その人が若くて、健康なら、なおさらである。

それぞれの人は、(やるべきこと)をもっている。
それは人によって、みなちがう。
心理学の世界では、真・善・美の追求が、それであると教える。
が、それにこだわる必要はない。私も、こだわっていない。

ついでに「希望論」について。

人は何もなくても、希望さえあれば生きていくことができる。
しかしその「希望」とは何か。
旧約聖書の中に、こんな説話が残っている。

ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、
神に聞いたときのこと。

神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという
希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。

旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 生・老・病・死 四苦論 損
論 希望論)


            
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喜びも悲しみも幾年月
                           
●不器用な生き方



 不器用といっても、手先の不器用さのことではない。生き方の不器用さを、いう。

 世渡りのうまい人がいる。が、その一方で、世渡りのヘタな人がいる。実直で、ウソがつけない。口もヘタ。そういう人を、不器用な人という。

 融通性にかける。臨機応変に対処できない。頭がかたい。がんこ。クソまじめ。いつも自分で、重荷を背負いこんでしまう。損をすることは、あっても、得をすることはない。映画の『喜びも悲しみも幾年月』の中の、佐田啓二演ずる、有沢四郎に、そのイメージをい思い浮かべる。すばらしい映画だった。今でも、あの歌を口ずさむと、目頭がジンと熱くなる。

 監督、原作、脚本は、木下恵介。音楽は、木下忠司。

 最後のシーンで、燈台守の有沢と、娘夫婦が乗る汽船が、たがいに汽笛を交わしあうところがある。そこでは、観客は、みな、人目もはばからず、涙を流した。

 ……と、考えていくと、不器用であることは、何ら、恥ずべきことではない。むしろ、長い人生を振りかえってみたとき、不器用だった人のほうが、心にぬくもりを与えてくれる。そういう人ほど、人生が何であるかを、教えてくれる。

 が、現代社会では、不器用な人ほど、生きにくい。社会から取り残されるだけではなく、社会のスミに、追いやられてしまう。その一方で、世渡りのうまい人ほど、成功者として、もてはやされる。

 人を見る目というか、価値観そのものが、ズレてしまった。私には、そんな感じがする。そこで重要なことは、私たち1人ひとりが、そのズレたものの考え方を、少しずつ、軌道修正していくこと。みなが、少しずつ、それをすれば、やがてそれが大きな力となる。

 しかし、それは可能なのか?

 一つだけ不安なのは、その木下恵介だが、晩年になればなるほど、権力への志向性が強くなったというか、どこか、庶民性をなくしていったように思う。これはあくまでも、私の印象なので、異論のある方も多いと思う。しかし晩年の作品には、『喜びも悲しみも幾年月』に見られたような、あの透きとおるような純粋さは、もう感じられなくなってしまった。

 ……ということを、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「あの監督は、もともと、器用な人だったということよ」と。つまり「監督になるような人だから、不器用な人では、監督にはなれない」と。ナルホド!

 話はそれたが、しかし『喜びも悲しみも幾年月』は、名作中の名作であることは、だれの目にも疑いようがない。私がその映画を見たのは、子どものときだった。そんな私ですら、夫婦というのは、こういうものだということを、教えられた。

 その原点で光り輝いているのが、やはり、有沢四郎の不器用さ、である。息子の臨終の際にも、有沢四郎は、灯台を守った。父親として、どうあるべきだったかということについては、議論もあるだろう。が、有沢四郎にしてみれば、灯台を放り出して、病院へかけつけることはできなかった。

 そうした不器用さは、今の私には、痛いほど、よく理解できる。もし私が、有沢四郎の立場だったら、私も、同じようにしただろう。

 器用に生きる……。その典型的な例が、今を騒がせている、リフォーム詐欺である。「リフォームする」と言っては、老人たちをだまし、高額のリフォーム代を請求する。しかし私たちが「ビジネス」と呼んでいるものは、多かれ、少なかれ、そのリフォーム詐欺のようなもの。「私のしている仕事は、リフォーム詐欺とはちがう」と、胸を張って言える人は、いったい、何人いるだろうか。

 私たちは、生きていく上で、いつも、心のどこかで良心をねじまげ、誠意を犠牲にし、自分をごまかしている。また、そうでないと、この現代社会では、生きていくことすら、おぼつかない。

 それが平気でできる人のことを、器用な人という。そうでない人を、不器用な人という。が、不器用であることが悪いというのではなく、不器用がもつ、美徳のようなものに、私たちは、もう少し、敬意を払ってもよいではないだろうか。それが、このエッセーの結論ということになる。

【付記】受験生でも、器用な受験生ほど、スイスイと、受験社会を渡り歩いていく。受験勉強しかしない。受験勉強しかできない。頭の中は、センター試験の数字だらけ。

 一方、不器用な受験生というのも、いる。受験期に入ったというのに、学校祭のために、毎晩、学校から帰ってくるのは、真夜中。で、やっと始めた受験勉強にしても、どこか、トンチンカン。要領がわからないために、回り道ばかりしている。

 「お前なあ、そんなところは、試験には出ないよ」と教えてやるのだが、「先生、いいよ、いいよ」と言っては、そこばかり勉強している。つまりは、この段階から、現在社会では、器用な子どもは得をし、不器用な子どもは損をする。そういうしくみが、すでにできあがってしまっている。

 そんな感じがする。
(はやし浩司 不器用 器用)

            
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ゴンドラの唄(歌) 
                          

●自己の統合性



+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キングである。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティン・ルーサー・キング・Jr)

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらりと、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わかったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいはんが、そうではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、そのままここに紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)と出会う。彼女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞している。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」(「きれい塾hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!


            
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おはなはん
                           

●織田信長論



 先日もテレビを見ていたら、こう言った知事(M県)がいた。「私は信長の生き方に共感を覚えます。今の日本に必要なのは、信長型の政治家です」と。

 信長のもとで、いかに多くの善良な庶民が苦しみ、犠牲になったことか。京都の川原では、毎日四〇〜五〇人もの人が処刑されたという記録も残っている。少し冷静に歴史を見れば、彼がまともな人間でなかったことは、だれにだってわかるはずだ。

 私たちはともすれば、あの時代を、信長の目でしか見ない。が、一度でもよいから、信長にクビを切られる庶民の立場で見てはどうだろうか。県知事という、権力のトップに立ったような人には、信長は理想かもしれないが、しかし私はゴメン。もし今、信長型の政治家が出てきたら、徹底的に私は戦う。

 日本以外の多くの国々では、外国の勢力によって、圧制に苦しんだという歴史がある。そういう国々で、そうした外国勢力をたたえるようなドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。あのオーストラリアでさえ、英国総督府時代のイギリスを美化するだけで、袋叩きにあう。

しかし信長やそれにつづく封建領主たちのした圧制は、植民地の統治者でもしなかったような圧政である。ウソだと思うなら、一度、新居町(静岡県浜名湖の西にある町)の関所跡へ行ってみることだ。当時は関所破りをしたというだけで、一族すべてが処刑された。そんな記録が残っている。

圧制は圧制でも、信長は日本人だったから許されるという論理は、それ自体、おかしい。もし仮に信長が、朝鮮の李朝の出身者だったら、今ごろはどう評価されていることやら。ほんの少しだけでもよいから、それを想像してみてほしい。それともあなたは、それでも信長をたたえるだろうか。もしそうなら、鎌倉時代に、日本を襲った、蒙古のチンギスハン(モンゴル帝国の創始者、元の太祖)をたたえたらよい。信長より、ずっとスケールが大きい。

 歴史は歴史だから、それなりの評価は大切である。しかしそれ以上に大切なことは、その歴史を冷静に評価することである。あのナポレオンは、「歴史はみなが合意のもとにつくった、作り話である」(ナポレオン「語録」)と書いている。ときには、そういう冷めた目も大切である。で、ないと、「歴史は繰り返す」(ツキュディデス「歴史」)ということになりかねない。


            
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荒城の月

                           

●10月31日(月末)

 今日は、天竜市までドライブした。途中、義兄と、T先生の家に寄る。富士市の友人が送ってくれた、サツマイモを、すそ分けするため。

 天竜市のショッピングセンターで、お弁当を購入。それをもって、二俣(ふたまた)城公園へ。そこで昼食。

 よく整備された、きれいな公園だった。眼下に、天竜川。ふと、DB作詞、滝廉太郎作曲の「♪荒城の月」を口ずさむ。

 「♪春、高楼の、花の宴……」と。

 しかしその歌詞は、盗作だったという説がある。「中国の漢詩に、よく似たのがある」と。数年前に、それを指摘した評論家がいた。何かの雑誌で、それを読んだことがある。

 そんなことをワイフに話すと、「春というのも、おかしいわね」と。「荒城の月」というくらいなら、秋のほうが、ふさわしい、と。

 ナルホド!

 「♪秋、高楼の花の宴、めぐる杯(さかずき)……」のほうが、雰囲気としては、よく合う。

ワイフ「DBが、盗作したというの?」
私「そういう説があるということさ。だいたい、『春、高楼の花の宴……』という歌詞は、日本語の発想ではない。どこからどう読んでも、漢詩のにおいがする。それでそういう疑惑が生まれたのかも……。ぼくには、どうでもいいことだけど、ね」と。

 意味のない会話がつづく。

 こうした盗作疑惑は、この世界ではよく起こる。最近でも、民衆作家として知られる、T氏がいる。T氏は、それが発覚すると、カメラの前で、泣きじゃくりながら、「相手の人に許してもらえました」と喜んでいた。

 しかしそのあとも、T氏は、平気な顔をして、テレビに出たり、講演したりしている。そんなこともあって、私は、どうしてもあのT氏が好きになれない。T氏は、どこか小ずるそうな目つきをしている(?)。

 「ぼくなんか、まったくの無名だけど、ぜったいに、他人の文は盗まないよ。だれかがぼくが書いていることと同じことを書いていたら、ぼくのほうが、自分の意見を、引きさげるよ」と。

 が、ともかくも、二俣城は、その「荒城の月」そのもの。今にも泣き出しそうな、秋の低い雲。ススキが、やさしく、湿った風に揺れていた。

++++++++++

荒城の月

  春高樓の花の宴
  めぐる盃かげさして
  千代の松が枝わけいでし
  昔の光いま何處
 
  秋陣營の霜の色
  鳴き行く雁の数見せて
  植うる劔に照りそひし
  昔の光いまいづこ
 
  今荒城のよはの月
  替わらぬ光たがためぞ
  垣に殘るはただかつら
  松に歌ふはただあらし
 
  天上影は替らねど
  榮枯は移る世の姿
  寫さんとてか今もなほ
  鳴呼荒城のよはの月

  (原詩のまま)

++++++++++

 すばらしい歌詞であることには、ちがいない。ぼんやりと遠くを見ながら、私は、しみじみと、この歌を口ずさんだ。



            
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南京虐殺事件
                           
●K首相のY神社参拝



 あえて、告白しよう。

 私の実姉の義父は、A級戦犯で、処刑されている。I国の捕虜収容所で、捕虜を、虐殺したという罪で、である。

 しかしこれは濡れ衣(ぎぬ)である。完全な、濡れ衣である。義父の上官だった人が、罪を義父になすりつけて、自分は、逃げてしまった。義父の友人(同僚戦友)が、義父の死後、一冊の本を書き、それを証明した。

 それについては、いつか詳しく、検証してみたい。

 で、その義父は、今、あのY国神社に、祭られているという。そのことについて、姉に、「Y国神社に参ったことはあるの?」と聞くと、「一度も、ない」とのこと。

 「お墓は、ちゃんと、こちらにあるから」と。

 04年11月。

 日本のK首相は、ビエンチャン市内で中国の温家宝首相と会談した。

温首相は小泉首相の靖国神社参拝問題について「歴史認識の問題があり、靖国神社の問題がある。靖国問題を適切に処理していただきたい」と参拝中止を要求した。これに対し小泉首相は「(参拝は)心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ちからであり、不戦の誓いを新たにするものだ」と重ねて説明した。

人格の完成度は、その人の自己中心性をみて、判断する。自己中心的であればあるほど、その人の人格の完成度は低いとみる。EQ論では、他者への共鳴性で判断する。

 国家としての人格の完成度も、同じと考える。いかに相手の立場で、ものを考えることができるか。その視点の深さで、国家としての完成度も、決まる。

 その日本。戦前、いかに周辺の国の人たちに、多大な恐怖を与えたかということは、今さら、改めてここに書くまでもない。その一例として、南京虐殺事件がある。

(南京虐殺事件)

 日華事変の最中、1937年(昭和12年)の12月12〜15日。当時のK内閣は、南京攻略に対して、三光作戦を展開していた。

 三光作戦というのは、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)という作戦をいう。

 その結果、日本軍は、中国全土で、強姦、虐殺、略奪をほしいままにした(エドガー・スノー「アジアの戦争」)。その「アジアの戦争」によれば、南京だけで、4万2000人以上、また南京への進撃途中で、30万人以上が、日本軍に殺されたという。

 うち、そのほとんどが、「無抵抗の婦人、子どもであった」(同書)という。

 どうやら、このあたりが、最大公倍数的な事実のようである。これについて、10年ほどまで、こんなことを言ってきた女性(当時、35歳くらい)がいた。

 「先生、どうして中国人は、ああまで日本を悪く言うのですか! 私は許せません。日本軍が南京で殺したのは、30万人ではありません。せいぜい、3万人です!」と。

 そこで私が、「3万人でも、問題でしょう。3000人でも、300人でも問題でしょう。どうしてそのとき、日本軍が中国にいて、三光作戦を展開したのですか」と。

 あれこれ議論をしたあと、最後に、その女性は、こう叫んだ。「あんたは、それでも、日本人か!」「即刻、教育者をやめろ!」と。

 もちろん南京虐殺事件だけではない。中国全土はもちろん、東南アジア(マレーシア、シンガポール)でも、日本軍は同じようなことをしている。しかし日本は、一度だって、アジアの人たちに向って、その戦争責任を認めたことはない。ナーナーですませてしまった。

 戦争責任ということになれば、その責任は、天皇まで行ってしまう。天皇を最高権威として、つまり日本国憲法の象徴としていだく日本としては、これはまことに、まずい。

 が、しかし、ものごとは、逆の立場で考えてみようではないか。

 あるとき、平和に暮らしていた日本に、となりの軍事大国K国が、侵略してきた。強大な軍事力をもつ、K国である。

 そしてそのK国が、K国の言葉を強要し、金XX神社参拝を強要し、それに従わない日本人を、容赦なく処罰した。三光作戦とやらで、大阪の人たちが、30万人近く、殺された。そのほとんどが、婦人や子どもたちである。

 ……という私のような意見を、現在の文部科学省大臣は、「自虐的史観」と言うらしい。「日本人が、どうして日本を悪く言うのか」と。

 しかしどう冷静に考えても、私はK首相の言っていることのほうが、おかしいと思う。わかりやすく言えば、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなことを繰りかえしながら、「不戦の誓いを新たにするものだ」とは! そんな詭弁(きべん)が、はたして、通るのだろうか。(少なくとも、韓国、中国の人たちは、そう見ている。)

 だいたいにおいて、私の姉夫婦ですら、父親がY神社の祭られている(?)にもかかわらず、一度も、Y神社を参詣していない。むしろ、無実の罪で、処刑させられたことを、うらんでいる! それを「不戦の誓い」とは……!? むしろ、K首相の行為は、中国人や韓国人の逆鱗に触れ、戦争の火種にすら、なりかねない。

 日本軍による大陸侵略戦争を、肯定する人は、いまだに多い。「日本が、道路や鉄道を敷いてやった。学校や公共施設を作ってやった」「日本のおかげで、中国や韓国は発展したではないか」と。

 しかしもし、こんな論理がまかり通るなら、日本よ、日本人よ、逆に、その反対のことをされても、文句を言わないことだ。あの中国にしても、5500年の歴史がある。韓国にしても、2000年以上の歴史がある。

 私たちが使っている言葉は、韓国を経由して日本へ入ってきた。漢字は、まさに中国語。その漢字から、ひらがなが生まれ、カタカナが生まれた。文化の優位性ということを言うなら、日本は、中国や韓国に、もとから、かないっこないのである。

 ……私は、今、かなり過激な意見を書いている。自分でも、それがよくわかっている。

 しかしこれだけは、よく覚えておくとよい。

 もしこれだけの警告にもかかわらず、K首相が、Y神社を参拝するようなことがあれば、日中関係や日韓関係はおろか、アジアの国々からも、日本は、総スカンを食らうだろうということ。いや、総スカンどころでは、すまないかもしれない。先にも書いたように、「戦争の火種」にすら、なりかねない。K国に、日本攻撃の口実を与えることになるかもしれない。

韓国のN大統領ですら、公式の場で、K首相のY神社参拝に触れ、「日本人よ、いい気になるな」(04年春)と、K首相を口汚くののしっている。

つまり、この問題は、それくらいデリケートな問題だ、ということ。

 日本の首相がすることだから、あなたや私も、その責任を負うことになる。「私には関係ない」ではすまされない。

 最後に一言。K首相は、「心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ち」と述べている。だったら、なぜ、「心ならずも日本人に殺された人への慰霊の気持ち」と言わないのか。たしかに300万人もの日本人が、あの戦争で死んでいる。

 それは事実だが、しかしその日本人は、同じく300万人もの外国人を殺している。しかも、日本の外で!

 先週も、韓国の新聞は、慰安婦問題についての最高裁判決、日本の文部科学大臣の、「(教科書から日本批判の記事が減って)、よかった」発言などを、トップで紹介している。が、日本では、それを知る人すら、少ない。

 それでもK首相が、Y神社参拝をつづけるというのなら、どうぞ、ご勝手に。私は、もう知らない! 知ったことではない! 

 ついでに、もう一言。H元首相の1億円政治献金問題がある。日本S医師連盟から、旧H派への1億円の小切手が渡された。だれがどう見てもワイロなのだが、H元首相は、「記憶にないが、事実なんだろう」(041130)と逃げてしまった。

 そういう政治家を見るたびに、私は愛国心とは何だろうと、考えてしまう。いざ、戦争ともなれば、若者たちを戦場に立たせ、自分たちは、イの一番に、その戦場から逃げてしまう。H元首相の、ニンマリと笑った顔を見ていると、そんな感じがする。

そういう政治家の大の仲間が、「正義」だとか、「不戦の誓い」だとか言うから、おかしい。本当に、おかしい。
(04年12月1日記)

(補記)

 この記事を、マガジンに載せるのは、年があけて、1月3日ということになる。そのころ、日本のK首相は、Y神社を参拝しているのだろうか。それとも、していないのだろうか。

 しかし……。この無力感は、いったい、どこから来るのか? 「もう、考えるのも、いやになった」という思いすら、ある。

 何も「不戦の誓い」くらいなら、Y神社へ行かなくても、できるはず。だいたいにおいて、「不戦の誓い」とは、何か? 私には、K首相が、まったく、理解できない。

(補記)

 日本S医師会(日歯)側から自民党旧H派への1億円ヤミ献金事件で、政治資金規正法違反(不記載)の罪に問われた同派政治団体「HS研究会」(平成研)の元会計責任者・TT被告(55)の判決が12月3日、東京地裁であった(04年)。OD裁判長は禁固10月、執行猶予4年(求刑・禁固10月)を言い渡した。

 義父に罪をなすりつけ、自分は逃げた、上官。そして部下に罪をなすりつけ、自分は逃げた、H元首相。ともに、やることは、よく似ている。


            
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【木曽・駒ケ岳へ】(9月14日、水曜日、2011)

+++++++++++++++++++++

浜松発8:10分の豊橋行きに乗り込んだ。
行き先は、木曽・駒ケ岳。
豊橋で、飯田線に乗り換える。

「準備万端!」とワイフ。
「紫外線防止クリームはもったか?」
「もった!」
「長袖のシャツはもったか?」
「もった!」と。

ついでに「コンドームは?」と聞くと、「もった!」と。

!!!

私「あのなア、冗談、冗談。必要ないよ」
ワ「気圧が低いところでは、役に立つかもよ」
私「そんな理屈、聞いたことがない」
ワ「それに、浣腸も!」
私「浣腸? 冗談だろ?」
ワ「本当よ。このところあなた便Pがちでしょ」
私「気をきかせすぎだよ、それは……」と。 

こうして木曽・駒ケ岳への旅は始まった。
豊橋からは、特急・伊那路1号。
飯田まで行き、そこからローカル線に乗り換え、駒ヶ根まで。
駒ヶ根から駒ケ岳までは、バスとロープウェイで。
今夜は、ホテル千畳敷で一泊。

天気は、この両日、晴れのち曇り。
ワイフは天気を心配していた。
「だいじょうぶだよ。雲の上に出るんだから」と。

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<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/45/img10deda3czikazj.jpeg" width="640" height="480" alt="木曽駒ヶ岳.jpg">

●旅行

 「旅行」というより、「旅」。
その場任せの、気まままなブラリ旅。

旅の大切さは、それをしない人たちをみると、よくわかる。
どこか人間のスケールが小さい……。
そんな感じがする。

 が、旅に出るには、それなりの勇気が必要。
勇気だ。
たとえて言うなら、喧嘩の相手に、わざわざ会いに行くようなもの。
臆病な気持ちでは、旅はできない。
つまり人間というのは、基本的には怠け者。
新しいことを知るよりは、古い知識にしがみついたほうが楽。
新しい場所へ行くよりは、行きなれた場所へ行くのが楽。
小さく生きた方が、安全、無難。

●脳みその栄養剤

 旅に出るというのは、固まりかけた脳みそをブレンダー(ミキサー)にかけるようなも
の。
……というのは、大げさかもしれない。
しかし歳を取ると、旅に出るのがめんどうになる。
疲れるし、それにお金もかかる。
「休みは家でぼんやりと過ごしたい」と思う。

 が、それではいけない。
脳みそにカビが生える。
腐る。
だから、あえて飛び出す。
その「あえて」という部分で、勇気が必要。

 ……知人の中には、家の中に引きこもったまま、人との接触すら絶っている人がいる。
「引きこもり」というと、若い人の病気のように考えている人も多い。
しかし60代、70代になってから、引きこもる人も多い。
病名は、多くは「うつ病」ということになっている。

 引きこもるから、うつになるのか。
うつになるから、引きこもるのか。
そういう人たちこそ、外の空気を吸ったほうがよい。
言うなれば、旅は、脳みその栄養剤。
そういう意味で、冒頭で「旅の大切さは、それをしない人たちをみると、よくわかる」と
書いた。

●公的教育支出費

 列車の中で、新聞を読む。
そのひとつ。

それによれば、日本の公的教育支出費は、またまた最下位になったとか(OECD)。
「日本は05年、07年も最下位になり、低迷がつづいている」と。
日本は、3・3%!
たったの3・3%!
OECD加盟国31か国中、最下位。
つまりその分だけ、親の負担が大きいということ。

 一方、日本の教育支出に占める私費負担の割合は、33・6%。
チリ(41.4%)、韓国(40・4%)につづいて、下から3番目。
とくに幼稚園の56・5%が、ダントツに高い。
しかもその分だけ、教育の質が高いかといえば、それはない。
生徒の数でみても、小学生の学級規模は、28・0人。
中学生で、33・0人(OECD平均は、21・4人)。
韓国に次いで、下から2番目。

つまりその分だけ、日本の教育の質は、「悪い」ということになる。

●奨学金制度

 が、この数字だけを見て、「日本もそれほど欧米とは変わらない」と思ってはいけない。
たとえばアメリカでもオーストラリアでも、奨学金制度が発達している。
大学へ進学する学生たちは、どこの大学へ入るかということよりも、どこから奨学金を手
に入れるかということに、血眼(ちまなこ)になっている。

 奨学金を提供する民間会社にしても、「どうせ税金で取られるなら……」と、奨学金をど
んどんと提供している。
もちろん会社側にも、メリットがある。
優秀な学生に、ツバをつけておくことができる。

 奨学金を得られない学生は、借金で……ということになるが、親のスネをかじって大学
へ通っている学生など、さがさなければならないほど、少ない。
現実には、ほとんどいない。

●親、貧乏盛り

 そんなわけで、昔は『子ども育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。
今は、『子ども大学生、親貧乏盛り』という。
が、問題はつづく。
老後の問題である。

 今、ほとんどの母親たちは、子どもが大学へ通うころになると、パートに出る。
それこそ爪に灯をともすようにして、子どもの学費(実際には遊興費)を捻出する。
が、子どもといえば、親の苦労など、どこ吹く風。

 50代で貯金ゼロの家庭は、30%もあるという。
家計は苦しい。
が、それでも親は、学費(実際には遊興費)を送りつづける。
「やがて子どもがめんどうをみてくれる……」という淡い期待を抱きつつ……。
しかしそれは幻想。

 最近の若い人たち、さらにその上の世代の人たちに、「親のめんどうをみる」という意識
はない。
ないことは、内閣府の調査結果を見ればわかる。
つまりこの段階で、親は、貯金を使い果たす。

●変わった家族観

 私たちが子どものころは、「家族」というと、そこには必ず祖父母がいた。
「先祖」という言葉も、色濃く残っていた。
が、今は、それがない。
「家族」というときには、自分たち夫婦と、その子どもたちだけをさす。
夫婦と子どもだけ。
悪しき欧米化と断言してよい。

 つまり欧米では、「家族崩壊」が常態化している。
日本および東洋の家族観と比較してみると、それがよくわかる。
欧米人のばあい、2世代家族というのがふつう。
3世代家族というのは、まず、ない。
つまり「家族」には、祖父母は含まれない。

 日本人の意識は、戦後、急速に欧米化した。
恋愛第一主義という、欧米流の価値観も、それに含まれる。
私が若いころは、結婚するにしても、まず親に相談し、親の許可を得てから……というの
が、ふつうだった。
が、今はちがう。
いきなり婚約者を連れてきて、「結婚します」と。

 最近の若い人たちは、恋愛をすると、何かすばらしいことをしでかしたかのように思う
らしい。
思うというより、錯覚。
(特別は特別だが、親も含めて他人には関係ない!
恋愛など、そこらのイヌやネコだって、しているぞ!)
「恋愛至上主義」というのは、それをいう。

●家族崩壊

それが今に見る結果ということになる。
が、欧米はまだよい。
それが常態化した状態で、社会のシステムが完備している。
老人は、若い人たちの助けがなくても、老後を送り、自分の終末ケアを受けることができ
る。

 が、この日本では、社会のシステムが追いつかないまま、意識だけが変わってしまった。
わかりやすく言えば、老人たちだけが、野に放り出されてしまった。

●人材

 グチぽいエッセーになってしまった。
しかし本来なら、日本は公的支出をふやすか、欧米並みの奨学金制度を拡充すべきである。
「奨学金に回してくれるなら、その分、税金を控除します」と。
そうするだけでも、会社は喜んで奨学金を提供するようになるだろう。
(もちろん、その分だけ税収が減るから、政府は猛反対するだろうが……。)

 しかしこの日本がなぜ日本かといえば、「人材」があるからである。
また人材以外に、財産はない。
土地は狭く、資源もない。
軍隊も貧弱。
ならば人材ということになるが……。
こんな状態で、どうして人材が育つというのか。
これからの日本は、どうやって世界と渡りあっていくというのか?

●豊橋

 伊那路1号は、定刻どおり発車。
10:08分。
飯田行き。
1号車は指定車両になっているが、客は私たちを含めて、4人だけ。
ラッキー!

 ワイフは豊橋駅で買った弁当を食べている。
私はパソコンを叩いている。
途中、「湯谷温泉駅」に停車するという。
湯谷温泉には、今年に入ってからだけで、もう10回近く通っている。

 泉山閣、湯の風HAZUなど。
ほかにもいくつかあるが、どこもカビ臭く、泊まるには、かなりの寛容力が必要。
それに料金は、ほかの温泉地と比べ、料金も割高。
が、気位だけは高い。
1300年の歴史があるとか。
それはわかるが、昔のままでは、客はつかめない。

ある旅館でのこと。
「一泊、朝食のみ」の予約をし、夕食を外から持ち込んだ。
それが女将を怒らせた。
叱られた。

 こういうことがあると、もうこりごり。
以後1か月以上になるが、以後、湯谷温泉には、足を踏み入れていない。

●駒ケ岳

 駒ケ岳には、一度、登っている。
息子の1人と旅をしたとき、登った。
登ったといっても、ロープウェイで終点まで行っただけ。
そのときの印象が今でも、強く残っている。

 で、そのとき、そこにホテルがあることを知った。
それが「ホテル千畳敷」。
「泊まろうか」ということになったが、満室だった。
そのときの恨みを、今日、晴らす。
あのとき感じた、不完全燃焼感を、今日、晴らす。

 何でも日本で最高峰にあるホテルとか。
もちろん料金も、最高?
冥土の土産には、もってこい。

●湯谷温泉

 淡い水色の空に、ポカリポカリと白い雲。
景色は薄く、かすんでいる。
緑の稲田が美しい。

 旅行のしかたにも、いろいろある。
しかしそれにも、学習が必要。
つまりレッスン料。
宣伝や広告につられていくと、たいてい失敗する。
温泉旅館にしても、何度か足を運ぶ。
現地を見て、はじめてどの旅館がよいかがわかる。
近くのみやげ物屋で評判を聞くのが、いちばんよい。

 もうすぐ列車は、その湯谷温泉駅で停まる。
私はもともと、山育ち。
山に囲まれた渓流が好き。
だから湯谷温泉……ということになる。
……ということで、湯谷温泉には、足しげく通った。

湯谷温泉を思い出しながら、そんなことを思い出した。

●長篠(ながしの)

 このあたりは、織田信長と徳川家康の連合軍、その連合軍と武田勝頼の激戦地であった
という。
あちこちに史跡が残っている。
息子たちが小さいころには、数度、通った。
史跡めぐり。
歴史の勉強という名目だった。
が、同時にこのあたりは、柿の産地。
よく柿を、箱一杯買って帰った。

 たった今、「本長篠(ほんながしの)」に着いた。
長篠の合戦は、このあたりでは、よく知られている。
騎馬戦を仕かける武田側。
それを迎え撃つ、織田側の鉄砲隊。

……というような構図ではなかったか。
実にいいかげんな記憶で、申し訳ない。
私はもともとこの種の歴史には、あまり興味がない。

●信長の時代

 現在のGDPに換算することはできない。
しかし戦国時代の日本は、恐ろしく貧しかった。
(明治のはじめですら、当時の日本のGDPは、インドネシアと同じだったという話を、
何かの本で読んだことがある。)

今に残る城だけを見て、「江戸時代も結構、豊かだった」と思うのは、まちがい。
数字で表すことは正しくないかもしれないが、一部の武士をのぞいて、たいはんの日本人
は、極貧の生活を強いられていた。

 つまり富と権力は、ほんの一握りの人間に集中していた。
それが戦国時代であり、江戸時代ということになる。
貨幣が一般社会に流通しはじめたのも、また大八車という「車」が発明されたのも、江戸
時代中期であった。
(このあたりのことは、私自身が詳しく調べた。)

 そういうことがわかればわかるほど、「何が織田信長だ!」となる。
今でも織田信長を信奉する人は多いが、エジプトのムバラクや、リビヤのカダフィと、ど
こがどうちがうというのか。
つまり城は、まさに暴政と暗黒政治の象徴。
あの城のために、どれほど多くの人たちが犠牲になったことか!
(列車が揺れ、船酔いに似た症状が出てきたので、しばらく景色を楽しむことにする。)

●飯田
  
 少し前、飯田を出た。
飯田からはローカル線。
5分おきに停車しているといった感じ。
水曜日の午後ということで、高校生たちがたくさん乗っている。
ホームにも、高校生の姿が目立つ。

 時刻は午後1時16分。
日差しは強く、外に出ると真夏の陽気。

 飯田の駅で、15分ほど待ち時間があったので、売店で「ニューズウィーク」誌を買っ
た。
見出しを読んだだけで、「さすが!」と感心する。
言葉の使い方が、うまい。
世界でも超一級のライターたちが書いている。

●「知的ブラックホール」(ニューズウィーク誌)

 見出ししか読んでいないが、「知的ブラックホール」という言葉が目に留まった。
私流に解釈すると、こうなる。

つまり知識人が、知識を過信するあまり、とんでもないことを信ずるようになることをい
う?
その結果として、これまたとんでもない袋小路、つまりブラックホールに入ってしまう。
が、それですめばまだよいほう。
そういう知識人が、一般庶民を、まちがった方向に誘導してしまう。

 以前にも書いたが、たとえば『行列のできる法律相談所』(テレビ番組)がある。
あの番組に流れる法哲学は、本来の法哲学ではない。
あの番組では、何でも、「まず法ありき」という姿勢で、法を説く。
しかし「法」というのは、何か問題が起きたとき、その問題を解決するための手段として
使われるもの。
それまでは、裏方として、うしろにひっこんでいる。
とくに民法では、そうである。
何か問題が起きたとしても、当人どうしが、それでよいなら、それでよい。
法の出る幕はない。
それをいきなり、「無断で写真を撮った! 肖像権侵害!」と騒ぐ。
小学生でも、そう言う。
「どこでそんなことを知ったの?」と聞くと、「行列の……」と答える。
 
 だから私はあるとき子どもたちに、こう言った。
「写真を撮ったことで、何か不都合なことが起きたら、肖像権侵害で訴えればいい。
でも、先生がみんなの写真を撮ることは、ごく日常的な行為で、法律違反ではないよ」と。

 これも知的ブラックホールということになる。
一部の知識人が、まちがった法哲学を説き、人々にまちがった法意識をもたせてしまう。
司法試験の合格だけをめざして勉強したような人ほど、このブラックホールに陥りやすい。

ニューズウィーク誌はどのように書いているか知らない。
あとでゆっくりと読んでみたい。

●駒ヶ根まで

 ワイフは前の座席で、ニューズウィーク誌を読んでいる。
私は先ほどまで船酔いに似ためまいを感じていた。
飯田線の特急列車は、不必要なまでに、クッションがよい。
そのためカーブを曲がるたびに、フワーッ、フワーッと揺れる。

 半面ローカル線は、(つまりこの列車は)、ガタンゴトンと、線路と車輪の鉄の衝撃がそ
のまま座席の下から伝わってくる。
パソコンを使うには、ローカル線のほうが、よい。
時間はかかるが、パソコンが手元にあれば、時間は気にならない。

 ……それにしても、よく停車する列車だ。

●キング牧師・暗殺前・最後の24時間(ニューズウィーク誌)

 ワイフは、今、「キング牧師・暗殺前・最後の24時間」という記事を読んでいる。
今度、映画化されたという。

 私はそれを読んで、「がま先生」こと、蠣崎要(かきざきかなめ)氏を思い出した。
浜松市で開業医をしていた、産婦人科医である。
タレントドクターとして、よく知られていた。

が、この30年間で、「がま先生」のことを書くのは、これがはじめて。
「がま先生」という名前を書くのもはじめて。
そのがま先生にも、最後の24時間があった。
詳しくは書けない。

私はがま先生の秘書を、7年間勤めた。
その間に、がま先生の本を、10冊近く書いた。

2人の息子氏と、1人のお嬢さんの家庭教師もした。
よくいっしょに外国へも行った。
あちこちの学会にも顔を出した。

 私が東洋医学の勉強をするようになったのも、がま先生の秘書をしていたからである。
そのがま先生は、その年の春の彼岸(3月)に焼死した。
直後の夕刊では、風呂場の煙突の加熱が原因によるとあった。
享年49歳。

息子氏の1人が2階の窓から逃げるとき、その煙突に足をかけた。
そのとき「煙突が異常に熱かった」と。
そこから煙突の加熱説が生まれた。
火事、つまり事故、と。

 が、私はそれを信じなかった。
がま先生の家の構造は、がま先生と同じくらい、私はよく知っていた。
で、その数日後から、私は消防署に足を運び、原因を調べ
た。
担当署員は、こう言った。
「私のほうからは、何も言えません。あなたの質問に対して、YES、NOだけで答えま
す」と。

が、それについて、ここで書くことはできない。
その「事件」で、がま先生夫妻、お嬢さんのHチャン、それに助産婦長をしていた、K先
生の4人がなくなっている。
K先生は、私の長男を取り上げてくれた人である。
3人の子どもは、私の教え子である。
とくにHチャンは、毎週私が自分の教室へ連れてきて、教えた。
みんなからは、「おあちゃん」と呼ばれ、かわいがられていた。

●謎の24時間

 その朝、がま先生は、オペ(手術)を1つこなしている。
それが終わると、市内のGホテルで催されたネクタイ展示会に顔を出している。
そのあと、一度帰宅。
どこで昼食をとったかは、不明。
(がま先生は、居間から診察室へ行く途中、食堂で簡単に昼食をすますということが多か
った。)

 で、午後から、またオペを2つこなし、今度は奥さんと同伴で、映画館へ。
市内のC劇場で映画を見ている。
その映画のあと、一度、自宅へ戻り、食事をすますと、そのまままたGホテルへ。
そこでだれかと会い、夜11時過ぎまで、過ごす。
が、ここからさらに謎が深まる。

そのあと秘書のI氏(運転手)を呼びつけ、I氏に運転させ、K町にあるRSというス
ナックに寄っている。
RSというのは、同僚医師のK氏の妻が経営するスナックである。
そこでしばらくの時間を過ごし、自宅に帰ったのが午前0時半ごろ。

●謎の焼死事件

 がま先生は、遅い風呂に入る。
それが午前1時ごろ。
その時刻、奥さんは、二階の寝室にいた(?)。
風呂釜の空焚き説も、そこから生まれた。
空焚き状態になり、火事になった、と。

 その朝早く、午前3時半ごろ(この時刻は記憶による)、火事が発生。
がま先生以下、4人がなくなるという、あの惨事につながった。

 が、私は、その火事がどのようにして起きたか、知っている。
消防署員の肉声の録音テープも、どこかにあるはず。
が、それについては、ここには書けない。
すでに記憶の中に、封印していある。
死ぬまで、だれにも話さないだろう。

 が、なぜ?
なぜあれほどまでに幸福そうに見えた家族に、あのような惨事が襲ったか?
なぜ、がま先生は、夜半まで、Gホテルで過ごしたか。
その相手は、だれだったのか。
なぜ、がま先生は、タクシーを使わず、深夜遅く、わざわざ秘書のI氏を呼びつけ、車を
運転させたか。
なぜ、がま先生は、途中、RSというスナックにわざわざ寄ったか。
スナックを出たとき、時刻は午前0時を回っていた。

私はその謎を解くヒントは、がま先生と奥さんが見た、あの映画の中にあると考えている。
当日、C劇場で上映されていた映画は、F監督製作の「xxxx」。
その映画があの悲劇の引き金を引いた。

 「がま先生・最後の24時間」。
まさに謎に包まれた24時間だった。

が、まさにあの映画どおりの筋書きで、がま先生は、この世を去った。
『キング牧師・暗殺前・最後の24時間』というタイトルを読んで、そんなことを思い出
した。

●貸し切り 

駒ヶ根からロープウェイ乗り場のある、ひらび平まではバス。
が、ここでも客は、私たち2人だけ。
さらに、ひらび平から千畳敷までのロープウェイでも、客は私たち2人だけ。
いろいろなところへ行ったが、こんなことははじめて。
けっしてシーズンオフということではない。
頂上へ着くと、どこかのテレビ局が、旅の番組を収録していた。
見たことのあるテレビタレントが、3〜4人、いた。

 私たちはそれが終わるまで、近くのベンチで座って待った。
待って、今度は、私たちの記念撮影をした。
そばにいた男性に、シャッターを切ってもらった。
快く、引き受けてくれた。

 あとでワイフがこう言った。
「あの人ね、お笑いタレントのXXよ」と。
私がシャッターを切ってくれと頼んだ人は、テレビの世界ではかなり有名なタレントだっ
たという。
私は、そういう世界を、ほとんど知らない。
そういう番組は見ない。
XXさん、ありがとう。

●眠い

 今、夕食を終えて、部屋に戻ったところ。
つい先ほどまで、今夜は徹夜で……と考えていたが、今は、眠い。
無性に眠い。
時刻は午後7時10分。
徹夜で旅行記を書きたかった。
が、体のほうが言うことを聞かない。

 夕食前、1時間ほど、千畳敷を歩いてみた。
大きな岩が敷き詰められた歩道を、ゆっくりと歩く。
ときどき写真を撮る。
眼前に迫る駒ケ岳が、ちょうど日没どきで、まるでドラキュラか何かが住む悪魔城のよう
に見えた。
荒々しい岩肌。
遠近感のない空間。
ワイフは、「こんな景色を見るのは、はじめて」と、何度も言った。

●日韓経済戦争

 ホテルでネットがつながったのには、驚いた。
さっそく、あちこちのニュースサイトをのぞく。
気になったのは、韓国の株価。
暴落に、暴落を重ねている。

 ウォン高にすれば、輸出に影響が出る。
ウォン安にすれば、食料品やガソリン代が値上がりする。
すでに限界に近いほどまで、とくに食料品の価格が上昇している。
国内経済はメチャメチャ。
が、韓国政府が選んだ道は、ウォン安。
国民生活を犠牲にしても、まず金を稼ぐ。
うまくいけば、一気に韓国は経済大国として、世界に躍り出ることができる。

 ……というわけには、いかなかった。
韓国政府の思惑通りには、いかなかった。
最大のターゲットにしていたEUの経済が、こけた。
その前に、アメリカがこけた。
当初、つまり今回の大恐慌が始まったとき、韓国のイ大統領は、こう言っていた。
「わが国に与える経済的影響は、軽微」(8月はじめ)と。

 が、本当にこけたのは、韓国の国内経済だった。
それもそのはず。
韓国の銀行は、その大半が、アメリカの銀行の支配下にある。
サムスンにしても、ヒュンダイにしても、中身はアメリカの会社と考えたほうがよい。

 ニューズウィーク誌は、表紙を「韓流バブル」という文字で飾っている。
エンタメの世界で、韓流バブルがはじけ始めているという。
日本で起こりつつある、反韓流の動きをさす。
が、同時に韓国では、経済バブルもはじけつつある。
株価の暴落が、ほかの国とくらべても、大きすぎる。
が、日本よ、日本人よ、これだけはしっかりと覚えておこう。

 韓国が頭をさげて助けを求めてくるまで、日本は、ぜったいに韓国を助けてはいけない。
いけないことは、竹島問題を見ただけでもわかるはず。
さらに言えば、前回、韓国がデフォルトしたとき、日本は100億ドルを貸した。
そのうちの50億ドルが、まだ未払いのままになっている。

●希望

 数日前、地元の新聞社から、連載の依頼があった。
うれしかった。
ときどき単発モノの依頼はあるが、連載モノは、重みがちがう。
その連載にあわせ、体力を調整し、脳みそを鍛える。

 人は希望によって、生きる。
希望が、道を照らす。
言い換えると、道のない人生を歩むことぐらい、つらいことはない。

 これには、老人も若者もない。
1人の人間として、これほどつらいことはない。

 恐らく私にとっては、人生、最後を飾る連載になるはず。
命がけで書いてみたい。

●23:13

 先ほど目を覚ましてしまった。
部屋のエアコン調整に失敗した。
まずワイフが起き上がり、「暑い」と。

 私は窓を開けた。
眼前に、駒ケ岳が見えた。
暗闇を背にし、こちらに向かってのしかかるように、うっすらとその姿を現していた。
白い石灰石(多分)が、雪のように白く光っている。
その雄大な景色に、しばし見とれる。
それを見て、ワイフが、「美しいわね」と言ったまま、口を閉じた。

 こういう旅行では、よくこういうことがある。
睡眠調整がむずかしい。
というより、枕やふとんが変わっただけで、眠れない。
目が覚める。
今回は、暑苦しくて、目が覚めた。

 部屋は8畳。
エアコンはあるが、空調設備はないようだ。
時刻は、今、午後11時13分。

●猛暑 

 寝る前に見たニュースによれば、昨日は全国的に猛暑だったとか。
ところによっては、35度を超えたとか。
熱中症で倒れた人も多い。

 しかし9月半ばで、35度?
おととしも、たしか9月の終わりまで、30度を超える日々がつづいた。
地球の火星化(温暖化ではなく、火星化)は、確実に進んでいる。
この駒ケ岳でも、以前の今ごろは、気温も0度近くになり、氷も張ったという。
が、昨日も、そして今日も、朝夕の気温は11度前後。

 「地球が火星化したら、高い山地に引っ越そう」と考えていたが、その夢も、もろく崩
れた。
むしろ、寒冷地のほうが、地球火星化の影響を大きく受ける。

●頭痛

 ワイフが起き上がった。
「頭が痛い」と言った。
「枕を高くして」と言った。

 湿布薬を、首と額に塗ってやった。
ついでに精神安定剤を1錠。
睡眠薬がわりに、私たちはのんでいる。

「どういうふうに痛い?」と聞くと、「二日酔いみたい」と。

 ワイフも酒に弱くなった。
食前に生ビールを一杯飲んだ。
私も一口のんだが、それで顔が真っ赤になってしまった。

 一見、健康で私より元気に振舞っているが、ワイフも確実に老いつつある。
寝顔はすっかり、バーさん顔。
そんなワイフがいとおしい。
「いつまでこんなことができるのだろう」と考えていたら、目頭がスーッと熱くなってき
た。

 やはり今日の旅行は、ワイフには、無理だったかもしれない。
片道、6時間半。
次回は、もっと近いところにしよう。

●長篠の戦い

 この原稿のはじめに、「長篠の戦い」について、書いた。
当時の私は教育パパで、あちこちの史跡へ息子たちをよく連れていった。
40坪の畑も作り、自然への親しみを教えようと、植物や作物の作り方も教えた。
もちろん美術館へも連れていった。
文学も、読んで聞かせた。
テープに吹き込んで、毎晩聞かせた。

 が、今にして思うと、それが何だったのか、よくわからない。
過去どころか、年長者に対する畏敬の念など、ゼロ。
歴史の「れ」の字も理解していない。
国際経済の話をしても、「何、それ?」となる。
美術への造詣もなければ、政治の話もしない。
することと言えば、ギターを片手に、ミュージシャンのまねごとばかり。

 ああ、またグチになってしまった。
ワイフは寝息をたてて眠り始めた。
よかった。

「晃子へ、お前のめんどうは、最期の最期まで、ぼくがみるよ」と。

●欧州・9月危機

 ニューズウィーク誌を読みたいが、この暗闇では、どうしようもない。
明かりは、となりの玄関から漏れてくる光だけ。
それに紙質がちがうのか、ページをめくるたびに、ガサガサと大きな音をたてる。

 かろうじて見出しが読める程度。
が、かえってこのほうが、想像力をかきたてておもしろい。
その記事のひとつに、「欧州・9月危機」というのがある。

 が、だれが考えても、ギリシアのデフォルト(国家破綻)は、すでに既成の事実。
救いようがない。
へたに助ければ、かえってモラル・ハザードが起きてしまう。

それにギリシアだけではない。
スペインやイタリアが、そのうしろで構えている。
ドイツ一国だけで、欧州危機が回避できるとは、だれも考えていない。
今、EUは、EUそのものの崩壊の瀬戸際に立たされている。

●公務員的発想

 そのギリシア。
国民のほとんどが公務員と言ってよいほど、公務員の数が多い。
正確な数字は公表されていないが、60%近くがそうであるという。
何も公務員が悪いというわけではない。
また1人ひとりの公務員に責任があるというわけでもない。

 しかし公務員と呼ばれる人たちは、与えられた範囲での仕事はする。
権限にしがみつく。
そのくせ、少しでも管轄が侵害されると、猛烈にそれに反発する。
失敗しても責任を取らない。
常に責任逃れの口実を考えている。
加えて管轄以外の仕事はしない。
「余計なことをすれば、責任を取らされる」と。

 だから臨機応変に、ものごとに対処できない。
あの3・11大震災のときも、こんなことがあった。
ある小学校でのこと。

●震災悲劇

 地震のあと、児童たちをどこへ避難させるかで、教師たちの判断が二転三転した。
「三角地」と呼ばれる、低地にある平地か、それとも校舎の裏にある山地か、と。
そして子どもを迎えにきた父母には、いちいち名前まで書かせていた。

 結局、三角地と呼ばれる平地に避難することになり、そのとたん、津波に巻き込まれた。
74人の児童のうち、70人が死亡したという。

そのとき、こんな意見も出たという。
「山地に逃げれば、余震で木が倒れ、かえって危険」と。
一瞬の判断ミスが、多くの子どもたちの命を奪ったことになる。
が、地震から津波まで、1時間近い時間があった。
1時間の間、運動場で点呼を取りながら、親たちが迎えに来るのを待った。

 ほかにもいろいろ事情があったのかもしれない。
しかし地震があれば、津波。
津波の心配があるなら、高地へ。
学校の裏に山があるなら、まずそこへ逃げる。
裏山へ逃げれば、全員が助かっていたはず。
運動場で点呼など取っているほうが、おかしい。

 こんなことを書くと、亡くなった子どもをもつ親たちは、いたたまれない気持ちになる
だろう。
その場にいた教師のほとんども亡くなっている。
教師に責任を求めても、死んだ子どもは帰ってこない。
しかし避難マニュアルがどうのこうのと言っているうちに、津波が来てしまった。

 その反対の例もある。
福島第一原発のY所長は、「上」からの命令を無視し、原子炉に海水を注入しつづけた。
結果的に、このY所長の判断が、大惨事から、日本を救った。
が、世間の目は冷たかった。
Y所長のした行為は、独断による越権行為だった、と。
BLOG上でも、その行為について、賛否両論が今でもつづいている。

 が、どうして?
もしあのときY所長が、マニュアル通りの操作をしていたら、管直人前首相が行っている
ように、「東京にだって、人、1人住めなくなっていただろう」。

●ギリシア問題

 今のギリシアも、それに似ている。
国家破綻を前にし、公務員たちはストにストを重ねている。
一時はカンフル剤を注射してもらい、財政健全化に向かうかと思われたが、結局は何も変
わらなかった。
「救いようがない」というのは、そういう意味。 

●介護制度

 介護制度にも、大きな問題がある。
現在の介護制度の中で、恩恵を受けられる人は、必要以上に恩恵を受けられる。
その一方で、恩恵を受けられない人は、常にカヤの外。
特別養護老人ホームへ入るにも、2年待ち、100番待ち……というのが常態化している
(浜松市)。

 一方、巧みに、介護制度を利用している人も多い。
X氏(80歳)もその1人。

 妻も80歳。
日常的に歩くことには、それほど支障はない。
が、どうやってその介護度を取ったかは知らないが、介護度4(5段階中)。
ふつう介護度4というと、寝たきりの状態をいう。

 が、妻は、同時に有料の老人ホームに入居している。
週に2回、自宅に帰ってきている。
その日に、訪問介護があるからである。
恐らく自宅では、寝たきりの様子をして見せているのだろう。
介護士は、掃除、洗濯、料理などをして帰る。

 興味深いのは、訪問介護士が来る日は、夫のほうも家の中に引きこもっているというこ
と。
ふだんは、畑や庭で、いそがしそうに歩き回っている。
さらに驚くことに、妻の送り迎え(有料老人ホームと自宅の間)は、ボランティアの人た
ちがしているということ。
たまにタクシーを使うこともあるが、このタクシー代も、市が負担している。

 そういう老人がいるのを知るにつけ、「うまくやっているなあ」と感心する前に、怒りの
ようなものを、覚えてしまう。
私の母のときは、そういうサービスは、一度も受けられなかった。
2年間で、一度も受けられなかった。

(そろそろ眠くなってきたので、ここで眠る。)

●天竜峡
 
 今日は、駒ケ岳に登った。
ワイフの尻を押しながらの登山となった。
朝、7時30分ごろ、ホテル千畳敷を出発。
戻ってきたのが、10時半ごろだった。
駒ケ岳の頂上までは登れなかったが、中岳の手前にある山小屋まで行くことができた。

 天気に恵まれた。
風も、そよ吹く程度。
快晴。
気温は、20度。
簡単言えば、夢のような世界。
もう少し詩的な表現を……と考えるが、それ以上の言葉が思いつかない。
やはり「夢のような……」が、いちばん合っている。
現実の世界とは、とても思えなかった。

 よかった。
満足。
今は、帰りの列車の中。
飯田で特急に乗り換えるつもりだったが、天竜峡まで。
そこで2時間ほど、過ごすつもり。
どこかの温泉宿で一服し、そこで特急をつかまえる。
それにまだ昼食をとっていない。
何かおいしいものがあれば、よいのだが……。

 こうして私の駒ケ岳への旅は終わる。
来月はあちこちで講演がある。
それを利用して、あちこちの温泉地を巡る。
楽しみ!

 そうそう明日から、『サンクタム』、さらに明後日から、『ロスアンジェルス決戦』が始ま
る。
忙しくなりそう!

●おまけ

 天竜峡では、「龍峡亭」という旅館で、風呂に入らせてもらった。
事情を説明すると、女将が出てきて、「今日は15日です。ご縁の日です。600円でいい
です」と。

 天竜川の川沿いにある、「絶景の宿」(宿の案内書)。
「まだ泊り客は来ていないので……」という理由で、私とワイフの2人だけで入らせても
らった。
プラス、リンゴジュースのサービスつき。

 そのあと駅前まで歩き、私たちはそばを食べた。
4時14分の特急を待った。

 2011年9月15日。
おしまい。

(付記)

駒ヶ岳登山の写真集は……
http://bwmusic.ninja-web.net/
で、ご覧いただけます。


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 

                           

            
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●城之崎にて(by はやし浩司)地元のバス会社、EバスのBツアー旅行記



++++++++++++++++++++

明日は、城之崎に向かう。
「城崎」とも書く。
「城の崎」とも書く。
長いバス旅行。
東名から名神を通り、中国(播但道)を経て、
生野、竹田城へ。
明日の夜は、丸山川温泉に一泊。

城之崎へは、明後日、到着。
楽しみ。+ワクワク。
志賀直哉の「城之崎にて」の城之崎。
高校2年生のころ、私は志賀直哉に夢中になった。
志賀直哉の本を、片っ端から、読んだ。

その城之崎。
何しろ半世紀近くも前のことで、内容は
よく覚えていない。
志賀直哉がどこかの旅館の一室で書いた
エッセーだった。

「……が静寂だった」「……が静寂だった」という、
表現が印象に残っている。
一度は、訪れてみたかった場所。
春に、そこへ行ったオーストラリアの友人がいた。
その友人も、こう言っていた。
「よかった」と。
明後日、その夢がかなう。

「お前は志賀直哉の本を読んだことがあるか」と
聞くと、「ウ〜ン、読んだことがある……」と、
どこか、いいかげんな返事。

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●城之崎(『城の崎にて』志賀直哉

ウィキペディア百科事典には、「城の崎にて」のあらすじが載っていた。
それをそのまま紹介させてもらう。

『東京山手線の電車にはねられ怪我をした「自分」は、後養生に城崎温泉を訪れる。「自分」は一匹の蜂の死骸に、寂しいが静かな死への親しみを感じ、首に串が刺さった鼠が石を投げられ、必死に逃げ惑っている姿を見て死の直前の動騒が恐ろしくなる。そんなある日、何気なく見た小川の石の上にイモリがいた。

驚かそうと投げた石がそのいもりに当って死んでしまう。哀れみを感じると同時に生き物の淋しさを感じている「自分」。これらの動物達の死と生きている自分について考え、生きていることと死んでしまっていること、それは両極ではなかったという感慨を持つ。そして命拾いした「自分」を省みる』(ウィキペディア百科事典より)と。

●志賀直哉

ついでに、志賀直哉について、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある

『「城の崎にて」(きのさきにて)は、志賀直哉の短編小説。1917年(大正6年)5月に白樺派の同人誌『白樺』に発表。
心境小説の代表的な作品とされる。志賀直哉は1910年(明治43年)に『白樺』を創刊し作品を発表しており、実父との対立から広島県尾道に住み、夏目漱石の奨めにより後に『暗夜行路』の原型となる「時任謙作」を執筆していた。
1913年(大正2年)4月には上京していたが、同年8月に里見クと芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰る途中、線路の側を歩いていて山手線の電車に後からはね飛ばされ重傷を負う。

東京病院に暫く入院して助かったが、療養のため城崎温泉(「三木屋」という旅館(現存)に宿泊)を訪れる。その後は松江や京都など各地を点々とし、1914年(大正3年)には結婚する。1917年(大正6年)には「佐々木の場合」「好人物の夫婦」「赤西蠣太の恋」などの作品を発表し、同年10月には実父との和解が成立している。

事故に際した自らの体験から徹底した観察力で生と死の意味を考え執筆され。簡素で無駄のない文体と適切な描写で無類の名文とされている』(ウィキペディア百科事典より)と。

 こうした予備知識をもって旅に出るのは、楽しい。
旅の奥行きが、倍加する。

●8月18日

 志賀直哉と言えば、『暗夜行路』。
読んだはずだが、内容が思い出せない。
もう一度、ウィキペディア百科事典の助けを借りる。
こうある。

『主人公時任謙作(ときとうけんさく)は、放蕩の毎日を送る小説家。あるとき尾道に旅に出た彼は、祖父の妾お栄と結婚したいと望むようになる。そんな折、実は謙作が祖父と母の不義の子であったことを知り苦しむ。ようやく回復し直子という女性と結婚するが直子が従兄と過ちを犯したことで再び苦悩を背負い、鳥取の大山に一人こもる。大自然の中で精神が清められてすべてを許す心境に達し、「暗夜行路」に終止符を打つ』と。

 ナルホド!
思い出した!
そういう話だった。

●8月19日

今回は、ワイフと2人の2人旅。
地元のバス会社が運営する、Bツアーを利用することにした。
ワンランク上の「ゆとりの〜〜」とかいう、コース。
もちろん料金も約2倍の、上級のコース。
座席数が、20%ほど、少ない。

 天気は曇り。
浜名湖を渡るとき、鉛色の低い雲が、重苦しそうに空を覆っていた。
空に広がった雨雲。
新聞の天気予報によれば、関西方面は、雨。
よかった!
このところの猛暑。
猛暑はこりごり。

●520ドル安

昨日(8月19日)、ニューヨークの株式市場が、520ドルも暴落した。
製造業の指標が悪かったこと。
失業保険の申請件数がふえたこと。

 こういうときは、「株」に手を出してはいけない。
プロというより、ロボットが、1000分の1単位で、コンピューター取り引きを繰り返す。
ロボット取り引きともいう。
素人の私たちが入り込むスキはない。
……というか、カモにされるのは、私たち。
統計的にも、95%の個人投資家は、損をすることがわかっている。
こういうふうに、乱高下するときは、さらに危険。

●Bツアーが変わった?

バスが走り出すと、ガイドがこう言った。
遠まわしな言い方だったが、「おしゃべりは静かに」と。
当然のことだが、Bツアーも進化した。
そういう印象をもった。

 この40年間。
当初は、喫煙は自由。
カラオケは定番。
バスに乗ると、まず自己紹介。
それが徐々に少なくなって、つぎに始まったのが、ビデオ上映。
で、最後の残ったのが、「おしゃべり」。
ガッハハハ、ゲラゲラ、ギャーギャー。
そのおしゃべりに、注意が入るようになった。
しかし長い時間だった。

●夫婦喧嘩

 豊橋を過ぎるころ、激しい雨が窓を叩き始めた。
数分間、窓の外が、真っ白になった。
雨を嫌う人も多いが、私は好き。
心が落ち着く。
脳みその働きも、よくなる。

 ……つい数日前、『福井県越前大野への旅』について書いた。
ワイフと喧嘩をし、家出をした。
家出をし、越前大野まで行ってきた。
が、今日は、ワイフといっしょ。
仲直りしたというわけではない。
平常に、戻った。
離婚話は、どこかへ吹き飛んでしまった。

 私たち夫婦は、いつもこのパターンを繰り返している。

●サイクル

 夫婦論というのがある。
はやし浩司流に解釈すると、こうなる。

(安定期)→(不安定期)→(緊張期)→(葛藤期=爆発期)→(冷却期)→(修復期)→(安定期)→……。

 で、今は、冷却期から修復期。
嵐が去り、(少し大げさかな?)、今は、こうしていっしょに、城之崎に来ている。
毎度のことだから、だれも私たちの離婚話を本気にしない。
義兄ですら、「あらあら、ごくろうさま」などと言ったりする。
で、そういうとき、私は、こう訴える。
「今度は、本気です。あんなヤツとは、来週中に離婚します」と。

 が、結果は、このザマ。
長くつづいて、2〜3日。
3日もすると、また元に戻る。
多少のタイムラグはあるが、まずワイフのほうが平常に戻り、つづいて私のほうが謝る。
それでおしまい。

(林夫婦は、どうなるんだろう?、と期待していた人をがっかりさせて、ごめん……。)

●城之崎

城之崎には、午後3時ごろ、着いた。
一見してわかる。
活気がある。
行きかう温泉客。
老若男女、さまざま。
客層が広い。
小さな店まで、本気!
その本気が、がんがんと伝わってくる。

 で、私たちが泊まった旅館は、『銀花』。
郊外の海沿いにあるが、この城之崎でも、超一級旅館だそうだ。

 各部屋の中に温泉がある。
室内のベランダも広い。

いろいろな旅館に泊まったが、ここも文句なしの5つ★の、★★★★★。
「上には上があるものだ」と、感嘆のため息。

●9時からは、花火大会

夜、9時から花火大会があるという。
ちょうど川向こうのホテルの横から打ち上げられるという。
今、その9時を待っているとき。
時刻は、8:57。
あと3分。

 ビデオカメラは、スタンバイ。

●花火は終わった

私たちの泊まっている部屋は、101号室。
部屋の名前は、「直哉」。
志賀直哉の「直哉」。
ワイフは、それを見て、「あなたが特別に頼んだの?」と。
が、私は頼んでない。
偶然。
しかし、どういうわけか、うれしかった。

 旅には、何かの目的があるとよい。
それについては、先に書いた。
が、これは生きる「目的」にも共通する。
たいしたものでなくてもよい。
些細なものでよい。
私たちは、それにしがみついて、生きる。

●事件

ところで今日、ここへ来る途中、バスの中でこんな事件があった。
私が叩くパソコンの音がうるさい、と。
ガイドさんのほうに、苦情が寄せられた。
が、こんな経験は、はじめて。

 もってきたパソコンは、TOSHIBAのMX。
部屋の中で叩いていても、無音と言うわけではないが、静か。
ほとんど音はしない。
またそのときは、パソコンたちあげ、メールを読んでいただけ。
今どき、飛行機の中でも、電車の中でも、パソコンは必需品。
それが「うるさい!」と。
私はすなおに謝罪し、パソコンをカバンの中にしまった。

 苦情を言った人は、70歳前後の老夫婦。
通路をはさんだ反対側の席の人たちだった。
多分、パソコンと携帯端末(携帯電話)の区別もつかない人たちではなかったか。
あるいはパソコンに対して、強度の嫌悪感をもっている(?)。
そういう人は多い。

自分が扱えないから、それを扱う人を、徹底的に毛嫌いする。
パソコンで仕事をしている人を、徹底的に軽蔑してみせる。
そういう人は、あなたの周りにも、1人や2人はいるはず。
60歳以上の人に多い。

 「あんなもの使っている人間に、ロクなのはいない!」と。
簡単にそう決めつけてしまう。
今日バスの中で会った老夫婦も、そんな人たちだったかもしれない。

 サービスエリアで買ってきた、「きんつば」を2個、分け与え、「すみませんでした」
と謝ると、一瞬戸惑ったが、つぎの瞬間には、やさしい笑顔を見せた。

●8月20日

 平凡な朝。
静かな朝。
目覚ましは、朝、6時にセットした。
昨夜は10時ごろ床に入ったので、睡眠時間は8時間。

 窓の外は、内浦湾になっていて、漁船が数隻、右から左へ通り過ぎていった。
「どちらが海なのだろう?」と。
城之崎が左方面にあるから、左方面が海?
よくわからないが、波は静か。
山の間を流れる雲も低く、厚い。

●Bツアー

 Bツアーを利用するのは、1年半ぶり?
それまでは、毎月のように利用していた。
が、最後に、おしゃべりオバちゃんたちと口論をし、すっかり嫌気がさした。

 で、今回も、こう思った。
便利で料金も安いが、やはり私たちには向かない、と。
ワイフがそう判断した。

 バス会社のサービスはよい。
ガイドもよい。
コースも旅館も、よい。
しかし客層がよくない。
昨夜も、会席料理を食べながら、ガハハ・ゲラゲラと、傍若無人に騒いでいるオバちゃんたちがいた。
その声が、部屋の端から端まで聞こえてきた。
廊下を歩いているときも、同じ。
部屋の中まで、その大声が聞こえてきた。
残りの20数人は静かでも、こういうオバちゃんが2〜3人でもいると、旅行も台無し。
 
 「もうやめようね」と私。
「そうね」とワイフ。
 
●城之崎にて

 志賀直哉の『城の崎にて』。
はやし浩司の『城之崎にて』。
今はもう文人の時代ではない。
娯楽も多様化し、無数にある。
志賀直哉の昔には、すべての娯楽が文学に集中した。
文人にとっては、古き良き時代ということになる。

 うらやましいとは思わない。
私が志賀直哉の時代に生きていたとしても、私はただのもの書き。
文に書いたところで、目に留めてくれる人もいなかったことだろう。

●帰宅

 8月20日、午後8時すぎに、浜松へ戻ってきた。
今回も、運の悪いことに、(本当に運の悪いことに)、真うしろの席に、2組の夫婦。
女どうし、2人のおばちゃんたちが陣取った。
ともに70歳くらい。
私たち夫婦は、後ろから2列目の席。

 2度、注意したが、帰ってきたのはイヤミ。
「ア〜ラ、うるさいって注意されたから、いちばんうしろの席にいきますよオ〜」と。
わざとみなに聞こえるような大声で、席を離れていった。
が、それで静かになったわけではない。
耳が不自由なのか、その中の1人が、一方的に大声でしゃべりまくる。
が、相手の声は聞こえないらしい。
相手が何かを言うたびに、「えっ、何?」を繰り返していた。

 ほかのほとんどの客は静かだった。
みな、それぞれの旅を楽しんでいた。
が、今回も、運が悪かった。

 Bツアーへ:

「ゆとりの〜〜」では、6人以上の団体客は申し込みを断っているとか。
たいへんすばらしいことだが、できれば、3人以上にしてはどうか?
そうすれば、ああいう客を排除することができる。

 もっとも、ワイフの意見通り、Bツアーは、しばらくはコリゴリ。
そういう客がいても、ガイドは何も注意しない。
知らぬ顔。
最前列に座っているから、後部座席のことはわからない。

 が、あえて言うなら、つぎの進化を期待して、私はこう要望する。

(1)ポイントガイド……必要なことだけをガイドするというのは、よかった
(2)BGM……うるさいビデオをなくなったのは、よかった
(3)団体客の制限……よかったが、おしゃべりが目的のおばちゃんには、きびしくしてほしい。
(4)時間の取り方……ゆったりとしていて、よかった。

●総括

 学生時代からの念願がかなった。
志賀直哉ゆかりの「城の崎」を自分の目で見ることができた。
ワイフも満足そうだった。

 あのオバちゃんたちが静かだったら、星は4つの、★★★★。
あのオバちゃんたちのおかげで、バスそのものが、拷問室に。
バスを降りたとき、ほっとしたのは、無事着いたからではない。
オバちゃんたちと別れることができたから。

(そうそう、オバちゃんたちのおしゃべりを不愉快に思っているのは、私たちだけではなかった。
一度、私が注意したとき、前の席の人が振り向いて、こう言った。
「ありがとうございます」と。

(しかし、どうしてこの日本では、ああいうオバちゃんたちの話し声だけは、野放しになっているのか?
携帯電話にはうるさい。
しかしオバちゃんたちは、野放し。
おかしい。
日本だけではない。
ああいう日本人が、世界中へ出かけていき、日本人の恥をさらしている!)

 なお運転手とガイドは、たいへん質が高かった。
「ゆとりの〜〜」ということで、選りすぐられた人たちなのだろう。
ともに理知的で、気持ちのよい人たちだった。
それだけに、今回の旅行は、残念!
「バスの中で読書……」と考えていたが、その余裕は、最後までできなかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 城の崎にて 城之崎 城崎 志賀直哉 暗夜行路)


Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●「ぼくは生活保護受けるから、かまへん」(堺屋太一・「週刊現代」2011年9・3)

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雑誌「週刊現代」に、こんな興味ある記事が載っていた。
堺屋太一氏が、対談形式の記事の中で述べている。

『……いまや大阪市では、18人に1人が生活保護を
受けていて、大阪府の教育水準は、全国47都道府県の
中でも、45番目。
なにしろ、中学生で一桁のかけ算、つまり九九ができない
子どもが1割もいるんですね。
そういう子どもに先生が、「しっかり勉強しないと、
おとなになって困るぞ」と言うと、「ぼくは生活保護
受けるからかまへん」と答えるというんです」(P62)と。

堺屋太一氏は、これをさして「倫理的崩壊」という言葉を
使っている。

+++++++++++++++++++++++++

●遊びほける中国人留学生(ヤフー・NEWS)

 一方、こんな記事も目にとまった(2011年8月20日)。
題して「ある在米中国人留学生、送金に苦労の親を尻目に、浪費し遊び回る」。
毎日新聞が、米華字紙より翻訳したものらしい。

++++++++++++以下、ヤフー・NEWSより転載+++++++++++++

2011年7月22日、米華字紙・僑報によると、米国へ留学している若い中国人学生の中には、勉強にまったく身を入れず、親からもらった生活費で毎日遊びほうけているケースもある。 

ロサンゼルスに住むある華人女性の家には、上海から留学のため渡米してきた甥っ子が住んでいるが、一学期が過ぎても成績は低迷したまま。毎月親が銀行に振り込んでくれている4000元(約5万円)の生活費は外食やブランド品、iPhoneなどショッピングですべて遊びに使い果たし、さらにクレジットカードも限度額まで使ってしまっているという。 

両親は商売をしているが順調ではなく、大変な思いをして子どもの学費や生活費を工面しているにもかかわらず、「僕がLAに来たくて来たと思っているの? LAなんて田舎くさくて大したことないじゃないか。上海の方がずっと良い」「両親がむりやり留学させたんだから、お金がかかるのも苦労するのも両親が自分で選んだことでしょう」と、とりつくしまもない状態だという。(翻訳・編集/岡田)

++++++++++++以下、ヤフー・NEWSより転載+++++++++++++

●日本の現状

 中学1年生で、かけ算の九九ができないという話は、すでに20年近くも前の話である(東京都)。

 ここで誤解していけないのは、かけ算の九九といっても、レベルがある。
「ニイチガ2、ニニンガ4……」と暗記するレベル。……レベル1
これなら幼稚園児にもできる。

 つづいてランダムに、「シサン?」と聞かれて、即座に、「12」と答えるレベル。……レベル2
もちろんその意味(4+4+4=4x3)がわかっていての話である。
20年前でさえ、レベル1はできるが、レベル2ができない。
そんな中学1年生で、20%近くもいた(東京都)。

 堺屋太一氏の話によれば、「中学生で一桁のかけ算、つまり九九ができない子どもが1割もいるんですね」ということらしい。
こうした子どもたちが、大学生になっていく。

●2008年7月の原稿より

++++++++++++++++

2008年7月に、つぎのような
原稿を書いた。

この中で、『今では分数の足し算、
引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。
「小学生レベルの問題で、正解率は59%」
(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)」
(※2)だそうだ』というところに注目してほしい。

++++++++++++++++

●公務員志望

 この数年、大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。
なぜそうなのかというところにメスを入れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。
ああ、私だって、この年齢になってはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった!
 死ぬまで就職先と、年金が保証されている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいやというほど、思い知らされている。
だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はいつも失敗する。

 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を支配する時代は終わった。
教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、すべてボロボロ。
何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。
その教育改革にしても、ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。
学校は自由選択制の単位制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体にカリキュラム、指導方針など任せればよい(アメリカ)。
設立も設立条件も自由にすればよい(アメリカ)。
いくらでも見習うべき見本はあるではないか!

 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。
オーストラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしている。
しかし検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検定してはいけないしくみになっている。

世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。
たとえばアメリカでは、大学入学後の学部、学科の変更は自由。まったく自由。
大学の転籍すら自由。
まったく自由。
学科はもちろんのこと、学部のスクラップアンドビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯事。
なのになぜ日本の文部科学省は、そうした自由化には背を向け、自由化をかくも恐れるのか? 
あるいは自分たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにもこわいのか?

 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改革」というよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。
もうすでに日本の教育はにっちもさっちもいかないところにきている。
このままいけば、あと一〇年を待たずして、その教育レベルは、アジアでも最低になる。
あるいはそれ以前にでも、最低になる。小中学校や高校の話ではない。
大学教育が、だ。

 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとんど勉強などしていない。
していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。
その文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部系の学生と、教育学部系の学生である。
このことも、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。
いわんや私立大学の学生をや! そういう学生が、小中学校で補習授業とは!

 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。
「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本の場合、疲弊している!

 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。
もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。
確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。
九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。
日本の教育改革は、三〇年は遅れた。
しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。
そのころ世界はどこまで進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはない」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。
今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。
「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。
世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。
アジアで日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。
北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。
オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。
しかし日本には数えるほどしかいない。
あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘・2008年当時)。

●「うちの子にかぎって……」は、幻想

 ほとんどの親は、こう考える。
「うちの子にかぎって……」と。
しかしこれは幻想。
まったくの幻想。

 子どもというのは、言うなれば、吸湿性の強い吸い取り紙。
社会という「色水」の中に落とされれば、そのままその「色」を吸収していく。
社会の色が「茶色」なのに、自分の子どもだけを「水色」にしようとしても、無駄。
子どもというのは、子どものどうしの影響力のほうを、はるかに強く受ける。
加えてほとんどの中高校生は、「親のようになりたくない」と答えている(内閣府調査)。
今では、『親の恩も遺産次第』。
ほとんどの若者たちは、そう考えている。

 が、不思議なことに、こう書くと、若者たちは、猛烈に反発する。
「私は、ちがう!」と。
つまり、ここに意識のズレが、起こる。

●親への仕送り

 60代、70代の人たちにとって、親への仕送りは、当然だった。
昨日も旅行先で知り合ったKGさん(女性、69歳)は、こう言った。
「私の初任給は3000円でした。うち、1000円を、毎月実家へ送りました」と。

 私もそうしていた。
結婚前から、収入の約50%を実家へ送っていた。
またそれが当時の常識だった。

 が、今は、ちがう。
「就職したら返す」「給料があがったら返す」と言いながら、結婚したとたん、「生活費が足りない!」と。
そういう若者が、猛烈に反発する。
実家へ帰省しても、みやげのひとつすらもってこない。
基本的な部分で、意識そのものがズレている。

●大学生とは名ばかり

 私立の女子大学を卒業した女性(27歳)がいた。
英文科を卒業したという。
で、試しにこう聞いてみた。
「SVOOの構文を、SVOの構文になおすには、どうしたらいいの?」と。
それに答えて、その女性は、こう答えた。
「何、それ?」と。

 少し勉強家の中学生なら知っていることでも、大学の英文科を出た社会人が知らない。
もっとも今では、大学の英文科といっても、名ばかり。
高校生が使うより簡単なテキストを使い、あとは遊びほけている。

●日本の現状

 いったい、政治家にせよ、一般社会にせよ、それに親たちにせよ、こういう現実を、どこまで知っているのか?
教育は、もうボロボロ!
倫理観そのものが、崩壊している!

 で、堺屋太一氏の話は例外であると信じたいが、ひとつ気になることがある。
『18人に1人が生活保護を受けている』という部分。

 18世帯に1世帯という意味なのか。
それとも18人に1人という意味なのか。
もし「18人に1人」ということになると、夫婦+子ども合わせての4人家族とするなら、「4世帯で1世帯」という計算になってしまう。

 本当だろうか?

 そこで調べてみると、「生活保護率」は、大阪府のばあい、25・7(1/1000)(2007年度)ということがわかった(総務省統計局)。
これを100分率荷換算すると、2・57%ということになる。
注に「 都道府県別の生活保護率(ここでは世帯の比率でなく、保護人員の人口千人当たりの比率)を図示した」とあるから、世帯率ではなく、1000人当たりの比率ということになる。

 2・57%といえば、100人につき、約3人。
逆に言えば、「33人に1人」となる。
が、現在、さらに不況の嵐ははげしくなっている。
やはり堺屋太一氏が指摘するように、「18人に1人」というのは、そのまま「18人に1人」ということになるのか。

 もしそれぞれに家族がいるなら、「18世帯に1世帯」となる。
(もちろん家族がいない人も多いが……。)
どうであるにせよ、今、この日本は、ここまで貧しくなっている!

●落ちるところまで落ちる

 折しも、日本は大不況下。
大恐慌はすでに始まった。
この先、この日本は、お先真っ暗。
やがて日本人が、外国へ出稼ぎに行かねばならなくなる。
10年どころか、5年を待たずして、そうなる。
推測ではない。
数字の上で、そうならざるをえない運命にある。

 そうなったとき、今の若者たちは、どうするのだろう。
それでも親のスネをかじりつづけるつもりなのだろうか。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。
あるいは「こんな日本にしたのは、テメエだろう!」と言うかもしれない。

 先に書いたKGさんもこう言った。
横に夫がいて、その夫もこう言った。
「日本も落ちるところまで、一度、落ちるしかないでしょうね」と。

 実のところ、私自身も、そう考え始めている。
落ちるところまで落ち、自分で気がつくしかない、と。
とても悲観的な見方だが、それが今の教育の現状ということになる。


(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判した意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようがない。同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。

反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、もはや幻想でしかない。

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(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったという。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学力 日本の子どもの学力 子供の学力 英語力 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教育の自由化 ゆとり教育 ゆとり教育の弊害 逆行する日本の教育 自信をなくす日本の若者たち 生活保護 はやし浩司 生活保護世帯 はやし浩司 分数の計算 かけ算の九九 掛け算の九九 学力低下 日本の現状)2011/08/21記



                           

            
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【金沢から、羽咋(はくい)へ】




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休暇も残り、2日。
昨日になって、ワイフが、突然、UFOを見たいと言った。
UFO?

能登半島に羽咋市(はくいし)という町がある。
そこに「UFO会館」(正式名称は「宇宙科学博物館」)がある。
「羽咋へ行こうか?」と声をかけると、「うん」と。
そこで今日は、名古屋発、金沢行きのバスに乗り込んだ。

午前8時30分発。
昔は「名金線」と言った。
学生時代、よく利用させてもらった。
途中、いくつかの観光地を、そのまま通る。……通った。
料金も安かった。
当時は、名古屋から金沢まで、8〜9時間もかかった。
今は、4時間!
往復2人分で、料金は今も、1万1000円。
(片道、1名、2750円!)
JRの約半額。

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●UFO

 UFO会館といっても、あまり期待していない。
期待していないが、期待している?
一応、羽咋市はUFOの出没地ということになっているらしい。
昔からそういう伝説が残っている。
アダムスキー型UFOを思わせる鐘も、そのひとつ。
鐘は鐘だが、つまり音の出る鐘だが、アダムスキー型UFOにそっくり。

楽しみ……が、やはり過剰期待は禁物。
この種の博物館は、いつもたいてい期待はずれ。
わかっているが、要するに、道中を楽しめばよい。
あとは、食事。

 ホテルは確保したが、夕食はなし。
どこかで何かを食べよう。
できれば蟹料理。
少しぜいたくかな?

●一貫性

 UFOは超常現象ではない。
心霊現象とは一線を画す。
「科学」である。
またそういうレベルで論じられるべき。

 ……これについてはもう、何度も書いてきた。
その理由の第一。
論理的な一貫性がある。
デタラメなインチキ報告は別として、UFO問題を掘り下げて検討していくと、そこに一貫性が見えてくる。
つまり論理性に矛盾がない。

 ワイフと私は、一度、巨大なUFOを目撃している。
そういう経験も下地になっている。

●ジジ臭い

 「死ぬまでに……」という言い方は、それ自体、ジジ臭い。
よくわかっている。
しかしこのところ、何かにつけ、そう考えることが、多くなった。
羽咋のUFO会館も、そのひとつ。
ならば、日本を飛び出したら……という意見もある。
たとえばアメリカのロズウェル。
1947年、アメリカのロズウェルに、UFOが墜落している。
そのロズウェル。

が、私は大の飛行機嫌い。
29歳のとき飛行機事故に遭遇してから、そうなってしまった。
それまでは、毎週のように飛行機に乗っていたが……。

 特別な理由でもないかぎり、飛行機には乗らない。
その点、UFOは、やや力不足。
ロズウェルへ行ったからといって、UFOを必ず見られるというわけではない。
アメリカ政府が、痕跡の「コ」の字も残らないほど、証拠類をすでに始末してしまったという。

 ともかくも、私たちは、あの夜見たものが何であるか、それを死ぬまでに知りたい。
そのためにも羽咋へ行くことにした。
 
●アクセス数

 昨日、夕方近く、BLOGをUPした。
で、今朝、アクセス数を見たら、いつも倍以上もあった。
夕方にUPしたことを考えるなら、いつもの4倍以上ということになる。
件数でいえば、合計で、5000〜6000件!
驚いた。
昨日、『ボロボロの日本の教育』というテーマで原稿を書いた。
まさにボロボロ。
日本の教育は、落ちるところまで落ちた。
それについて書いた。
つまりそれだけ多くの人たちが、日本の教育に、危機感をもっている人が多いことを示す。

 たしかに「?」。
それだけではない。
本末が転倒している。
平等なら、まだ納得できる。
が、今は、祖父母や親が、孫や子どもに向かって、「ごめん」「ごめん」と謝る時代。
祖父母や親が、「ごめん」「ごめん」と謝りながら、孫や子どもを育てている。

 そう、昔は親が、子どもを勘当した。
親にも、まだ力があった。
それが逆転した。
今は、息子や娘のほうが、親に向かって縁を切る。
「2、30年たったら、お前を許してやる!」と。
(この先、2、30年も生きている親はいない!)

●経済

 もう少ししたら、ネットで経済ニュースを拾うことができる。
今週(8月22日・月曜日)は、どうなるか。
世界不況は、深刻度を増している。
この日本についても、異常な円高がつづいている。

 先週末の流れを引き継ぐとすれば、今週も、大波乱。
よい材料は、何もない。
このつづきは、もう少しあとに書く。

●JR東海バス

 ワイフは目を閉じ、眠り始めた。
景色と言っても、見えるのは高速道路の壁だけ。
快適にはなったが、何か、もの足りない。

 バスのシートカバーには、「JR東海バス」と書いてある。
最後尾には、トイレもある。
座席の幅も広い。
左右に10列。
定員は、40名。
乗っている客は、私たち夫婦も含めて、19人。
「空いている席は、ご自由にお使いください」と、
発車する前、運転手がそう言った。

●夏休み

 この夏休みには、3度、旅行したことになる。

(1)越前大野、
(2)城之崎温泉、
(3)そして今回の石川県・羽咋。

 オーストラリアとか上海も考えたが、飛行機嫌いを乗り越えるだけのパワーを感じなかった。
来年3月には、友人の娘が結婚することになっているので、オーストラリアへ行くことになっている。
小さいときから、私を慕ってくれた。
ずば抜けて美しい女性で、それに理知的。
現在は、メルボルン市内のペンギンブックスで、編集長をしている。
世界中を飛び回っている。

 今のところ、飛行機に乗る予定は、それだけ。

●ルート

 目の前に高い山が迫ってきた。
犬山から多治見のほうへ抜けるらしい。
この時期、森の木々は濃さをぐんとます。
緑というよりは黒に近い。
濃緑色。
そこに雲間から漏れる日差しが、美しいまだら模様を作る。

 雲が、さらに一段、低くなってきた。
流れる雲だけを見ていると、まるで飛行機の窓から外を見ているよう。
それをながめながら、しばし、時のたつのを忘れる。

 ……いや、ちがう。
ルートがちがう。
私は、昔の名金線のように、本州を縦に縦断して金沢へ向かうものとばかり思っていた。
が、実際には、名古屋→米原→敦賀→福井→金沢と、列車路線と同じルートをたどっている。

 知らなかった!

●経済2

 先ほどネットで、いくつかのニュースをたどってみた。
そのひとつ、北海道でも地震があったとか。
つぎは浜松と思っていたが、北海道。

 それと金(ゴールド)とプラチナが、さらに高騰中。
プラチナがグラム5000円、金が4891円。
株価は様子見。
行き場を失った大量の資金が、右往左往している。
私には、そう見える。

●自由

 バスは福井県に入った……らしい。
快適。
地元バス会社の主宰するB・ツアーより、はるかに快適。
おしゃべりなオバちゃんたちもいない。
うるさいガイドもいない。
席は、ガラガラ。

 ワイフは先ほどまで、何かの本を読んでいた。
私は1時間ほど、眠った。
旅にも、いろいろな仕方がある。
が、こういう方法が、私たち夫婦には、いちばん合っている。

 わざとシーズンをはずし、バスか電車で移動する。
宿は、ネットで選ぶ。
目的地は、1つでじゅうぶん。
それでも料金は、B・ツアーの半額程度。
 
 が、本当のところ、料金が問題ではない。
自分で旅をしているという、その満足感が楽しい。
まさに学生気分!

●片山津

 またまた眠くなってきた。
バスのエンジン音が、静かに床の下から響いてくる。
時折座席が、小刻みにゴトゴトと揺れる。
うしろのほうで咳をする人以外、客の気配すらない。

 ……バスは、もうすぐ「尼御前」に到着するという。
たった今、そんなアナウンスが流れた。
「尼御前(あまごぜん)」。
何とも風流な地名ではないか。

 ……ということで、目下、思考力はゼロ。
そこに何か書きたいことがあるはずなのに、それが脳みその中に湧いてこない
あえて言うなら、今度買う、新型パソコン。
10月の誕生日には、手に入れたい。
CPUは、3・40GHz以上。
3・60GHzというのも、ある。

 ……ワイフが「あっ、海だ!」と言った。
見ると左手に海が広がっていた。
日本海。
その横に、「片山津」という書いた標識が見えた。

●F15

 左手から、見慣れないジェット戦闘機が舞い上がってきた。
F15、トムキャットである。
浜松上空を飛び交う、あの練習機とは迫力がちがう。
ゴーというすさまじい轟音が、バスの中まで聞こえてきた。

 ここは日本の防衛、最前線。
その少しあと、バスは、「北陸小牧」というところで、停まった。
客は、だれも乗らなかった。

●出かける勇気

 外に出る。
人に会う。
旅先で、それまで知らなかった世界を見る。

 脳みその活性化、つまりボケ防止のためには、たいへん重要である。
家でゴロゴロしていたいという気持ちもないわけではない。
が、それではいけない。
そこで「出かける勇気」。
少し前、旅先で出会った人が、そんな言葉を教えてくれた。

 それに似ているが、最近、私は、よくこんなことを考える。

 たとえば朝、ふとんの中で目を覚ます。
起き上がるには、まだ少し早い。
が、それでも起き上がる。
「そのまま横になっているのも、30分。
しかしウォーキングマシンの上で、歩くのも、30分」と。

 そのとき心のどこかで、ふと、「起き上がる勇気」という言葉を考える。
勇気を出して、起き上がる。
ほかにもいろいろある。

 書店へ行く。
そのときも、その本を買うかどうかで、迷う。
が、こう言って自分に言い聞かせる。
「買う勇気」と。

●叩きつぶす

 つまり人間は、基本的には、怠け者。
恐らく人間は猿の時代だったころから、そうではなかったか。
木の上で、餌を食べるだけの人生。
あとは終日、ひたすら昼寝。
だから人間になった今も、楽をすることしか、考えない。
「極楽」の「楽」が、それを表している。

 だから「出かける勇気」というのは、そういう怠け心と闘う勇気ということになる。
とくに私のような、どこか対人恐怖症ぽく、かつ回避性障害ぽい人間にとっては、そうだ。
思い切って旅に出る。
そういう怠け心を叩きつぶす。

むずかしい話はさておき、そのつど、怠け心と闘う。
それが勇気。

●片町(金沢)

 あっという間の4時間だった。
「次は片町」と表示された。
金沢市イチの繁華街。
学生時代は、よく遊んだ。
が、風景は一変した。
学生時代の面影は、どこにもない。
近代的なビルにしゃれた店。

 が、感動がないわけではない。
ほんの少しだが、心が躍るのを感じた。
この町には4年間の思い出がしみこんでいる。
バスは、もうすぐ、犀川を渡るはず。
それを身をやや硬くして待つ。

 ハロー、金沢。
犀川だけは、学生時代のままだった。

●金沢

 金沢は、その昔は、学生の町だった。
どこへ行っても、学生がいた。
目だった。
私もその金沢の金沢大学の学生だった。
あの金沢城址にあった学舎で、4年間を過ごした。
が、今は、金沢大学もそこを追い出され、角間というところに移転した。
どこにでもある新制大学のひとつになってしまった。
当然のことながら、レベルも落ちた(失礼!)。

 私たちは、それを天下の愚策という。

 当時、たまたまNHKの大河ドラマで、前田利家がテーマになった。
それだけではないが、金沢城址を、金沢市は観光地にしようとした。
そのために金沢大学を、金沢城址から追い出した。
が、これは世界の常識ではない。

 世界の大都市は、市の中心部に最高学府を置く。
「知」の府を置く。
私が学んだ、メルボルン大学を例にあげるまでもない。
それがその市の誇りでもあり、シンボルにもなっている。
その学府が、町全体の知的文化を引き上げる。

札束も印刷物なら、書本も印刷物。
金沢市は、札束を選び、書本を捨てた。
その結果が、今。

 金沢市は、観光都市として、「知」を捨て、俗化した。

……私が浜松市に移り住んだとき、私はその文化性のなさに驚いた。
浜松市は、工業都市。
20年ほど前から、「音楽の町」として売り出しているが、もともとは「楽器の町」。
「音楽」と「楽器」とでは、「文学」と「印刷機」ほどのちがいがある。

 その浜松に住んで、40年。
今度は金沢に来てみると、その浜松とそれほど違わないのに、驚く。
逆の立場で驚く。
あれほど強く感じた「差」は、もうない。
浜松が文化都市になったとは思えない。
つまりその分だけ、金沢は、俗化した。

 で、肝心の観光収入は、ふえたのか?
答えは、「NO!」。
同窓生の中には、金沢市役所に勤めたのもいる。
石川県庁に入ったのもいる。
みな、今になってこう言っている。

 「まったくの失敗だった」と。

●サンダーバード13号(金沢、13:03発)

 金沢からはサンダーバード13号(特急)で、羽咋まで。
「サンダーバード」という名前がよい。
なつかしい。
が、どう考えても、北陸を走る列車らしくない。
「犀星13号」とか「犀川13号」とか。
そういう名前のほうが風情があって、よい。
どうでもよいことだが……。

 羽咋までは、40分。
学生時代には、法律相談所の所員として、毎月のように通った。
「所員」というと大げさに聞こえるかもしれないが、要するにインターンのようなもの。
大学の教授といっしょに通った。
行けば何かを思い出すだろうが、写真が何枚か、残っているだけ。
会場となったのは、どこかの神社の事務所。
その2階。
残っている写真は、その神社の前で撮ったもの。

 羽咋出身の友人もいたはず。
SH君という名前ではなかったか。

●学生時代

 金沢での学生時代は、そのあとのメルボルン大学での学生時代の陰に隠れて、記憶の中ではかすんでしまっている。
メルボルン大学での学生生活が、それほどまでに強烈だったということか。
が、こうも考える。

 もしあのまま、まじめに(?)、金沢大学を卒業し、商社マンになっていたら、私はどうなっていただろうか、と。
2年ほど前、同窓会に出たとき、「伊藤忠商事を定年まで勤めまして……」と言った友人がいた。
いっしょに入社試験に行ったことのある仲間だった。
その仲間を見ながら、私はこう思った。
「私も、ああなっていただろうな」と。

一社懸命の企業戦士。
バリバリ働いて、定年退職。
が、いくら想像力を働かせても、それ以上のことが頭に浮かんでこない。

●私は、ただのバカだった

 「今」が、つねに「結果」であるとするなら、では、金沢での4年間は、何だったのかということになる。
それはちょうどボケた老人を見るときの自分に似ている。
そんな人にも、それぞれ、自分の過去があったはず。
が、ボケると、そういう過去が、どこかへ吹き飛んでしまう。
積み重ねてきたはずの、人生の年輪が消えてしまう。

 今の私にしても、そうだ。
学生時代の私は、たしかにバカだった。
しかも、ただのバカ。
が、今の私が、そのバカから抜け出たかというと、それはない。
むしろさらにバカになったのかもしれない。
ボケ老人、一歩手前。

 となると、「金沢での4年間は、何だったのか」ということになる。
就職のための、一里塚?
そう考えることはさみしいことだが、私にかぎらず、当時の学生はみな、そう考えていた。
私たちはいつも、何かに追い立てられて生きていた。
あの4年間にしても、そうだ。
「大学へ入るのは、その先の就職のため」と。
そういう私が、「私」をつかんだのは、ほかならない、メルボルンでのことだった。

●「もう、いやだ!」

 私はあのメルボルンという町で、生まれてはじめて「自由」というものを知った。
本物の、自由だ。
だからこそ、三井物産という会社を、迷うこともなく、やめることができた。
「もう、いやだ!」と。

 あの会社では、純利益が半年ごとに、成績表のように発表される。
それでその社員の「力」が評価される。
それを知ったとき、私は、「もう、いやだ!」と。

 が、もしあのままメルボルンを知らないで、日本の会社に入っていたとしたら……。
その仲間には悪いが、心底、ゾーッとする。
私はその意識もないまま、一度しかない人生を、棒に振っていた。

●宝達(ほうだつ) 

 列車は、すれちがい列車を待つため、宝達(ほうだつ)という駅に停まった。
5分の停車という。
さびれた田舎町(失礼!)。
少し心配になってきた。
「羽咋市はだいじょうぶだろうか?」と。
この40年間で、それなりに発展していることを願うばかり……。

 レストランもないような田舎町だったら、どうしよう?
先ほどワイフに、「和倉温泉にすればよかった」と言った。
和倉温泉へは、何度か泊まったことがある。
やはり法律相談所の所員として、その町へ行ったときのことだった。
ほかに、能登、珠洲(すず)、富来(とぎ)などなど。
能登半島で、行かなかったところはない。
夏休みになるたびに、巡回相談というので、各地に一泊ずつしながら、能登を一周した。

 ……が、言うなれば、六法全書がすべての、血も涙もない、冷酷な相談員。
事務的に相談を受け、事務的に相談に答えていた。
今から思うと、そんな感じがする。

●書生さん

 しかし能登はよい。
ほかの地方にはない、独特の風情がある。
その昔は、人も通わない、陸のへき地。
孤島。
金沢から富山方面へ行く人はいたかもしれない。
しかし能登まで回る人はいなかった。

 だから私のようなしがない学生でも、、能登を旅すると、土地の人たちは、学生のことを、畏敬の念をこめて、「書生さん」と呼んでくれた。
そんなぬくもりが、この能登には残っている。

●コスモアイル羽咋(UFO会館)

 羽咋へ着くと、すぐ、「コスモアイル羽咋」(UFO会館)へ。
「コスモアイル?」。
「Cosmo Isle(宇宙の島)」のこと?
ネーミングが悪い。
これでは記憶に残らない。
観光客も集められない。
やはりズバリ、「UFO会館」のほうが、よいのでは?

 が、中は、かなり見ごたえがあった。
宇宙船の展示物も立派。
すばらしい。
本気度を随所に感じた。
が、肝心のUFO影が、薄い?

また3階では、プラネタリウム風の簡単な映画を見せてくれたが、こちらはガッカリ。
つまらないギリシャ神話と、ハップル望遠鏡の紹介だけ。
が、全体としては、もしあなたがUFOファンなら、一度は訪れてみる価値はある。
(日本には、ここ以外に、それらしい場所ないこともあるが……。
あの矢追純一氏が、名誉館長にもなっている。)

 で、今日の宿泊ホテルは、「渚ガーデンホテル」。
昨夜急に予約を入れた。
それもあって、食事の用意はできないとのこと。

 で、駅前のタクシー運転手に聞くと、「ぼうぼう」という店を勧めてくれた。
「ぼうぼう」というのは、「魚」のこと。
「このあたりでは、魚一般のことを、ぼうぼうと言います」と、店の女将が教えてくれた。

 その「ぼうぼう」で、夕食。
サシミの盛り合わせ、天ぷらの盛り合わせ、それと「のど黒」という魚の焼き物。
鯛の頭の入った味噌汁、ごはん、生ビール……。
しめて4300円。
安い!
プラス、おいしかった。
「さすが本場!」と、ワイフも大満足。

 ありがとう、「ぼうぼう様」。

●矢追純一氏

 矢追純一氏のような有名人にもなると、「私もつきあったことがある」と、名乗り出る人は、多い。
私もその1人かもしれない。
もちろん矢追氏のほうは、私のことなど忘れてしまっているだろう。
しかしこう書けば、思い出してもらえるかもしれない。

 浜松で、針麻酔をしていたG先生のところで何度か会った。
東京のホテル・ニューオオタニでも、何度か会った。
UFOを目撃したと電話で伝えたとき、写真を20〜30枚送ってくれた。
オーストラリア製の紙巻タバコを送ると、お返しにと、日本テレビのロゴの入ったガスライターを送ってくれた、などなど。

 ほかに覚えているのは、ある事件に巻き込まれ、矢追氏がニューヨークへ逃げていったときのこと。
電話で、「ものすごい人を見つけた」と、ニューヨークから連絡をくれた。
その「ものすごい人」というのが、あのユリ・ゲラーだった。
当時はUFOディレクターというよりは、超能力ディレクターだった(「11PM」)。

 一度会いたいと思っているが、私のことなど、忘れてしまっているだろう。
当時は、私も矢追氏も、若かった!
あの長いトレンチコートが、どういうわけか強く印象に残っている。
あの矢追氏が、この世界で、これほどまでの人になるとは、私は夢にも思っていなかった。

●三日月型

 ところで「UFO」と言われる乗り物(?)のもつ多様性には驚く。
まさに、何でもござれ。
形も、さまざま。
人間の乗り物と言えば、自動車。
飛行機。
最大公約数的に、その「形」をまとめることができる。
が、UFOについていえば、それができない。

 館内でもらったパンフによれば、「UFOの基本的な形は、大きく分けると12種類に分けられるそうです」とある。
ワイフと私が目撃したのは、その中でも、「三日月型」ということになる。
つまりブーメラン型。
飛行パターンも紹介されているが、同じパンフによれば、18種類もあるとか。
要するに飛び方もメチャメチャということ。

 では、その正体は、何か?
やはり同じパンフによれば、

(1)軍事兵器説
(2)自然現象説(プラズマ説)
(3)エイリアン・クラフト説(宇宙人の乗り物説)
(4)未知の生物説の、4つがあるという。

 興味は尽きない。

●渚ガーデンホテル(羽咋市)

 千里浜(ちりはま)をドライブしたあと、ホテルに入った。
朝食のみで、9600円(2人分)。
どこかレトロ調の、静かで落ち着いたホテル。

 ワイフは、しばらく何やらしていたが、今は、ベッドの上で眠っている。
まだ外は薄明るい。
たそがれ時。

 あとで近くの温泉に行くことになっているが、多分、行かないだろう。
私は本を読んだり、パソコンを叩いたりしているほうが楽しい。
こうして自分の「時」を過ごす。

●事故

 話がバラバラになり、まとまらない。
テーマというか、焦点が定まらない。
ときどきメールをのぞいたり、ネットであちこちのサイトを読んだりしている。
が、どれもどれ。
それについて書きたいときには、ビリビリと電気ショックのようなものを感ずる。
が、今は、それがない。

穏やか。
平和。
満腹状態。

軽い睡魔を感ずるが、同時に軽い頭痛もある。
今日は、昼寝をしていない。
そのせい?
で、ここ千里浜(ちりはま)には、こんな思い出がある。

 下宿の先輩とドライブをしていて、事故に遭った。
車ごと横転した。
記憶の中では、3転ほどしたと思う。
空中で自分の体がクルクルと回っているのを覚えている。

 そのことを先ほどタクシーの運転手に話すと、こう説明してくれた。
「波が、ときどき段差を作ってね。その段差にタイヤが取られると、横転することもあるよ」と。
私が大学2年生のときのこと。
先輩は、3年生だった。
先輩は、それで背骨を折った。
私は不思議なことに、まったくの無傷だった。

●旅行

 今回の夏休みでは、1日おきに、3つの旅行をした。
3泊4日の旅行を、3つに分けたということになる。
それぞれの旅行には、それぞれの性格がある。

 福井県の越前大野へ行ったときには、「私は一人ぼっち」ということを、強く思い知らされた。
兵庫県の城之崎へ行ったときには、昔の自分に会えたような懐かしさを覚えた。
また今回、この羽咋へ来たときには、「来た」というよりは、「古巣へ戻ってきた」という感覚にとらわれた。

タクシーに乗っているとき、たまたま「富来行き」というバスとすれちがった。
私が何気なく、「ここから富来(とぎ)へも行けるのですか?」と聞くと、タクシーの運転手は、驚いてこう言った。
「富来(とぎ)という読み方を知っていたお客さんは、はじめてです」と。

 能登半島という半島は、私にとっては、そういう半島である。

●仕事

 明後日から、仕事が始まる。
「がんばろう」という気持ちと、「だいじょうぶかな」という気持ち。
この2つの気持ちが、複雑に交錯する。

体力的には何とかなる。
しかしこの大不況。
そのうちジワジワと、その影響も出てくるはず。
今年度(2012年の3月まで)は、何とかなるだろう。
しかしその先が読めない。

 で、ワイフは、ああいうのんきな性格だから、いつもこう言っている。
「つぶれたら、オーストラリアへでも行きましょうよ」と。

 どこか私の教室がつぶれるのを、楽しみにしている様子(?)。
こう言うときもある。
「今まで、一度もつまずくこともなく、ここまでやってきたのだから、感謝しなくちゃあ」と。
つまり「もうじゅうぶん仕事をしてきた。いつやめてもいい」と。
あるいは「あなたも定年退職したら?」と。

 が、今の私には、仕事が生きがいになっている。
その生きがいを、自ら捨てるわけにはいかない。
私としては、死ぬ直前まで、仕事をしていたい。
できればピンコロという死に方をしたい。
オーストラリアへも行きたいが、「行って何をする?」と考えたとたん、意欲が、スーッと萎えていく。

 ともかくも、こうして私の夏休みは、終わる。
が、まだあきらめたわけではない。
「明日の夜も、どこかの温泉へ行こうか」と声をかけると、ワイフは、「明日も〜?」と。
気の進まない返事が、返ってきた。

 ……こうして旅行ができるのも、今のうち。
よくて、ここ数年。
今は、あきるほど、あちこちを旅行しておきたい。

●8月23日

 朝、6時、起床。
昨夜はほかにすることもなく、午後10時に就寝。
8時間、眠ったことになる。
一度、トイレに起きたが、それだけ。

 ……ということで、今朝は、気分、爽快。
脳みその働きも、まあまあ。
こうしてパソコンのキーボードを叩く指も、軽やか。
よかった!
やっと調子が戻ってきた。

●小雨

 羽咋の朝は、小雨で始まった。
食事は8時から。
10時ごろの電車に乗り、金沢へ。
金沢からバスで名古屋へ。
ほぼノンストップ。
所要時間は、4時間。
新幹線と特急を乗り継ぐよりは、時間はかかる。
しかし料金は、半額。
急ぐ旅でなければ、高速バスのほうが、楽。

 「ホテルから羽咋駅までは、タクシーだな」と、今、ふと、そんなことを考えた。

●窓の外

 ホテルといっても、ビジネスホテル?
高級なビジネスホテルといった感じ。
(フロントで聞いたら、ゴルフクラブのクラブハウスだったとのこと。)
畑の中に、ポツンと建っている。
目の下には荒れた土地。
その向こうには、畑がつづいている。
一軒だけ家があるが、ごくふつうの民家。

 右の方角に千里浜があるはずだが、ここからは見えない。
昨日は遠くに低い山々が見えたが、今朝は、白い雲に覆われ、それも見えない。
窓をいっぱいに開けた。
夏というのに、涼しい風が、サーッと吹き込んできた。
午後からは、また猛暑に逆戻りするという。
書き忘れたが、昨日は、全国的に、10月下旬の季節だったという。
それを聞いて、「10月って、こうなんだ」と。

 そこで私とワイフの結論。

(1)シーズンオフを選ぶ
(2)客の少ない旅館(ホテル)を選ぶ
(3)ほどほどの距離のところにある名所を選ぶ

 秋になれば、旅行シーズン。
楽しみが待っている。

●羽咋から金沢へ

 ホテルから駅までは歩いた。
途中、郵便局で金沢の友人にハガキを出す。
涼しい小雨。
ワイフが傘をさした。
私も傘をさした。
ちょうど40分ほどで、JR羽咋駅に。

 9時26分発の金沢行き。
鈍行列車。
席はすいていた。

 パソコンを開くと、まずメールを読む。
つづいてニュース。
このところまず気になるのが、浜松。
「浜松はだいじょうぶか?」と。
地震が近い。
それが気になる。

●失われた20年

 こういう地方へ来てみると、「失われた20年」の意味が、よくわかる。
この40年を2つに分ける。
最初の20年、この日本は、怒涛のごとく変化した。
しかしつぎの20年、この日本は、そこで時間を止めたまま。

 この鈍行列車にしても、あちこちがサビだらけ。
窓ガラスは汚れたまま、白く曇っている。
が、何よりも動きを止めたのが、「人」。

 今も、通路をはさんだ反対側の席に、2人の女性が何やら大声で話しこんでいる。
片足は座席にあげたまま。
一方はスカートを、大きくめくりあげている。

1人は、50歳前。
もう1人は、60歳前後。
まさに「女」を忘れたオバちゃんたち。
品格も風格もない。
日本人というよりは、土着原住民。
能登の土着原住民。

 どうして女性は、ああなるのか?
ああいう人たちにも、若くて美しいときがあったはず。
しかし長い年月をかけて、ああなる。
どうして?

 ……日本がかつて懸命に追い求めた「繁栄」とは何だったのか。
あるいは物欲の追求にすぎなかったのか。
その結果、つまりそれが終わったとき、残ったのは、物欲だけ。
この20年で、その物欲だけが、皮をはがれて表に出てきた。
こういうオバちゃんたちの横姿を見ていると、そんな感じがする。

●石川県

 電車はのどかな田園地帯を走る。
ひとつちがうのは、墓が目立つこと。
一駅ごとに、墓地があり、線路沿いに墓が見え隠れする。
あとは雑然とした街並みと、雑草。
道路沿いも、線路沿いも、雑草だらけ。
ちょっとした空き地でも、夏草が生い茂り、荒れ放題になっている。
数年前、石川県庁に勤める友人が、こう言った。
「石川県は、貧しいがや」と。

 その貧しさが、ここ10年で、いっそうひどくなった?
そんな印象をもった。
(まちがっていたら、ごめん!) 

●総括

 ……ということで、昨日は、ここ石川県羽咋市までやってきた。
ことUFOについて言えば、新しい発見は、なかった。
古代史とUFOの関係、古代文明とUFOの関係、さらには、彼らはいつから、何の目的をもって、この地球へやってきたのか……。
たとえばシュメール文明、仰韶(ヤンシャオ)文明との関係など。
そういうところまで、踏み込んで展示すると、奥行きも倍加するのでは?

 宇宙船(UFOではない)の展示物が8〜9割。
UFOに関していえば、2、3の展示物と、あとはパネル写真だけ。
このあたりが、私たちがもっている常識の割合と考えてよい。
UFOオンリーとなると、カルト化(=狂信化)する危険性がある。
やはりUFOについては、ほどほどのところで、ほどほどのロマンを楽しむのがよい。
深入りは禁物。

その点、矢追純一氏は、頭がよい。
団体や組織とは、一線を引いている。

 今回の旅行を総括すると、そういうことになる。

●もうすぐ豊橋

 名古屋からは、名鉄電車に乗り換えた。
特急、豊橋行き。
疲れを感じない、楽しい旅だった。
書いた原稿は、23ページ(40字x36行)。
まあまあの成果。

 パナソニック社製のレッツ・ノートがほしい!
TOSHIBAのMXでは、やや力不足。
バッテリーチェックを見ると、「21%で、1時間39分」と表示された。
つまりバッテリーの残量は、21%。
残り、1時間39分。
実際には、あと30分もすると、警告表示が現れる。

 ……私の脳みそについて言うなら、「20%、7年」かな?
あと7、8年もしたら、使い物にならなくなる?
そんな感じがする。

(はやし浩司 羽咋 宇宙科学博物館 コスモアイル 矢追純一 UFO 能登への旅 はやし浩司 石川県 羽咋市 渚ガーデンホテル 羽咋市 割烹 ぼうぼう はやし浩司 ぼうぼう 羽咋 魚料理 ぼうぼう)


                           

            
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誠司


誠司の夢(2007−12−28、息子のBLOGより)

大人になったら、何になりたい? 


家の誠司に「大人になったら、何になりたい?」ときくと、いつもとんでもない返事が返ってくる。最近聞いた「???」な返答のランキング。

第三位、ダディーマン。


僕のことを少し前まで、ダディーマン(お父さん男)って呼んでいたのだけど、それになりたいということらしい。


第二位、イーサンの彼女。


プリスクールで同じクラスの親友のイーサンっていう男の子がいるのだけど、彼の「彼女」になりたいのだそうだ・・。 この世には男に生まれながら性格は女、という人がいるのだそうだが、誠司は普段別にそれ系の感じではない。しかし突然こういう突拍子もない事を言う彼はいったい・・・??


第1位、ジュリアのおばあちゃん。


同じくプリスクールで一緒のジュリアっていう女の子がいるのだけど、彼女のおばあちゃんになりたいというのだ。このおばあちゃん、よほど印象深かったらしい。世の中どんなにがんばってもなれないものがあるのに。








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